1979年11月26日、岡山市民会館1階の観客席で高校1年生の私は初めて聞く難波先生のピアノ演奏に圧倒されていました。
難波先生は、私の母校である山陽女子高等学校音楽科講師のおひとりで、高1から高3までの3年間、私のピアノ個人レッスンを担当してくださった先生です。
私が初めて難波先生にお会いしたのは、中学3年生の夏休みです。
当時、音楽科を併設する女子高として岡山県内唯一の山陽女子高等学校では、夏と冬の2回、受験生のための講習会が開催されており、毎回講習生は100名を超えていました。私はその講習会の個人レッスンの時間に難波先生にお会いしたのです。
難波先生のお噂は、中学2年生からピアノのレッスンに通っていた久山先生から聞いていました。
久山先生は私が目指していた山陽女子の音楽科で難波先生の薫陶を受けて、ピアノの名門である武蔵野音楽大学を卒業されたばかりの若い女性でした。
つまり私は久山先生の師匠である難波先生のレッスンを受けることになったのです。
「難波先生のレッスンはとても厳格なのよ。指使いの間違いやミスタッチは、絶対に見逃してはくださらないから、気を付けて、講習会の準備をしましょうね」
久山先生は私より9つ年上で、言葉も物腰も柔らかく、優しいお姉さんのような先生でした。
優しい久山先生のレッスンでは、自分独りで練習している時のように、リラックスして鍵盤を弾くことができました。
しかし、山陽女子音楽科の夏の講習会で初めてお会いした難波先生の前で、緊張し過ぎた私は、普段では有り得ない指使いやミスタッチをしてしまいました。
すると弾丸のように、厳しいお言葉が先生の口から飛び出しました。
「どうしてそんな変な指使いで弾くの!?私は久山さんに、そんなことは教えなかったわよ!」
真夏だというのに、私の背中には冷たい汗が一筋流れました。
中学1年生の夏からピアノを習い始めた私は、バイエルを終えたばかりで、やっとツェルニー30番に入ったところでした。
毎日欠かさず4時間ピアノのお稽古をしていましたが、私の指はなかなか思うようには動いてくれず、時々、自分の意志とは無関係に、指が変な動きをすることがありました。
極度の緊張で私の指に、その変な動きが出てしまったのです。
でも、そんなことは言い訳です。
私は無言で難波先生の𠮟責を受けながら、正しい指使いで弾きなおしました。
それ以来、山陽女子に合格したあとも、難波先生の前ではいつもカチコチに緊張しながらレッスンを受けていました。
難波先生のレッスンは検査のようです。
どんな曲も、片手ずつ、ゆっくりのテンポで弾かされます。
誤作動を見つけ出す機械の検査官のように、難波先生の目と耳は、私が奏でるピアノの音と鍵盤上の指使いを厳しくチェックします。
正しい指使いかどうか、リズムや音程に間違いは無いか。
少しでも、引っかかるところがあると、部分的に取り出して、何十回でも同じところを練習させられます。
その目的は、片手で、滑らかに弾けるようになるためです。
右手も左手も、いささかもつまずくことなく、鍵盤の上で指が滑らかに動くようになったら、ようやく両手で弾く許可がおります。
そして両手でも、片手と同じように、先生の前で、ゆっくりの速さで確実に弾けることが確認できるまでは、速いテンポでは弾かせてはもらえません。
技術的に優しいところも困難なところも、片手と同じように両手で滑らかに指が動くようになった時、やっと曲本来の速度に上げて、感情を込めて弾く許可がおります。
まるで大工さんが家を一棟、独りで丸ごと建てるように、基礎から確実に積み重ねるやり方が難波先生のレッスンなのです。
伝統的なものづくりに共通した基礎から確実に積み重ねる方法でレッスンをしてくださる難波先生の弟子となった私は、高校1年生の11月、山陽女子音楽科の優秀な生徒と講師たちが出演する年1度の定期演奏会で、先生の舞台演奏を初めて聞いたのでした。
この定期演奏会は山陽女子音楽科の実力テストのようなもので、市民会館の会場を埋め尽くす観客席には父兄に混ざり、耳の超えたクラシック関係者も座っていました。
先生が弾かれた曲は、リスト作曲の『ため息』です。
リストは彼自身が非常に大きな手の持ち主で、圧倒的な超絶技巧で衆目を集めたピアニストでもあり、その彼が作曲した曲も、彼自身の技術力を存分に発揮できる曲ばかりです。
難波先生は小柄な人で、手も非常に小さく1オクターブがやっとですが、そんなことはおくびも感じさせず、完璧な技術力で、優雅で情感あふれるリスト演奏でした。
滑らかに鍵盤の上を動く難波先生の指を私は羨望の眼差しで見つめながら、こう思いました。
「先生は私のように苦労してお稽古しなくても、生まれつき指が滑らかに動くに違いない!」
つい先日、私が高校卒業以来、初めて難波先生にそのことについて伺う機会がありました。
先生はレッスンの時とは、別人格かと思うような、柔らかい笑顔で、話してくださいました。
「学生の時の演奏は、自分で頑張ってきた成果を聞いてもらうだけだから、責任がないけど、講師として演奏する時は、その学校の看板を背負って弾くから責任重大なのよ。」
そして先生は酷いあがり症なために、舞台演奏をする前は、それを克服するために猛稽古をして体重が落ち、周囲の人が心配するほど、げっそりと瘦せてしまうのだそうです。
あの素晴らしい先生のリスト演奏は身が細るまでお稽古した賜物だったのです。
80歳になられた先生は、今も人前での演奏を続けておられます。
教職を退いたあとも、民生委員を任されたり、地域活動に奉仕されたりと、その活動の関係者から乞われて独奏コンサートをすることがあり、全曲暗譜で弾かれるそうです。
きっと先生は今も、人知れず猛稽古されて、舞台に臨んでおられるのだと思います。
再来月、私は自分が主催する発表会で、講師演奏としてベートーヴェンの月光ソナタの3楽章を弾きますが、難波先生の弟子として恥じない演奏ができるよう、高校生の時のように練習に励もうと思います。
2024年12月29日
大江利子