クーポラだより最新号


1979年11月26日、岡山市民会館1階の観客席で高校1年生の私は初めて聞く難波先生のピアノ演奏に圧倒されていました。



難波先生は、私の母校である山陽女子高等学校音楽科講師のおひとりで、高1から高3までの3年間、私のピアノ個人レッスンを担当してくださった先生です。



私が初めて難波先生にお会いしたのは、中学3年生の夏休みです。



当時、音楽科を併設する女子高として岡山県内唯一の山陽女子高等学校では、夏と冬の2回、受験生のための講習会が開催されており、毎回講習生は100名を超えていました。私はその講習会の個人レッスンの時間に難波先生にお会いしたのです。



難波先生のお噂は、中学2年生からピアノのレッスンに通っていた久山先生から聞いていました。



久山先生は私が目指していた山陽女子の音楽科で難波先生の薫陶を受けて、ピアノの名門である武蔵野音楽大学を卒業されたばかりの若い女性でした。



つまり私は久山先生の師匠である難波先生のレッスンを受けることになったのです。



「難波先生のレッスンはとても厳格なのよ。指使いの間違いやミスタッチは、絶対に見逃してはくださらないから、気を付けて、講習会の準備をしましょうね」



久山先生は私より9つ年上で、言葉も物腰も柔らかく、優しいお姉さんのような先生でした。



優しい久山先生のレッスンでは、自分独りで練習している時のように、リラックスして鍵盤を弾くことができました。



しかし、山陽女子音楽科の夏の講習会で初めてお会いした難波先生の前で、緊張し過ぎた私は、普段では有り得ない指使いやミスタッチをしてしまいました。



すると弾丸のように、厳しいお言葉が先生の口から飛び出しました。



「どうしてそんな変な指使いで弾くの!?私は久山さんに、そんなことは教えなかったわよ!」



真夏だというのに、私の背中には冷たい汗が一筋流れました。



中学1年生の夏からピアノを習い始めた私は、バイエルを終えたばかりで、やっとツェルニー30番に入ったところでした。



毎日欠かさず4時間ピアノのお稽古をしていましたが、私の指はなかなか思うようには動いてくれず、時々、自分の意志とは無関係に、指が変な動きをすることがありました。



極度の緊張で私の指に、その変な動きが出てしまったのです。



でも、そんなことは言い訳です。



私は無言で難波先生の𠮟責を受けながら、正しい指使いで弾きなおしました。



それ以来、山陽女子に合格したあとも、難波先生の前ではいつもカチコチに緊張しながらレッスンを受けていました。



難波先生のレッスンは検査のようです。



どんな曲も、片手ずつ、ゆっくりのテンポで弾かされます。



誤作動を見つけ出す機械の検査官のように、難波先生の目と耳は、私が奏でるピアノの音と鍵盤上の指使いを厳しくチェックします。



正しい指使いかどうか、リズムや音程に間違いは無いか。



少しでも、引っかかるところがあると、部分的に取り出して、何十回でも同じところを練習させられます。



その目的は、片手で、滑らかに弾けるようになるためです。



右手も左手も、いささかもつまずくことなく、鍵盤の上で指が滑らかに動くようになったら、ようやく両手で弾く許可がおります。



そして両手でも、片手と同じように、先生の前で、ゆっくりの速さで確実に弾けることが確認できるまでは、速いテンポでは弾かせてはもらえません。



技術的に優しいところも困難なところも、片手と同じように両手で滑らかに指が動くようになった時、やっと曲本来の速度に上げて、感情を込めて弾く許可がおります。



まるで大工さんが家を一棟、独りで丸ごと建てるように、基礎から確実に積み重ねるやり方が難波先生のレッスンなのです。



伝統的なものづくりに共通した基礎から確実に積み重ねる方法でレッスンをしてくださる難波先生の弟子となった私は、高校1年生の11月、山陽女子音楽科の優秀な生徒と講師たちが出演する年1度の定期演奏会で、先生の舞台演奏を初めて聞いたのでした。



この定期演奏会は山陽女子音楽科の実力テストのようなもので、市民会館の会場を埋め尽くす観客席には父兄に混ざり、耳の超えたクラシック関係者も座っていました。



先生が弾かれた曲は、リスト作曲の『ため息』です。



リストは彼自身が非常に大きな手の持ち主で、圧倒的な超絶技巧で衆目を集めたピアニストでもあり、その彼が作曲した曲も、彼自身の技術力を存分に発揮できる曲ばかりです。



難波先生は小柄な人で、手も非常に小さく1オクターブがやっとですが、そんなことはおくびも感じさせず、完璧な技術力で、優雅で情感あふれるリスト演奏でした。



滑らかに鍵盤の上を動く難波先生の指を私は羨望の眼差しで見つめながら、こう思いました。



「先生は私のように苦労してお稽古しなくても、生まれつき指が滑らかに動くに違いない!」



つい先日、私が高校卒業以来、初めて難波先生にそのことについて伺う機会がありました。



先生はレッスンの時とは、別人格かと思うような、柔らかい笑顔で、話してくださいました。



「学生の時の演奏は、自分で頑張ってきた成果を聞いてもらうだけだから、責任がないけど、講師として演奏する時は、その学校の看板を背負って弾くから責任重大なのよ。」



そして先生は酷いあがり症なために、舞台演奏をする前は、それを克服するために猛稽古をして体重が落ち、周囲の人が心配するほど、げっそりと瘦せてしまうのだそうです。



あの素晴らしい先生のリスト演奏は身が細るまでお稽古した賜物だったのです。



80歳になられた先生は、今も人前での演奏を続けておられます。



教職を退いたあとも、民生委員を任されたり、地域活動に奉仕されたりと、その活動の関係者から乞われて独奏コンサートをすることがあり、全曲暗譜で弾かれるそうです。



きっと先生は今も、人知れず猛稽古されて、舞台に臨んでおられるのだと思います。



再来月、私は自分が主催する発表会で、講師演奏としてベートーヴェンの月光ソナタの3楽章を弾きますが、難波先生の弟子として恥じない演奏ができるよう、高校生の時のように練習に励もうと思います。

2024年12月29日

大江利子


「パリアッチ、歌ってください」


30年前、岡山市内の夜景が眺望できる高層ビルの最上階のラウンジで、弾き語りのアルバイトをしていたある夜、お客様からリクエストされました。


パリアッチとは、イタリア語で道化師という意味ですが、まさにその名前のオペラがあります。


1892年に初演されたレオンカヴァッロ作曲のオペラ「道化師」です。


オペラ「道化師」の登場人物はたった5人、旅回りの芝居一座の座長カニオ、その妻ネッダ、一座の二枚目役者ベッペ、せむしの役者トニオ、そして村の青年シルヴィオです。



オペラの舞台は南イタリア・カラブリア地方、カラブリアは長靴の形をしたイタリア半島のつま先にあたる部分です。



時代設定は、1865年頃(和暦では慶応元年、大政奉還まであと3年となる幕末の頃)の8月15日です。



日本では8月15日は終戦記念日ですが、イタリアは聖母マリアの祭、聖母被昇天祭で、クリスマス、復活祭と並ぶ国民的な祝日であり、その日は伝統的にピクニックをします。



つまり、座長カニオは、聖母昇天祭にあてこみ、村で芝居をうち、一儲けしようと思っているわけです。



しかし、その芝居の本番前にカニオは、妻のネッダが浮気をしていることをせむし役者トニオから告げられます。



せむしのトニオはネッダに恋しており、座長であり夫であるカニオの目を盗んで彼女に迫りますが、肘鉄をくわされました。



それを恨んだトニオは腹いせにネッダをつけまわし、彼女が浮気をしていることをつきとめて、カニオに告げ口したのです。



でも、ネッダが浮気するのには理由がありました。



ネッダとカニオは普通の夫婦のように、大人同士の恋愛の末に結婚したのではなく、源氏物語の紫の上と光源氏のような関係でした。



幼い頃、孤児だったネッダは座長のカニオに拾われ養育され、その末に結婚したのです。



ネッダは嫉妬深いカニオから解放されたくて、鳥ように自由に空を飛んでどこかに行きたいと、憧れていました。



そしてネッダはその憧れを現実にできる相手をついに見つけたのです。



旅先でいつも立ち寄る村の青年シルヴィオと恋仲になったネッダは、彼と駆け落ちしようと計画しました。



ネッダの浮気を知らされたカニオは、嫉妬に狂い、男泣きにむせびながら顔におしろいを塗って道化の顔にメイクし、衣装をつけて芝居に出る支度を整えます。



オペラ道化師の中では、このシーンは、テノールの名高い独唱「衣装をつけろ!=Vesti la giubba !」で表現されます。



~Vesti la giubba !(衣装をつけろ!)~



Recitar! Mentre preso dal delirio  non so più quel che dico,e quel che faccio!

(芝居をするんだ!混乱しちまって、自分で何を言っているか、何をしているかわからないけれど!) 


Eppur è d'uopo, sforzati! Bah! sei tu forse un uom? Tu se' Pagliaccio!

(それでも無理にでもやるんだ!お前は人か?お前は道化なんだ!)



