クーポラだより最新号


イタリアの伝統保存食に、モスタルダという、一風変わった果物の甘煮があります。




モスタルダは、りんごや、梨、サクランボなど、色とりどりの果物をシロップで煮込み、仕上げにからしを効かせ、ジャムのように甘いのに、スパイシーで刺激的な味わいがあり、肉料理や生ハム、チーズなどの付け合わせにぴったりです。




モスタルダは、北イタリアの街クレモナの名物です。




私がこのモスタルダを初めて耳にしたのは、25年前のイタリア留学中でした。




1993年12月末、夫がイタリア留学中の私のもとへやってきたときのことです。




師のカヴァッリ先生は、クレモナへ夫を案内するという私に、モスタルダのことを、教えてくださいました。



「Andrete a Cremona, compri una Mostarda. C’e ne sono varie frutti, e’ dolci e piccanti. È molto buona. Mi piace molto. Si vende piccola bottigla.」



「クレモナに行くなら、モスタルダをお買いなさいな、いろいろな果物が入っていて、甘くて、ピリッとして、とっても美味しいのよ。私は大好きなの。小さなビンに詰めて売られているわ。」



先生はそうおっしゃると、特に美味しいものを表現するときのイタリア人特有のジェスチャーで、ご自分の親指と人差し指を口元に運び、チュッとキスの音をたてました。



クレモナは、私が住んでいたミラノから鉄道で1時間ほどの小さな街です。




クレモナはローマや、フィレンツェ、ヴェネツィアのような人気観光地ではありませんが、弦楽器の歴史的な名器が展示された貴重な博物館があるのです。




天才弦楽器職人アントニオ・ストラディヴァリの博物館です。




ストラディヴァリは300年ほど前に、クレモナで活動していた職人ですが、彼の製作した弦楽器は、現在でも素晴らしい音色を放ち、トップレベルの演奏家たちが代々、愛用し続けています。




ストラディヴァリの製作した楽器は、「ストラディヴァリウス」呼ばれ、その素晴らしさは音色だけでなく、見た目もたいへん美しいので、美術収集家の羨望の的でもあるのです。




300年の時空を超えてなお、音色の輝きを失わないストラディヴァリウスは、どのような方法で製作されたのか、科学的に分析しても謎は解けず、世界最高峰の座は揺るぎのないもので、ヴァイオリニスト辻久子氏が、1973年に自宅を売却して3500万円のストラディヴァリウスを手にしたというエピソードが実在するほどです。




クレモナのストラディヴァリ博物館には、同時代に活動した楽器職人アマティやガァルネリの弦楽器に混ざって、貴重なストラディヴァリウス(愛称クレモネーゼ)が1挺、展示されていました。




父の粂三郎(くめさぶろう)がヴァイオリン製作者だった夫は、イタリアの地で、最初に訪れたかったのが、クレモナのストラディヴァリ博物館でした。



幼い頃から、テレビでイタリアの地が紹介されるたびに、ヴァイオリンの聖地クレモナを想い、憧れ、涙を浮かべていた父の姿を見て育った息子が、やっと父の悲願を果たしにやってきたのでした。



1993年12月28日、クレモナ駅から、私たちは歩いてストラディヴァリ博物館を目指しました。



日本よりも湿気の少ないイタリアの冬は、とても乾燥するので、水分とエネルギー補給を兼ねて、クレモナ駅前広場の市場で、目についた鮮やかな色のマンダリーニというみかんを買いました。



マンダリーニは、温州みかんよりも小ぶりで、甘く、味の濃さといったら、たとえようもないほどです。



わずか数百円で、食べきれないほどのマンダリーニがつまった紙袋を小脇に抱え、歩いて20分ほどで、私たちは、市庁舎(コムーネ宮)のヴァイオリン展示場で、ガラスケースで厳重に湿度管理されたストラディヴァリと対面しました。



その時のお客は、私たちだけで、人の良さそうな職員さんから、「ここで結婚式をしませんか?」と熱心に勧められました。(イタリアでは、役所に立ち会ってもらう、署名だけの結婚式がある)私も夫もお互い顔を見合わせ、一瞬迷いましたが、丁重にお断りしました。




今思えば、ちょっと残念です。(結局、私たちは結婚式をあげず、婚姻届だけ、提出したので)



続いて、ストラディヴァリ博物館に移動し、そこでも歴史的な銘器がガラスに入れられ、薄暗い寒々としたホールに展示されていました。


そのうちに、ガラスケースから1挺のストラディヴァリウスが取り出され、係の人が、簡単な曲を弾き始めました。



毎日一定時間は、音を出してやらないと、いくら銘器でも、ダメになってしまうのだそうです。



ヴァイオリンの音には、耳の肥えた夫が、係の人が奏でる音を聴きながら、変だな、何度も言いました。



ストラディヴァリウスの音にしては、曇っていて、輝きがないと、言うのです。



作られてから、休むことなく300年以上、名手によって弾かれ続けているストラディヴァリウスの音色を実際にホールで聞いたことがあり、ヴァイオリン職人を父にもつ夫の言葉に、間違いはないでしょう。



それから、9年後、また別のストラディヴァリウスを聞いて、夫は同じ感想を言いました。



それは岡山シンフォニーホールで行われた千住真理子氏のコンサートで、彼女の新しい愛機ストラディヴァリウスで演奏したときのことです。



彼女は300年も弾き手がおらず、眠っていたストラディヴァリウスをつい最近手に入れたばかりだったのです。



あれから17年、千住真理子氏のストラディヴァリウスは300年の眠りから覚めたでしょうか?



先日、とても不思議なことが、起こりました。



我が家に、ある事情で、一年前に、美しいアンティークピアノがやってきました。



そのピアノは100年ほど前に作られたアップライトピアノで、とても弾きにくく、鍵盤がスムースに動かなかったのですが、下手な私でも、毎日、限界まで弾き続けていると、半年ほどで、変化が起き、滑らかに鍵盤が動き、音もしっかりと鳴り、長い眠りから覚めたようでした。



アンティークピアノの元の持ち主が、驚くほどの変わり様で、どんな銘器でも、毎日、限界まで音を奏でていないと、その能力は広がらないということを、我が身で体験し、嬉しくなりました。



人間の身体も同じで、特に声帯の筋肉は、毎日の訓練が不可欠です。



しかし、哀しいことに人生経験を重ねて、人としての円熟性が増し、個性に奥行きが出てくる年齢と、身体能力の最高潮な時期が重なるのは、ごくわずかな期間です。



私は、師のカヴァッリ先生が、現役を引退された年齢の50歳をすでに越え、一般的にはソプラノ歌手の限界の年齢にきていますが、有り難いことに、その自覚もなく、毎日、お稽古できています。



日々、哀しいことも、嬉しいことも、すべての経験をスパイスとして、モスタルダのように、甘く刺激的な歌で、これからもお客様を楽しませていこうと思います。



2019年4月29日

大江利子


岡山県北には、約260年前から作られている、舟形の羊羹があります。



真庭(まにわ)市 落合(おちあい)地区で作られている、落合羊羹「高瀬舟」です。



「高瀬舟」は日持ちがとても良く、製造から2週間ほど過ぎると羊羹の表面だけが乾き、水分のぬけた表面は砂糖が白く結晶化してきます。



そのころに「高瀬舟」をいただくと、金平糖のようなカリッとした歯触りが心地よい表層と、ういろうのように、ねっとりとした柔らかな中身の、ふたつの異なる食感が同時に味わえて、作りたてとは別の美味しさがあります。



「高瀬舟」は笹船を思わせるような、小さな船形の容器に詰められていますが、その名が示す通り、室町時代に岡山で生れた木造船「高瀬舟」を模した羊羹です。



木造船の高瀬舟は、岡山の水流、旭川、高梁川、吉井川で400年以上も活躍してきた貨物船です。



高瀬舟の下り便では4トンもの船荷をたった4人の船子で運び、とても効率が良く、明治時代岡山県内には370艘も運行し、鉄道網が発達した昭和の初期までは、物流の柱でした。



岡山の高瀬舟の最後の運行は昭和25年で、昭和38年生まれの私は、高瀬舟が実際に活躍している姿を見たことはありませんが、小学校の社会の授業で、先生がスライドを使って高瀬舟の船子の仕事を、熱心に教えてくださったことを記憶しています。



高瀬舟から物流の主役の座を奪った鉄道も、今では、高速道路の発達により、トラックの陸送にその座を追われていますが、私が小学生の頃は、鉄道が最も活躍した時代でした。



私が通った小学校は、旭川下流の中州にある岡山城から数キロほどのところに位置し、通学路の踏み切りは、長い貨物列車が通過するたびに、塞がれて、何百とつながった鉄道コンテナの個数を数えながら、遮断機の鐘の音が鳴り終わるのを待ったものです。



通学路の踏み切りで、コンテナの数え遊びをしながら、黄色と黒色の縞の棒が上がるのを待っていると、時々、珍しい隣人がやってきました。



丸太を乗せた荷車を引っ張っている大きな一頭の馬です。



馬は競走馬のようにスリムな身体ではなく、がっちりとした太い脚で、ひとりの馬子が連れ添い、踏み切りがあくと、旭川の河口の方へ馬と馬子はゆっくりと歩いて行きました。



町の中の不自然な馬の光景に、小学生の私は魔法にかかったように魅入られて、馬子と馬の後ろ姿が見えなくなるまで見送ったものでした。



当時、旭川の河口には貯木場があり、丸太が何本も川に浮かべられていました。



馬と馬子はその貯木場まで材木を運んでいたのでした。



馬を使って材木を運ぶことを馬搬(ばはん)と呼び、山から切り出したばかりの丸太を、斜面の山道から運び出すには、小回りの効く馬が重宝です。



高瀬舟の運行が廃止されてから25年後の昭和50年代まで、馬搬は日本の各地で行われていました。



高瀬舟が運行されていたころ、旭川の最上流の発着地は、落合羊羹の里からさらに上流の勝山です。



勝山は林業で栄えた地域で、切り出された勝山の材木は高瀬舟で旭川を下り河口まで運ばれました。



しかし、高瀬舟が廃業され、鉄道コンテナには不向きな長い丸太は、大型トラックが活躍しはじめるまでは、馬搬が重宝だったのでしょう。



小学生の私が見送った馬と馬子は、今の物流と昔の物流のすき間をつなぐ、貴重な光景だったのかもしれません。



一度失われた技術を取り戻すのは至難の業ですが、馬搬は北海道や岩手県遠野市に復活の小さな灯がつき、報道にも取り上げられています。



かつて高瀬舟は、生活物資を運ぶ貨物船でしたが、今では人々を楽しませる川下りの観光船として復活しています。



先日、私は、高瀬舟の最北の発着地勝山から、さらに北部、旭川源流の「足尾滝」の近くの久世町の樫西の地へ、和紙の工房を訪ねる機会がありました。



工房には、男女ひとりずつのふたりの職人さんがおられ、創作和紙を漉いておられる女性の職人さんのお話を伺いました。



和紙の原料は楮(こうぞ)、みつまた、雁皮(がんぴ)など、山に自生する植物で、近年、収穫が難しいこと、また機械で迅速に大量生産が可能で、格安で市場に出回る洋紙と違い、製造工程すべてに、人の手を要する和紙は、時間がかかる割には、少量しかできず、高価にならざるを得ないため、需要が激減していること。



