クーポラだより最新号


お蕎麦を食べると、必ず思い出してしまう、お蕎麦屋さんがあります。



長野で偶然に出会った、そば処「一葉」です。



18年前の秋、夫と私は、買ったばかりの、可愛いひよこ色のインプレッサが嬉しくて、長野まで、往復1200キロのドライブを決行しました。



ふたりとも、車で出かけるのは、初めての長野でした。



列車やバスの旅では、思うに任せないことも、車なら自由が効くので、私たちは、ドライブ中に、気になった場所にふらりと立ち寄り、花豆のパフェや五平餅など、長野の美味しいものを味わいながら、旅の最後に「一葉」を見つけたのです。



普段から蕎麦好きの私たちは、そばの本場、信州長野で、美味しいお蕎麦に出会えたらいいなと、密かに期待していました。



もうすでに、冠雪した中央アルプスを遠くに臨み、稲刈りが終わったばかりの黄金色に輝く、のどかな田園風景が広がる、見晴らしの良い道、信濃から越後までの塩の道として知られている千国(ちくに)街道沿いを走っているときでした。



黒い瓦屋根に白壁の、懐かしい一軒家の庭先に立つ看板「手打ちそば」に目が留まり、私たちは車をとめました。



出入り口の滑りの良い引き戸をガラガラと開けると、厨房から漂ってくる湯気からは、ほのかな甘いソバの香りがし、壁に貼られた毛筆のお品書きに、期待感が膨らみました。



ソバ粉は、粗挽きと細挽きの二種類が選べて、のど越しの良い、細挽きの十割そばを注文しました。



窓際の席に、お互い向かい合って座り、たった今、下ってきた中央アルプスの山々を眺めつつ、わくわくしながら、お蕎麦の登場を、待ちました。



ゆで上がりを待つ間に、そば茶と、ソバ粉の揚げ菓子が出てきました。



キャラメル色の香ばしい揚げ菓子は、歯触りと素朴な味わいが絶妙でした。



主役のお蕎麦の味は、期待以上で、こんなに美味しいお蕎麦に出会ったのは、初めてでした。



偶然に入ったお店が、名店であった幸運に、私たちは喜びましたが、後々、困ったことになりました。



なぜなら、その後、どんなに美味しいと評判のお蕎麦を食べても、「一葉」の味に勝るものはなく、せっかく出向いて、お蕎麦屋さんに入っても、がっかりすることが続き、「一葉」の、あの味が恋しくてたまりませんでした。



しかし、「一葉」がある長野県安曇野までは片道600キロ、お蕎麦だけのために、信州再訪の決心は、なかなかつきませんでしたが、7年後の2007年の春に、その機会が巡ってきました。



長野県 安曇野の、いわさきちひろ美術館で、ロシアのアニメーション作家ユーリー・ノルシュテイン展が開催されることになったのです。



ノルシュテインは1941年、ソ連時代のロシアに生まれ、家具工場の職人や声優の経験もあるユニークな経歴のアニメーション作家です。



ノルシュテインの作品は切り絵のようなアニメが動く、幻想的な映像美が特徴です。



彼のよく知られている作品「霧につつまれたハリネズミ」は、擬人化された動物たちのお話です。



主人公のハリネズミ君は、子熊さんから「星を数えながら、一緒に、お茶を飲もうよ」と、お誘いを受けて、霧がたちこめる森の中を、エゾ苺のジャムを抱えて急ぎます。



ハリネズミ君は大きなミミズクに後をつけられたり、川に落ちたり、大切なエゾ苺のジャムを失くしたり、ハプニングが続き、なかなか子熊さんのところへ行けません。



見る側は、ノルシュテインの描く、霧がたちこめる不気味な夜の森の世界にひきこまれ、まるで自分が、小さなハリネズミになったような気持ちになって、森の中のハプニングに、ハラハラドキドキしてしまいます。



またノルシュテインは音楽を非常に効果的に使います。



押しつけがましさや、虚飾のないバッハの音楽を使った代表作「話の話」は、1979年に発表されましたが、世界中のアニメーターたちに深い感動を与え、翌年に、数々の国際賞を受賞し、今年の夏に旅立った高畑勲(火垂るの墓の監督)も、ノルシュテインに心酔し、その様子を記事にのこしています。(アニメージュ文庫「話の話」)



夫は、日本では、あまりノルシュテインが話題にのぼらなかった頃から、「話の話」が大好きで、その背景音楽に使用されていたバッハの平均律8番のプレリュードを練習し、届くのはいつになるかわからない、ノルシュテイン自筆サイン入りの「話の話」の高価な額装リトグラフを、前金払いで注文するほどでした。



11年前(2007年)上達はしないけれど、毎月購入だけはしていた、NHKラジオ語学講座ロシア語テキストのお知らせコーナーで、夫の大好きなノルシュテインの絵本展が、安曇野ちひろ美術館で開催されることを知り、彼とともに、再び片道600キロ、長野県まで車を走らせ、そして、恋しい「一葉」のお蕎麦を、また味わうことができました。



ノルシュテインは、作品を創り出すために、奥様とふたりで、背景もキャラクターもすべての絵を手で描き、自ら撮影し、自らアニメーションにつなぎ合わせていきます。



この方法は、恐ろしく時間と手間がかかりますが、出来上がった作品は、得も言われぬ詩的な世界が広がり、見る者を感動させ、時が経ても、色あせることのない魅力に満ちあふれたノルシュテイン作品は、世界中の人々に愛され続けています。



「一葉」も、美味しいお蕎麦を提供するため、自ら種蒔き・収穫した蕎麦を、自ら製粉し、お蕎麦を打ち、薬味のねぎも、わさびも自家生産しているそうです。



私も、「一葉」のお蕎麦や、ノルシュテイン作品のように、自ら創り出す力を失わず、自ら学び感動したことを歌と文に反映させる姿勢を取り続けようと思います。



2018年9月29日

大江利子



「話の話」

オーベルハウゼン国際短編映画祭国際映画クラブ賞、

ザグレブ国際動画祭大賞

リール短編及び記録映画祭動画部門グランプリ・国際批評家連盟賞、

オタワ国際動画映画祭グランプリ、いずれも、1980年受賞


「次の発表会は、何を弾くの?」



2年に1度の夏に交わす、私と友人のお決まりの会話です。



ピアノの先生をしている友人が、ご自分の生徒さんのために開く、2年に1度の発表会に、私も参加させてもらっているのです。



14歳から本格的にピアノを習いはじめ、無我夢中で、毎日何時間もピアノを練習し続けた私のピアノ人生は、公務員となった22歳の4月に、一旦、終わりとなりました。



大学卒業後、郷里岡山で中学校の音楽の先生となった私は、毎日の授業、部活指導、校内暴力で荒れ狂う生徒たちの指導で、疲れ切り、学生時代のようなピアノを練習する時間も気力もなく、生きているのが、やっとの毎日でした。



学校行事で全校生徒が歌う校歌や、生徒たちが授業で歌う曲のピアノ伴奏程度なら、学生時代のような練習をしなくても、用は足りました。



練習をしなくなった私のピアノの腕前は、あっという間に落ちました。



もともと、私のピアノ技術はプロのピアニストレベルではないものの、それでも、ショパンの革命のような速い曲や、連続オクターブがつぎつぎと出てくる難曲のリストも、弾けていたのに、練習しなくなったら、まったく、指が動かなくなってしまったのです。



高校時代も大学時代も、音楽専門の道へ進学した私は、自分よりも、はるかに上手にピアノを弾く同級生たちを目の当たりにして、劣等感がありました。



どんなに練習しても、同級生たちのレベルに、到底及ばないことが、16歳で、わかってしまい、打ちのめされました。



それでも、下手なりに私が、毎日何時間も練習を続けられたのは、試験や、習っていた先生の発表会など、人前でピアノのソロ演奏をする機会に恵まれていたからです。



それが、就職し、いくら毎日ピアノを仕事で使うとはいっても、コンサートに弾くような曲を演奏するわけではないので、練習に身が入らず、腕前が落ちると、ますます練習しなくなりました。



