クーポラだより最新号

今年は50年前から憧れていた曲、ショパンの英雄ポロネーズに挑戦しています。



ポロネーズとは「ポーランド風の」という意味のフランス語で、ポーランド起源のダンスまたはそのための曲の形式(舞曲)のことを指します。



ポロネーズの起源はワルツやガボット、メヌエットのようにお祭りで踊られていた農民のダンスではなく、宮廷で貴族の行進が始まりだと言われており、ショパンの英雄ポロネーズは左手の迫力ある伴奏リズムに乗って、勇壮な旋律が展開するのが特徴です。



「英雄ポロネーズ」という題はショパン自身が名付けたわけではありません。



一説にはショパンと関わりが深かった弟子たちか、あるいはこの曲を聞いて感心した人たちが名付けたといわれています。



1945年に製作されたショパンの伝記映画「楽聖ショパン」は、史実に基づいているわけではありませんが、印象的な英雄ポロネーズの登場シーンがあるのでご紹介します。



11歳のフレデリック(ショパンのファーストネーム)はワルシャワ郊外の緑豊かなジェラゾラ・ヴォラ村の質素な家で熱心にピアノを弾いています。



フレデリックの指から流れ出る音楽は、甘く軽快で人々の心をすぐに虜にしてしまいます。



フレデリックは7歳から自分で作曲していました。



フレデリックのピアノの師匠エルスナーは自分の幼い弟子の天賦の才を見抜いていました。



そして、その才能に相応しい場所で弟子の才能を開花させるべきだと両親に強く勧めていました。



エルスナー先生が勧めていたのは、パリでの公開演奏です。



当時パリは、ヨーロッパで最も芸術に関心が高く、一流の芸術家たちが集まっていました。



それにパリには、エルスナー先生の旧友プレイエルがいました。



プレイエルはハイドンの弟子だった人で、新しい構造のピアノを作る会社を起こし、興行主としても活躍していたのです。



モーツアルトやハイドンの時代のピアノは現代のように88鍵もなく、豊かで大きな音も出ませんでした。


当時の音楽は封建社会の頂点だった貴族や教会が独占していたので、彼らの要求に応えるために控え目で折り目正しい雰囲気のものが求められ、ピアノも現代のように大きな音が出なくても良かったのです。


しかし時代が進み、市民革命がおこり、人間の豊かな感情や自然の景色などを題材にした音楽を社会が求めるようになると、ベートーヴェンの熱情ソナタのようにダイナミック響きを必要とする曲が作曲され始めたので、ピアノメーカーもそれに応えて改良を加えていき、現代のようなピアノになっていくのです。



プレイエルのピアノの特徴は鍵盤のタッチが軽くてアクロバティックな演奏に向いていました。



プレイエルはエルスナー先生からポーランドに神童がいるとの知らせを受けて、興味を示しパリに来るようにと言ってくれました。



しかしフレデリックの両親は反対でした。



ポーランドからフランスはあまりにも遠いし、自分の息子にそこまで才能があるとも信じられず、地元ワルシャワ貴族のお抱えピアノ教師にでもなれたら十分くらいにしか思っていなかったのです。



月日は流れ、エルスナー先生とフレデリックがようやくパリのプレイエルのところへ出立できたのは11年後でした。



パリに到着したエルスナー先生とフレデリックは旅装も解かずに、プレイエルの会社に駆けつけました。



プレイエルはピアノメーカーとしても興行主としても大成功し、彼の会社のショールームの中には、最新式の豪華なグランドピアノが何台も陳列されていました。



プレイエルの社員たちはきらびやかなショールームには場違いなエルスナー先生とフレデリックを見て、ふたりを制しますが、振り切ったふたりが社長室に飛び込むと今度はプレイエルが冷たく言い放ちました。