また和紙の職人の作業は重労働で、技術習得も難しく、また紙漉きの繊細な道具を作る職人も、後継者がいないこと。



お話をしてくださった女性も、千葉県出身で、人生の半ばから、和紙の魅力の虜となり、紙漉きをゼロから始めるには遅い年齢ながらも、修業の受け入れ先を全国各地に当たり、49歳の時に、ようやく念願かなって、岡山県久世町樫西で、紙漉き修業をはじめられたとのことでした。



それから20年、彼女は、ほぼ無給で紙漉きに専念し、今では美しい創作和紙を作りだせる立派な職人となられました。



千葉県時代の彼女は創作ダンスを踊られていて、舞台照明も音楽も、すべてオリジナルの舞台を作り上げておられたそうで、彼女が漉いた和紙は、長年の舞台経験が反映された、色彩ゆたかで、幻想的な創作和紙でした。



彼女の言葉の中で印象的なのは、紙漉きの技術に基本はあっても、繊細な紙漉きの技術の勘所は、個々の職人が修練して身につけていくものだそうです。



高瀬舟も馬搬も和紙も、日本の誇れる伝統産業ですが、もはや食べるための生活手段としての仕事としては、成り立たず、世襲が常識だった技術の伝承も危機的状況です。



しかし、樫西工房の職人さんが漉いた色とりどりの創作和紙を見て、世襲でなくとも、情熱を持った人の存在で、伝統産業は、未来へとつながっていくのだなと確信しました。



落合羊羹「高瀬舟」は小豆と砂糖と寒天のとてもシンプルな材料でできています。



260年も変わらず美味しくありつづけることは、とても情熱がいることだと思います。



私の歌とピアノの毎日のおけいこも、とてもシンプルです。



音階練習、バッハ、ベートーベン、ロマン派の曲と、学生時代から変わらないメニューです。



しかし、舞台の本番が近い時と、そうでない時は、明らかに自分の情熱の深さが異なります。



毎日、ただ続けることだけに慢心せず、情熱を持っておけいこを続けていき、落合羊羹「高瀬舟」のように飾らない魅力で愛される演奏をしたいと思います。



2019年3月29日

大江利子


二人の少女が楽しそうにピアノを弾いている微笑ましい絵画があります。



フランスの画家ルノワールが描いた「ピアノに寄る少女たち」です。



ルノアールが生きた時代(1841年~1919年)は、市民生活に近代化の風が吹きはじめた時代でした。



ルノアールが生まれる48年前(1793年)、フランス革命によって、絶対王政の最後の国王ルイ16世と王妃マリーアントワネットが、断頭台の露と消え、彼の祖国フランスは新しい時代に入りました。



日本の武家社会のように、ヨーロッパも何百年も封建制度によって社会が成り立ち、その頂点に立つ王侯貴族や教会の庇護のもとに、芸術家は活動し、生計をたてていました。



もしも、それに反旗を翻した生き方をすれば、モーツァルトのような天才でも、貧困のうちに35才で亡くなるという悲運が待ち受けていました。



また、モーツァルトよりも71年前に生まれたバッハは、雇い主の教会に従順ではありましたが、その才能に相応しい待遇と評価を受けられず、視力を失ってさえも、身を粉にし、死ぬまで作曲し続け、バッハの未亡人は生活に困窮し、彼女が入るお墓さえありませんでした。



けれども、イギリスに産業革命がおこり、手工業で生産していたものが工業化され、労働者の賃金が向上し、市民生活が豊かになり、ヨーロッパ社会全体に近代化の波が押し寄せると、芸術家の表現も自由になってきました。



権力の座を追われた王侯貴族に代わって、芸術家を支えるのは市民たちであり、彼らの日常生活から生まれる素直な感情や幸せな風景を表現するのにふさわしい、新しい表現方法が探求されはじめたのです。



つましい仕立て屋の父とお針子の母の間の、7人兄弟の6番目の息子として生まれたルノワールは、音楽と絵の才能に恵まれた少年でしたが、生活のために、13歳から磁器の絵付け職人として働きはじめます。



少年ルノワールは、真っ白な磁器に花束や、マリーアントワネットの横顔を、4年間、描き続けましたが、工業化の時代の波に押されて、彼が働いていた工房は手作業の絵付けをやめてしまいます。



働く場所をなくしたルノワールは、扇子にロココ調の画家の絵を複写したり、日よけの絵付けなどで、賃金を稼いでいましたが、画家となるために、19歳で本格的な絵画の勉強を始めます。



青年ルノワールは、ルーブル美術館に展示されているルーベンスやフラゴナールを模写し、画塾で師匠につき、官立美術学校にも入学し、モネ、セザンヌら、後世に印象派と呼ばれた画家たちと親交を結びます。



23歳で、早くもプロの画家としての登竜門であるサロン(官展)に入選しますが、自分の作品に納得いかないルノワールは、前衛的な画家たちのグループ展(印象派展)に、作品を出品し続けます。



当時のサロン(官展)では、歴史や文学、宗教に題材をもとめ、描き方もレオナルドダヴィンチの絵のように輪郭線も筆跡もない写実的な絵が評価され、平凡な市民の幸せそうな日常生活を、大胆な筆さばきで描いたルノワールの絵画は、サロン(官展)の基準からは大きく逸脱していました。



しかし、見る者を幸福に包むルノワールの明るい絵画は、次第にサロン(官展)の基準を覆し、前衛的な印象派も超越し、ルノワール独特の画風が、大衆からも国からも支持され、愛されるようになります。



「ピアノに寄る少女たち」は、1892年ルノワールが51歳の時、国から求められて描いた作品です。



ピアノは、当時のフランス市民生活で、少女のたしなみのひとつとされ、「ピアノに寄る少女たち」はまさに時代を映している幸せなひとコマです。



日本では、「ピアノに寄る少女たち」より80年ほど遅れて、昭和40年代から50年代(1970~1980)にかけてピアノブームがありました。



私の少女時代はまさに、そのブームと重なり、小学校の級友には、ピアノを習っている女子が複数名いて、彼女たちの口からは、「バイエル」という名前がよく出てきました。



小学生の時、まだピアノを習わせてもらえなかった私には、「バイエル」の意味すらわからず、「バイエル」という響きが魔法の国の扉を開く呪文のように聞こえたものでした。



中学1年生の夏から、念願のピアノを習わせてもらい、やっと「バイエル」とは、ピアノの初学習者向けの教則本の題名で、バイエルには上下巻あり、上巻は赤バイエル、下巻は黄バイエルと呼ばれていることを知りました。



独学により、簡単な楽譜なら読めた私は、下巻の黄バイエルからスタートしました。



指の訓練に特化した黄バイエルの中身は、曲名を持たない番号だけの無味乾燥な練習曲ばかりなのですが、ところどころに、題名がついた小さな曲が載っていました。



そして、黄バイエルの最後の練習曲番号はNo.105ですが、そのあとには、とても素敵な曲が載っていました。



ドイツの作曲家シューマンの「楽しき農夫」です。



シューマンは画家ルノアールよりも31年前の1810年に生まれた人で、この「楽しき農夫」は、シューマンが小さな子供のために作曲した曲集「子供のためのアルバム」の中の1曲です。



シューマンは同じ歳のショパンや1歳年下のリストと同様にピアノという楽器をとても愛した作曲家です。



ただし、リストやショパンのように、ピアノの演奏をひきたてるために、華やかな技術を誇示するような作曲をせずに、曲の内容にふさわしい音楽を作曲し、「楽しき農夫」のようにピアノを習い初めて間もない人でも、十分に楽しめる小さな曲をたくさん作りました。



シューマンには愛する妻クララがいましたが、彼女への想いを音楽にした小さな歌曲もたくさん作りました。



シューマンは心の病から46歳の若さで亡くなりますが、人の心の繊細な動きや感情を音楽で表現したシューマンの音楽は、色あせず、その美しさは普遍性を持っています。



ルノワールが描いた「ピアノに寄る少女たち」もまた普遍的な美しさをたたえています。



ルノワールはシューマンよりも32年も長生きして、78歳で亡くなりますが、後半生はリューマチを患い、車椅子生活で、リューマチのため握れなくなった絵筆を指に紐で縛り付けて、亡くなるその日の朝まで描き続けました。



「ピアノに寄る少女たち」を描いた51歳の時、ルノワールにはすでにリューマチが始まっていましたが、絵の中にはその病気の影など微塵もありません。



激しく暗い感情を盛り込んだ芸術表現は、ドラマチックで人を惹きつけますが、シューマンもルノワールもそこには目を向けませんでした。



生前ルノワールは、幸福そうな女性ばかりを描く理由を尋ねられたところ、「僕たちの人生には醜いものが十分にあるから、絵画にまで持ち込まなくていい」と答えました。



もしも、シューマンに同じ質問をしても、ルノワールと同じ答えなのではないでしょうか。



そして私も、人生で醜く、つらいことがあっても、ピアノが毎日弾けて、歌えることは、幸せなことだと思えるのです。



2019年2月28日

大江利子


ふろくが欲しくて、雑誌を買うことがあります。




特に、年末年始には、普段なら手を出さない高価な月刊誌を、素敵なカレンダーなどのふろくの魅力に逆らえずに、ついつい買ってしまいます。




図書館に行けば、雑誌本体の中身は、無料で閲覧できますが、ふろくが欲しければ、本体を買わなければならないので、ふろくが購買意欲に与える影響は多大です。




ふろくは、もともと新聞の内容を補足説明するための図版や参考文のことでしたが、物品が“おまけ”として雑誌に付くようになったのは、明治23年に発刊された雑誌「小国民」の“すごろく”が始まりと言われています。