また就職と同時に、歌への情熱が高まり、歌の勉強の方に重点をおいたので、人前でソロ演奏できる機会には、独奏ではなく、独唱をしました。



人前で演奏することが大好きな私は、その欲求は、歌で満たされ、もともと劣等感があったピアノからは、ますます、遠ざかったのです。



しかし、ある友人との出会いが、私のピアノへの情熱に、再び、火をつけたのです。



彼女は、良き母であり、良き妻であり、幼い子供から、お年を召した方まで、幅広い年齢層の生徒さんを抱えた優しいピアノの先生でした。



彼女はある日、シューマンの「飛翔」という難しい曲を、私の前で演奏してくれました。



彼女の「飛翔」は、すっかり仕上がっており、いつでも舞台で独奏できる状態でした。



しかし、彼女には、まったく、その予定はなく、ただ「飛翔」が好きなので、自分で練習して仕上げたと言うのです。



私は、それを聞いて、とても感動しました。



なぜなら、私のピアノはいつも試験や、舞台のために、練習していたので、自分が純粋に演奏したいと思う曲を仕上げた経験はなかったからです。



手が小さく、指が速く動かない私は、その欠点が目立たず、華やかに聞こえる曲を選び、純粋にその曲が好きかどうかは、私の選曲基準ではなかったのです。



私は、彼女の「飛翔」を聞いて、もう一度ピアノを練習したくなりました。



そして、今度こそは、たとえ何年かかっても、純粋に、自分の好きな曲を練習しようと思いました。



私は、彼女に、彼女の生徒さんと一緒に発表会に出演させて欲しいと、お願いしました。



すると、快諾してくれた彼女自身も、「飛翔」を披露することになり、ふたりで、生徒さんに混じって独奏することになったのです。

今から10年前のことです。



10年前のその日から、私たちは純粋に好きな曲だけを選び、発表会のたびに2年に1度の割合で、新しい曲が、仕上がっていきました。



お互いに、2年先の発表会に向けて、練習している曲を、披露し合い、批評し合って、励まし合うのが日課となり、楽しく学び合う月日が流れました。



純粋に好きな曲だけを、練習しているうちに、技術も自然と身についていきました。



じわじわとザルで水をすくうような、進歩ですが、10年の継続はかなりの進歩をもたらしました。



そして、今年はまた、発表会の年、私は、ベートーベンの熱情ソナタの3楽章を選びました。



熱情ソナタは、「月光」、「悲愴」とともに、三大ソナタと呼ばれるベートーベンの初期のソナタの傑作です。



熱情ソナタの1楽章は、青春時代の恋のような、情熱的な熱い旋律で、2楽章は、至福の安らぎに満ちた、静かな曲です。



そして、私が発表会に演奏する3楽章は、嵐のような、激しいリズムと切ない旋律が繰り返され、若き日、エネルギーに満ちあふれていた時代を思い出させてくれます。



この熱情ソナタの3楽章を弾きこなすには、とても強い指の力が必要です。



アップライトピアノしか持っていない私は、近所の公民館のグランドピアノを借りて、指の力を強化するために、本番ひと月前から、猛練習をはじめていました。



すると、先日、見知らぬ男性が、やって来られて、毎日、聞こえてくる熱情ソナタが気になって、誰が弾いているのか、確かめにきたと、おっしゃるのです。



彼は、熱心なクラシック音楽愛好家でした。



男性はアルミニウムを加工するお仕事をされていて、お仕事の技術で作った、音符が入ったアルミニウムの素敵なコースターをプレゼントしてくださいました。



知り合いでもなく、友人でもない人が、純粋に、熱情ソナタのピアノの音だけを聞いて、行動をおこされたとは、改めて、ベートーベンの音楽の力の強さを実感しました。



また、こんな素敵な出会いを作るきっかけとなった、「飛翔」を演奏してくれた友人に感謝せずにはおれません。



これから、音楽を通じてどんな素敵な出会いが待っているのか、楽しみにしながら、日々の練習の励みにしようと思います。



2018年8月29日

大江利子


551蓬莱(ほうらい)の豚まんは、浪速っ子の愛するおやつです。


大阪の商店街や駅ビル内などには、鮮やかな赤一色の背景に白文字で、「551蓬莱」と書かれた看板の前に、いつも大勢の人が豚まんを買い求めるために並んでいます。



関西には、毎年、夫の仕事に同伴して一週間ほど滞在しておりましたが、岡山っ子の私はその美味しさを知らなかったので、551蓬莱の赤い看板の前に並ぶことは一度もありませんでした。



「たかだか肉まんを、買うためだけに、どうしてこんなに人が並んでいるのだろう?」と、不思議に思い、人だかりのする551のお店を横目で見ながら、通り過ぎたものです。



しかし、数年前のある日、コンサートのお客様からの贈り物で、551の豚まんをいただく機会がやってきました。



15分ほど、蒸して食べると、とても美味しいですよ、と電話口で、お客様は、涼やかなお声で、食べ方の秘訣を教えてくださいました。



初めて食べた551の豚まんのなんと美味しいことか、小さな肉まん1個にこれほど幸せを感じたのもまた、初めてで、551のお店の前に、人だかりがしていた理由が、やっとわかりました。



それ以来、私は551の豚まんが大好きになると同時に、今までは、肉まんは、おやつの対象外だったのに、オートバイで出かけて、小腹が減ったときに立ち寄るコンビニエンスストアで、真っ先に、ガラスケースの肉まんに、目がいくようになってしまいました。



肉まんは、点心と呼ばれる中国のおやつですが、小麦粉をイーストで発酵させてつくるパンの仲間で、蒸したての熱々が何よりものごちそうです。



世界各地、特に寒い地方には、小麦粉の生地におかずを包んだ、温かいおやつが、よく見られます。



日本では、長野のおやきがそれに、よく似ています。



昨年、オートバイで青森まで行った帰り道に立ち寄った、長野の駒ケ岳サービス・エリアで、本場の味、野沢菜入りのおやきをいただきました。



せいろから蒸上がったばかりの、ほかほかと湯気が立った温かいおやきは、とても美味しくて、旅の良い思い出となりました。



点心の国、中国よりもさらに、北国のロシアでは、ピロシキという、おかず入りの温かいパンがあります。



本場のピロシキは、残念ながらまだ一度も味わったことはないのですが、ある映画の中で、主人公が美味しそうに食べているシーンが強く印象に残っています。



その映画はロシアの作家ゴンチャロフの小説「オブローモフ」を映画化した

「オブローモフの生涯より」です。



主人公のオブローモフは、大地主の息子で、働かなくても、生活できる贅沢な身分です。



子供の頃は愛らしいく、利発な男の子でしたが、甘やかされて育ったオブローモフは、大人になっても、甘えたところが抜けず、官僚に就職しても長続きせず、社交界でも口下手で、恋人もできずに、ひきこもりの毎日を送っていました。



しかし、彼の性格は、温和で、正直で、人と競争することが苦手なだけで、

お肉とキノコがたくさん入ったピロシキが大好物の愛すべき人物でした。



オブローモフには、唯一、心が許せる人物、幼なじみの親友シュトルツがいました。



シュトルツは、オブローモフと正反対に、幼い頃からとても厳しく育てられたので、自立心が旺盛で、規則正しい生活を送り、若くして外国で成功していました。



まったく性格の違うふたりでしたが、大の仲良しで、シュトルツが帰郷したときだけは、

オブローモフも生まれ変わったように、活動的になりました。



一方、シュトルツは休暇で帰って来るたびに、親友のお腹が太鼓腹になって、怠惰になっていることに、心を痛め、オブローモフの大好物のピロシキを禁止し、野菜中心の食事をとるように提案します。



ピロシキ禁止令に素直に従っていたオブローモフですが、ある夜、我慢しきれずに、シュトルツの目を盗んで、こっそり食べようとしたところを、親友に見つかってしまいます。



オブローモフとシュトルツの間に気まずい空気が流れます。



スクリーンを見ているこちら側にも、ふたりの気まずさが伝わる緊張の一瞬です。



シュトルツは、どうしたのでしょうか。



彼は、オブローモフを叱るどころか、大笑いして、ピロシキをいっしょに食べ始めるのです。



映画「オブローモフの生涯より」には、オリガという名前の若い娘が、登場します。



シュトルツが、自分が仕事に戻ったあとも、オブローモフが元の怠惰な生活に戻らないようにと、心優しく、聡明なオリガに、見張り役を頼むのです。



オブローモフとオリガの間には恋が芽生えますが、オブローモフの方が、僕はあなたにふさわしくないと言って身を引きます。



時は流れ、映画のエンディングはシュトルツ夫人となったオリガが、ひっそりと亡くなったオブローモフを偲びます。



小説「オブローモフ」が発表されたとき、当時、とても反響を呼び、オブローモフが「無用な人、余計な人」の代名詞になり、「オブローモフ主義とは何か」という論文まで登場し、彼の存在価値について、近代社会は考えさせられました。



オリガは、活動的で精力的に働くことを生きがいとするシュトルツと、人と争うことを好まず、怠け者のオブローモフのいったいどちらを本当に愛していたのでしょうか。



映画にも小説にも、その答えは、明確にされていません。



オリガは歌がとても上手で、ベッリーニ作曲オペラ「ノルマ」の中の「清らかな女神よ」が十八番でした。



映画の中では、「清らかな女神」をオリガとシュトルツとオブローモフの3人で合唱する微笑ましいシーンが印象的です。



「ノルマ」を作曲したベッリーニはイタリアのシチリア出身の早逝した人ですが、たくさんの甘美な旋律のオペラを残しており、ベートーベンのような情熱も、モーツァルトのような軽快さもないのですが、人の心を暖かく包むような柔和な音楽で、オリガの十八番の「清らかな女神」は、彼のもっとも、よく知られた1曲です。



ただし、ベッリーニの作品は、聞き手には、優しく幸せを運ぶような旋律でも、歌う側にとっては、大変で、特にこの「清らかな女神」は、大歌手のマリア・カラスを引退に追い込んだ難曲です。



私も、オリガと同じように「清らかな女神」が十八番ですが、そのお墨付きをくれたのは、

2014年12月6日、オリエント美術館で「ベッリーニの夕べ」を歌った私の声を聞いた夫でした。



辛口の批評家の夫は、私の歌声を聞き始めて20年目に、やっと人前で「清らかな女神」を歌ってもよいと言ってくれました。



物が溢れた現代社会で生きる人々に、幸せを感じさせるものは、もしかしたら主食よりも、おやつであり、必要なものよりも、余計なものの方なのかも知れません。



私自身にとっては、歌は主食のようなものですが、他の人にとっては余計なオブローモフ的なもの、または、おやつのようなものだと思います。



551は美味しい豚まんを提供するために、この機械化の進んだご時世に、1個1個、職人が手包みするそうです。



私も、「清らかな女神」を、聞いてくださる方に、幸せを感じていただけるように、日々精進して歌っていきたいと思います。



2018年7月29日

大江利子


40年以上も、捨てられない本があります。



音楽の専門書でもなく、装丁の豪華な文学書でもないけれど、眺めているだけで、とても楽しく、幸せな気分になれる本なのです。



昭和52年(1977年)、中学2年生だった私は、「楽しいクッキー」というお料理の本を、生まれて初めて自分のこずかいで買いました。



お菓子作りに憧れていた私は、近所の文房具屋の店先に、月刊誌に混ざって並べられていた「楽しいクッキー」に目が留まり、美味しそうな表紙を見て、どうしてもその本が欲しくなったのです。