Vesti la giubba,e la faccia infarina.La gente paga, e rider vuole qua~

(衣装をつけろ、おしろいを塗れ、観客はそれを笑いたくて金を払うのだから)~



30年前に「パリアッチ歌ってください」と言ったお客様は、このカニオの独唱「衣装をつけろ!」をリクエストしたのです。



歌手の演技力と声量を存分に発揮できるこの曲は、男性歌手のコンサートで歌われることが多く、道化師のオペラ全部を見たことがない人でも、「衣装をつけろ!」だけは知っているという人が多いのです。



また「衣装をつけろ!」はテノールが歌う曲なので、その常識に囚われていた私は、「私はソプラノですから歌えません。」と、当然のようにリクエストを退けました。



そして以降、このリクエストのことをすっかり忘れていたのですが、1週間前にふと思い出しました。



思い出したきっかけは、私が講師をしている公民館の大人バレエクラブの文化祭舞台発表です。



11月23日に開催された公民館文化祭の大人バレエクラブ舞台発表には、今年4月からバレエを始めたという新人2名を含む6名が出演しました。



その6名のうち5名は現役社会人、看護師、小学校の先生など第一線で働く人たちです。



そして公民館の大人バレエクラブの活動は月2回しかなく、しかもその1回は、クラブ員たちの年齢と体力を考慮すると1時間くらいが限度です。



つまり今年4月からバレエを習い始めた新人たちは、10時間足らずで、文化祭本番を迎えたわけですが、バレエの常識で判断するなら、その時間数では、振り付けを理解して記憶するのは難しいでしょう。



そこで私は、バレエの常識を破り、振り付けを記憶することをクラブ員のみなさんに強制しませんでした。



本番は、振り付けのカンニングペーパーとして私が先頭にたち、本来バレエは無言で踊るべきものですが、私が先導して振り付けを声に出しながらクラブ員たちと踊りました。



舞台本番当日、6名の大人バレエクラブの面々は、ロマンチックな濃紺の衣装を身につけ、少女のような愛らしい笑顔で生き生きと踊っていました。




本番のあと、新人さんのひとりが言いました。



「この年齢でバレエを習い始めて、舞台で踊れるなんて、本当に嬉しいです」



この言葉を聞いて、バレエの常識を破って正解だったなと思うと同時に、「衣装をつけろ!」のリクエストのことをふと思い出しました。



「衣装をつけろ!」のリクエストをいただいたとき、テノールが歌うものだと決めつけて、ソプラノの私には歌えないとお断りしたけれど、お客様のご要望は、ただ単に、ご自分が知っていたオペラの曲を歌って欲しかっただけで、私なりに歌えば喜んでくださったのかもしれないなと、ようやく思えるようになりました。



こんな風にオペラやバレエのことを柔軟に考えられるようになったのも大人バレエクラブで頑張っている皆様のおかげです。



2024年11月29日

大江利子

6年前の2019年から年に1度のオートバイラリーに参加しています。



ラリーの名前はサンライズ・サンセット・ツーリング・ラリー、略してSSTRという愛称で親しまれています。



このラリーのルールはその名前が示すように、日の出とともにスタートし、同日の日没までにゴールします。



スタート地点は、太平洋側の海辺(瀬戸内海も可)なら、

日本列島どこでも可、ただしゴールは石川県羽咋市の千里浜海岸です。



私は岡山市児島湾沿いの港から毎年スタートします。



なぜ児島湾沿いかというと、自宅から近いし、週末にオートバイで走るお決まりコースでもあるからです。



二輪免許は52歳で取得し早9年になりますが、オートバイに乗る前はいつも不安でいっぱいになります。



ただし、いったん走り出すと、爽快感に包まれて恐怖感は薄れます。



けれど恐怖がすべて消え去るわけではなく、お決まりコースの景色や路面の状態、信号もカーブも標識もすべてを記憶し、走り方に余裕があるだけで、心の片隅には、今日こそ事故に遭うかもしれないという想いを抱きつつ、オートバイのアクセルを握っています。



SSTRの時も同じです。



児島湾から千里浜海岸までの距離500キロ、毎年同じルートを選択し、高速道路のジャンクションも、サービスエリアも記憶して、突発的なハプニングを覚悟しつつラリーに臨みます。



スタートの港から、まず目指すのは、日本のエーゲ海と呼ばれる美しい瀬戸内海沿いの自動車専用道路、岡山ブルーラインの途中に併設された道の駅一本松です。



ここにはミニSLが走る鉄道公園や岡山県特産の野菜や果物の直売所がありますが、ラリーで立ち寄る時はいつも、6時過ぎか7時前なので、人の気配はありません。



今年は7時ジャスト、お天気は快晴、ややひんやりとした朝の空気が爽やかです。



スタートからまだ37キロ、残りあと463キロ、ゴールまでは途方もなく遠い気がしますが、あまりそのことは考えないようにします。



残り全部の距離を思うと、あまりの遠さにやる気がそがれるからです。



私のラリーに対する作戦は、連続50分走行したら、休憩10分です。



時速80キロで50分走れば、距離67キロ進めます、時速60キロなら距離50キロです。



つまり時速60キロ以上で50分走り、休憩10分という単位を、10回繰り返せば、10時間後には、自然に500キロ先のゴールにくるはずです。



「今走っている50分間に集中し、安全確実に走ろう!」と自分に言い聞かせつつ、アクセルを握ります。



10分の休憩は携行食として甘いパンやおにぎりを持参しているので、一口だけかじります。



お腹いっぱい食べると、眠くなり危険なので、空腹を紛らわす程度にとどめます。



岡山ブルーラインを終点まで走ると、山陽自動車道に上り、童謡「赤とんぼ」の作詞者三木露風の生まれた兵庫県龍野市のサービスエリア、龍野西で給油休憩です。



私がラリーに使うのは、スズキのボルティで排気量250㏄の小さなオートバイです。


ボルティは非力な私でも取り回しが楽で、とても気に入っているのですが、難点はガソリンタンク容量が少なく、満タンで12リットルしか入りません。



燃費は1リットルにつき平均27~28キロ、上手に走ると30キロ近く走ります。



単純計算すると1回の満タンで、300キロを走れますが、燃料切れの警告ランプは無いので、給油のたびに距離メーターを0にもどし、早め早めに給油して、ガス欠を防ぎます。



龍野西を出ると、姫路から播但道経由で舞鶴若狭自動車道に乗り、舞鶴を目指して、一気に北上します。



なぜ一気かというと、播但道と舞鶴若狭道は道幅が狭い上に、片側一車線が多く非常に緊張するからです。



制限速度で走る私の後ろについている普通車が、追い越し禁止にもかかわらず、ボルティの横ギリギリを、すり抜けるように追い抜いていくことが時々あります。



そんな時は、とても肝を冷やします。追い越されるときの風圧でオートバイごと押されるし、その恐怖で集中力がそがれてしまうからです。



集中力が落ちたときは、事故に遭いやすいので、車が横をすり抜けても、努めて平常心を保ちます。



午前中に舞鶴まで行けたら、ラリーは半分成功です。



今年は11時過ぎに舞鶴を通過し、少し先の福井県小浜市の加斗(かど)パーキングエリアで休憩しました。



加斗パーキングエリアは必要設備が最低限しかない狭くてコンパクトな休憩所です。



土産物屋も食堂もなく、トイレと自販機のみで、休憩にやってくる車が少なく、駐車スペースはガラガラで駐車白線が目立ち、寂しいようですが、オートバイには好都合なのです。



設備の充実した休憩所の方が、楽しく便利に思えますが、オートバイには困ることの方が多いです。



レストランや充実した土産物屋、広いドッグランまで備えたような、人気のサービスエリアは、広大な敷地を確保しなければならないので、高速道路本線からはとても遠く、長く曲がりくねったアプローチを走り抜けなければなりません。



そして長いアプローチのあと、ようやくエリア内にたどり着いたら、駐車した車と車の間から子供の飛び出しなどに気をつけながら、一番奥にある二輪スペースを探さなければならず、休憩したくて、サービスエリアに入ったのに、逆に疲れが増してしまいます。



そんな理由で、人気の少ないパーキングエリアを選びながら、50分ごとに休憩を取りつつ、北陸自動車道をひたすら北上します。



全身に風を受けながら北へ北へとひたすらに走っていると、北帰行する渡り鳥になったような気分です。



孤独だけれど、疲れるけれど、ラリーで走っている瞬間は何もかも忘れています。

スタートするまでは、61歳になった自分でも、ゴールまで走れるだろうかと不安ですが、いざラリーが始まると走ることにだけ集中し、年齢のことなんてどこかへ飛んでいきます。


この感覚は、人前で演奏している時と似ています。

試験でも、発表会でもコンサートでも、人前で演奏するときは、やり直しはありません。

何度も何度も同じ曲を練習してきたけれど、緊張でミスをするかもしれないし、最悪、途中で途切れてしまうかもしれないと、演奏を始める前は恐怖ですが、いざ始めてしまうと、曲に集中しています。



曲に集中できるかどうかは、普段のどれだけ練習し、曲を覚えているかどうかにも比例します。



今年令和6年、6度目のラリー挑戦のためにオートバイに乗る回数は以前よりは減ったけれど、それでも週末ごとに距離50~60キロ走りました。



そのかいあってか、スタートから10時間20分後、午後4時16分、私とボルティは無事にゴールの千里浜海岸に着きました。


水平線が朱色に染まり始めた日本海は、何度眺めても雄大で感無量です。


その景色を眺めながら来年もまたゴールできるように、元気でいようと思った私です。

2024年10月29日

大江利子


オペラ歌手を夢見てイタリア留学に思いを募らせていた20代の頃、私の愛読書は『スカラ座の名歌手たち』でした。



スカラ座とは、イタリアのミラノ市中心街にあるオペラハウスのことです。



その歴史は古く1598年まで遡り、オペラが誕生した頃とほぼ同じです。



スカラ(scala)とは、イタリア語で階段という意味です。



しかし、オペラハウスの名前が「階段」に直接的に由来するものではありません。



1776年、前身だったオペラハウスが焼失し、取り壊されたサンタ・マリア・アッラ・スカラ教会跡地に新しいオペラハウスが建設されたので、元の教会に因んで、スカラ座と呼ばれるようになりました。



2年間かけて建設された新しいミラノのオペラハウス「スカラ座」は、以後、オペラの国イタリアの中心的な存在としてその名を歴史に刻み、著名なオペラ作品の初演が成されてきました。