以降、おまけとしてのふろくは、次世代の雑誌「少年倶楽部」で大きく発展します。





「少年倶楽部」は、大正3年(1914年)から昭和37年(1962年)まで発刊された雑誌ですが、少年たちの工作意欲をくすぐるペーパークラフトがふろくについていました。





中村星果氏によって設計された「少年倶楽部」のペーパークラフトは、飛行機、戦艦、城、などで、糊(のり)を使わない差し込み式でした。







第二次世界大戦後、少年雑誌のふろくはますます進化し、金属部品を用いた組み立て式のカメラや、蓄音機、幻灯機(スライド映写機の原型)まで出現しました。






その後、輸送コストの問題から、金属部品を使ったものは姿を消し、代わりに紙だけで組み立てられるウルトラ怪獣や大阪万博のジオラマ、アポロ計画など、時代の潮流に乗ったふろくが登場しました。






少年雑誌の魅力的なふろくは、高度経済成長期の子供たちの豊かな発想を育て、工作意欲を高めるのに多いに役立ちました。





雑誌だけでなく、食べ物にも“おまけ”で文化を築いたものがあります。





海洋堂が製作しているお菓子のおまけです。





海洋堂は、現在では、アメリカの博物館や映画会社から認められるまでに成長した世界屈指の職人技を持つ模型製造会社です。





海洋堂が、手掛けたお菓子のおまけには、テレビの人気アニメ「アルプスの少女ハイジ」や「赤毛のアン」「母を訪ねて三千里」などがありますが、それらは作品の名場面を再現したジオラマで、シリーズ化されています。



そのシリーズ化されたおまけは、芸術的な域に達した精巧な出来栄えで、安価な透明ケースに収まりよく入り、狭い空間に飾って楽しむことができ、我が家にも夫が集めに集めた海洋堂のおまけのミュージアムコーナーがあります。




また、絵画をおまけに利用したものに、永谷園のお茶漬けがあります。




永谷園は、1967年から1997年まで32年間、歌川広重の「東海道五拾三次」を皮切りにゴッホやルノワールなど世界の名画を印刷したトランプ大のカードをおまけにしていました。




1970年代、私が小学生の頃、一般家庭には、まだ炊飯器は普及しておらず、ご飯を保温しておく術(すべ)もなく、冷めた残りご飯を食べるために、熱湯をかけてお茶漬けにしたものでした。



そんなとき、永谷園のお茶漬けの素は、わさびの香りが効き、香ばしいあられとパリッと乾燥した刻み海苔が入っていて、味気のない冷ごはんも、熱湯をかけるだけで、温かくて美味しい一品に生まれ変わるので、とても重宝されたのです。



私の父親は毎日晩酌をする人で、シメはいつもお茶漬けで、永谷園のお茶漬けの素で、父親のシメを用意するのが小学生だった私の役目でした。



お酒が入ると怒りっぽくなる父親は嫌いだったけれど、永谷園のおまけは東海道五拾三次のどの場面かしらと、わくわくしながら新しいお茶漬けの封をきって、広重の浮世絵のカードを見るのが、楽しみでした。



現在、私は、日常生活でストレスが溜まった時、よく美術館に出かけます。




昨秋も、東京の太田記念美術館で開催された歌川広重没後160年展に行き本物のヒロシゲブルーで東海道五拾三次を鑑賞し、贅沢な時間を過ごしてきました。



絵筆を持つわけでもなく、鑑賞するしか能がない私ですが、優れた美術作品を目にするだけで、嫌なことを忘れて、本来の自分のやりたいことに、純粋に向き合う力が湧いてくるのです。




おそらく、小学生の頃、酔っ払いの父の相手をしながら、永谷園のお茶漬けの東海道五拾三次のカードを楽しみに見ていたことが私の美術館通いの出発点なのでしょう。




私は30代の前半まで公立学校で音楽を教えていました。




音楽は、受験科目である国語、数学、英語、理科、社会が主要5教科と呼ばれるのに対して、体育、技術家庭科、美術、とともに、不要4教科と揶揄されていました。




音楽室にやってくる生徒たちは開放感にあふれ、音楽の時間は、遊びの時間と受け止めている生徒もいました。




しかし私は、不要4教科で、おまけのような科目だけれども、教え子全員に、楽譜が読めるようになってもらいたいと思い、毎授業、自作のリズム聴音をし、生徒個別にソルフェージュをし、音楽の基礎力のレベルアップに力を入れ続けました。




音楽は受験科目でもなく、就職活動の役にも立たないけれど、ドレミが読めて、リズムがわかるようになれば、その子たちは、より深く音楽が楽しめて、より心豊かな人生が送れるだろうと、信じて私は授業をしました。




そして、今年のお正月、25年振りに、私は教え子たちに再会しました。




私の教師人生の中でいちばん充実していた頃の教え子たちで、彼らが40歳になった記念の同窓会に招待されたのです。




同窓会の一次会が終わり、二次会は、教え子たちとカラオケに行きました。





25年ぶりの、教え子たちの歌声です。




彼らがどんな風に歌うのか、少々心配でしたが、無用な心配でした。





皆、それぞれ自分が選んだ歌謡曲の複雑なリズムに見事に乗って、音程を外すこともなく、誰ひとりマイクを拒むこともなく、心から、歌うことを楽しんでいる様子でした。





彼らの歌に私のリズム聴音が少しは、功を奏しているようで、教師冥利に尽きる瞬間でした。




海洋堂のジオラマも、永谷園の名画カード、少年雑誌のふろく、いずれも本体以上に人々を魅了し続けてきたものですが、おまけでは、空腹を満たすことはできません。





ただ、心が重くなった時、それらを目にするだけで、心が軽くなります。





心が軽ければ、また前を向いて人生を歩いていこうと思えます。





私の歌や文章も、おまけやふろくのような存在であり続けたいと思います。





2019年1月29日

大江利子


パネットーネはイタリアのクリスマスに欠かせないパンです。



バターと卵黄がたっぷり入った生地に、レーズンやプラムなどの干し果物を混ぜ込み、教会の丸い屋根の形に焼き上げた、お祝いのための特別なパンです。



特殊な酵母菌で発酵させたパネットーネは日持ちが良く、焼き上げてから2週間くらいはふんわりと柔らかく、美味しくいただけます。



パンよりはお菓子に近い味で、食べる時もドーム形のパネットーネをケーキのように櫛形にカットしていただきます。



パネットーネはイタリア北部の街、ミラノが発祥です。



私が、パネットーネ発祥の地、ミラノを初めて訪れたのは1991年12月ですが、街のいたるところで、パネットーネが売られているのに目が留まりました。



パネットーネはサンタクロースの服の色のような真っ赤な箱に入って売られ、商店やバールでは、その真っ赤な箱がピラミッドのように美しく積み上げられ、バスや電車の中では、真っ赤な箱を手にした人達を大勢見かけました。



またイタリアのホテルの朝食は、エスプレッソと「ビスコット」と呼ばれる、非常食のような、ぼそぼそとした食感の乾パンに、ほんの少しのバターとジャムが添えられるだけでしたが、クリスマスの前後だけは、リッチな味のパネットーネが登場し、嬉しかったのを覚えています。



パネットーネが嬉しいのは、イタリア人も同様らしく、クリスマス前後の一か月間は、皆、飽きもせずに、おやつに、朝食にと、パネットーネを食べ続けます。



12月初旬、街の商店に真っ赤な箱が並び、街路樹にイルミネーションが施され、街全体がクリスマス色に染まると、オペラの街ミラノは、一年で最も大切な日、12月7日を迎えます。



12月7日は、ミラノの街の守護聖人、聖アンブロジウスの祝日です。



聖人アンブロジウスの遺骨がある、同名の教会は、レオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた「最後の晩餐」の壁画がある教会のすぐ近くで、その二つの教会から、1キロほど離れた場所にオペラの殿堂スカラ座があります。



ミラノ守護聖人アンブロジウスの祝日12月7日は、ミラノ・スカラ座のシーズン初日なのです。



スカラ座シーズン初日は、オペラの街ミラノにとって特別な日で、ファッションの街としても有名なミラノにふさわしく礼装の紳士淑女や、一流デザイナーのドレスに身を包んだ女優や有名人たちが観客としてスカラ座に溢れて、その様子は毎年、大切なニュースとして報道されます。



ミラノ・スカラ座のシーズンは12月7日から翌年の夏までの約半年間で、その間、一流のアーチストによるオペラやバレエ、コンサートが誰でも楽しめます。



スカラ座の演目は定番なものから、めったに上演されない珍しい作品まで、さまざまですが、やはり人気演目は、蝶々夫人や椿姫など、ストーリーがよく知られているオペラです。



私も夫とともに、大晦日の夜に1度だけ、スカラ座でモーツァルトのオペラ「魔笛」を観る機会に恵まれました。



魔笛のストーリーは、楽しいおとぎ話で、旋律もとても覚えやすく、夜の女王の歌や、鳥刺しパパゲーノの歌など、魔笛の歌は夫も私も、舞台上のオペラ歌手に代わって歌えるほどに、慣れ親しんでいました。



スカラ座の客席は、馬蹄形をしており、平土間、バルコニー、天井桟敷の3つの部分に分かれています。



私たちは3階のバルコニー席でしたが、バルコニー席は、4~5人が入れる小部屋で、私と夫は上品なふたりのドイツ人女性との、相部屋でした。



私達とそのドイツ人の女性たちは、国籍も世代も、まったく異なる者同士でしたが、魔笛をいっしょに楽しむという、共通の目的によって、そのバルコニー席の小部屋の中は、穏やかで、幸せな空気が流れ、23年過ぎた今でも、その時のことを思い出せば、あの時の幸福感がよみがえります。



夫とは、自宅のレーザディスクで、いつも一緒にいろいろなオペラやバレエを見て、感動を共有していましたが、しかし、スカラ座でオペラをいっしょに見た感動は別格です。



スカラ座でオペラを見るために、イタリアへ行く準備そのものが心楽しく、半年以上前から、期待に胸膨らませ、夫も私もそれによって、教員の激務を乗り越えられたことを覚えています。