当時、私のこずかいは一か月500円、「楽しいクッキー」は一冊480円、一か月分のこずかいを、一度に、使い果たしてしまいましたが、後悔はありませんでした。



「楽しいクッキー」は、お菓子作りの実用書で、14歳だった私が、食べたことも、見たこともない、華やかなクッキーの作り方が、わかりやすく、写真入りで解説されていました。



クッキーの基本は、材料を混ぜて、焼くだけですが、加える材料や、成形の仕方によって、いろいろな名前があることも知りました。



猫の舌を意味する「ラングドシャ」、アーモンドが入った「マカロン」、屋根瓦に似た「チュイール」など、「楽しいクッキー」には、作り方だけでなく、それぞれのお菓子にまつわる由来も、解説してあります。



学校の英語や歴史の授業では、習わない、カタカナの地名や人名が、「楽しいクッキー」には登場し、行ったこともない異国の地に降り立った気がして、西洋文化に親近感を覚えました。



「楽しいクッキー」を買って帰ったのち、早速、食べたいクッキーを作ろうと台所に立ちましたが、道具や材料がいろいろ不足し、作れるものは限られました。



クッキー作りには、オーブンが欠かせませんが、40年前の実家には、トースターしかありませんでした。



実家のトースターは、平置きの食パンが、1枚入るだけの広さで、外観は、オーブンに似ていますが、似ているのは、扉のあけ方だけで、オーブンのような温度調節はなく、焼く時間も、連続5分が限界でした。



どんなクッキーでも、オーブンで10分くらいは、焼かねばなりません。



実家のそのトースターだと、5分で切れてしまったタイマーを、すぐに回して、連続使用し、10分焼きましたが、焼け具合が焦げ過ぎと、ちょうどいい部分が半々になり、見た目が残念なクッキーになってしまいました。



いろいろ制限がある中で、14歳の私が、良く焼いたクッキーはシンプルな材料の「サブレ」でした。



サブレとは、口の中に入れたときにサクッとした歯ごたえと砂のように、サラサラとした味わいなので、フランス語で砂を意味する「sable’=サブレ」と呼ばれるのです。



サブレには、小麦粉と砂糖、卵、それに無塩バターがたっぷり入ります。



当時は、無塩バターは手に入りにくく、マーガリンで代用したサブレをよく焼いたものです。




焼きムラができても、マーガリンで代用しても、それでも自分で作ったサブレは美味しくて、お菓子作りがとても好きになりました。



サブレの他にも、「楽しいクッキー」の中のいろいろなクッキーに挑戦してみましたが、

材料が入手不可能で、憧れだけに終わったものもあります。



それは、干しブドウをたくさん使う「ガルバルジー」です。



干しブドウは、40年前、実家の近所の八百屋では、取り扱っていなかったのです。



けれども、たとえば、干しブドウなしで「ガルバルジー」を焼くならば、それは「サブレ」と同じ味に、なってしまいます。



つまり、干しブドウ入りの「サブレ」が、「ガルバルジー」なのですが、なぜ、そんな特別な名前がつけられたか、当時の私にはわかりませんでした。



「楽しいクッキー」にも「ガルバルジー」の由来は載っていませんでした。



しかし最近になって、「ガルバルジー」の由来がわかりました。



「ガルバルジー」とは、19世紀イタリア統一運動の指導者ガリバルディ将軍の名前です。



19世紀のイタリアは、小さな国に分かれており、それぞれの背後には、親分の国イギリス、オーストリア、フランスが裏で糸を引き、親分の力関係が変わるごとに、イタリア半島は翻弄(ほんろう)されるややこしい時代でした。



そんな中で、ガリバルディ将軍が義勇軍を結成し、統一運動をおこして、イタリア半島から親分の国を追い出して、イタリアをひとつの国にまとめて、自分は国王とならずに、身を引いたのです。



ガリバルディ将軍が、イタリア統一後、すぐに身を引き、隠居生活に入ったおかげで、日本で起きた戊辰戦争のような内乱が避けられ、彼は英雄と讃えられたのです。



この複雑なイタリア統一のいきさつを、なかなか、理解できずにいましたが、ヴィスコンティ監督の「夏の嵐」という映画を見て、私は、いっぺんに、理解できました。



「夏の嵐」は美貌のヴェネツィア侯爵夫人と、ニヒルなオーストリア青年将校の破滅的な恋が、イタリア統一運動を背景に描かれており、ガリバルディ将軍のイタリア統一運動も、ストーリーの重要なポイントです。



侯爵夫人と青年将校が初めて出会う場所は、ヴェネツィアのオペラ劇場、フェニーチェ劇場です。



イタリア・オペラの巨匠ヴェルディが作曲したオペラ「イル・トロヴァトーレ」が、

フェニーチェ劇場で上演される中で、ふたりは出会い、恋に落ちます。



世情不安なヴェネツィアで、逢瀬を重ねる恋人たちのセリフから、当時のイタリア情勢とそれに巻き込まれた人々の苦しみがとてもよくわかりました。



2時間足らずの「夏の嵐」を見ただけで、統一イタリアの時代に、急に詳しくなった気がして、ガリバルディ将軍も私にとって、活字だけの人でなくなりました。



「夏の嵐」は、20年前、夫が買ってきた中古のレーザー・ディスクで見ました。



夫は古い名映画収集のために、大阪方面まで足をのばして、中古レーザー・ディスクをたくさん買い集めていましたが、「夏の嵐」もそのひとつです。



「夏の嵐」を夫ともに見て、20年の歳月が流れ、やっと「楽しいクッキー」のガルバルジーの由来がわかる日がやってきました。



今月6月、岡山市の後楽園近くにある夢二郷土美術館で、竹久夢二作品の特別公開があると知り、オートバイで行ってきました。



今回の夢二展は、何百枚という楽譜に描かれた夢二の挿絵が公開されており、新しい夢二の一面を見ることができました。



また、夢二郷土美術館の敷地内に、カフェが新設されており、夢二が愛したお菓子がメニューにありました。



竹久夢二が愛したのは、あの「ガルバルジー」でした。



そして「ガルバルジー」の由来は、イタリア統一運動のガリバルディ将軍で、将軍がイギリスに渡ったときに彼を讃えて作られたお菓子だと説明されていました。



夢二の愛した「ガルバルジー」を注文すると、出てきたのは、「楽しいクッキー」を見て、憧れていたあの、「ガルバルジー」でした。



ひと口食べると、甘酸っぱいレーズンが口いっぱいに広がり、オートバイでやってきた疲労を癒してくれました。



「楽しいクッキー」から「夏の嵐」、そして「竹久夢二」と40年もの時空を超えて、やっと「ガルバルジー」が解決して、私は深く感動しました。



そして同時に、もしも夫が「夏の嵐」を私に見せてくれていなかったら、「ガルバルジー」の感動は、ここまで深くなかったとも思うのです。



夢二は、大正時代に本の挿絵、着物の柄、絵はがきなどで、人々の暮らしに芸術を根付かせました。



ヴィスコンティ監督はスクリーンを通じて、国籍を超えた人々にイタリアの歴史と文化を見せてくれました。



そして夫は、家の中に、いつでも手の届くところに芸術を集めてくれました。



私も、音楽と文章で、愛する周りの人々に感動したものを運び続けたいと思います。



2018年6月29日

大江利子


オペラ「カルメン」は情熱的な恋物語です。

真面目一徹、許嫁(いいなずけ)までいる純朴な青年ホセは、ジプシー女カルメンの魅力に逆らえず、彼女の恋人になります。



カルメンと生活を共にするために、ホセは兵士の身分も、ふるさとの母も捨て、彼女と同じ密輸業者に身を落としてしまいます。



しかし、恋多き女カルメンは花形闘牛士エスカミーリョから求愛されて、あっさりと心変わりしてしまいます。



嫉妬に狂い、我を忘れたホセは、カルメンの命を奪ってしまうのです。



人生を破滅させるほどの激しい恋愛を描いた「カルメン」はスペインが舞台ですが、物語の原作を書いたのは、フランス人作家メリメです。



メリメの表向きの職業は文化財に関わる役所の官吏で、スペイン各地を視察旅行したとき、それから得たインスピレーションで、カルメンを創作し、1845年に小説として発表しました。



30年後の1875年に、「カルメン」はオペラ化され、パリ・コミック座で初演を迎えます。



オペラ化したのは、当時、36歳だったフランス人作曲家ビゼーです。



パリ・コミック座の劇場支配人に、新作オペラの注文を受けたビゼーは、メリメの小説「カルメン」を台本に選んだのです。



ボレロ、セギディーリア、ハバネラなど、民俗舞曲をたくさん使って、誰が聞いてもすぐに覚えられる、わかりやすい音楽で「カルメン」のストーリーは展開していきます。



オペラ「カルメン」の歌詞はフランス語ですが、日本で上演するときには、邦訳して歌われることもあります。



邦訳歌詞も名訳がつけられていますが、やはり、フランス語に比べると、オペラの魅力が半減してしまいます。



「カルメン」が大好きな私は、フランス語でカルメンを歌いたくて、22年前、32歳からフランス語を独学で勉強することにしました。



最初はNHKラジオ講座を、毎日聞いて勉強していましたが、そのうち、ラジオ講座だけでは物足らなくなり、フランス政府が直接運営する東京日仏学院(現在はアンスティチュ・フランセ東京)の通信教育で、フランス語のスキルアップを図りました。