日本人に馴染み深い「蝶々夫人」もスカラ座で初演されました。



オペラ歌手にとって、スカラ座で歌うことは、どんなに有名な歌手でも、別格だとされています。



なぜなら、スカラ座の聴衆の大部分を占めるミラノ市民はオペラに精通し厳しい批評家だからです。



例えば、私が初めてミラノを訪れたとき、乗車したタクシーの運転手に、オペラを勉強するために日本から来たのだと告げると、その運転手は、


「Mi piace L’Opera  Il Barbiere di Siviglia (私が好きなオペラは「セビリアの理髪師」だ)


と言い、セビリアの理髪師の中で最も有名な、フィガロのアリアの出だしを、とても良い声で歌ってくれて、驚かされたことを思い出します。



座席が深紅のベルベットで覆われた格調高いスカラ座の客席は、平土間、ボックス席、天助桟敷の三部構成になっています。



平土間は世界のオペラ通である大金持ちの社交場であり、ボックス席は、先祖代々オペラを愛する裕福な家柄のミラノ市民に買い占められ、天井桟敷は、これまた熱狂的なオペラファンであるミラノの下町っ子たちが集まります。



そして舞台で歌っているオペラ歌手たちの声が少しでも、かすれたり、引っかかったりしようものなら、どんなに有名な歌手でもスカラ座の聴衆は容赦しません。



野次や口笛の大ブーイングを飛ばして歌を遮ります。


反対に、聴衆を圧倒するような素晴らしい歌声ならば、拍手が鳴りやまないといった具合です。



つまり、スカラ座の聴衆たちを満足させられたなら、世界的なオペラ歌手としてのパスポートを手に入れたようなものなのです。



私の愛読書『スカラ座の名歌手たち』は、そんなスカラ座の聴衆の洗礼をかいくぐり、世界的なオペラ歌手としてお墨付きを与えられた30人の歌手たちが、下積み時代にどんな研鑽を積んできたかのインタビューをまとめたものです。



30人の国籍は様々で、イタリア人とは限りません。



スペイン、ブルガリア、ハンガリー、フランスと国際色豊かで、スカラ座の聴衆たちが排他的ではないことが伺えます。



残念ながら、この30人の中に日本人はいませんでしたが、私もいつかスカラ座で歌える歌手になりたいものだと、途方もない夢を描きながら、本のページをくったものです。



面白いもので、30人の中で、幼い頃からオペラ歌手を目指していた人は意外と少なく、良い声をしていたけれど、声を職業に選ぼうとは思わなかったという人がほとんどです。



黄金のトランペットと異名をとった往年の大テノール歌手マリオ・デル・モナコは「絵を描くのが好きで、画家になりたかった」とインタビューに答え、映画スターのような甘いマスクのプラシド・ドミンゴは、「闘牛とサッカーに夢中でした」と語っています。



またこの本の出版は1985年ですが、本に登場する歌手たちの当時の年齢は30代から60代で、第二次世界大戦を経験した人も多く、イタリア各地の歌劇場へ列車移動している最中に空爆を受けた体験や実際に兵士として戦地に赴いた人や、捕虜として捕まり、ドイツの強制収容所で過ごした経験の持ち主もいます。



様々な人生経験を積み、人として大きく成長した歌手が、スカラ座の聴衆の心を捉えることができたのかしらとも思います。



そして、改めて今、30年ぶりに、この本を開き、読んでみましたが、30年前は気がつかなかった発見がありました。



それはテノール歌手ルチアーノ・パヴァロッティの言葉です。



「あなたの成功の秘密は何ですか?」との問いかけに、パヴァロッティは「舞台に出ていない時は、自分のレコードを聞いて自ら批評をし、自分の声を聞いて欠点を探し出している」と答えているのですが、30年前の私は、それが歌手としてどんなに大切なことかまったく気に留めていませんでした。



パヴァロッティは「神に祝福された声」「イタリアの国宝」と評された20世紀を代表する歌手ですが、彼を最初に有名にしたのは、ドニゼッティ作曲のオペラ「連隊の娘」の中のテノールが歌う難曲(8回も二点ハ音が登場するソロ「僕にとっては何という幸運」(Amici miei che allegro giorno))を、らくらくと歌ったことです。



パヴァロッティ以前の歌手たちは、8回連続二点ハ音が登場するこの曲を普通の発声では歌うことが困難なので、オペラの発声では逃げの声とされる裏声で歌うことが当たり前でした。



しかし、パヴァロッティはその当たり前をぶち壊し、逃げの裏声ではなく、ノーマルの発声で堂々と歌ってのけたのです。



この成功によりパヴァロッティは「キング・オブ・ハイC(二点ハ音の王者)」と称され世界的な名声を手に入れましたが、それだけでは満足せず、オペラハウスから飛び出して、オペラ歌手としては異例の野外コンサートを開催し、多くの聴衆を集め、オペラを広く一般大衆に浸透させました。



1991年7月30日ロンドンのハイド・パークで開催した最初のコンサートでは、公園の歴史上初のクラシック演奏会となり、15万人の聴衆を動員、1993年6月にはニューヨークのセントラル・パークは50万人、9月のパリのエッフェル塔の下のコンサートは約30万人、その他、パヴァロッティと同時期に活躍していた人気のテノール歌手ドミンゴとカレーラスと組んで、三大テノールの野外コンサートを世界各国で開きオペラファンを一層広げていきました。




オペラ歌手にとって、野外コンサートを開くことは、大冒険です。



なぜなら、野外コンサートの聴衆は、スカラ座の聴衆のようにオペラに精通しているとは限らないからです。



恐らく、まったくオペラを知らない聴衆の方が多いかもしれません。



オペラをまったく知らない人にも感動を与えるためには、客観的な視座で、自分を批評し、自分で欠点を解決していくことが大切ですが、パヴァロッティは、その重要性をすでに本の中で語っていたのでした。



最近、YouTubeで自分の歌声を流すようになり、パヴァロッティの言葉の重みがようやく実感できた私です。


パヴァロッティは71歳で亡くなりました。


今61歳の私にはどれくらい時間が残されているのかわかりませんが、生きている限り勉強を続けて、微力ながらオペラを知らない人たちにオペラの良さを広めていきたいです。



2024年9月29日

大江利子


「この歳(87歳)になって、やっと子供らしい絵が描けるようになった」という言葉を残したのは、スペインの画家パブロ・ピカソです。



ピカソは1881年(明治14年)、スペインのアンダルシアに生を受け、1973年(昭和48年)、91歳の時、南仏で亡くなりました。



私が初めてピカソを知ったのは小学生の頃、テレビニュースで映し出された本人です。



ベレー帽を被った老ピカソが、早口の外国語でインタビューに答えていました。



ピカソが何と言っていたのか、その内容はまったく覚えていませんが、彼の鋭い眼光が印象的で、彼の大きな2つの眼が、焼け付くような残像として私の脳裏に刻まれています。



一度見たら、忘れられない目、それがピカソに対する私の初めての印象です。



見るものを射抜くようなピカソの瞳は、常人には見えないものを見抜き、それを表現しているのでしょうか?



次に私がピカソを知ったのは中学の美術の時間です。



中学校の美術は、2時間続きで時間割が組まれ、普段はデッサンをしたり、粘土をこねたり、版画を彫ったりして、作品制作をします。



ただし定期考査が近づくと、先生は、ペーパー試験のために、教科書に掲載された絵画や建築を解説し、西洋と日本の美術を比較しながら駆け足で美術史の概要を説明してくれました。



美術史の始まりは、ギリシャのパルテノン神殿(紀元前447~438)、ローマのコロッセウム、や奈良の法隆寺(607)、興福寺の阿修羅像(733)など、鎮護国家のため、長い歳月に耐え抜くように設計された建造物や彫刻です。



次の時代の中世は、宗教のためのアートです。



フラ・アンジェリコの「受胎告知」(1440年頃)、龍安寺の石庭(1480年頃)のような思想の世界を表現する静謐なアートです。



静かなアートの次は、それを打ち破るようなルネサンスがやってきます。


人間の肉体を超写実的に表現するために遠近法が確立され、ミケランジェロの「ダビデ像」(1501~1504)、レオナルドダヴィンチの「モナリザ」(1503~1506)などの名作が生まれます。



一方日本では千利休(1522~1591)が完成させた「わび茶=草庵の茶」に呼応し、雪舟「秋冬山水画」(15世紀末~16世紀初め)長谷川等伯「松林図屛風」(1593~1596)のような日本独特なわびさび世界観が確立し、それに沿ったアートが生まれます。



さらに時代は下り、バロック・ロココになると、時の権力者、王侯貴族を際立たせるアートです。



可愛らしいお姫様に目が釘付けとなってしまうベラスケスの「女官たち」(1656)、やルイ15世の愛妾を描いたブーシェの「ポンパドール夫人」は、その典型的な例です。



対して日本は、徳川幕府の鎖国政策で町人文化が誕生、明治維新で開国となるまで約300年かけて隆盛し、伊藤若冲・牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)(1765以前)葛飾北斎・富嶽三十六景(1831)等、傑作が次々と生まれます。



日本が鎖国をしている間に西洋ではフランスの市民革命を皮切りにヨーロッパ諸国の絶対王政が崩れ始め、アートも貴族趣味に取って代わり、ロマン主義が生まれます。



ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」(1830)は、現代の写真誌「フォーカス」のように、ジャーナリズム的な要素をもつ絵です。



1839年銀板写真が発明されてからは、印象派モネの「日の出」(1872)、バルビゾン派ミレーの「落穂拾い」(1857)に代表されるように、ルネサンス以降、人物を写実的に描くことが絶対だった西洋絵画に新しい潮流が誕生します。