そして、今年5月から、今月12月16日までの約7ヵ月間、あの23年前と同じように、また心楽しく、期待感に満ちた日々がやってきました。



今年5月、東京で私の大学時代の声楽の先生の傘寿記念コンサートがありました。



私はコンサートの2週間前にオートバイの大会で転倒し、右肩を脱臼したばかりでしたが、どうしても先生の歌声が聞きたくて、周囲の心配を退けて、片腕が不自由なまま、東京まで行きました。



先生の歌声は80歳とは思えないほど、若々しく、往年のビロードのような甘い音色は健在で、とても感動しました。そして、その先生のコンサートで、懐かしい人に会いました。



その人は、大学時代、先生の同門の同級生で、私と同様に、歌うことの楽しさの虜になった女性です。



彼女は日本人離れした深く奥行きある素晴らしい声質のメゾソプラノ歌手で、大学卒業後、東京で活躍していましたが、現在は郷里の山形で家庭を持ち、オペラ歌手として活躍しています。



その彼女が、郷里山形では初めて、オペラ「カルメン」の主役を歌うと聞き、私はぜひとも行きたいと思いました。



彼女のカルメン本番までの7ヵ月間、山形までの交通手段や宿泊先やら、あれやこれやと調べ検討し、旅の計画を立てることがなんと楽しかったことか。



私の住む岡山から、彼女が歌うカルメンが上演される山形の「響きホール」まで直線距離だと900km、日本海を眺めながらオートバイで疾走したいところですが、豪雪地帯の12月なので、さすがにそれはあきらめて、新幹線を乗り継いで東京から新潟へ、新潟からは、急行列車で余目(あまるめ)駅まで行き、余目駅から「響きホール」までの、2キロの距離は、雪かきされた道を歩いて行きました。


「響きホール」の周囲はのどかで広々とした田園地帯が広がり、背後には、冠雪を抱いた庄内富士(しょうないふじ)こと、鳥海山(ちょうかいさん)、前方には松尾芭蕉が登った

月山(がっさん)が美しく見えました。



絶景に囲まれた雪国の音楽堂で、情熱的なスペインの物語「カルメン」は魅力的でした。



また、カルメンはパネットーネの干し果物のように、劇中に楽しい要素を混ぜ込むことが可能な、演出の自由度の高いオペラで、これまで私はいろいろな演出のカルメンを見てきましたが、「響きホール」のカルメンは、脇役のセリフに、地元の地名を織り交ぜて観客の笑いを誘い、歌詞は日本語上演で、物語の流れを損なわない程度の省略によって時間を短縮し、

誰でも無理なく最後まで楽しめるように配慮された実に温かみのある演出でした。



そして彼女のカルメンは妖艶で美しく、とても50代とは思えないほど、若さに溢れていました。



彼女の素晴らしい歌声にとても刺激を受けて、励まされ、オペラの舞台に立つ機会に恵まれなくとも、自分のオペラのレパートリーの練習を頑張ろうと強く思いました。



「生の舞台を観ることは宝物になる」と、生前の夫が口にしていた言葉を23年越しに改めて実感した平成最後の12月となりました。



2018年12月29日

大江利子


映画「まあだだよ」は、黒澤明監督の遺作です。



お百姓に雇われた浪人の武士が、村を守るために野武士と戦う「七人の侍」や、負け戦で生き残った姫と侍大将が、お家再興を目指して、敵地を抜けて国越えをする「隠し砦の三悪人」など、黒澤監督のモノクロ時代のサムライ映画は勇猛果敢なアクションと荒唐無稽なストーリーで、スピルバーグやジョージ・ルーカスなどの海外の監督達に大きな影響を与えてきました。



観た人は、遊園地のジェットコースターに乗ったようにハラハラドキドキする「七人の侍」のことを、「ステーキの上に、うなぎのかば焼きを乗せ、カレーをぶち込んだような」と自ら表現した黒澤監督ですが、意外にも彼の最後の作品は、ある小説家の晩年の日常生活を描いた穏やかな作品「まあだだよ」でした。



「まあだだよ」の主人公は、岡山出身の小説家、内田百閒(うちだひゃっけん)です。



百閒の生家は「志保屋」という老舗の造り酒屋で、岡山市の観光名所、後楽園と同じ町内、古京町にありました。



造り酒屋の跡取り息子として、祖母から大切に育てられた百閒は、16歳で父が亡くなり、家業が没落するまでは裕福な少年時代を郷里の岡山で過ごしています。



明治時代、岡山で最初の本格的な洋食屋として開店したレストラン三好野(みよしの)でビフテキを食べたことや、大坂で開かれた博覧会で、山葉のオルガンを買ってもらったことなど、内田家のハイカラな暮らしぶりが百閒の文章からうかがえます。



大学は帝大(のちの東京大学)に進学してドイツ語を学び、卒業後はドイツ語教官として独り立ちした百閒は、夏目漱石の門弟となり、師匠の本の校正を担当し、教鞭の傍らに短編小説を発表し、文筆家として次第に頭角をあらわしていきます。



師匠の漱石は、「吾輩は猫である」、「こころ」など純文学に位置づけられる長編小説をのこしましたが、弟子の百閒は自分の日常生活を題材にしたユニークな短編小説や随筆をのこしました。



汽車に乗ることだけを旅の目的とした「阿呆列車」、肉無しコロッケ、大手饅頭など、好物の食べ物ばかりを語った「御馳走帖(ごちそうちょう)」は、鉄道オタクやB級グルメの感覚に通じる現代的な切り口です。



百閒の目線は、野良猫や文鳥など動物にも向けられて、彼の随筆は親しみやすく人間味あふれた内容なのですが、その表記には旧字・旧仮名遣いを固守しています。



浅学な私は、読めない漢字に出くわすこともたびたびで、漢字辞典で調べながら百閒の文章を読み進めるのですが、謎解きをしているようで、少しも面倒に思えないのがまた不思議です。



まるで百閒に上手くのせられて、遊びながら漢字を勉強しているようです。



読書家の私の夫は、特にお気に入りの本には、丁寧にブックカバーをかけて大切に保管する習慣がありましたが、内田百閒の文庫本にはすべて、ブックカバーがかけられていました。



最近私は、その中で「菊の雨」を手に取り、読み始めました。



45編の随筆がおさめられた「菊の雨」は、その本の最初の作品で、百閒が菊花展を見に行った印象が短く語られています。



金風の吹き渡る玉砂利の広場に、仕立てられた菊の鮮やかな色彩の饗宴を鑑賞したのち、家に戻ってからも、まぶたの裏に、観菊の色が焼き付いて、夕方から空が暗くなり、大雨が降り出しても、昼間の菊の鮮やかな色が、帯のように目の前に浮かび上がって流れだし、薄暗い周りが明るくなるようだと、百閒は菊花展の感想を語っています。



私が通った小学校は百閒の生家の隣の学区で、遠足や写生大会の校外学習の場は、たいてい岡山城や後楽園でした。



毎秋には、岡山城内で百閒の「菊の雨」で語られているように、金風吹き渡る玉砂利に、菊花展が催され、その鮮やかな菊の色は、私の古い記憶の片隅に残っています。



子供の頃に、毎秋、当たり前のように見ていた岡山城の菊花展も、大人になってからは意識して行ったことがなく、百閒の「菊の雨」を読んで以来、私は、何十年かぶりに、猛烈に菊花展に行きたくなったのでした。



思い立ったのは11月12日で、時すでに遅く、今年の岡山城の菊花展は、前日の11日に終了していました。



見逃したと思うと、いっそう菊花展への想いは募り、矢も楯もたまらず、インターネットで探しだし、岡山市に隣接する倉敷市の駅前公園で開催されている菊花展の会期が終わっていないことを知り、喜々として見に行きました。



しかし、私の子供の頃の記憶や百閒の「菊の雨」に表現されているのとは大きく異なり、観菊の客もわずかで、控えめに仕立てられた菊が寂しく数鉢並んでいるだけで、とても、夜、あたりが明るく思えるほどに、目の前に菊の色の帯が浮かんできそうもありません。



ますます欲求不満に陥った私は、再びインターネットをたよりに、菊花展の全国大会なるものを探しだし、11月18日、大坂、和泉市までオートバイで行くことにしたのです。日の出前に自宅を出発し、防寒用に着込んだ勇ましいライダー装備の下に、私はワンピースを着ていました。



私が子供の頃、観菊の客たちの身なりは、和服姿のご婦人や帽子をかぶったスーツ姿の紳士で、皆、礼装をしていた記憶があったからです。



片道6時間半かけて、やっと菊花展全国大会の会場に到着した私は、駐車場にあふれた大勢の人々の様子が、何か変だなと思いました。



観菊に来ているはずの人々は皆平服で、買ったばかりの野菜や果物などの食材を、自家用車に積み込んでいて、激安スーパーや、生鮮市場で見かける風景が目の前に広がっているのです。



しかし、会場の駐車場には菊花展を証明するのぼり旗が何本も風にたなびいて、岡山からはるばるやって来た私を歓迎してくれているようでした。



気を取り直し、屋内に菊があることを不思議に思いながら、ワンピース姿になる必要を感じず、そのまま会場に入りました。(記憶の中の菊花展は、お城を背景にした公園に、白布の天蓋付きの屋台が組まれて、その中にうやうやしく菊が飾られていました。)



全国大会菊花展に出展された菊は、どれも想像以上に素晴らしく、迫力があり、大掛かりな舞台セットのようでした。



さすがに、全国で大賞を取った菊づくりの名人の作品には感動を覚え、岡山から来て良かったなとしみじみ思いました。



ただし、会場の中央はパンジーやシクラメンのポット苗の棚が横一列に並べられ、全国大会で入選した見事な菊は、店内の壁際に、絵画のように飾られていたのでした。



会場の建物は、スーパーマーケットを兼ねた大型の植木店で、大部分の人々の目的は、観菊ではなく、安い食材と苗を買うことだったのです。



しかし、私が熱心に菊を鑑賞し盛んに写真を撮っていると、つられて、花苗よりも菊の方にも関心を示す人の数も増えてきて、少し安心しました。



菊花展の全国大会の会場が私の古い記憶のように城址公園ではなく、活気はあるけれど、落ち着きのない市場のような植木屋で行われているのを、最初は少し不満に思っていましたが、せっかくの立派な菊が、格式は高くとも人目につかない場所にあるよりは、ここの方がいいなと思いました。