通信教育のシステムは、学院から郵送される課題を期日までに解答して、学院へ郵送するだけです。



課題は、学院手作りの長文読解で、課題内容はフランスの時事でした。



今でこそ、インターネットでフランスのテレビ放送も簡単に見ることができますが、22年前、日本の田舎町の主婦の身分では、東京日仏学院の長文課題がとても貴重でした。



解答した課題は、担任の先生によって赤ペンで細かく添削されて、戻ってきます。



文通のみですが、先生の誠意ある説明と丁寧な添削がとてもうれしくて、難しい課題に辞書を片手にせっせと取り組みました。



東京日仏学院からの郵便は課題の他に、学級通信のようなお便りが入っていて、映画などのイベント紹介や、フランスに関するお知らせが掲載されていました。






ある時、そのお便りから、京都にある姉妹校の関西日仏学館の存在を知りました。




関西日仏学館の図書コーナーでは、貴重なフランスの資料が自由に閲覧できるので、私は、20年前、夫と共に京都まで出かけて行きました。




関西日仏学館は京都大学近くにあり、建物は1936年に落成された美しい白亜の洋館で、

今も当時の姿のまま使用されています。



正面玄関を入ると、1階にカフェがあり、このカフェの壁にはフランスに帰化した日本人画家 藤田嗣治(ふじたつぐはる)の絵画「ノルマンディーの春」が飾られています。




藤田の絵の特徴は面相筆で描かれる繊細なラインと透き通るような乳白色の女性の肌です。




関西日仏学館のカフェには、その画風が生かされた、みずみずしい乙女を題材にした巨大な藤田嗣治の絵が飾られているのです。



明治生まれの藤田嗣治は27歳で単身渡仏し、その独自の画風がフランスで高く評価され、レジオンドヌールを受賞しました。



しかし、祖国日本の画壇は、藤田の才能が理解できず、その才能にふさわしい評価を与えませんでした。



20年前、私が初めて「ノルマンディーの春」を見たときも、藤田嗣治の名は、世間一般には知られておらず、私もそのひとりでした。



しかし、私に藤田嗣治の予備知識はまったくなくとも、また、絵画の鑑識眼がなくとも、「ノルマンディーの春」にはただならぬものを感じ、その場を立ち去り難く、しばらくの間眺めていたのを思い出します。





夫は、藤田嗣治のことを知っていて、レオナール藤田と改名して、フランスで没したことも教えてくれました。



数奇な人生と日本人離れした不思議な魅力の絵を描く藤田嗣治に強い魅力を感じ、その時以来、私の中で、特別な存在の画家となりました。



先日、5月10日、20年ぶりに「ノルマンディーの春」を見に、再び関西日仏学館を訪れました。



カフェは別の経営者になり、椅子やテーブルなどの調度品は、すっかり変わっていましたが、「ノルマンディーの春」は20年前と同じ場所にありました。



カフェの給仕をしてくれた若い女性が、親しげに「ノルマンディーの春」の説明をしてくれました。



絵の説明をする嬉しそうで、誇らしげな彼女の表情に、私は20年前の自分の気持ちを重ねていました。



彼女も私と同様に藤田嗣治の「ノルマンディーの春」に魅せられたのだなと直感しました。



オペラ「カルメン」も「ノルマンディーの春」も、いちばんの魅力は、そのわかりやすさです。



難しい専門知識がなくとも、すぐに理解できることが、芸術には一番大切なことだと思います。



私もわかりやすい文章と万人の心に響く歌を目指して、歌い続け、書き続けようと思います。

2018年5月29日

大江利子


薩摩地方に灰汁巻き(あくまき)と呼ばれる素朴な食べ物があります。



灰汁巻きは、粽(ちまき)の仲間で、薩摩地方の伝統食です。



灰汁巻きには味がほとんどないので、きな粉や黒蜜などをかけていただきます。



もち米を、孟宗竹の皮に包んで、樫の灰汁でゆっくりと煮込んでつくられた灰汁巻きは、保存が効き、西郷隆盛が西南戦争で兵糧として持参しました。



灰汁巻きの始まりは、関ケ原の戦い(1600年)に、薩摩藩の兵糧として、あるいは、豊臣秀吉朝鮮出兵時(1592年)の携行食として、等、諸説ありますが、干飯(ほしい)のように水で戻す必要がなく、しっとりとして柔らかく、食べやすいのが特徴です。



私は、今年2月、オートバイで宮崎県から鹿児島を目指して走っていた時、立ち寄った道の駅(宮崎県小林市野尻町ゆーぱる野尻)で灰汁巻きに出会いました。



地元の新鮮野菜やハイカラな手作りパンが並ぶ中、私の目を引いたのは、筆箱くらいの大きさの茶色い竹の皮の巻物でした。



ひらがなで「あくまき」と書かれた未知の巻物を、手に取ると、硯(すずり)を持ったときのような、ずっしりとした重みを手のひらに感じました。



購入した灰汁巻きを、すぐには食べず、6日間のオートバイ旅を終え、帰宅した夕食用に、竹の皮の包みを開けてみました。



丁寧にきっちりと巻かれた竹の皮をほどくと、飴色に光る餅が顔を出しました。



包丁を入れてみると、粘り強く、小分けにするのに、難儀しました。



つやつやと炊き立てのごはんのように光る、飴色の灰汁巻きを、ひと口食べると、スーッと旅の疲れがとれました。



調べてみると、灰汁巻きは、薩摩地方では端午の節句に食べられる行事食と知りました。




端午の節句には、柏餅に鯉のぼりが一般的ですが、この灰汁巻きのように、地方によって特色ある食べ物やお飾りがあります。




私の郷里、岡山県では、端午の節句に張り子の虎を飾ります。



灰汁巻き同様に、張り子の虎の意味も、つい先月の4月2日まで知らなかった私ですが、一枚の油絵に描かれていた張り子の虎で、その意味を知りました。



張り子の虎の油絵を描いたのは、竹久夢二と同じ岡山出身の画家、国吉康雄(くによしやすお)です。



国吉康雄は、10代で単身アメリカに渡り、さまざまな職種を経験しながら絵を勉強して、日本人ながら、アメリカを代表する画家として認められ、ニューヨークでその生涯を終えました。



母国日本では、国吉康雄の生前には、その才能が理解されませんでしたが、近年、徐々に見直され、回顧展が開かれるようになりました。



先月4月、桜が満開の中、瀬戸内海を見渡せる小さな海辺の町、牛窓町の美術館で国吉康雄の展覧会が開催されるのを知って、私は仲良しの友人と行ってきました。








国吉の油絵はセピア色で、くすんだ色調が、特長です。





デフォルメされた国吉の人物画は、鬱積された都会生活に暮らすアメリカの人々の不満や、ため息が聞こえてきそうです。







けだるそうなポーズでタバコをくゆらせる下着姿の女性画を国吉がニューヨークで描いた頃、同時代の日本では同郷の竹久夢二が赤い振袖のたおやかな立田姫を描いて人気絶頂でしたから、国吉の絵がいかに斬新で、時代を先取りしていたかがわかります。




国吉展では、沈んだような色調で、ものうげな人物画が多かったのですが、黄色と赤色が鮮やかな、可愛い張り子の虎を描いた絵に私は強く惹かれました。





同行の友人が、張り子の虎の由縁を教えてくれました。



男子の健やかな成長を願う、端午の節句には、岡山では昔から武者人形と合わせて張り子の虎を飾る風習があるのだと。



また、国吉康雄の展覧会が開かれた牛窓町から車で10分ほどの邑久町の竹久夢二の生家の敷地内に張り子の虎の工房があることも。



私と友人は、国吉展のあと、邑久町の張り子の虎の工房に行ってみることにしました。



あいにく、工房はお休みのようで、人の気配はありませんでしたが、張り子の虎を作るための、昔ながらの道具がたくさん並んでいました。





郡山市の三春張り子、出雲市の張り子の虎、三豊市、相模原市と、張り子は日本各地で伝統的な技術が現在に伝えられています。



張り子は、型の上に濡れた和紙を貼り付けて、乾燥させ、中の型を取り出して、絵付けを行います。



仕上がりを美しい色合にするために、絵付けの前に和紙の上から胡粉(ごふん)で下塗りをします。



胡粉はハマグリなどの貝殻を何年も天日で乾燥させて粉砕し、ミクロンの単位まで精製された大変手間のかかる顔料です。



気の遠くなるような工程をいくつも経た日本の天然の素材から、張り子の虎が出来上がるのです。



灰汁巻きを作るにも、手間のかかる天然の木灰、樫の灰を使います。




今年2月、私は自分のコンサート衣装に、藍染めの真っ青なワンピースを選びました。



その藍染めは、一点一点、手染めをしている染物工房がつくった、とても手間のかかったワンピースです。



デザイン的には、派手なところはないのですが、しっくりと身体に馴染み、とても歌い易い衣装となりました。



藍染めのワンピースはコンサートのお客様にも好評でした。



灰汁巻きや、張り子の虎、藍染めなどのように、日本の伝統的な食べ物や工芸は手間のわりには存在主張がなく、派手さもありませんが、飽きのこない素朴な親しみやすさがあります。