そして二度目の世界大戦の最中、1937年、ピカソがゲルニカを完成させます。



彼の名声を不動のものとした「ゲルニカ」は、ドイツ空軍による無差別爆撃を受けて廃墟と化したスペインの街ゲルニカを主題にした反戦を訴える壁画と絵画です。



一般的に戦争画は傷ついた兵士や惨たらしい戦場などがリアルに描かれるものですが、ピカソのゲルニカにはそれがなく、極端にデフォルメされた牝牛や女性が切り絵のように、でたらめに並べられ色調は暗く、中学生だった私の第一印象は「なんじゃ?こりゃ?」でした。



ただし、ゲルニカは、今まで美術史で習った絵画や建築とはまったく異なり、何にも似てないので、一目見るなり、ゲルニカという題名も絵の印象も忘れられなくなりました。



小学生の頃、ピカソをテレビで見た時、彼の目の鋭さゆえに、強烈な残像が脳裏に残ったように、ゲルニカもまた同じだったのです。



しかし、ゲルニカの何がそんなに素晴らしいのか、ピカソのどこが天才なのか、中学生の私にはまったく理解できませんでしたが、とにかくゲルニカは忘れたくても、忘れられない作品です。



世間が言うように、「ピカソが天才だ!」と私が実感できたのは、30歳を過ぎた頃、夢中になってバレエのお稽古に通っていたある夏、夫が私の勉強用にと、買ってきてくれたレーザーディスクで「三角帽子」というバレエ作品を見たときです。



バレエ「三角帽子」は、ロシアの興行師ディアギレフが結成したバレエ団「バレエ・リュス」のために、1919年に創作された作品で、一般的に知られている「白鳥の湖」とは、まったく異なります。


バレリーナはトウシューズをはかず、普通のダンスシューズで踊り、髪型もお団子ではなく、1本の三つ編みにして背中に垂らし、衣装はひざ下まであるフレアースカートです。



音楽はスペインの作曲家ファリャで、フラメンコのような情熱的で民謡調のカッコイイ旋律に乗ってダンサーたちは踊ります。



あらすじは、好色な代官が、美人の粉屋の女将さんに目をつけて、亭主を無実の罪で追い出した隙に迫ろうとしますが、逆に袋叩きに合ってしまうという、落語のような愉快なストーリーです。



この愉快でカッコイイバレエ「三角帽子」を上演するにあたり、ディアギレフは衣装のデザインを新進気鋭だった画家ピカソに依頼しました。



夫が買ってくれたレーザーディスクの「三角帽子」はまさに、そのピカソがデザインした衣装で上演されたものでした。



粉屋の女将は真っ白なスカートに腰に黒いレースのショールを巻き付けて、亭主は闘牛士のようなボレロにゆったりとした黒のズボン、街の人々の衣装は、緑や赤や黄の太いストライプや水玉模様が入った楽しいドレスで、一目見るなり忘れられない素敵なデザインです。



「わあ!なんて素敵な衣装でしょう!」感嘆の声を私があげると、隣でいっしょにレーザーディスクを見ていた夫が言いました。



「衣装と装置はピカソなんだよ」



夫の言葉を聞いて、初めて私はピカソが天才だと実感しました。



絵でも衣装でも一目見るなり、忘れられなくなる強烈な印象を残せる作品をつくることができる人、それがピカソであり、天才なのだと、今年の暑い夏を過ごしながら、ふと夫との懐かしい思い出がよみがえりました。



2024年8月29日

大江利子

猛暑日が続く炎天下、太陽に向かって元気いっぱいに花を咲かせているひまわりを見ると、私が真っ先に思い浮かべるのはゴッホが描いたひまわりです。


37歳の時、画題として好きだった麦畑の中でピストル自殺してしまったゴッホですが、亡くなる2年前、35歳の真夏から真冬にかけての半年間に、合計7点のひまわりの絵を描いています。


現像するのは6点、いずれも花瓶に挿した、切り花のひまわりですが、作品によってその花の数や色調が違い、保管されている場所もすべて異なります。


最初のひまわりは1888年8月に描かれました。



ひまわりは3本、花瓶の色と背景がエメラルドグリーンで、こげ茶のテーブルの上に置かれています。


この絵はアメリカの個人が所有しています。



2作目も1888年8月、ひまわりは5本、この作品が失われた1点です。


1920年、日本の実業家が購入し、何度か展覧会が開催された後、実業家の家に飾られていましたが、第二次世界大戦の阪神大空襲で焼失してしまいました。



1作目と同じように3本のひまわりが花瓶に挿され、残りの2本はその周りに置かれており、背景が濃いブルーです。



3作目も1888年8月、花の数は12本、背景は淡いペパーミントグリーンで、花瓶もテーブルもひまわりの花の色と同じ明るい黄色です。


ドイツ・ミュンヘンの美術館が所蔵しています。



4作目も1888年8月、ひまわりは15本、茎と種以外はすべて黄色です。


花びらも背景も花瓶もテーブルも色の濃さの違う黄色で描き分けています。


イギリス・ロンドンの国立美術館所蔵です。


5作目は1888年12月から翌年1889年1月にかけて制作されました。


花の数も色の使い方もロンドンの美術館所蔵品と同じですが、全体的に黄色の色味が鮮やかで赤みを帯びています。



この5作目は、1987年、世界的に権威あるイギリスのオークション・クリスティーズにて、安田海上火災(損保ジャパン)が53億円で落札し、海を渡って日本へやってきて、以来、東郷青児美術館(現SONPO美術館) 所蔵となり、常設展示されています。



6作目は1889年1月に制作、ひまわりは15本です。



これはSONPO所蔵品の模写と考えられています。



5作目とほぼ同じですが、一層黄色の色味が強いです。



オランダのゴッホ美術館が所蔵していますが、損傷を防ぐため、門外不出とされています。



最後の7作目も1889年1月制作で、花の数は12本、アメリカのフィラデルフィア美術館が所蔵しています。


このひまわりも、6作目同様に模写と考えられており、お手本は3作目のミュンヘン所蔵品ですが、それよりも、筆致が大胆で花が一層生き生きとしています。



以上7点もひまわりを描くなんて、よほどゴッホは、この花に魅せられたのでしょう。



ゴッホがひまわりを描いたアトリエは南仏のアルルです。



真夏でも最高気温が25℃前後、最低気温は17~18℃という北国オランダ生まれのゴッホにとって、アルルの明るい太陽は、パラダイスだったことでしょう。



そしてこのパラダイスのようなアルルのアトリエに、ゴッホは尊敬していたゴーギャンを招待し、二人は共同生活をしながら、それぞれ制作に没頭します。


ゴッホはアルルで芸術家村のような構想を抱いていたのでした。


しかし、芸術家として、どちらも非凡な才能をもつふたりが、何事においても意見が合うことなどなく、特に絵については意見が衝突してばかりで、発作的にゴッホはカミソリで自分の耳を切り落とし、結果としてゴーギャンはパリに戻り、ふたりの共同生活は2ヶ月で終わりを告げました。



ゴッホの7点のひまわりはちょうどゴーギャンとの共同生活の前後に描かれた作品です。



ゴーギャンとの人間関係が破綻し、異常行動を起こした人とは思えないほど、「オーヴェルの教会」、「医師ガシェの肖像」、「糸杉」など、ゴッホは亡くなる直前まで明るく力強いタッチで傑作を描きました。



けれども、その明るい絵とは裏腹に、ゴッホの私生活は寂しく孤独でした。



過去に何度か好きになった女性もいて、プロポーズまでしていますが、すべて拒絶され、結婚の経験はありません。



たとえ妻はいなくとも、心許せる友人でもいたらゴッホは37歳で自殺しなかったかもしれないと思います。


なぜ、そう思うかというと、私も37歳で似たような経験があるからです。



人生に大きな目標がある人は、若い時代は友人や恋人よりも、今、自分がやりたいことに夢中なものです。



けれど、何かの事情でそれが挫折し、年齢も30代後半になると、すべての道が塞がれたような気分になり、ゴッホのように生きる気力さえも失う人もいるでしょう。



私も30歳の時、念願かなってイタリアへ留学したものの、父の会社倒産のために、たった一年で帰国せざるを得なくなり、道半ばで日本に戻りました。


けれど日本にいてもオペラ歌手としての登竜門である国際コンクールを受けることだけは、諦めてはいませんでした。



けれどその年齢制限は、遅いものでも35歳です。



毎日お稽古はしていたものの、会社倒産後に病気になった父への仕送りや、日々の生活に追われてあっという間に時は流れました。



37歳の夏7月に、父が亡くなり、もう仕送りしなくても良くなり、金銭的には楽になりましたが、国際コンクールの年齢制限も超えていました。



オペラ歌手としてのプロの道は永久に閉ざされたように思えましたが、ある友人との出会いによって私は救われました。



彼女は母であり妻であり、ピアノの先生でもあるけれど、自分自身の演奏を極めようと毎日お稽古をしている人でした。



師匠について定期的に習っているわけでもなく、コンサートの予定があるわけでもないけれど、人前でいつでも演奏できるよう心掛けてお稽古を重ねていました。



そんな彼女と友人となった私は、家族も生活も何もかも犠牲にしてまで、オペラハウスや大きなホールの舞台で歌うことだけに固執していたことが、無意味に思えたのです。



私の歌を喜んで聞いてくれる人がいるなら、いつでもすぐ歌えるように、お稽古できていることが一番大切だと思うようになり、毎日のお稽古に再び意味が見出せたのです。



さあ今日もいつ現れるかわからない私の歌を喜んでくれる人と私自身のために、大切にお稽古をしましょう。


2024年7月29日

大江利子


愛それは甘く 愛それは強く 愛それは尊く 愛それは気高く 愛、愛、愛

あぁ愛あればこそ 生きる喜び ああ愛あればこそ 世界は一つ 愛ゆえに人は美し


この少しセンチメンタルな歌詞は宝塚歌劇団が1974年8月29日に初演した「ベルサイユのばら」の劇中に歌われる「愛あればこそ」という歌詞の1番です。


「ベルサイユのばら」は今年50周年を迎える宝塚の人気演目ですが、もともとは漫画家 池田理代子が1972年から1973年にかけて集英社の雑誌『週刊マーガレット』に連載した同名の少女漫画が原作です。