一週間後、再び大坂の堺市へ1泊することになり、日曜日の夕方に、ぶらぶらと堺市の商店街を散策していると、いきなり太鼓の音が鳴り響き、目の前の商店の奥から、大きな歓声と拍手が聞こえ、若者のように顔を紅潮させ、派手な袴姿の白髪の男性が通りに飛び出してきました。



そこは、奥野清明堂というお香屋さんの店舗を改装した、平土間にパイプ椅子を並べただけの小さなホールでした。



たった今、寄席が終わったばかりで、飛び出してきたのは“トリ”の芸人さんでした。



芸人さんに続いて20人ばかりの観客の方々も通りに出てこられ、皆のほころんだ表情から、いかに寄席が面白かったかが察せられました。



「私も見たかったな。もう今日の興業は終わりなのかしら?」とチラシを手に取ると、奥野清明堂の寄席は月に一度だけ興業され、私はたいへん貴重な機会に、偶然出くわしたのです。



あとで調べてさらに驚いたことに、その寄席は、消えゆく日本の伝統芸能の講談の復活をかけて、堺市出身のひとりの講談師が、45年も前から人々が集る神社や商店街で寄席を開き続け、その回は529回にも及んでいました。



そして、私はまたしても、「百閒に上手く、のせられた!」と思いました。



もしも、「菊の雨」を読まなかったら、菊花展全国大会だけのために、オートバイで大坂まで行くこともなく、伝統的な菊作りの発表の場の現状を知ることもなかったでしょうし、格式ばった高座から離れ、堺市の商店街の一角で、復活をかけて、45年も活動を続けてきた講談師の存在にも気づかなかったでしょう。



映画産業が全盛期につくられた「七人の侍」は3時間半の長編映画ですが、それが斜陽になりかけた時の「まあだだよ」では、黒澤監督は、2時間の短編にしました。



「まあだだよ」の出演者はベテラン映画俳優だけではなく、マルチタレントの所ジョージを重要な役に起用し、主役の内田百閒には、実力俳優ですが、長年脇役ばかりで、NHKのアニメーション“どーも君”の相方の“うさじい”の声役の松村達夫を起用しました。



皆がそれぞれ自分の愛してやまないことを、人々に伝え、共感してもらうには、どんな努力をしているのか、再発見する機会をたった16行の随筆「菊の雨」によって、勉強させられた11月でした。



そして夫がなぜ百閒の文庫本すべてに、カバーをかけていたのか、少し理解できたように思えます。



2018年11月29日

大江利子


四角、三角、丸(□△○)を横一列に描いただけの、ユニークな禅画があります。



このおでんの串のような絵を描いたのは、博多の禅寺、聖福寺(しょうふくじ)の住職だった仙厓(せんがい)です。



聖福寺(しょうふくじ)は、お茶を中国(宋)から持ち帰り、茶の湯を広めた栄西(ようさい)が建立した日本で最初の禅寺です。



聖福寺(しょうふくじ)の初代住職は、栄西で、仙厓は123代目と125代目の住職を勤めました。



仙厓は江戸時代中期に、美濃国(岐阜県)の貧しい家に生まれました。



11歳で出家し、修行を積んだのち、聖福寺(しょうふくじ)の住職を40歳から63歳までの23年間勤め、一度は引退しましたが、87歳で再び住職となりました。



徳を高く積んだ仙厓は、聖福寺の本山である京都の妙心寺から、最高位の出世を意味する紫衣の儀式を再三勧められますが、上洛を断りつづけ、黒衣の修行僧の位のまま、博多の地に88歳で亡くなります。



禅画は、人々に禅の教えをわかりやすく説くために描いたもので、仙厓は2千点ちかくの作品を残しています。



仙厓の描く禅画は親しみやすくて、人々にとても人気がありました。



従来ならば、神々しい雰囲気を強調するため近づき難い存在として、描かれてきた釈迦像や、達磨像も、仙厓の手にかかると、ユーモラスで身近な存在として描かれています。



見る者を笑顔にし、ほのぼのとした心持ちにするのが仙厓画風です。



仙厓が生まれたのは1750年、ドイツのライプツィヒでは、後の人々が音楽の父と呼ぶバッハが作曲家としての才能を正しく評価されないまま、目の手術のために命を落とした年です。



ヨーロッパ社会で中世から権勢を誇ってきた教会を讃えるためのバロック音楽の時代は終わり、絶対王政の覇者フランスでは、ロココ調が最盛期を迎え、画家ラ・トゥールの代表作「ポンパドゥール夫人」が身につけているきらびやかなドレスのように、優雅で贅沢な貴族の芸術が発展していました。



アメリカではフランクリンが避雷針を発明し、イギリスでは産業革命に向かって新しい社会の仕組み(資本主義)が胎動しはじめていました。



日本画壇は、緻密な描写と極彩色の花鳥画で後世に名をのこす伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)が、家業の青物問屋を早々に隠居し、画業に専念した頃でした。



世界でも日本でも、音楽でも、絵画でも、絢爛豪華な技法を前面に押し出すことが主流だった時代に、仙厓は天衣無縫で素朴な絵を描き、博多の人々から仙厓さんと呼ばれ、乞われれば気安く絵を描いた仙厓和尚の聖福寺の門前には市がたつほどでした。



仙厓は画の修行を、狩野派の職業絵師たちと同じように、名画を模倣するところからスタートさせ、緻密な絵を描く技巧力は備えていました。



しかし、見る者を圧倒し、威圧するような技巧的な絵よりも、人々の心に素直に響く絵を描きたかった仙厓は、柔らかな線で、のびのびとした筆運びで、独自の描き方を開発していったのです。



オペラ界でも、仙厓の絵ように、のびのびとした温かみのある歌い方をする歌手がいました。



今月10月6日に、85歳で亡くなったスペイン生まれの世界的なソプラノ歌手モンセラート・カバリエです。



カバリエは、1933年にバルセロナの貧しい家庭に生まれました。



音楽好きの両親の元に生まれたカバリエですが、貧しさゆえに、小学校を卒業すると家計を助けるために働かなければならず、スカーフを縫う仕事をしました。



スカーフを縫いながらも、音楽の勉強だけは続けていた彼女は、良い声をしているからと、周囲の強い勧めで、歌手になるために奨学金を得て勉強をしました。



21歳で歌手の勉強を終えたカバリエは、プロのオペラ歌手になるために、ヨーロッパ中の歌劇場のオーディションを受けますが、すべて不合格でした。



なぜなら、カバリエは、正統なベルカントの技法は身につけていましたが、とても柔らかな声質で、聞くものを圧倒する迫力ある歌い方ではなかったからです。



当時は、世界的に人気があったソプラノ歌手マリア・カラスの威圧感のある、迫力ある歌い方に、オペラの聴衆たちは強く惹かれていたのです。



マリア・カラスとは正反対で、人を温かく包み込むような歌い方のカバリエにチャンスは、なかなか訪れませんでした。



10年以上も、端役ばかりを歌って下積みをしていましたが、ある日突然、病気で倒れた主役(マリリン・ホーン)に代わって、ニューヨークのカーネギーホールで歌い成功をおさめたカバリエは一夜にして有名人となり、世界のトップオペラ歌手になりました。



世界的に有名になってもカバリエは、柔軟で温かみがある歌い方はそのままに、人柄もまた素朴で、仕事を華やかなオペラの舞台に限らず、コンサートも積極的に行い、そのプログラム内容もクラシックだけでなく、いろいろなジャンルを取り上げています。



日本には1975年以来、たびたび訪れ、その素晴らしい歌声を惜しげもなく披露しています。



1996年5月にも、カバリエは来日し、東京、福岡、大阪、愛知で、コンサート形式で歌ってくれることになりました。



我が家には、毎日ぐらい聞いていた、カバリエが歌っているオペラ「ノルマ」のレーザーディスクがありました。



その「ノルマ」は、1974年に南フランスのオランジュの古代劇場のライブ映像で、衣装とベールが舞い上がるほどの強い風が吹き荒れるなか、マイク無しで、野外劇場の隅々まで満たしているカバリエの声と舞台姿が収録されているのです。



私と夫はそのレーザーディスクを持って、名古屋の会場まで、カバリエの歌声をききに行き、そして、コンサート後にカバリエに会い、そのレーザーディスクにサインを乞いました。



コンサート直後なのに、疲れも見せず、笑顔で、私が差し出した「ノルマ」のレーザーディスクを愛おしそうに眺めて、そしてサインをくれました。



まるで、誰にでも気安く絵を描いた仙厓さんのように、私につづく他の人にも、カバリエはサインをしていきました。



22年も前の出来事なのに、まるで昨日のことのようです。



カバリエのサイン入りのレーザーディスクも、夫ともに聞いた名古屋のコンサートの思い出も私の宝物です。



イタリア留学から帰国し、24年も経ちましたが、私は未だに下積みのような毎日で、もしかすると一生、下積みかもしれませんが、温かく柔らかな歌い方で人々の心を包み込むような声で歌っていこうと思います。



2018年10月29日

大江利子


お蕎麦を食べると、必ず思い出してしまう、お蕎麦屋さんがあります。



長野で偶然に出会った、そば処「一葉」です。



18年前の秋、夫と私は、買ったばかりの、可愛いひよこ色のインプレッサが嬉しくて、長野まで、往復1200キロのドライブを決行しました。



ふたりとも、車で出かけるのは、初めての長野でした。



列車やバスの旅では、思うに任せないことも、車なら自由が効くので、私たちは、ドライブ中に、気になった場所にふらりと立ち寄り、花豆のパフェや五平餅など、長野の美味しいものを味わいながら、旅の最後に「一葉」を見つけたのです。



普段から蕎麦好きの私たちは、そばの本場、信州長野で、美味しいお蕎麦に出会えたらいいなと、密かに期待していました。



もうすでに、冠雪した中央アルプスを遠くに臨み、稲刈りが終わったばかりの黄金色に輝く、のどかな田園風景が広がる、見晴らしの良い道、信濃から越後までの塩の道として知られている千国(ちくに)街道沿いを走っているときでした。