国吉康雄は故郷から遠く離れた異国アメリカの地で学んだ絵画技法で、張り子の虎を描き、印象的な一枚を残しました。



私も日本の伝統的なものの良さを再発見し、吸収しながら、イタリアで学んだ発声法で歌っていこうと思います。

2018年4月29日

大江利子


「くいしん坊のカレンダー」という楽しい歌があります。



1975年(昭和50年)12月から翌年の1月までの2か月間、NHKの「みんなのうた」で放送された歌です。



「くいしん坊のカレンダー」の歌詞には旧暦の名称、その月の伝統行事、そして季節にふさわしい和菓子が登場します。


当時、小学校6年生で歌の大好きな私は、毎日放送される5分間の音楽番組「みんなのうた」を楽しみにしていました。



わらべうた風のリズミカルな「くいしん坊のカレンダー」の歌に合わせて、着物姿の大和撫子が美味しそうな和菓子を次々と食べていく映像を、初めて目にした時には衝撃が走りました。




くいしん坊で、音楽と同じくらい、お料理が大好きな私は、和服の美女が、色とりどりの和菓子を食べまくる「くいしん坊のカレンダー」の映像と歌が、43年前、脳裏に焼き付いてしまったのです。



大学時代、私が暮らしたアパートは、東京郊外の東大和市で、下町風情(ふぜい)が残る商店街の近くにありました。



商店街には、揚げたてコロッケを1個売りしてくれる肉屋、冬になったら灯油を配達してくれる米屋など、庶民の生活に密着した個人商店が立ち並び、独り暮らしの私には、お店の人との会話が嬉しい場所でもありました。



その商店街には、老舗の和菓子屋があり、竹久夢二の画のような、淡い色合いの和菓子がショーケースに並んでいました。



毎週火曜日、私はその和菓子屋で、3種類の和菓子を1個ずつ買い、一気に、食べるのが、何よりも楽しみでした。



桜餅とみたらし団子は大好物なので、毎回必ず、あと1つは、「くいしん坊のカレンダー」に登場する季節の和菓子でした。



毎火曜は、音大で、恐ろしいピアノレッスンの日でしたので、レッスンが無事終了すると、緊張の糸がほどけて無性に甘いものが欲しかったのです。



和菓子の美味しさの決め手はあんこです。



和菓子はあんこが美味しくないと、いくら見た目が美しくても、たくさん食べられません。



大学時代に毎火曜にお世話になった和菓子屋のあんこは、実に上品でさっぱりした甘さで、3個一気に食べても大丈夫でした。



美味しいあんこを作るには小豆選びが決め手となります。



日本の小豆は、大納言、中納言、白(しろ)小豆(しょうず)、黒小豆の4種類があり、小豆生産量の8割は北海道が占めています。



小豆は雨を嫌うので、梅雨明けに種まきをします。



また連作を嫌い、昼夜の寒暖差が必要なので、梅雨がなく、広大な土地と冷涼な気候を持つ北海道が小豆の一大産地となっています。



しかし、小豆の中で最高級とされる白(しろ)小豆(しょうず)は、岡山県で栽培されています。



岡山県の北西部、備中松山城のある高梁(たかはし)で白(しろ)小豆(しょうず)は栽培されています。



白小豆で作ったあんこは、くどさのない甘さが特徴で、変化のない、ありきたりの味ではなく、奥行きある味わいです。



この白小豆のあんこで、和菓子を作っている、こだわりの和菓子屋があります。



日光東照宮にその味を認められた「ひさの(久埜)」菓子店です。





「ひさの」の店主の先代は、おいしいあんこを作るために、質の良い小豆を探していましたが、白小豆の噂を聞きつけ、栃木県から、はるばる岡山県高梁市までやってきました。



「ひさの」の先代は、白小豆の種を岡山から持ち帰り、土壌改良などの工夫を重ねて、栃木県でも白小豆の栽培を可能にし、こだわりの白あんで、美味しい和菓子を作りはじめたのです。



昨年秋、「ひさの」を訪れる機会に恵まれた私は、「ひさの」先代のご子息で、現材のご当主から、当時のお話をうかがいながら、その和菓子をいただきました。




「ひさの」ご当主と奥様のおふたりで、先代の遺志を継いで、守ってこられた白あんの味は、その店構えと同様に気取らず、親しみやすく、けれども食べる人を納得させる奥行きある深い味わいの甘さでした。



そして何よりも驚いたのはその価格です。



こんなにも手間をかけて作った和菓子なのに、庶民の値段なのです。



貧しかった大学時代の私が火曜日ごとに、買っていた和菓子のように、庶民の生活に合わせた優しい値段なのでした。



これだけの素晴らしい味ならば、いくらでも値を吊り上げることは可能であるはずなのに、「ひさの」菓子店は、こだわりの味の上にあぐらをかくことなく、お客様の側にたった姿勢なのです。



先日、「ひさの」の白あんの味と同じように、親しみやすいけれど、奥行きのある彫刻に出会いました。



岡山県の白小豆の産地、高梁市の南、井原市出身の平櫛(ひらぐし)田中(でんちゅう)の彫刻です。



平櫛(ひらぐし)田中(でんちゅう)は107歳で亡くなる直前まで鑿(のみ)をふるい続けた生涯現役だった彫刻家です。



関東大震災、第二次世界大戦と、芸術家にとっては困難な時代をくぐりぬけながらも、貧しさに屈することなく、自分の納得いくまで作品を何度でもやり直し、完成させた人です。



平櫛(ひらぐし)田中(でんちゅう)の代表作は6代目尾上菊五郎をモデルとした「鏡獅子」です。



田中(でんちゅう)はこの「鏡獅子」を完成させるまで、何体ものやり直しや、試行錯誤を重ね、20年かけて見事に完成させました。



完成作の「鏡獅子」は日本の伝統芸能を上演する国立劇場に飾られています。



しかし、試作品の「鏡獅子」は岡山県井原市にある田中(でんちゅう)美術館で見ることができるので、私は夫のオートバイと見に行ってきました。



彩色していない試作品の「鏡獅子」はポーズがリアルで今にも動きだしそうな迫力がありますが、威圧感はなく、奥行きがあって、親しみやすい魅力がありました。



「鏡獅子」を観賞し終え、田中(でんちゅう)彫刻に酔いしれながら、館外を散策していますと、ある碑文に目が留まりました。



それは、岡山県民謡「中国地方の子守歌」の碑文でした。



「中国地方の子守歌」は私が、コンサートで歌う大好きな曲のひとつで、岡山県西南に伝わる民謡ということは知っていましたが、その碑文から発祥地が井原市だとわかり、とても嬉しくなりました。



偶然の出会いですが、改めて、井原市までやってきて、良かったなと思いました。



「ひさの」の先代は白小豆のことを、同乗したバスの紳士から、偶然に情報を得て、種を持ち帰ることができたそうです。



田中(でんちゅう)は、初日から千秋楽までの毎日、菊五郎の舞姿を生の舞台で見て、「鏡獅子」のポーズを思いつきました。



「中国地方の子守歌」は、井原市出身の若き歌手、上野耐之が、幼い頃から耳にしてきた、ふるさとの民謡を、昭和3年の春分の日、大作曲家、山田耕筰の前で披露しました。



山田耕筰は「中国地方の子守歌」のもつ、親しみやすく、奥行きある旋律に、とても感動して、たちどころに素晴らしいピアノ伴奏をつけて、広く知られるようになりました。



「ひさの」の和菓子や田中の「鏡獅子」、「中国地方の子守歌」のように奥行きがあり、親しみやすい歌手を目指して、私も視野を広げながら、日々精進しようと思います。



2018年3月29日

大江利子


東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて春な忘れそ



この和歌は、学問の神様として親しまれている、天神様こと平安時代の貴族、菅原道真(すがわらみちざね)が都を出立するときに、詠んだ歌です。



無実の罪で左遷となり、都を追われる身となりましたが、幼少から詩歌を詠むことに優れ、高潔な人柄の道真公は、取り乱すことなく、この和歌一首を残して、九州へ流されたのでした。



天神様を祀っている神社には必ず植えられている梅は、冬枯れの寂しい景色の中で、真っ先に蕾を開いて、春の訪れを告げてくれる花木です。



薄桃色や真珠色の梅の花が満開になる頃には、我が物顔に暴れていた北(冬)風も、穏やかな春(東)風に変わっていきます。



日本では、道真公の和歌のとおり、東風は春を呼ぶ優しい風で、西風は、秋に吹く寂しい風です。



しかし、ヨーロッパでは、春を呼ぶのは西風です。



ルネサンスの画家ボッティチェリが描いた「ヴィーナスの誕生」では、海の泡から生まれたばかりのヴィーナスを乗せた貝を、陸まで運ぼうと、ゼフュロス(西風)が薔薇の蕾が混ざった春風を、吹き付ける様子が描かれています。