原作の「ベルサイユのばら」はフランス王妃マリーアントワネットが誕生した1755年からその恋人のフェルゼン伯爵が亡くなる1810年までの史実を舞台に実在と架空の人物を巧みに織り交ぜながら、登場人物の人間模様を描いた壮大な歴史ロマンです。


その歴史ロマンには、たくさんの魅力的な人物が登場しますが、何と言っても、一番は男装の麗人オスカルです。


オスカルはフランス国王の忠実な臣下ジャルジェ将軍の末娘、6番目の令嬢として誕生しますが、男の子として育てられます。


オスカルより上の5人はすべて女の子だったので、跡継ぎが欲しいジャルジェ将軍は幼い頃からオスカルに銃や剣を教えて、軍人としての英才教育を施し、父の期待通りオスカルは、近衛隊長になります。


オスカルの近衛の仕事はオーストリアからフランス王太子妃として嫁いできたマリーアントワネットの護衛です。


マリーアントワネットはダンスが得意な愛くるしい少女で、明るく活発な性格でしたが、彼女の夫のフランス王太子は見栄えのパッとしない地味な性格です。


夫として王太子を尊敬していたけれど、男としての物足りなさを感じていたマリーアントワネットはスウェーデン貴族フェルゼンと恋仲になってしまいます。


賢く男らしいフェルゼンは、王太子妃の恋人になっても、地位やお金を欲しがるような俗物ではなく、純粋に彼女の人柄を愛し、控え目な態度で彼女を支えました。


そんなフェルゼンに、オスカルは恋をします。それはオスカルの初恋でした。いくら男として育てられても、オスカルは女性としての心を失っていなかったのです。


しかし、そんなオスカルを見て、傷ついている人物がいました。それはオスカルと兄弟のように育てられたアンドレでした。


アンドレはオスカルの乳母の孫息子で、身分は平民でしたが、ジャルジェ将軍の意向で、ふたりはいつも行動を共にしていました。オスカルの影のような存在として、アンドレは彼女を守り、誰よりも深く彼女を愛していました。


マリーアントワネットとフェルゼンの秘密の恋、オスカルを深い愛情で包むアンドレ、アンドレの深い愛に気づかず、フェルゼンに恋し、苦悶するオスカル、フランス革命という歴史の潮流に翻弄されながら四者の愛が錯綜してゆく様子が「愛あればこそ」の歌詞に集約されています。


私がこの「愛あればこそ」に出会ったのは、1976年、中1の時です。


世間は、ベルばらブームで沸き返り、舞台で宝塚を観劇したことはない私ですが、テレビで放映される宝塚の「ベルサイユのばら」を食い入るように見ては、「愛あればこそ」を必死に覚えて、中学の友達とベルばらごっこをして遊びました。


ベルばらごっこの友達は、私を入れて4人だったので、マリーアントワネットとフェルゼン、アンドレとオスカルに自分たちで配役し、宝塚の歌やセリフを練習しました。


私はアンドレ役を練習しました。


人前での発表を目標に練習していたわけではありませんが、4人で集まって、歌ったり芝居の練習をしたりすることが、楽しくて仕方ありませんでした。


私たちのベルばらごっこのお手本は、当時の宝塚スターたちですが、現在ように八頭身で足が長い男役とは違い、ずんぐりむっくりした人が多く、華やかな衣装や、金髪の鬘がミスマッチに見えました。


しかし、その中でとびぬけて高身長で足が長くベルサイユのばらの衣装がピッタリの男役スターがいました。


その男役スターはフェルゼン役をしていた鳳蘭です。

鳳蘭は1946年生まれの中国籍をもつ人で、友人に誘われて、宝塚がどんなものなのかも知らずに受験し合格したという逸材です。


宝塚音楽学校に入る準備を何もしていなかったので、日本舞踊やピアノなど、あらゆることが初めてで、とても苦労したそうです。


「ベルサイユのばら」のフェルゼン役で注目を集めて、その名が広く知られるようになったのは、30歳の時、それから3年後には引退、女優の道に入ります。


引退直後は、彼女の活躍をテレビで見ることがありましたが、私があまりテレビに興味がなくなったせいもあり、最近では彼女のことを聞かなくなりました。


ところが、先月末に鳳蘭のことを知るチャンスがあったのです。


昨年から私は近所の公民館で大人バレエクラブを開講していますが、クラブ員も少しずつ増え、土曜日の夜は、充実した時間を過ごしています。


公民館には広い床と鏡、着替えの部屋も駐車場もあり、それらをすべて無料で使用できるので有り難いこと、この上ないのですが、ただひとつ足らないものは、バレエ専用のバーがないことです。


当初は私が持参した簡易バーで、お稽古してきましたが、やはりしっかりとしたバーの必要性を感じ、色々探していた矢先に、中古品ですが、専用のバーが手に入ったのです。


そのバーは信じられないほど安い値段でインターネットに売りにだされていたので、すぐに私は山梨県まで引き取りに行きましたが、なんと鳳蘭が開校していたスタジオのバーだったのです。


鳳蘭は舞台人を育てるため、2008年にバレエスタジオを開校、2024年3月末に閉校したのでした。


今年78歳になる鳳蘭です。閉校の理由は分かりませんが、年齢のことや後継者のこと、何か続けられない事情があり、愛着あるバレエバーをそっと手放したのでしょう。


上質でしっかりとした鳳蘭のバレエバーでお稽古できるようになって、私の大人バレエクラブの生徒さんは大喜び、私は土曜日のクラブの時間がますます楽しくなりました。


この楽しさは、中学生の時に友達と没頭したベルばらごっこを思い出させてくれます。


憧れだったベルばらの宝塚スターのバレエバーに力をもらいながら、これからも大人バレエクラブを充実させていこうと思います。

2024年6月29日

大江利子


黎明期の日本の飛行家たちを調べているうちに魅力的な飛行家に出会いました。


その人はバロン(Baron)滋野、大正時代の飛行家です。


バロン(Baron)とはフランス語で男爵という意味で、彼のフランス人の部下や仲間たちが尊敬と親しみを込めた呼び方で、第一次世界大戦、フランス陸軍航空隊に入隊し大活躍、レジオンドヌールを授与された英雄です。


本名は滋野清武、日本の陸軍中将だった父、滋野清彦男爵の跡継ぎです。



そんな滋野男爵家の大切な跡取り息子がなぜ、日本軍ではなく、フランス軍なのか、また、オペラ椿姫に飛行家のバロン滋野がどんな関わりがあるのかを、今回のクーポラだよりでお話しましょう。



バロン滋野こと滋野清武は、1882年(明治15年)に滋野男爵家の三男として生まれます。

1896年(明治29年)父の清彦が胃がんのため51歳で亡くなり、二人の兄も彼らが幼い時に亡くなっていたので、13歳のバロン滋野が男爵家の跡取りとなります。

亡くなった父の階級の陸軍中将とは、1万人の部下を統率する司令官で、陸軍中将より上の階級は、陸軍大将、明治天皇となるので、いかに高位の武官だったか理解できます。

そんな偉い軍人だった父の跡継ぎなので、バロン滋野も、否応なく、学習院中等科を退学し、陸軍幼年学校に入ります。しかし運動神経は抜群だったものの、芸術家肌で「蒲柳(ほりゅう)の質(しつ)」だった彼は、幼年学校の気風に合わず、1903年3月、20歳の時に体調を悪くして退学してしまいます。

療養のため、狩猟や釣りで遊行な日々を過ごしているとき、「赤とんぼ」や「からたちの花」の作曲家で知られる山田耕筰と知己を得ます。

当時の山田耕筰はまだ東京音楽学校(東京藝術大学の前身)の学生で、バロン滋野の妹たちの英語の家庭教師をしていたのです。

2つ年下の山田耕筰とバロン滋野はとても気が合い、山田はバロン滋野の音楽的な才能を見抜き、東京音楽学校への入学を勧めます。

23歳でバロン滋野は見事、東京音楽学校のコルネット科に入学し、芸術的に豊かな環境で友人にも恵まれた学生時代を過ごし、子爵令嬢の和香子と知り合い、惹かれ合ったふたりは、学生恋愛結婚をします。

新郎26歳、新婦19歳、ままごとのような夫婦でしたが、1年後愛娘が誕生し、バロン滋野は幸せの絶頂でした。が、幸せは長く続かず、愛妻の和香子が結核のため20歳で亡くなってしまうのです。

幸せの絶頂から不幸のどん底に突き落とされたバロン滋野は何か月も妻和香子の墓にすがって泣き続け、自殺したいと口走るまで悲嘆に暮れてしまいますが、音楽学校の友人の知人女性に、言われた言葉に発奮します。



「そんなに死にたいなら、飛行機に乗りなさい。日本人はまだ飛行機を飛ばせないからヨーロッパに行って飛行家になることが近道ね」



悲しみを振り切ったバロン滋野は飛行家を目指しフランスに渡ります。1910年(明治43年)8月、28歳のバロン滋野がフランスに入国した時、もう一人別の日本人がいました。



その人は、徳川好敏、大日本帝国陸軍の大佐です。「徳川」という名前でお気づきかと思いますが、日本に鎖国を敷いた、江戸幕府の徳川、清水徳川家の8代目当主です。



そしてこの人が、バロン滋野がフランス航空隊に入隊する要因を作るのです。



ところでなぜ陸軍大佐の徳川好敏がフランスに居たのでしょう?