黒い瓦屋根に白壁の、懐かしい一軒家の庭先に立つ看板「手打ちそば」に目が留まり、私たちは車をとめました。



出入り口の滑りの良い引き戸をガラガラと開けると、厨房から漂ってくる湯気からは、ほのかな甘いソバの香りがし、壁に貼られた毛筆のお品書きに、期待感が膨らみました。



ソバ粉は、粗挽きと細挽きの二種類が選べて、のど越しの良い、細挽きの十割そばを注文しました。



窓際の席に、お互い向かい合って座り、たった今、下ってきた中央アルプスの山々を眺めつつ、わくわくしながら、お蕎麦の登場を、待ちました。



ゆで上がりを待つ間に、そば茶と、ソバ粉の揚げ菓子が出てきました。



キャラメル色の香ばしい揚げ菓子は、歯触りと素朴な味わいが絶妙でした。



主役のお蕎麦の味は、期待以上で、こんなに美味しいお蕎麦に出会ったのは、初めてでした。



偶然に入ったお店が、名店であった幸運に、私たちは喜びましたが、後々、困ったことになりました。



なぜなら、その後、どんなに美味しいと評判のお蕎麦を食べても、「一葉」の味に勝るものはなく、せっかく出向いて、お蕎麦屋さんに入っても、がっかりすることが続き、「一葉」の、あの味が恋しくてたまりませんでした。



しかし、「一葉」がある長野県安曇野までは片道600キロ、お蕎麦だけのために、信州再訪の決心は、なかなかつきませんでしたが、7年後の2007年の春に、その機会が巡ってきました。



長野県 安曇野の、いわさきちひろ美術館で、ロシアのアニメーション作家ユーリー・ノルシュテイン展が開催されることになったのです。



ノルシュテインは1941年、ソ連時代のロシアに生まれ、家具工場の職人や声優の経験もあるユニークな経歴のアニメーション作家です。



ノルシュテインの作品は切り絵のようなアニメが動く、幻想的な映像美が特徴です。



彼のよく知られている作品「霧につつまれたハリネズミ」は、擬人化された動物たちのお話です。



主人公のハリネズミ君は、子熊さんから「星を数えながら、一緒に、お茶を飲もうよ」と、お誘いを受けて、霧がたちこめる森の中を、エゾ苺のジャムを抱えて急ぎます。



ハリネズミ君は大きなミミズクに後をつけられたり、川に落ちたり、大切なエゾ苺のジャムを失くしたり、ハプニングが続き、なかなか子熊さんのところへ行けません。



見る側は、ノルシュテインの描く、霧がたちこめる不気味な夜の森の世界にひきこまれ、まるで自分が、小さなハリネズミになったような気持ちになって、森の中のハプニングに、ハラハラドキドキしてしまいます。



またノルシュテインは音楽を非常に効果的に使います。



押しつけがましさや、虚飾のないバッハの音楽を使った代表作「話の話」は、1979年に発表されましたが、世界中のアニメーターたちに深い感動を与え、翌年に、数々の国際賞を受賞し、今年の夏に旅立った高畑勲(火垂るの墓の監督)も、ノルシュテインに心酔し、その様子を記事にのこしています。(アニメージュ文庫「話の話」)



夫は、日本では、あまりノルシュテインが話題にのぼらなかった頃から、「話の話」が大好きで、その背景音楽に使用されていたバッハの平均律8番のプレリュードを練習し、届くのはいつになるかわからない、ノルシュテイン自筆サイン入りの「話の話」の高価な額装リトグラフを、前金払いで注文するほどでした。



11年前(2007年)上達はしないけれど、毎月購入だけはしていた、NHKラジオ語学講座ロシア語テキストのお知らせコーナーで、夫の大好きなノルシュテインの絵本展が、安曇野ちひろ美術館で開催されることを知り、彼とともに、再び片道600キロ、長野県まで車を走らせ、そして、恋しい「一葉」のお蕎麦を、また味わうことができました。



ノルシュテインは、作品を創り出すために、奥様とふたりで、背景もキャラクターもすべての絵を手で描き、自ら撮影し、自らアニメーションにつなぎ合わせていきます。



この方法は、恐ろしく時間と手間がかかりますが、出来上がった作品は、得も言われぬ詩的な世界が広がり、見る者を感動させ、時が経ても、色あせることのない魅力に満ちあふれたノルシュテイン作品は、世界中の人々に愛され続けています。



「一葉」も、美味しいお蕎麦を提供するため、自ら種蒔き・収穫した蕎麦を、自ら製粉し、お蕎麦を打ち、薬味のねぎも、わさびも自家生産しているそうです。



私も、「一葉」のお蕎麦や、ノルシュテイン作品のように、自ら創り出す力を失わず、自ら学び感動したことを歌と文に反映させる姿勢を取り続けようと思います。



2018年9月29日

大江利子



「話の話」

オーベルハウゼン国際短編映画祭国際映画クラブ賞、

ザグレブ国際動画祭大賞

リール短編及び記録映画祭動画部門グランプリ・国際批評家連盟賞、

オタワ国際動画映画祭グランプリ、いずれも、1980年受賞


「次の発表会は、何を弾くの?」



2年に1度の夏に交わす、私と友人のお決まりの会話です。



ピアノの先生をしている友人が、ご自分の生徒さんのために開く、2年に1度の発表会に、私も参加させてもらっているのです。



14歳から本格的にピアノを習いはじめ、無我夢中で、毎日何時間もピアノを練習し続けた私のピアノ人生は、公務員となった22歳の4月に、一旦、終わりとなりました。



大学卒業後、郷里岡山で中学校の音楽の先生となった私は、毎日の授業、部活指導、校内暴力で荒れ狂う生徒たちの指導で、疲れ切り、学生時代のようなピアノを練習する時間も気力もなく、生きているのが、やっとの毎日でした。



学校行事で全校生徒が歌う校歌や、生徒たちが授業で歌う曲のピアノ伴奏程度なら、学生時代のような練習をしなくても、用は足りました。



練習をしなくなった私のピアノの腕前は、あっという間に落ちました。



もともと、私のピアノ技術はプロのピアニストレベルではないものの、それでも、ショパンの革命のような速い曲や、連続オクターブがつぎつぎと出てくる難曲のリストも、弾けていたのに、練習しなくなったら、まったく、指が動かなくなってしまったのです。



高校時代も大学時代も、音楽専門の道へ進学した私は、自分よりも、はるかに上手にピアノを弾く同級生たちを目の当たりにして、劣等感がありました。



どんなに練習しても、同級生たちのレベルに、到底及ばないことが、16歳で、わかってしまい、打ちのめされました。



それでも、下手なりに私が、毎日何時間も練習を続けられたのは、試験や、習っていた先生の発表会など、人前でピアノのソロ演奏をする機会に恵まれていたからです。



それが、就職し、いくら毎日ピアノを仕事で使うとはいっても、コンサートに弾くような曲を演奏するわけではないので、練習に身が入らず、腕前が落ちると、ますます練習しなくなりました。



また就職と同時に、歌への情熱が高まり、歌の勉強の方に重点をおいたので、人前でソロ演奏できる機会には、独奏ではなく、独唱をしました。



人前で演奏することが大好きな私は、その欲求は、歌で満たされ、もともと劣等感があったピアノからは、ますます、遠ざかったのです。



しかし、ある友人との出会いが、私のピアノへの情熱に、再び、火をつけたのです。



彼女は、良き母であり、良き妻であり、幼い子供から、お年を召した方まで、幅広い年齢層の生徒さんを抱えた優しいピアノの先生でした。



彼女はある日、シューマンの「飛翔」という難しい曲を、私の前で演奏してくれました。



彼女の「飛翔」は、すっかり仕上がっており、いつでも舞台で独奏できる状態でした。



しかし、彼女には、まったく、その予定はなく、ただ「飛翔」が好きなので、自分で練習して仕上げたと言うのです。



私は、それを聞いて、とても感動しました。



なぜなら、私のピアノはいつも試験や、舞台のために、練習していたので、自分が純粋に演奏したいと思う曲を仕上げた経験はなかったからです。



手が小さく、指が速く動かない私は、その欠点が目立たず、華やかに聞こえる曲を選び、純粋にその曲が好きかどうかは、私の選曲基準ではなかったのです。



私は、彼女の「飛翔」を聞いて、もう一度ピアノを練習したくなりました。



そして、今度こそは、たとえ何年かかっても、純粋に、自分の好きな曲を練習しようと思いました。



私は、彼女に、彼女の生徒さんと一緒に発表会に出演させて欲しいと、お願いしました。



すると、快諾してくれた彼女自身も、「飛翔」を披露することになり、ふたりで、生徒さんに混じって独奏することになったのです。

今から10年前のことです。



10年前のその日から、私たちは純粋に好きな曲だけを選び、発表会のたびに2年に1度の割合で、新しい曲が、仕上がっていきました。



お互いに、2年先の発表会に向けて、練習している曲を、披露し合い、批評し合って、励まし合うのが日課となり、楽しく学び合う月日が流れました。



純粋に好きな曲だけを、練習しているうちに、技術も自然と身についていきました。



じわじわとザルで水をすくうような、進歩ですが、10年の継続はかなりの進歩をもたらしました。



そして、今年はまた、発表会の年、私は、ベートーベンの熱情ソナタの3楽章を選びました。



熱情ソナタは、「月光」、「悲愴」とともに、三大ソナタと呼ばれるベートーベンの初期のソナタの傑作です。



熱情ソナタの1楽章は、青春時代の恋のような、情熱的な熱い旋律で、2楽章は、至福の安らぎに満ちた、静かな曲です。



そして、私が発表会に演奏する3楽章は、嵐のような、激しいリズムと切ない旋律が繰り返され、若き日、エネルギーに満ちあふれていた時代を思い出させてくれます。



この熱情ソナタの3楽章を弾きこなすには、とても強い指の力が必要です。



アップライトピアノしか持っていない私は、近所の公民館のグランドピアノを借りて、指の力を強化するために、本番ひと月前から、猛練習をはじめていました。



すると、先日、見知らぬ男性が、やって来られて、毎日、聞こえてくる熱情ソナタが気になって、誰が弾いているのか、確かめにきたと、おっしゃるのです。



彼は、熱心なクラシック音楽愛好家でした。



男性はアルミニウムを加工するお仕事をされていて、お仕事の技術で作った、音符が入ったアルミニウムの素敵なコースターをプレゼントしてくださいました。



知り合いでもなく、友人でもない人が、純粋に、熱情ソナタのピアノの音だけを聞いて、行動をおこされたとは、改めて、ベートーベンの音楽の力の強さを実感しました。



また、こんな素敵な出会いを作るきっかけとなった、「飛翔」を演奏してくれた友人に感謝せずにはおれません。



これから、音楽を通じてどんな素敵な出会いが待っているのか、楽しみにしながら、日々の練習の励みにしようと思います。



2018年8月29日

大江利子


551蓬莱(ほうらい)の豚まんは、浪速っ子の愛するおやつです。


大阪の商店街や駅ビル内などには、鮮やかな赤一色の背景に白文字で、「551蓬莱」と書かれた看板の前に、いつも大勢の人が豚まんを買い求めるために並んでいます。



関西には、毎年、夫の仕事に同伴して一週間ほど滞在しておりましたが、岡山っ子の私はその美味しさを知らなかったので、551蓬莱の赤い看板の前に並ぶことは一度もありませんでした。