また、ドイツの詩人ゲーテが恋人への愛を詠った「西東詩集」に収められた詩「ズライカ」にも西風が登場します。



歌曲王のシューベルトはその「ズライカ」に春風(西風)を思わせるような、浮き浮きとした喜び溢れるピアノ伴奏に甘いメロディーの歌を作曲しました。



洋の東西が変われば、森羅万象にこめられた意味が反対なものありますが、似た捉え方をされるものもあります。



首が長くて大きな鳥の後ろ姿は人のようですが、ヨーロッパでは白鳥が人の化身として

神話や童話の中に登場します。


ギリシャ神話では大神ゼウスは白鳥に姿を変えて、スパルタ王妃レダを誘惑します。



チャイコフスキーが作曲したバレエ音楽「白鳥の湖」に登場する白鳥たちは、悪魔の魔法にかかったお姫様と娘たちの化身です。



日本では鶴が、人の化身としてお話の中に登場します。



民話「鶴の恩返し」は、貧しい男に助けられた一羽の鶴が、若い女性に姿を変えて恩返しをするお話です。



劇作家の木下順二がこの「鶴の恩返し」を戯曲化した「夕鶴」は1949年の初演以来、上演回数1000回を超えるほどの人気芝居演目となり、宇野重吉、渡辺徹(与ひょう)、坂東玉三郎(おつう)ら舞台俳優の重鎮たちも演じてきました。



「夕鶴」は、作曲家の團伊玖磨(だんいくま)によって、日本人による純国産オペラにもなりました。



鶴も白鳥も季節によってねぐらを変える渡り鳥です。



雀や鳩は年中見かける身近な留鳥なので、親近感がありますが、遠くから渡ってくる白鳥や鶴に、人は神秘性を感じ、空想をかきたてられ、物語や神話が生まれていったのかもしれません。



人にはない翼をもち、何千キロも離れた土地から、迷うことなく生まれ故郷へ帰ってくる渡り鳥たちに、物語の題材としてではなく、科学的な理論を見出そうとした人がいます。



ルネサンスの巨匠レオナルド・ダヴィンチです。



パリのルーブル美術館に展示されている「モナリザ」や、ミラノの教会の食堂の壁画「最後の晩餐」で知られているダヴィンチは、500年以上前に、フィレンツェ近くの小さな村で生まれました。



ダヴィンチは、14歳から20歳くらいまで師の工房で修業しましたが、その後は独立し、すべて独学です。



画家として名高いダヴィンチですが、請われれば絵だけでなく、兵器や治水事業、騎馬像、など多方面に天才ぶりを発揮し、興味を持った分野は、とことん追求しました。



研究熱心なダヴィンチは、リアリティのある人物画を描くために、人体解剖し、人間の内蔵や血管、筋肉までも細かくスケッチし、それから絵筆をとりました。



興味の対象を納得いくまで観察し、どこまでも探索する心がダヴィンチの天才的な作品を生む秘密でした。



万能の天才ダヴィンチが、もっとも情熱を注いだ研究は飛ぶことでした。



その証は、彼の手書きのノート(手稿)に残されています。



ダヴィンチは興味を持ったあらゆる分野のことを13000ページの手稿に書き記しており、その中に、「鳥の飛翔」に関する研究があります。



ダヴィンチは、生まれ故郷の村の丘で、渡ってくる鳥を観察し、翼の研究をしました。



後世の人が滑空に成功した翼の形を、400年以上も先取りして、ダヴィンチはその翼に近い形のスケッチをのこしています。



先日、私は、世界一のナベヅル越冬地、鹿児島県の出水平野にオートバイで行ってきました。



野鳥観察が大好きな夫と私は、いつか出水平野のツルを見に行くことを楽しみにしていました。



しかし、夫は日々の忙しさに追いやられ、ついにその機会に恵まれず、旅立ってしまったので、私は元気なうちに彼の好きなオートバイで見に行こうと思い立ったのです。



出水平野のツル観察センターの隣の宿泊施設に宿をとり、窓越しから、降るような星空を眺めながら、1万3千羽のツルの鳴き声を聞き、眠りに落ちました。



その民宿は半世紀以上、ツルの保護に生涯をかけた又野末春氏が開いた施設で、ツル観察に訪れる人のための民宿でした。



又野氏は8年前に他界されましたが、又野氏のお嬢様と奥様が、毎年、ツルが越冬する季節だけ旅人を受け入れてくれます。



出水平野のツルは江戸時代、薩摩藩から手厚く保護されてきましたが、第二次世界大戦後、保護されなくなり、200羽ほどに激減し、危機的状況になりました。



しかし、又野氏は個人でツルの保護活動を始め、近隣の理解を得ながら半世紀もの活動によって出水平野は1万羽ものツルが越冬する飛来地になりました。



ダヴィンチも、又野氏も、独りで取り組み始め、たゆまぬ努力と試行錯誤をし、それぞれに前人未踏な素晴らしい成果を残しました。



ダヴィンチは400年も時代を先取りした鳥の飛翔の手稿を、又野氏は世界一のナベヅル飛来地を。



又野氏のツル保護活動を半世紀以上支えてこられた奥様の美味しい手料理をいただきながら、私にもできる前人未到のことがあることに気づき、夫と歩んだ暮らしを続けながら、自分の歌声を使って形にしていこうと思いました。



~つづく~

2018年3月1日

大江利子


チョコレート・ケーキの王様と称されるザッハートルテは、

音楽の都、ウィーンの名物菓子です。



チョコレート味のしっとりとしたバターケーキの外側をフォンダンと呼ばれる甘いチョコレートソースで覆い固めたザッハートルテは、1832年に、主の命を受けて、駆け出しの若い料理人フランツ・ザッハーによって考案されました。



ウィーンはヨーロッパ大陸の中心を流れるドナウ川沿いの町です。



ドナウは、ドイツ北部の森から流れの端(たん)を発し、ハンガリー、ルーマニアの東欧諸国を抜け、ウクライナ南西の内海、黒海にまで注ぐ、全長2860キロメートルの長い大河で、古くからヨーロッパの東西の重要な交通路でした。



ウィーンはドナウ川中流に位置する古都で、昔からヨーロッパ各地の珍しくて美味しいものが、ウィーンの町を行き交い、ウィーンの人々は美味しいものには慣れていました。



しかし、このザッハートルテは、考案されるとすぐに、舌の肥えたウィーンの人々を夢中にさせました。



ウィーンは昔からヨーロッパの文化と政治の中心を担ってきた都で、650年以上も栄華を極めたハプスブルク家によって街中に美しい建築物が残されています。



モーツアルトが結婚式をあげたことで知られている、壮麗な尖塔が美しいゴシック様式のシュテファン大聖堂や、悲劇のフランス王妃マリー・アントワネットが少女時代を過ごした離宮、シェーンブルン宮殿など、京都のように、ウィーンは街全体が美術館なのです。



シュテファン大聖堂と対峙するようにウィーンの中心に位置するホーフブルク王宮は、オーストリア皇帝の居城で、18の棟、19の中庭、2500以上の部屋を持つ広大な宮殿です。



18の棟には、宰相宮、スイス宮と名前がそれぞれつけられていますが、アマリアという愛らしい女性の名前の棟に、ザッハートルテが大好きな皇妃、エリーザベトが暮らしていました。



エリーザベト皇妃は、自分自身が美しくあることにこだわった女性で、毎日の運動と食事によって、身長173センチ、ウエスト52センチのプロポーションを生涯に渡って保ちました。



エリーザベト皇妃の化粧室には、彼女が使用した体操選手が使うような運動器具が残されています。



しかし、ハードな運動をしながらも、エリーザベト皇妃はザッハートルテが大好きで、ウィーンの王室御用達の菓子店には、ザッハートルテの大人の買いをしていた皇妃の注文書が残されています。



女性の憧れである永遠の美のために、不断の努力を生涯に渡って続けながらも、少女のように甘いものの誘惑に勝てなかった人間味あるエリーザベト皇妃は、ウィーン市民の人気者です。



エリーザベトの出身は公爵家の二女で、野山を駆け回って遊ぶ、おてんばな娘でした。



若きオーストリア皇帝フランツ2世が、お忍びの狩りの時に、偶然山で出会ったエリーザベトにひとめぼれし、ふたりは結婚したのです。



エリーザベトは幼い頃からシシーという愛称で呼ばれていたので、今でもウィーンの人々は、彼女ことをシシーと呼びます。



皇妃になっても、自由闊達なシシーは、政情不穏なヨーロッパ各地を恐れもなく旅行し、60歳の時に、スイスで、無政府主義者の刃によって暗殺されてしまいます。



ドラマティックなシシーの生涯は芸術家たちの琴線をくすぐり、映画、舞台、バレエになりました。



たくさんの美しい女優やバレリーナがシシー役を演じてきましたが、とりわけ、オーストリア女優ロミー・シュナイダーが演じたシシーは、素晴らしく、シュナイダー自身の代名詞になりました。



ロミー・シュナイダーは、17歳の時に演じた、映画「プリンセス・シシー」で、大評判となり、オーストリアのアイドルになりました。



その後のシュナイダーのキャリアに影響を及ぼすほど、シシー役のイメージが常に、彼女について回り、アイドル女優から脱出できずに、幅の狭い役しかできずに苦しみましたが、34歳の時に、イタリアの巨匠ヴィスコンティ監督の映画「ルードヴィヒ」で再び、シシーを演じて国際的な大女優としてその名を不動のものとしました。



ヴィスコンティ監督は、第二次世界大戦中の1942年に、映画「郵便配達は二度とベルを鳴らす」で、ファシズムに対抗する潮流ネオレアリズモの旗手として、監督デビューしました。



ヴィスコンティ監督は、「揺れる大地」「若者のすべて」など、社会の最下層で虐げられた労働者に熱い視線を注いだ映画を、世に送りだしますが、大戦終了後は、監督本人の出身である貴族社会を、美しく、かつ哀しく描いた作風に変わっていきます。