それは、日本軍の代表として飛行機の操縦技術を習ってくるようにと、軍から派遣されたのです。



軍より派遣された軍人は、徳川好敏を含む2名で、もう一人は日野熊蔵陸軍大佐です。



文献で調べると、徳川と日野の選任のいきさつが、面白いので、簡単に紹介します。



日野の方は日本にいるときから、飛行機を自作していていたほどのマニアで、まさしく欧州派遣の適任者であり、飛行機を研究するために軍が組織した「軍用臨時気球研究会」のメンバーでした。



しかし、徳川は違います。飛行機に興味があったわけではなく、あったのは父が起こした不祥事で落ちぶれた徳川の家名を再興したいということだけです。欧州派遣で飛行機操縦を取得し、日本人初の空を飛んだ英雄になれば、徳川の家が再興できると思ったわけです。



もっというなら、徳川よりも適任だった奈良原海軍技士という軍用臨時気球研究会のメンバーで、のちには民間人となり国産初の飛行機を製作、自らの操縦で飛行成功した人ですが、その奈良原技士は外されて、徳川好敏が選ばれフランスに渡っていたのです。



軍の中でどんな裏事情があったかわかりませんが、徳川は家名再興のために、興味もなかった飛行機操縦技術を付け焼き刃で持ち帰り、日本人で初めて日本の空を飛んだ人として、栄誉が与えられ、できたばかりの飛行場で、軍のパイロット候補生を指導していました。



一方、バロン滋野の方は、心機一転、好きで飛行家を目指して渡仏した人ですし、20歳過ぎてから音楽の勉強を始めて、音楽学校に入学し、プロになれたほどの芸術感覚に秀でた人です。



フランスに到着したら、飛行機の前に、まずエンジンを勉強しなければと、自動車学校に入学、運転免許取得、次に飛行学校に入学しますが、自習が必須だとして、飛行学校内に、自分専用のレッスン室、すなわち格納庫を建てて、その中に練習用の飛行機を購入、それをバラバラにしたり、組み立たりしながら構造も勉強、ついには自分で自作機を設計し、その三面図をフランス人の専門家に見せると、大絶賛、博覧会に出品を推薦され、プロ契約を結び、実際に製作、その機体で飛行機の操縦免許取得試験を受け、見事合格しました。



バロン滋野の自作機は、愛妻の名前を冠した「滋野式和香鳥号」です。和香鳥号は日本に持ち帰り、日本の空を優雅に堂々と飛行し、軍のお買い上げとなり、バロン滋野は、操縦教官として、徳川好敏といっしょにパイロット候補生たちに飛行機の指導をしていました。けれど誰の目にも、その指導技術の差は明らかです。



天才的な芸術的感覚の持ち主で、また徹底した自習で操縦技術を習得したバロン滋野と家名再興目的で、付け焼き刃で帰国した徳川好敏とでは、比べようもありません。



が、そこはさすが徳川、裏工作には優れたもので、陰湿な嫌がらせでバロン滋野を孤立させて追い出し、軍のお買い上げになった和香鳥号も勝手に分解して壊してしまいます。



馬鹿馬鹿しくなったバロン滋野は再びフランスに渡り、ちょうど第一次世界大戦が始まったのでフランス航空隊に入隊、エースパイロットたちを統率する隊長として大活躍するのです。



バロン滋野は、オペラ椿姫がとても好きで、椿姫の歌詞をすべて暗唱していたそうです。



バロン滋野の飛行の優れた点は、非常に冷静な判断と的確な操縦技術で、同乗のフランス人は、いつも感心していたそうです。



今とは違い、デジタル音源で、気軽に音楽を聞けない時代です。



好きな椿姫の歌詞を頭の中で暗唱しながら、バロン滋野は、戦闘飛行していたのでしょうか?



どんな悲しみにも、周囲の嫌がらせにも、臆することなく冷静に行動し、オペラ椿姫を友として、自分で道を切り開いていったバロン滋野は本当に素敵です。



2024年5月29日

大江利子


私が初めて二輪を運転したのは音大生の時です。


先輩の男子学生が乗っていたおしゃれなスクーターに興味を惹かれて、試し乗りさせてもらったのです。


スクーターの運転操作は単純です。


ハンドルの右側がアクセルで、アクセルレバーを真上から握って、手前から外へ向かって手首を回すだけで加速します。



ブレーキは、自転車と同じです。ハンドルの右側に前輪ブレーキ、左に後輪ブレーキレバーが付いています。



スクーターは大きなオートバイのように車体を両足ではさむ必要がないので、椅子に座るように、両足をそろえて乗ります。



先輩のスクーターはヤマハから新発売された「Jog(ジョグ)」という可愛い車体で、ジョグのシートにスカート姿で座った私は、右手でアクセルレバーを不用意に大きく回しました。



するとジョグは急加速して走り出し、驚いた私はバランスを崩して、ブレーキをかけることもできず、50メートルくらい下り坂を暴走したあと転倒してしまいました。



幸いにも、手を少し擦りむいたくらいで大きな怪我はありませんでしたが、エンジンの反応の速さが衝撃的で、トラウマとなり、ジョグでの転倒以来オートバイ恐怖症となった私はオートバイ好きの夫と結婚しても、自ら二輪免許を取得しようとは、夢にも思わなかったのです。



しかし、夫が突然、この世を去ったことで彼の愛車が遺されました。


オートバイは数か月も放置すると動かなくなってしまいます。



ジョグの転倒で負ったトラウマは消えていませんでしたが、そんな甘えは言っていられません。



夫が大切にしていたオートバイを他人にゆだねることに耐え難い私は恐怖を押し殺し、二輪免許を取得することにしたのです。



9年前、今のようにパソコンを使いこなしてインターネット検索する能力がなかった私は、古典的な方法、つまり職業別電話帳でしらみつぶしに近隣の自動車学校に二輪教習をしてくれるかどうかを尋ねました。



するとほとんどの自動車学校は4輪中心で、2輪教習の枠はあるけれど、指導者不足で、何か月も順番待ちしなくてはならないとのこと、やっとの思いで見つけたのは、新岡山港に近い『ももたろう自動車学校』で、珍しいことにその学校は二輪専門でした。



夫が遺したオートバイは3台もあり、カワサキGPZ250R、KLX650、ビモータYB8です。



この3台に乗るために、どんな二輪免許が必要なのかもわからないので、学校に問い合わせると「まず中型二輪免許が必要ですね。」という答えが返ってきました。



中型二輪とは、エンジン125㏄以上400㏄以下です。



オートバイ恐怖症のきっかけになったジョグは50㏄なので、いきなり倍以上もパワーのある二輪免許に挑戦するのかと、身がすくむ思いでしたが、教習初日がやってきました。



2016年1月11日(月)、夕方6時、寒風吹き荒れる日没後、最初の課題は倒れたオートバイの引き起こしです。



中型二輪教習用の車体はホンダCB400(エンジン400㏄)です。



CB400の車体重量は約190㎏、どんなに私が頑張っても、車体を持ち上げるどころか、びくともせず、初日早々失格かなと、落ち込んでいると、「そのうち起こせるようになりますよ、心配しなくてもいいですよ。」と担当教官が優しく励まして下さり、合格のハンコをくれました。



教習2回目は、2016年1月22日、この日の課題は、オートバイの発進と停車です。



スクーターと違って中型二輪はクラッチがあるので、発進には半クラッチ操作という難所をこえなければなりません。



二輪のクラッチは左ハンドルに付いています。右手でアクセルレバーを回しながら、左手のクラッチレバーをちょうど良いタイミングで離すと、オートバイが発進するわけです。

スクーターのようにアクセルを回すだけでは発進しないので、心の準備をする余裕はありますが、クラッチをつないだあと低速過ぎるとエンストし、バランスを崩し「立ちごけ」してしまいます。



半クラッチができても、トラウマが邪魔してアクセルを開けられず(二輪はある程度スピードが出ないとバランスがとりにくい)低速過ぎてフラフラするので、教官がオートバイの荷台を持って支えながら一緒に走ってくれました。



ももたろう自動車学校では、男性の場合、中型二輪免許取得まで速い人なら2週間、遅くても1ヶ月です。怖がりの私は、3か月もかかってしまいましたが、教官たちのおかげで、2016年3月28日に無事卒業検定に合格しました。



あとから知ったことですが、教官は、臆病過ぎる私を不安にさせないよう、通常ならばグループで行う教習を、一対一になるよう配慮してくれていたそうです。



ももたろう自動車学校の教官は、私の半分くらいの年若の優しい青年で、どんなに失敗しても教官から怒られることはなかったのですが、一度だけ、とても厳しい言葉で怒られました。



それは、卒業検定が近くなったとき、私が課題コースの順番を完璧に覚えていなかったからです。



ももたろう自動車学校の卒業検定は、普段教習で走行しているコースで実施されますが、検定用に特別ややこしく組まれた順番のAとBの2種類のコースがあり、検定本番まで、どちらが指定されるかはわからないのです。



それを曖昧にしか覚えていなかった私は、模擬検定の時に、コースがわからなくて立ち往生し、優しい教官を怒らせてしまいました。



「オートバイの運転技術がいくら上手になっても、コースをきちんと覚えられないと公道で安全に走れませんよ!」

いつになく厳しい表情の教官にビックリし、喝が入った私は暗記用のコース表を自作し、必死に順番を暗記したおかげで卒業検定は1回で合格しました。



その時は、なぜコースを覚えることがそんなに重要なのか、よく理解できていませんでしたが、あちこちオートバイで出かけるようになって、教官が怒った意味がわかりました。



オートバイは二輪という特性上、バランスをとることに大きく神経を使いながら、また常に風受けつつ運転しているので、自分で思った以上に体力を奪われています。目的地までの道順が不安なままの運転は、走行中、突発的に何か起きたときの危険回避能力が鈍ります。