「たかだか肉まんを、買うためだけに、どうしてこんなに人が並んでいるのだろう?」と、不思議に思い、人だかりのする551のお店を横目で見ながら、通り過ぎたものです。



しかし、数年前のある日、コンサートのお客様からの贈り物で、551の豚まんをいただく機会がやってきました。



15分ほど、蒸して食べると、とても美味しいですよ、と電話口で、お客様は、涼やかなお声で、食べ方の秘訣を教えてくださいました。



初めて食べた551の豚まんのなんと美味しいことか、小さな肉まん1個にこれほど幸せを感じたのもまた、初めてで、551のお店の前に、人だかりがしていた理由が、やっとわかりました。



それ以来、私は551の豚まんが大好きになると同時に、今までは、肉まんは、おやつの対象外だったのに、オートバイで出かけて、小腹が減ったときに立ち寄るコンビニエンスストアで、真っ先に、ガラスケースの肉まんに、目がいくようになってしまいました。



肉まんは、点心と呼ばれる中国のおやつですが、小麦粉をイーストで発酵させてつくるパンの仲間で、蒸したての熱々が何よりものごちそうです。



世界各地、特に寒い地方には、小麦粉の生地におかずを包んだ、温かいおやつが、よく見られます。



日本では、長野のおやきがそれに、よく似ています。



昨年、オートバイで青森まで行った帰り道に立ち寄った、長野の駒ケ岳サービス・エリアで、本場の味、野沢菜入りのおやきをいただきました。



せいろから蒸上がったばかりの、ほかほかと湯気が立った温かいおやきは、とても美味しくて、旅の良い思い出となりました。



点心の国、中国よりもさらに、北国のロシアでは、ピロシキという、おかず入りの温かいパンがあります。



本場のピロシキは、残念ながらまだ一度も味わったことはないのですが、ある映画の中で、主人公が美味しそうに食べているシーンが強く印象に残っています。



その映画はロシアの作家ゴンチャロフの小説「オブローモフ」を映画化した

「オブローモフの生涯より」です。



主人公のオブローモフは、大地主の息子で、働かなくても、生活できる贅沢な身分です。



子供の頃は愛らしいく、利発な男の子でしたが、甘やかされて育ったオブローモフは、大人になっても、甘えたところが抜けず、官僚に就職しても長続きせず、社交界でも口下手で、恋人もできずに、ひきこもりの毎日を送っていました。



しかし、彼の性格は、温和で、正直で、人と競争することが苦手なだけで、

お肉とキノコがたくさん入ったピロシキが大好物の愛すべき人物でした。



オブローモフには、唯一、心が許せる人物、幼なじみの親友シュトルツがいました。



シュトルツは、オブローモフと正反対に、幼い頃からとても厳しく育てられたので、自立心が旺盛で、規則正しい生活を送り、若くして外国で成功していました。



まったく性格の違うふたりでしたが、大の仲良しで、シュトルツが帰郷したときだけは、

オブローモフも生まれ変わったように、活動的になりました。



一方、シュトルツは休暇で帰って来るたびに、親友のお腹が太鼓腹になって、怠惰になっていることに、心を痛め、オブローモフの大好物のピロシキを禁止し、野菜中心の食事をとるように提案します。



ピロシキ禁止令に素直に従っていたオブローモフですが、ある夜、我慢しきれずに、シュトルツの目を盗んで、こっそり食べようとしたところを、親友に見つかってしまいます。



オブローモフとシュトルツの間に気まずい空気が流れます。



スクリーンを見ているこちら側にも、ふたりの気まずさが伝わる緊張の一瞬です。



シュトルツは、どうしたのでしょうか。



彼は、オブローモフを叱るどころか、大笑いして、ピロシキをいっしょに食べ始めるのです。



映画「オブローモフの生涯より」には、オリガという名前の若い娘が、登場します。



シュトルツが、自分が仕事に戻ったあとも、オブローモフが元の怠惰な生活に戻らないようにと、心優しく、聡明なオリガに、見張り役を頼むのです。



オブローモフとオリガの間には恋が芽生えますが、オブローモフの方が、僕はあなたにふさわしくないと言って身を引きます。



時は流れ、映画のエンディングはシュトルツ夫人となったオリガが、ひっそりと亡くなったオブローモフを偲びます。



小説「オブローモフ」が発表されたとき、当時、とても反響を呼び、オブローモフが「無用な人、余計な人」の代名詞になり、「オブローモフ主義とは何か」という論文まで登場し、彼の存在価値について、近代社会は考えさせられました。



オリガは、活動的で精力的に働くことを生きがいとするシュトルツと、人と争うことを好まず、怠け者のオブローモフのいったいどちらを本当に愛していたのでしょうか。



映画にも小説にも、その答えは、明確にされていません。



オリガは歌がとても上手で、ベッリーニ作曲オペラ「ノルマ」の中の「清らかな女神よ」が十八番でした。



映画の中では、「清らかな女神」をオリガとシュトルツとオブローモフの3人で合唱する微笑ましいシーンが印象的です。



「ノルマ」を作曲したベッリーニはイタリアのシチリア出身の早逝した人ですが、たくさんの甘美な旋律のオペラを残しており、ベートーベンのような情熱も、モーツァルトのような軽快さもないのですが、人の心を暖かく包むような柔和な音楽で、オリガの十八番の「清らかな女神」は、彼のもっとも、よく知られた1曲です。



ただし、ベッリーニの作品は、聞き手には、優しく幸せを運ぶような旋律でも、歌う側にとっては、大変で、特にこの「清らかな女神」は、大歌手のマリア・カラスを引退に追い込んだ難曲です。



私も、オリガと同じように「清らかな女神」が十八番ですが、そのお墨付きをくれたのは、

2014年12月6日、オリエント美術館で「ベッリーニの夕べ」を歌った私の声を聞いた夫でした。



辛口の批評家の夫は、私の歌声を聞き始めて20年目に、やっと人前で「清らかな女神」を歌ってもよいと言ってくれました。



物が溢れた現代社会で生きる人々に、幸せを感じさせるものは、もしかしたら主食よりも、おやつであり、必要なものよりも、余計なものの方なのかも知れません。



私自身にとっては、歌は主食のようなものですが、他の人にとっては余計なオブローモフ的なもの、または、おやつのようなものだと思います。



551は美味しい豚まんを提供するために、この機械化の進んだご時世に、1個1個、職人が手包みするそうです。



私も、「清らかな女神」を、聞いてくださる方に、幸せを感じていただけるように、日々精進して歌っていきたいと思います。



2018年7月29日

大江利子


40年以上も、捨てられない本があります。



音楽の専門書でもなく、装丁の豪華な文学書でもないけれど、眺めているだけで、とても楽しく、幸せな気分になれる本なのです。



昭和52年(1977年)、中学2年生だった私は、「楽しいクッキー」というお料理の本を、生まれて初めて自分のこずかいで買いました。



お菓子作りに憧れていた私は、近所の文房具屋の店先に、月刊誌に混ざって並べられていた「楽しいクッキー」に目が留まり、美味しそうな表紙を見て、どうしてもその本が欲しくなったのです。



当時、私のこずかいは一か月500円、「楽しいクッキー」は一冊480円、一か月分のこずかいを、一度に、使い果たしてしまいましたが、後悔はありませんでした。



「楽しいクッキー」は、お菓子作りの実用書で、14歳だった私が、食べたことも、見たこともない、華やかなクッキーの作り方が、わかりやすく、写真入りで解説されていました。



クッキーの基本は、材料を混ぜて、焼くだけですが、加える材料や、成形の仕方によって、いろいろな名前があることも知りました。



猫の舌を意味する「ラングドシャ」、アーモンドが入った「マカロン」、屋根瓦に似た「チュイール」など、「楽しいクッキー」には、作り方だけでなく、それぞれのお菓子にまつわる由来も、解説してあります。



学校の英語や歴史の授業では、習わない、カタカナの地名や人名が、「楽しいクッキー」には登場し、行ったこともない異国の地に降り立った気がして、西洋文化に親近感を覚えました。



「楽しいクッキー」を買って帰ったのち、早速、食べたいクッキーを作ろうと台所に立ちましたが、道具や材料がいろいろ不足し、作れるものは限られました。



クッキー作りには、オーブンが欠かせませんが、40年前の実家には、トースターしかありませんでした。



実家のトースターは、平置きの食パンが、1枚入るだけの広さで、外観は、オーブンに似ていますが、似ているのは、扉のあけ方だけで、オーブンのような温度調節はなく、焼く時間も、連続5分が限界でした。



どんなクッキーでも、オーブンで10分くらいは、焼かねばなりません。



実家のそのトースターだと、5分で切れてしまったタイマーを、すぐに回して、連続使用し、10分焼きましたが、焼け具合が焦げ過ぎと、ちょうどいい部分が半々になり、見た目が残念なクッキーになってしまいました。