特に、アドリア海の女王と謳われたヴェネツィアを舞台にした「ベニスに死す」はため息の出るような美しい映像で、貴族出身であるヴィスコンティ監督の本領が存分に発揮された傑作です。



「ベニス死す」の主人公の男性は、初老にさしかかった作曲家です。



作曲家は創作の疲れを癒すため、ひとり孤独に、ヴェネツィアの豪華なホテルに滞在しますが、ギリシア彫刻の生き写しのような異国の美少年に出会い、その美しさに圧倒され、心の平静を失っていきます。



この主人公のモデル像のひとりは、ドイツの作曲家マーラーで、「ベニスに死す」の音楽はマーラーの第5交響曲4楽章「アダージェット」が使われています。



この「アダージェット」は、マーラーが自分の美しい妻アルマにあてたラブレターだと言われています。



マーラーは6歳から音楽を勉強しはじめ、ピアノの腕はすぐに上達し、10歳で初リサイタルを開くほど天分に恵まれていましたが、作曲家として生計はたてられず、生涯、指揮者として活躍しました。



指揮者マーラーのキャリアは田舎の小さな劇場からスタートし、音楽の殿堂、ウィーン国立歌劇場まで登り詰めました。



作曲家として過ごした時間は一年のうちで、劇場が休暇になる夏休みの間だけで、美しい湖のほとりの作曲小屋で、短期間に集中して自分の曲をつくりました。



マーラーの音楽には、作曲小屋で耳にした美しい自然風景、森のざわめき、風の音や小鳥のさえずりがたくさん入っています。



マーラーは、自分が指揮者として活躍した時代に、もてはやされた作風には迎合せず、自分が美しいと信じる作風で、「アダージェット」のように、彼の死後も、コンサートホール内だけ威力もつ音楽とは一線を画した、万人に魅力を放つ素晴らしい音楽を残しました。



マーラーは、夏休み作曲家としては、信じ難いほどの作品数を遺して51歳の生涯を閉じました。



マーラーは音楽だけでなく、その生涯もケンラッセル監督によって、「マーラー」という映画になっています。



マーラーやシシーのように、世界を覆いつくほどの魅力も才能も持ち合わせてはいませんが、凡人の私でも、彼らの美しさを、クーポラだよりで、お伝えできるほど、豊富な資料を遺してくれた夫に感謝する日々です。



2018年1月29日

大江利子


瀬を早み 岩にせかるる滝川の 割れても末に逢はむとぞ思ふ


(滝の水は岩にぶつかると二つに割れますが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれることでしょう。)



大和歌壇の宗匠、藤原定家が選定した小倉百人一首の77番歌として知られている情熱的なこの歌の作者は、崇徳(すとく)天皇です。



崇徳天皇は第75代の天皇で、保元の乱で覇権争いに敗れ、都を追われ讃岐に流されました。



朝廷の邪魔な存在だった崇徳天皇は罪人扱いされ、都に戻ることを生涯許されず、流刑地の讃岐で、46歳で崩御しました。



都に戻ることを切望しながらも、その願いが聞き届けられなかった崇徳天皇は、我が身が叶わないなら、せめて我が文字だけでも都に入れて欲しいと、3年がかりで、無欲無心で完成させた写経に、哀しい歌を添えて都へ送ります。



浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく


(書き写したわが文字のみは、あの千鳥と同じように都へ辿り着くことができるが、当の自分はこの松山でただ泣き沈むばかりである)



しかし、その写経さえも、怨念がこもっているとされて、朝廷から送りかえされてしまいます。



送り返された写経を見た崇徳天皇は、怒りのあまり、夜叉のようになったとの伝説が残っています。



この悲運の天皇、崇徳天皇の夜叉伝説は、後世の芸術家たちの琴線をくすぐり、浮世絵の題材や、保元・平治物語にも登場しています。



江戸時代の奇想天外な発想の絵師、歌川国芳も夜叉と化した崇徳天皇を描いています。



2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」では、崇徳天皇役に日曜美術館の司会をつとめる井浦新が迫力ある夜叉ぶりで印象的な演技を残しました。



崇徳天皇の陵墓は香川県坂出市の白峰寺に隣接しています。



白峰陵(しらみねのみささぎ)と呼ばれ、宮内庁の管轄下にあり普段は、一般人は参拝できません。



その地を訪れたことのある夫の「真夏にもかかわらず、白峰陵の真上だけは雲が垂れ込め、ただならぬ気配を感じた」という神秘的な感想が懐かしく思い出されます。



崇徳天皇は、「崇徳院」という題目で、古典落語にもなっています。



ただし、崇徳天皇が落語の主人公ではなく「瀬をはやみ~」の歌にまつわった町人の恋物語です。



古典落語は、「崇徳院」のように日本の文化や伝統を巧みに織り交ぜた独り芝居です。



噺家は声色や仕草を行く通りにも使い分けて、たった一人で何人も演じます。



古典落語を聞く側は、同じ作品でも、噺家によって表現される面白さの違いを楽しみます。



古典落語「崇徳院」は30分もの大作で、噺家大御所の演目とされており、例えば、その名人とされる三代目桂米朝と二代目桂枝雀は師弟関係ですが、両者ともまったく違う味わいの面白さを表現しています。


オペラも、古典落語と似た楽しみ方ができます。



オペラハウスで上演される演目は、どの国のオペラハウスもだいたい似ています。



「カルメン」「蝶々夫人」「椿姫」「フィガロの結婚」などの定番演目は、熱心な聞き手はそれぞれのオペラの細かなストーリーも音楽も熟知しており、同じオペラでも歌手や演出家によって異なる演奏表現を楽しみにしているのです。



落語は、春は「貧乏花見」夏は「千両蜜柑」、年末は「富くじ」というように、季節感あるものが上演されますが、オペラも同様に、季節によって上演する恒例の演目があります。



音楽の都ウィーンの、国立オペラハウスでは、大晦日に「こうもり」というオペラを上演するのが恒例です。



「こうもり」は「美しき青きドナウ」の作曲家ヨハン・シュトラウス二世の作品です。



「こうもり」は親しみやすく覚えやすいメロディーで、茶目っ気あふれた、粋で楽しいオペラです。



見る側は楽しい「こうもり」ですが、歌手の技量はとてもハイレベルを要求されるので、

さまざまな名歌手によって、たくさんの名盤が映像として残されています。



夫は「こうもり」が大好きで、何種類もの「こうもり」の映像をそろえており、私たちは、演出の隅々まで覚えてしまうほど、お気に入り盤の「こうもり」を見ていました。



そして、1997年12月31日、私たちは、ウィーン国立オペラハウスの立見席で「こうもり」を楽しみました。



歌手に代わって歌えるほどに、「こうもり」の予習をしていた私たちは、異国の地であることを忘れるほどに、くつろいでオペラを楽しみました。


落語もオペラも、初めてでも充分に楽しめるものですが、あらかじめ内容を知っておくだけで、その楽しさは倍増します。



堅苦しいと思われがちな古典芸術のオペラも、ほんの少し予備知識を入れるだけで、楽しい世界が広がるのです。



夫とともに、異国の地で国籍を越えた人々と「こうもり」というオペラを通して音楽の喜びを共有できたことは、私にとって人生の宝物です。



たくさんの人に、古典芸術の楽しみを知ってもらい、荷物にならない心の宝物を増やして欲しいと願い、私はクーポラだよりを書き続けるのです。


~つづく~

2017年12月29日

大江利子



(ウィーン国立オペラハウスの廊下の鏡の前で自撮りている夫 大江完 ↓ )