二輪で公道を安全に走行するには、技術の習熟よりも目的地まで自信をもって走れるよう道順を記憶しておくことが不可欠です。



ところで、バレエでも振り付けの順番を記憶することがとても大切です。



美しくバレエを踊るために、柔軟性を高める、身体をシェイプアップする、筋力をつけるなど、いろいろ努力目標はありますが、振り付けを覚えないことには、バレエを踊れません。音楽ならソリスト以外は楽譜を見ながらの演奏は許されていますが、バレエはソロであろうがコールド(群舞)であろうが、振り付けの順番を暗記していることが絶対です。



早いもので、オートバイに乗り始めて9年目となりました。



怖がりの私が50歳を過ぎてから二輪免許を取得し、九州や東北までオートバイの独り旅ができるまでになったことは、ももたろう自動車学校の優しくて厳しい教官のおかげもありますが、32歳から始めたバレエで、振り付けを覚えようと必死にお稽古を積み重ねてきたおかげもあるのかなと思います。

2024年4月29日

大江利子


Bésame mucho

※Bésame, bésame mucho,

ベサメ・ベサメ・ムーチョ

Como si fuera esta noche la última vez.

コモ・シ・フエラ・エスタ・ノチエ・ラ・ウルティマ・ベス

Bésame, bésame mucho,

ベサメ・ベサメ・ムーチョ

Que tengo miedo perderte, perderte después.※

ケ・テンゴ・ミエド・ペルデルテ・ペルデルテ・デスプェス

Quiero tenerte muy cerca,

キェロ・テネルテ・ムイ・セルカ

Mirarme en tus ojos, verte junto a mí.

ミラルメ・エン・トゥス・オホス・ベルテ・フント・ア・ミ

Piensa que tal vez mañana

ピエンサ・ケ・タル・ベズ・マンヤナ

Yo ya estaré lejos, muy lejos de tí.

ヨ・ヤ・エスタレ・ムイ・レホス・ムイ・レホス・デ・ティ

※~※繰り返し


『ベサメ・ムーチョ』とはスペイン語で「私にたくさんキスして」という意味です。


次に『ベサメ・ムーチョ』の詞の日本語の意味も見てみましょう。


私にキスして たくさんキスして これが最後の夜のように

私にキスして たくさんキスして あなたを失うのが怖い

あなたのすぐそばで 瞳に映る私を見たい そばにいてほしい

多分明日には 私は遠くに行ってしまう ここから遠くに


なんとも情熱的な内容のこの詞を作った人は、スペインの女性作曲家・ピアニストのコンスエロ・ベラスケス(1916~2005)です。


1932年、ベラスケスはキスも知らない16歳の時、戦争によって引き裂かれる運命となった夫婦の悲嘆と悲哀に触発されて『ベサメ・ムーチョ』の詞をつくり音楽をつけました。


1941年に初演されると、この『ベサメ・ムーチョ』はいろいろな歌手たち(エルビス・プレスリー、ビートルズ等)に演奏されるようになり、それぞれに味のある歌い方で、世界中の人々に広がっていきました。



日本ではタンゴ歌手の藤沢嵐子(ふじさわらんこ)が1959年に『第10回NHK紅白歌合戦』で歌い、オペラ界では三大テノールで有名なスペイン出身のプラシド・ドミンゴが歌って第26回グラミー賞で最優秀ポップ・パフォーマンス賞にノミネートされました。



映画のサウンドトラックとしても登場し、初演から70年以上経過してもなお、色褪せないスペインを代表する音楽として『ベサメ・ムーチョ』は知られています。



私も小学生の頃に『ベサメ・ムーチョ』に出会いました。


ただし、演奏者の音からではなく、父が持っていた楽譜からです。

高校時代は軽音楽部に所属し、ハワイアンやラテン音楽などが好きだった父は、ギターの腕前は人に教えるほどだったらしく(私が4,5歳くらいまではお弟子さんがいた)、団地住まいの我が家には、父のギターとギターの楽譜がたくさんありました。



両親共働き、鍵っ子の私は、ポツンと独りで留守番をすることが多く、私の遊び相手は父のギターと楽譜でした。



『禁じられた遊び』のように知っている曲もあれば、知らない曲もありましたが、特にこだわりはなく、見た目に簡単そうな譜面を選んでは、ギターをポロン、ポロンとかき鳴らして遊んでいました。



父の楽譜の中に『ベサメ・ムーチョ』もあり、メロディーは簡単だったので、旋律だけなら私でも弾けました。



父はレコードも何枚か持っていて、夕食後、機嫌が良い時は、コレクションの中からお気に入りのラテン音楽をかけて、その中に『ベサメ・ムーチョ』も含まれていました。

父のレコードの『ベサメ・ムーチョ』はメキシコ出身のギター弾き語りグループ、男性トリオの『ロス・パンチョス』の演奏です。



ロス・パンチョスの歌声は、オペラのテノール歌手のように高音が美しく、大袈裟な感情表現もなく、じっと静かに聞き惚れるよりは、身体でリズムをとりたくなるような爽やかな印象です。



実際、『ベサメ・ムーチョ』はボレロのリズムに合わせて作曲されているので、ラテンダンスにピッタリです。



独身時代、ダンスホール通いでステップを磨いていた父は、レコードをかけると、母(養母)に、「おい、ちょっと踊ろう」と誘って、二人で踊り始めたものです。



団地住まいの我が家は狭くて、父たちが踊っていたダイニングは6畳しかありませんでしたが、食器棚やテレビをよけながら、踊っている二人の姿は微笑ましくて、それを見ている私はとても幸せでした。



大人になったら、結婚したら、こんなカップルになりたいなと、踊る父たちを羨望の眼差しで見ながら、その時の私は思ったものです。



来月、2024年4月から、また私は、現在開講している公民館とは別の公民館で大人バレエの講座を新設することにしました。



これで、週末の土曜日の夜は、ほぼ埋まってしまいますが、案外と私のレッスンを喜んでくださる方がいるので、増やすことにしたのです。



私の希望は、父のように、踊りたいなと思ったら、狭い空間でも臆することなく楽しく踊れる人が増えることです。



来月からの公民館の大人バレエのためのスペースは、鏡もないし、バーもありません。



けれども、公民館の館員さんたちはとても親切で大人バレエというものに好意的です。



私は用意してくださった空間で、できることを見つけて、受講生の皆様が楽しめることを精いっぱいやろうと思います。



狭いダイニングでも、楽しく踊っていたあの時の父のように。


2024年3月29日

大江利子



留学を目指して、一生懸命イタリア語を勉強していたころ、思うようにイタリア語が口から出でなくて、歯がゆい思いをしました。


私に本格的なイタリア語を勉強できる好機が訪れたのは1990年、27歳の時です。


岡山市に在住していたマリア・ローザさんというイタリア人女性を、知人を通じて紹介してもらい、彼女の家で個人レッスンを約3年間受けました。


独身時代のマリアさんは小学校の先生で、イタリアに留学していた天野恵さんという男性と大恋愛の末に結婚し、日本にやってきたのでした。


天野さんは京都の人でしたが、一時期、山陽女子短大で助教授をしていたので、その時だけ岡山市内に住んでいました。


マリアさんとの間には10歳になる愛らしい双子のお嬢さんがいました。


マリアさんファミリーの中で、母国語が日本語なのは天野先生だけですが、先生の専門はイタリア中世絵画の研究なので、ご家族との会話が日本語でなくても、ストレスはまったく感じないそうで、マリアさんご一家の日常会話はいつもイタリア語でした。



日本にいながら、ネイティブのイタリア語を話すご家庭に毎週のようにお邪魔して、本物のイタリア人から直接レッスンを受けることができたなんて、これ以上の恵まれた機会はあり得ないでしょう。



しかし私の口からは、なかなかイタリア語が出てこず、マリア先生に申し訳なく思ったものです。



イタリア語は日本人にとって発音はとても簡単なのに、文法は難しいです。



中高大学を通じて学んだ英語では、さほど文法の理解に苦しむことはなく、むしろ得意な方でしたのに、イタリア語の文法はそれとは比較にならないぐらい難解で、文法書を黙読するぐらいでは、到底理解できません。



イタリア語の文法について説明されている文字を目で追ってはいるのですが、気がつけば、目の前を字が通り過ぎているだけで、内容は理解できていないのです。



黙読ではだめだと、文法書の丸写しをして、「書く」という行為で、理解しようとしましたが、やはり会話にはつながってくれないのです。



例えば、英語には過去の時制は、過去形と過去進行形と過去完了の3種類です。



具体例を上げると


He played the piano.(過去形 彼はピアノを弾きました)

He was playing the piano yesterday.(過去進行形 彼は昨日、ピアノを弾いていた)

He has always played the piano. (現在完了 彼は昔からピアノを弾いている)



けれどもイタリア語の過去時制は、近過去、半過去、大過去、遠過去、先立過去の5種類で、その上、主語によっても動詞の語尾が6種類も変化します。



主語によって動詞の語尾が変わるという習慣は、日本語にはないので、イタリア語で会話をしようと思った時、6種類の人称変化を考えるだけで、言いたいことが頭の中で固まってしまうのです。



観光旅行でお土産を買う程度の会話なら、お決まりのパターンがあるので、ハードルも高くないのですが、ちょっと内容のある話題をマリア先生と会話しようとすると、たちまち私は、聞き手に回る一方で、すぐに口から出てくるイタリア語は、「Si」か「No」、あるいは「Ho(オ) capito(カピート)=わかりました」「Non(ノン), ho(オ) capito(カピート)=わかりません」でした。