いろいろ制限がある中で、14歳の私が、良く焼いたクッキーはシンプルな材料の「サブレ」でした。



サブレとは、口の中に入れたときにサクッとした歯ごたえと砂のように、サラサラとした味わいなので、フランス語で砂を意味する「sable’=サブレ」と呼ばれるのです。



サブレには、小麦粉と砂糖、卵、それに無塩バターがたっぷり入ります。



当時は、無塩バターは手に入りにくく、マーガリンで代用したサブレをよく焼いたものです。




焼きムラができても、マーガリンで代用しても、それでも自分で作ったサブレは美味しくて、お菓子作りがとても好きになりました。



サブレの他にも、「楽しいクッキー」の中のいろいろなクッキーに挑戦してみましたが、

材料が入手不可能で、憧れだけに終わったものもあります。



それは、干しブドウをたくさん使う「ガルバルジー」です。



干しブドウは、40年前、実家の近所の八百屋では、取り扱っていなかったのです。



けれども、たとえば、干しブドウなしで「ガルバルジー」を焼くならば、それは「サブレ」と同じ味に、なってしまいます。



つまり、干しブドウ入りの「サブレ」が、「ガルバルジー」なのですが、なぜ、そんな特別な名前がつけられたか、当時の私にはわかりませんでした。



「楽しいクッキー」にも「ガルバルジー」の由来は載っていませんでした。



しかし最近になって、「ガルバルジー」の由来がわかりました。



「ガルバルジー」とは、19世紀イタリア統一運動の指導者ガリバルディ将軍の名前です。



19世紀のイタリアは、小さな国に分かれており、それぞれの背後には、親分の国イギリス、オーストリア、フランスが裏で糸を引き、親分の力関係が変わるごとに、イタリア半島は翻弄(ほんろう)されるややこしい時代でした。



そんな中で、ガリバルディ将軍が義勇軍を結成し、統一運動をおこして、イタリア半島から親分の国を追い出して、イタリアをひとつの国にまとめて、自分は国王とならずに、身を引いたのです。



ガリバルディ将軍が、イタリア統一後、すぐに身を引き、隠居生活に入ったおかげで、日本で起きた戊辰戦争のような内乱が避けられ、彼は英雄と讃えられたのです。



この複雑なイタリア統一のいきさつを、なかなか、理解できずにいましたが、ヴィスコンティ監督の「夏の嵐」という映画を見て、私は、いっぺんに、理解できました。



「夏の嵐」は美貌のヴェネツィア侯爵夫人と、ニヒルなオーストリア青年将校の破滅的な恋が、イタリア統一運動を背景に描かれており、ガリバルディ将軍のイタリア統一運動も、ストーリーの重要なポイントです。



侯爵夫人と青年将校が初めて出会う場所は、ヴェネツィアのオペラ劇場、フェニーチェ劇場です。



イタリア・オペラの巨匠ヴェルディが作曲したオペラ「イル・トロヴァトーレ」が、

フェニーチェ劇場で上演される中で、ふたりは出会い、恋に落ちます。



世情不安なヴェネツィアで、逢瀬を重ねる恋人たちのセリフから、当時のイタリア情勢とそれに巻き込まれた人々の苦しみがとてもよくわかりました。



2時間足らずの「夏の嵐」を見ただけで、統一イタリアの時代に、急に詳しくなった気がして、ガリバルディ将軍も私にとって、活字だけの人でなくなりました。



「夏の嵐」は、20年前、夫が買ってきた中古のレーザー・ディスクで見ました。



夫は古い名映画収集のために、大阪方面まで足をのばして、中古レーザー・ディスクをたくさん買い集めていましたが、「夏の嵐」もそのひとつです。



「夏の嵐」を夫ともに見て、20年の歳月が流れ、やっと「楽しいクッキー」のガルバルジーの由来がわかる日がやってきました。



今月6月、岡山市の後楽園近くにある夢二郷土美術館で、竹久夢二作品の特別公開があると知り、オートバイで行ってきました。



今回の夢二展は、何百枚という楽譜に描かれた夢二の挿絵が公開されており、新しい夢二の一面を見ることができました。



また、夢二郷土美術館の敷地内に、カフェが新設されており、夢二が愛したお菓子がメニューにありました。



竹久夢二が愛したのは、あの「ガルバルジー」でした。



そして「ガルバルジー」の由来は、イタリア統一運動のガリバルディ将軍で、将軍がイギリスに渡ったときに彼を讃えて作られたお菓子だと説明されていました。



夢二の愛した「ガルバルジー」を注文すると、出てきたのは、「楽しいクッキー」を見て、憧れていたあの、「ガルバルジー」でした。



ひと口食べると、甘酸っぱいレーズンが口いっぱいに広がり、オートバイでやってきた疲労を癒してくれました。



「楽しいクッキー」から「夏の嵐」、そして「竹久夢二」と40年もの時空を超えて、やっと「ガルバルジー」が解決して、私は深く感動しました。



そして同時に、もしも夫が「夏の嵐」を私に見せてくれていなかったら、「ガルバルジー」の感動は、ここまで深くなかったとも思うのです。



夢二は、大正時代に本の挿絵、着物の柄、絵はがきなどで、人々の暮らしに芸術を根付かせました。



ヴィスコンティ監督はスクリーンを通じて、国籍を超えた人々にイタリアの歴史と文化を見せてくれました。



そして夫は、家の中に、いつでも手の届くところに芸術を集めてくれました。



私も、音楽と文章で、愛する周りの人々に感動したものを運び続けたいと思います。



2018年6月29日

大江利子


オペラ「カルメン」は情熱的な恋物語です。

真面目一徹、許嫁(いいなずけ)までいる純朴な青年ホセは、ジプシー女カルメンの魅力に逆らえず、彼女の恋人になります。



カルメンと生活を共にするために、ホセは兵士の身分も、ふるさとの母も捨て、彼女と同じ密輸業者に身を落としてしまいます。



しかし、恋多き女カルメンは花形闘牛士エスカミーリョから求愛されて、あっさりと心変わりしてしまいます。



嫉妬に狂い、我を忘れたホセは、カルメンの命を奪ってしまうのです。



人生を破滅させるほどの激しい恋愛を描いた「カルメン」はスペインが舞台ですが、物語の原作を書いたのは、フランス人作家メリメです。



メリメの表向きの職業は文化財に関わる役所の官吏で、スペイン各地を視察旅行したとき、それから得たインスピレーションで、カルメンを創作し、1845年に小説として発表しました。



30年後の1875年に、「カルメン」はオペラ化され、パリ・コミック座で初演を迎えます。



オペラ化したのは、当時、36歳だったフランス人作曲家ビゼーです。



パリ・コミック座の劇場支配人に、新作オペラの注文を受けたビゼーは、メリメの小説「カルメン」を台本に選んだのです。



ボレロ、セギディーリア、ハバネラなど、民俗舞曲をたくさん使って、誰が聞いてもすぐに覚えられる、わかりやすい音楽で「カルメン」のストーリーは展開していきます。



オペラ「カルメン」の歌詞はフランス語ですが、日本で上演するときには、邦訳して歌われることもあります。



邦訳歌詞も名訳がつけられていますが、やはり、フランス語に比べると、オペラの魅力が半減してしまいます。



「カルメン」が大好きな私は、フランス語でカルメンを歌いたくて、22年前、32歳からフランス語を独学で勉強することにしました。



最初はNHKラジオ講座を、毎日聞いて勉強していましたが、そのうち、ラジオ講座だけでは物足らなくなり、フランス政府が直接運営する東京日仏学院(現在はアンスティチュ・フランセ東京)の通信教育で、フランス語のスキルアップを図りました。




通信教育のシステムは、学院から郵送される課題を期日までに解答して、学院へ郵送するだけです。



課題は、学院手作りの長文読解で、課題内容はフランスの時事でした。



今でこそ、インターネットでフランスのテレビ放送も簡単に見ることができますが、22年前、日本の田舎町の主婦の身分では、東京日仏学院の長文課題がとても貴重でした。



解答した課題は、担任の先生によって赤ペンで細かく添削されて、戻ってきます。



文通のみですが、先生の誠意ある説明と丁寧な添削がとてもうれしくて、難しい課題に辞書を片手にせっせと取り組みました。



東京日仏学院からの郵便は課題の他に、学級通信のようなお便りが入っていて、映画などのイベント紹介や、フランスに関するお知らせが掲載されていました。






ある時、そのお便りから、京都にある姉妹校の関西日仏学館の存在を知りました。




関西日仏学館の図書コーナーでは、貴重なフランスの資料が自由に閲覧できるので、私は、20年前、夫と共に京都まで出かけて行きました。




関西日仏学館は京都大学近くにあり、建物は1936年に落成された美しい白亜の洋館で、

今も当時の姿のまま使用されています。



正面玄関を入ると、1階にカフェがあり、このカフェの壁にはフランスに帰化した日本人画家 藤田嗣治(ふじたつぐはる)の絵画「ノルマンディーの春」が飾られています。




藤田の絵の特徴は面相筆で描かれる繊細なラインと透き通るような乳白色の女性の肌です。




関西日仏学館のカフェには、その画風が生かされた、みずみずしい乙女を題材にした巨大な藤田嗣治の絵が飾られているのです。



明治生まれの藤田嗣治は27歳で単身渡仏し、その独自の画風がフランスで高く評価され、レジオンドヌールを受賞しました。



しかし、祖国日本の画壇は、藤田の才能が理解できず、その才能にふさわしい評価を与えませんでした。



20年前、私が初めて「ノルマンディーの春」を見たときも、藤田嗣治の名は、世間一般には知られておらず、私もそのひとりでした。



しかし、私に藤田嗣治の予備知識はまったくなくとも、また、絵画の鑑識眼がなくとも、「ノルマンディーの春」にはただならぬものを感じ、その場を立ち去り難く、しばらくの間眺めていたのを思い出します。





夫は、藤田嗣治のことを知っていて、レオナール藤田と改名して、フランスで没したことも教えてくれました。



数奇な人生と日本人離れした不思議な魅力の絵を描く藤田嗣治に強い魅力を感じ、その時以来、私の中で、特別な存在の画家となりました。



先日、5月10日、20年ぶりに「ノルマンディーの春」を見に、再び関西日仏学館を訪れました。



カフェは別の経営者になり、椅子やテーブルなどの調度品は、すっかり変わっていましたが、「ノルマンディーの春」は20年前と同じ場所にありました。



カフェの給仕をしてくれた若い女性が、親しげに「ノルマンディーの春」の説明をしてくれました。



絵の説明をする嬉しそうで、誇らしげな彼女の表情に、私は20年前の自分の気持ちを重ねていました。



彼女も私と同様に藤田嗣治の「ノルマンディーの春」に魅せられたのだなと直感しました。



オペラ「カルメン」も「ノルマンディーの春」も、いちばんの魅力は、そのわかりやすさです。



難しい専門知識がなくとも、すぐに理解できることが、芸術には一番大切なことだと思います。



私もわかりやすい文章と万人の心に響く歌を目指して、歌い続け、書き続けようと思います。

2018年5月29日

大江利子