理由もないのに、心をつかまれて、忘れられない詩に出会います。



御正忌(ごしょうき) 参詣(めん)らんかん

情人(やね)が 髪結うて まっとるばん

寺の 夜明けの 細道に

鐘が鳴る

逢(お)うて 泣け との 鐘が鳴る



「からたちの花」の作詞者、北原白秋が残した「六騎(ろっきゅ)」という詩です。



六騎(ろっきゅ)とは、馬に乗った六人の平家落武者のことです。



壇ノ浦の戦いに敗れた平氏の残党は四国や九州各地の秘境に落ち延びました。



白秋の生まれ故郷にも六人の平家落武者が住み着き、地元住民たちを夜盗から守りました。



御正忌(ごしょうき)とは親鸞上人の命日、情人(やね)とは、恋人のことです。



クリスマスもバレンタインもなかった、その昔、結婚前の男女が夜明けまで共に過ごすことができるのは、御正忌の夜くらいでした。



「六騎」は、六騎伝説が残る北原白秋の生まれ故郷の町で行われる、年に一度の伝統行事、御正忌の夜を待ち焦がれていた恋人たちのせつない心情を表した詩なのです。



白秋のお国言葉の柔らかなアクセントが、艶っぽい内容を一層魅力的にしています。



この「六騎」の詩に、すっかり心を奪われた私は、昨年秋、オートバイで、六騎伝説が残され、白秋の生家が保存されている福岡県柳川市まで行ってまいりました。



柳川市は菅原道真公を祀った九州太宰府天満宮から60キロほど南西方向で、有明湾に近い水郷の町です。



柳川には、「掘割」と呼ばれる水路が市内を縦横に走り、「掘割」の水辺はたおやかな柳の木に縁どられています。



北原白秋の生家は川下りが楽しめる、柳川市内の最も美しい地区に今も大切に保存されています。



「六騎」の伝説となった平家落武者の魂を祀った六騎神社も、白秋生家の近くにあり、岡山からオートバイで走ってきた私を大いに満足させてくれました。



北原白秋は恋多き人で、若い時は情熱のあまりに、人の道を踏み外したこともありましたが、生涯の伴侶、菊子さんが見つかったあとは子煩悩な良きお父さんでした。



カニの床屋とウサギのお客のユーモラスなやりとりを詩にした「あわて床屋」は幸せな家庭の中で優しいお父さんになった白秋が伺い知れます。



一方、情熱的で息苦しいような詩、「六騎」は、道ならぬ恋に白秋が溺れた時期なのでしょう。



白秋が生まれ育った家や町を散策していると、自分にとっては、活字の世界だけに住んでいた遠い存在の白秋が、親しみが持てる人間になったような感覚を覚えました。



「六騎」は、山田耕筰によって幻想的な旋律がつけられ、歌曲になっています。



「六騎」を歌う時、柳川を訪れる前と後では自分の歌の中に込める感情の深さに厚みが増したように思えます。



20年前、1997年の元旦にも、この柳川訪問のように、心をつかまれた音楽に導かれてオーストリアのウィーンまで、夫と共に、足を運びました。



私と夫をウィーンまで導いたのは、モーツアルトが作曲したオペラ「フィガロの結婚」です。



モーツアルトは5歳で作曲し、ヨーロッパ各地で神童と称えられましたが、成人してからは、その才能に見合う役職を与えられませんでした。



モーツアルトが生きていた時代は、王侯貴族など、一部の特権階級が政治権力を握っていた封建社会でしたので、音楽家は、現代のように自由に作曲できなかったのです。



常に、特権階級である雇い主の趣味に合った音楽を作曲しなければなりませんでした。



しかしモーツアルトはそうしませんでした。



モーツアルト自身が納得する台本にしか、音楽をつけなかったのです。



その最たるものが「フィガロの結婚」です。



「フィガロの結婚」は、当時、絶対王政下のフランスで執筆され、貴族を痛烈に批判した内容で、思想的に危険とされたお芝居でした。



知恵者で平民の立場の召使いフィガロが、貴族の特権を振りかざして、傍若無人な振る舞いをする主人を、やりこめて、笑い者にするお話です。



モーツアルトは、この一歩間違えれば、自分の政治的な立場を足元から覆されそうな

「フィガロの結婚」に音楽をつけて、オペラにしました。



モーツアルトは、ウィーンの街中のアパートで「フィガロの結婚」を作曲しましたが、そのアパートは「フィガロ・ハウス」と呼ばれて、今も、柳川市の白秋生家のように大切に保存されています。



私は、夫とともに、ヨーロッパに記録的な大寒波が訪れた1997年の元旦に、マイナス13度のウィーンの街中を歩き、フィガロ・ハウスを詣でました。



かつてモーツアルトが暮らしていたアパートは趣味の良い上品な家具が置かれ、明るい色合いのインテリアは、生き生きとした躍動感あふれる音楽を作曲したモーツアルトらしいお部屋でした。



吐く息が凍り付いてしまうほど厳寒のウィーンの外気とフィガロ・ハウス室内の温もりある雰囲気がとても対照的で、強く印象に残っています。



オペラ「フィガロの結婚」は、完全な形で演奏すると3時間もかかる大作です。



しかしその中身の旋律と歌詞は、どの部分も、親しみやすく、男女の恋をテーマにした「六騎」のような小さな音楽の集合体です。



一般的に、オペラは、専門的に訓練を受けた人だけが歌うもの、と思われがちですが、モーツアルトは歌が好きな人ならば、誰でも歌ってもらいたいと思い、「フィガロの結婚」を作曲したのではと、思います。



茶目っ気がたっぷりのオペラ「フィガロの結婚」の楽しさや、「六騎」の切なさを広くお伝えしたいな、またできるなら歌っていただきたいなと願いつつ、オートバイで巡礼し、クーポラだよりを書く日々です。


~つづく~

2017年11月29日

大江利子


深く感動した映画は、人生の宝となります。



その映画のことを思い出すだけで、心が温かな感動に包まれ、生きる勇気を与えてくれます。



小学生の頃、喘息持ちだった私は、学校を休みがちでした。



季節の変わり目ごとに、体調を崩し、喘息の発作がでました。



喘息の発作は、真夜中におきます。



半身をおこし、掛け布団を抱きかかえて、背中を丸めて発作による呼吸困難をしのぎます。



夜明け前、やっと発作がおさまり、眠ることができます。



一晩中、喘息の発作と闘い続けたので、体力を奪われ、とても学校へ行く元気はありません。



午前中は、死んだように眠っていますが、午後には目が覚めます。



少しでも、元気になると、布団の中でじっとしているのが退屈になってきます。



両親共働き、一人っ子の私は、誰もいない家の中で茶の間のテレビで退屈な午後をしのぎました。



1970年代(昭和50年代)テレビで、白黒の古い洋画を放映していました。



「秘密の花園」や「若草物語」など、文学作品を題材にした白黒映画は、図書館で借りた本で原作を読んでおり、あらすじを知っていたので、小学生の私でも、とても楽しめました。



たくさん見た白黒映画の中で、特に印象に残っている映画があります。



1937年のアメリカ映画「オーケストラの少女」です。



失業したオーケストラ楽団員たちのために、歌の上手な少女が奔走する心温まる物語です。



「オーケストラの少女」には実在の指揮者やオーケストラが登場し、クラシック音楽の名曲がたくさん演奏されます。



成長するにしたがって、喘息発作は減り、音楽大学に進学した私は、ピアノの練習に追われ、映画を見る余裕などない青春時代でしたが、映画好きな夫と結婚して再び映画を見る機会が巡ってきました。



1990年代、一般的に新作映画を見るには、封切館(ロードショー館)と呼ばれる、大規模な映画館を利用しました。



岡山市内には岡山駅前に千日前映画館と中山下に映画館がありました。



どちらの映画館も、大資本に支えられた商業目的の娯楽映画を上映していました。



スピルバーグ監督の「インディ・ジョーンズ」、ルーカス監督の「スターウォーズ」、

キャメロン監督の「タイタニック」のような作品です。



しかし、クーポラだよりNo.31の岡本忠成のように小さな映画や、「オーケストラの少女」のように古典映画は、儲けを度外視しているので、封切館では上映されません。



では、岡本忠成作品のような、小さな傑作映画はどこで出会えたのでしょう?



1980年代、岡山市内では、オリエント美術館の地下ホール、岡山県総合文化センター(天神山文化センター)などで、映画通の人たちが自主上映会を開き、隠れた傑作映画を見せてくれていました。



現在、岡山市北区にシネマ・クレールという名の素敵なミニシアターがあります。



シネマ・クレールの館長の浜田高夫さんは、京都の大学を卒業後、郷里の岡山でご自分の見たい映画に出会えないもどかしさから、サラリーマンをしながら自主上映会を開き続けていました。



若き夫は、浜田高夫さんの自主上映会で素敵な名画にたくさん出会いました。



夫のファイルには半券やチラシが当時のまま美しく保管されています。



1994年に、浜田高夫さんは、映画への想いがいっぱい詰まったシネマ・クレールを

岡山市の石関町に誕生させました。



49席の可愛いホールですが、映画審美眼の鋭い浜田高夫さんが納得のいく傑作映画を上映する全国的にも貴重なミニシアターです。



1995年、夫と私は開館して間もない、石関町のシネマ・クレールにベルギー人コルビオ監督の「カストラート」という映画が上映されると聞きつけ、見に行きました。



コルビオ監督は「仮面の中のアリア」という作品で、我が家ではお馴染みでした。



「仮面の中のアリア」は本物のオペラ歌手が主役で、引退したオペラ歌手が若い歌手を育てる映画です。



「仮面の中のアリア」には、オペラ歌手になるための秘訣がたくさん散りばめられ、私は、何度も繰り返し見ていました。



そのコルビオ監督の新作がシネマ・クレールで見られると知って夫と私は石関町に足を運んだのです。



「カストラート」とは、オペラを歌うために去勢された男性歌手のことです。



ヘンデルやバッハが活躍したバロック時代は、オペラ歌手の発声技法は華やかでスペクトルなもので、常人には信じ難い高音を、目の覚めるようなスピードで歌うことのできる歌手が、スーパー・スターとして、もてはやされたのです。



技巧的な歌い方は、強靭な肉体としなやかな声帯が不可欠です。



女性オペラ歌手は、しなやかな声帯を持っていますが、男性並の筋力はありません。



ひばりがさえずるような軽い声で歌う歌手は、演歌歌手のようなドスの効いた低音は出せません。



ヴァイオリンとコントラバスで音域を分けるのと同じです。



けれども、ひとりの人間の肉体の中で不可能に挑戦したのがカストラートなのです。



自然に逆らって、技巧のために誕生したカストラート歌手の活躍と哀しみを描いた映画が、

「カストラート」です。



カストラートは、危ない医療行為が問題視されて、現在は存在しません。



けれども、怪しく、美しいカストラートの技巧的な歌声は人々の耳に残り、ヘンデル以降の作曲家たちも魅力しました。



女性オペラ歌手たちの見せ場のソロ部分で、アップ・ダウンの激しい技巧的な旋律が登場するのは、その名残りなのかもしれません。



私がオペラ歌手の歌い方に魅了される理由のひとつも、その技巧的な部分です。



自分で何故なのか説明がつかず、言葉が見つかりませんでしたが、夫とともに、石関町のシネマ・クレールで「カストラート」を見てからは、答えが見つかったように思います。



失われた幻の技法、不可能な歌い方をいつか我が物にしたいと思い、日々精進する毎日なのです。


~つづく~

2017年10月29日

大江利子