耳から入ったイタリア語はわかるのに、口からはイタリア語が出てこないというジレンマが3年以上も続いたのですが、2つのことを実行するようになって、思ったことがイタリア語となって口から出るようになりました。



1つ目は好きなイタリア映画のセリフを書きとれるまで何度も見たことです。



当時の私がお気に入りだったのはヴィスコンティ監督の映画で、その中でも燃えるような瞳をしたアリダ・ヴァリ主役の「夏の嵐」が好きでした。



「夏の嵐」の1866年に起こった普墺戦争を(プロイセン王国とオーストリア帝国)時代背景にした恋物語で、ヴァリが扮するのは、ヴェネツィア侯爵夫人リビアです。



リビアは愛国心の強い毅然とした人妻でしたが、ヴェネツィアに駐屯していた若いオーストリア将校と激しい恋に落ちます。



生真面目な彼女は本気で将校を愛してしまい、侯爵夫人の身分さえも捨てるつもりでしたが、将校の本心を知った彼女は恐ろしい選択によって、恋人に断罪を与えて、強制的に恋を終わらせしまうのです。



映画は、リビアの回想から始まります。



Tutto(トゥット) é(エ) cominció(コミンチョ) quella(クゥエッラ) sera(セーラ), era(エーラ) ventisette(ヴェンティセッテ) Marzo(マルツォ)(=すべては、あの夜から始まった。あれは、5月27日だった。)



日本語に翻訳すると何やら意味深なセリフですが、イタリア語の文法で分析すると、「cominció=始まった」の遠過去と、「era=だった」半過去の2種類の時制が使われた奥行きのある詩的な表現で、これは複雑な文法をもつイタリア語だからこそ可能な表現でもあるのです。



こうやってお気に入りの映画のセリフをお手本に、複雑な文法を持つイタリア語の使い方を私は学んでいきました。



そして、もう1つの方法は、天野先生に教わったことですが、毎夜寝る前に、自分の一日の行動を頭の中でイタリア語にしてみるのです。



この方法も、とても効果的です。



自分の好きなイタリア映画のセリフを覚えるまで見ること、自分の行動を自分でイタリア語に置き換えてみること、もう何年もご無沙汰しています。



かろうじて毎日イタリア語の国営ニュースRAIをインターネットで見るくらいで、イタリア語力がどのくらい落ちているのかさえも未知数です。



せっかく身につけたイタリア語です。



もう留学することはないでしょうが、大好きな言語なので、自分の楽しみのために、今年はイタリア語の自学自習を再開しようと思っている私です。



2024年2月29日

大江利子


遠い記憶をたどれば、私が初めて見たオペラは「ラ・ボエーム」でした。



小学生の時、学校の授業だけではもの足らず、もっとたくさんの歌を知りたかった私は、新聞のテレビ番組欄で歌番組を見つけると、毎日必ず見ていました。



歌謡曲、クラッシック、民謡など、ジャンルにこだわりはなく、とにかく、素敵な詩に音がつき、それを人の声で奏でているならば、食い入るようにテレビ画面を見ながら全身を耳にして、声色の違いを聞き分けて、自分の好みの歌と歌声を見つけることに必死でした。



当時の私が最も好きだった歌声は、由紀さおりの高い声と美川憲一の低い声です。



ふたりの声は、私にとって他の歌手の声とは別格でした。



たいていの歌手の声には、ざらつき、カスレ、音程のふらつき、低音から高音へ移動するときの不自然な音色の変化、感情過多な表現などが散見され、せっかくの歌詞の意味が伝わらないで、安っぽく聞こえてくることが多々ありましたが、由紀さおりと美川憲一の歌声には、それがありませんでした。



由紀さおりの「夜明けのスキャット」の透明感のある高い声と美川憲一の「さそり座の女」の重厚な響きの低い声を両立できるような歌い方をしてみたい、おぼろげながら小学生の私は思ったものです。



そんなある日、テレビを見ていると、ブラウン管に不思議な光景が広がっていました。



外国の演劇舞台のようですが、舞台上の人は、セリフを話しているのではなく、歌っているのです。



セリフを話さず、歌うお芝居、それはまさしく私が生まれて初めて目にしたオペラ「ラ・ボエーム」でした。



ラ・ボエームの舞台は、パリの学生街のラタン区のアパートです。



一人暮らしの貧しい娘ミミは、クリスマスの夜、ローソクの灯りをたよりに薄暗い階段を上がって屋根裏の自分の部屋に帰るところでした。


しかし不意の風でローソクの火が消えてしまい、近くの部屋をノックして、部屋の住人に火をつけてくれるように頼みます。



その部屋には、ミミと同じように貧しい青年ロドルフォが住んでいました。



戸口で、ミミはロドルフォからローソクの火をつけてもらうと、お礼を言って立ち去ろうとしますが、急に気分が悪くなり、その場に気を失って倒れてしまいます。



驚いたロドルフォはミミを自分の部屋で介抱します。



介抱しながら、ロドルフォはミミの可愛いらしい顔立ちに心を奪われますが、同時にその顔色の悪さを心配します。



ミミは間もなく意識を取り戻し、ロドルフォから勧められたブドウ酒を少しだけ口にするとまたすぐに立ち去ろうとします。



しかし彼女は、倒れた時に、手にしていた部屋の鍵を落とし、失くしたことに気がついて、もう一度、ロドルフォの部屋に戻ってきます。



ミミとのきっかけができたことにロドルフォは内心喜び、このチャンスを逃すまいと、自分の部屋のローソクの灯りも消えてしまったと、わざと火を吹き消し、暗闇の中で鍵を探すふりをしながらミミの手をとるのです。



ロドルフォはミミの手をとりながら歌で自己紹介します。


なんと冷たい可愛い手だ 

僕に温めさせてください 

鍵を探しても無駄ですよ 

暗闇では見つかりません

 

しかし幸運なことに 今夜は月夜で、月の近くに私たちはいます 

待ってくださいお嬢さん!

あなたに一言話させてください 

いったい私が何者か?

どうやって暮らしいるのかということを 


私は詩人です 

何をしているかって?書いています 

それでどうにか暮らしています 


貧しくとも、私は大金持ちのように贅沢です 

愛の詩や歌 夢や幻想 そして空に描く城のおかげで 

私は億万長者のような心を持っているのですから 


でもそんな贅沢な私の心の財宝を、

美しい瞳という泥棒がすべて奪い去ってしまうことがあります 

たった今も その泥棒が入ってきて 私の心の財宝が消え去ってしまいました

 しかし 盗まれたことを悲しくはないのです 

なぜならそこは甘い希望の部屋となったからです!


 さあこれで私のことがわかりましたね 

今度はあなたが話してください

 あなたは誰ですか? 

お願いです 僕にあなたのことを聞かせてください?



ロドルフォに答えて、今度はミミが歌いながら自己紹介をします。


ソプラノ独唱曲として名高い「私の名はミミ」です


はい、私はミミと呼ばれています 

でも、私の本当の名前はルチアなの

私の話は短いです 

家や外で織物や絹に刺繍をして、ひっそりと幸せに暮らしています

私の趣味はユリやバラを育てることです 


この花たちは甘く優しい愛や春について語ってくれるのですもの、

こういうことを詩と呼ぶのでしょう? そうですね(ロドルフォが答える)


私はミミと呼ばれていますが、理由はわかりません 

私はひとりぼっちで食事をとり、ミサには滅多に行かないの 

でも神様にお祈りはきちんとしているわ

一人暮らしですけどね。 


あの白い小さな部屋から屋根の上の空を眺めているの 

すると、雪解けの季節、春一番の太陽や四月のキスは私のものなのよ

 植木鉢の薔薇の新芽の間をのぞくと、なんて優しい花の香りでしょう!

でも残念なことに私が作る刺繡のお花には香りがないのよ


私のお話はこれだけよ こんな時間に突然お邪魔をして、私ったら迷惑な隣人ね。


こうして恋に落ちたふたりは一緒に暮らし始めますが、オペラの最後はミミの死という悲しい結末です。



まったくオペラを知らず、恋の経験もない小学生の私でしたが、このラ・ボエームのストーリーとオペラ歌手の声の魅力に惹きこまれて、息を引き取ったミミを抱きしめて絶叫するロドルフォの悲しい姿が映しだされる最後までブラウン管から目が離せませんでした。



その後、音大を卒業後、働きながら本格的にオペラを学ぶようになり、この「私の名はミミ」も歌えるようになった時、私はあることに気がつきました。



オペラをよく知らない時は、常人には不可能な高い声で歌うことが、オペラの魅力で、そのことが人を感動させるのだと思い込んでいましたが、実はそれだけではなく、低い声から高い声まで、むらのない透明感と厚みのある声で歌うからこそ、お芝居に臨場感を与え、聞く人の心を打つのだということがわかってきたのです。



そしてそれは、小学生の私がおぼろげながらに思った由紀さおりの声と美川憲一の声を両立させることで、低音から高音まで自由自在に操れる声があるからこそ、歌でお芝居をすることに不自然さを感じさせず、むしろ感動を増大させると気がついたのです。



ところで、おととい、私が主催するみんなの発表会で講師演奏として、ラ・ボエームの「私の名はミミ」を歌いました。観客は10歳(小3)から84歳までの幅広い年齢層でした。



歌う前に簡単に説明しただけで、オペラアリアを字幕もなしに歌うという冒険でしたが、観客の皆様の耳と心にストレスなく届いたようで、暖かい拍手をいただき、たいへん嬉しかったです。


2024年1月29日

大江利子

(2024年1月27日 第6回みんなの発表会で「私の名はミミ」を歌う筆者)