「神童の時ならば価値があったけれど、大人になったのでもう用はない。」



驚いたエルスナー先生は、反論します。



「11年もたてば神童は成長し、天才になる。フレデリックは作曲もする。素晴らしい曲だよ!」



それでもプレイエルは、ふたりを追い出そうとしながら言います。



「パリでは天才の作曲した音楽なんて街中にいくらでも転がっている!」



するとその時、ショールームからフレデリックが作曲した曲を誰かが弾き始めました。



それは、リストでした。


リストは、ハンガリー出身で超絶技巧の腕をもつピアニスト兼作曲家として、すでにパリで名声を確立していました。



リストはショールームに置いていたフレデリックの楽譜を偶然に目にして弾き始めたのです。



「名曲だ!誰の曲だい?」



リストは嬉しそうに弾きながら、集まってきたプレイエルの社員たちに尋ねましたが、誰もわかるはずがありません。



フレデリックは黙って、リストが弾いている隣のピアノに座って、同じように弾き始めました。


「ああ、君が作曲者だね!素晴らしい曲だ。それに君の演奏も素晴らしい!握手をしたいが、この曲を中断したくないから無理だ。」



リストはフレデリックの曲を嬉々として弾きながら言いました。



それは英雄ポロネーズでした。



「それでは、僕が旋律を弾くから、リスト先生、あなたが伴奏を弾いてください」



「うん、いい考えだ!」



フレデリックとリストは英雄ポロネーズを片手で弾きながら、空いた方の片手で固い握手を交わしました。


それを見ていた、プレイエルはエルスナー先生に言います。



「ショパンの公開演奏会は2週間後だ!」



私が初めて英雄ポロネーズを聞いたのは、1976年NHKで放映されていた名曲アルバムです。



素晴らしい旋律と迫力ある左手の連続オクターブに圧倒され、思ったものです。今は無理だけど、いつか必ず弾けるようになりたいと。



50年越しの憧れのショパンの英雄ポロネーズ、譜読みを始めて6ヶ月目、ゆっくりだけれど、なんとか最後まで弾けるようになってきました。



ちょっと背伸びですが、来年2月の発表会にお披露目できるようお稽古しようと思います。

2025年7月31日

大江利子


1979年(昭和54年)7月、中3の私は夏休みを利用して、分厚いハードカバー2冊に渡る長編小説「風と共に去りぬ」の読破に挑戦しました。



「風と共に去りぬ」の作者は、1900年アメリカジョージア州アトランタに生まれたマーガレット・ミッチェルです。



ミッチェル女史の父はアトランタの弁護士協会や歴史協会会長を務め、地元史に精通し、彼女の母方の親戚は南北戦争経験者たちで「風と共に去りぬ」にはその影響が色濃く出ています。



ミッチェル女史の執筆活動は新聞社「アトランタ・ジャーナル」に就職し、日曜版のコラムを担当したことに始まります。



しかし、最初からジャーナリスト志望ではなく、もともとは医学を志していました。



大学で医学を学んでいたミッチェル女史は、1919年に大流行したインフルエンザによって母が亡なり、母の代わりに家の切り盛りをするため、故郷に戻って就職したのでした。



このことも、「風と共に去りぬ」の主人公の母が腸チフスによって亡くなり、主人公が故郷タラに戻るところに反映されています。



ミッチェル女史は2度の結婚経験があり、1度目は22才、2年後に離婚し、2度目の夫が「風と共に去りぬ」の執筆に協力的でした。



ただし、出版目的ではなく、ミッチェル女史が足を骨折し、その療養中の心の慰めとして始めた創作活動でした。



原稿は約10年かけて完成し、たまたまミッチェル女史のもとを訪れた編集者の目に留まり、1936年6月30日に出版されるや否や空前絶後のベストセラー、翌年ピューリッツァ賞を受賞しました。



3年後の映画化でも世界的な大ヒットを飛ばし、第12回アカデミー賞は10部門のオスカーを受賞したのです。



主婦から一気にベストセラー作家になったミッチェル女史は、次作を期待されましたが、持てる力をすべて注いで完成させた作品だからと次作の筆は持とうとしませんでした。



風と共に去りぬの出版から13年後、交通事故がもとで、ミッチェル女史は48歳でなくなり、遺言によって彼女の未発表原稿はすべて破棄されました。



なんと高潔な意志の持ち主なのでしょう。



私が「風と共に去りぬ」を初めて知ったのは映画です。



日本初テレビ放映となった1975年10月8日と10月15日で、当時小6の私は夢中になって見た記憶があります。



映画を見ると、原作が読んでみたくなり、15歳の誕生日に買ってもらった河出書房出版の世界文学全集21、22巻の読破に挑戦したのです。



以下、中3の私が書いた読書感想文です。



風と共に去りぬを読んで

三D 山本利子

 今まで読んできた小説の中で、愛について考えさせられたものは、なかったように思える。


一口に愛といっても色々あるが、この小説では男性と女性の間に生まれる愛と、相手を思いやる愛がテーマなのではないかと思う。


まだ人生経験の少ない、まだ十五年しかこの世に存在していない私がこんな事を考えるのは早いかもしれないが、ここで今まで考えていた事、この小説を読んで考えたことを述べたいと思う。


私が今まで考えてきた愛、愛の表現とは、相手に尽くす、いたわる、大事にするとことが愛、愛の表現だと思っていた。


ただ相手を思っていっしょにいたいと、という独占欲のある愛は本当の愛ではないと思っていた。


しかしこの小説を読んでみて、独占欲のある愛も真実の愛だとわかった。


レット・バトラーが風のようにスカーレットの前にあらわれては、愛を告白し、最後はスカーレットが自分を愛していなくとも、強引に結婚し、スカーレットの第3番目の夫となった。


レットは真実、スカーレットを愛していた。


これは独占欲のある愛だと私は思った。


それから、スカーレットが単純な理由でアシュレを愛するようになり、レットが自分の前を去るまでアシュレを追い続けることを止めなかった。


このスカーレットがアシュレに対する愛は、私が先ほどまで真実の愛だと考えていた、「態度で示す愛」の典型的なものだろう。


この愛のためアシュレは男としての意地を失ってしまう。


つまりスカーレットがいいと思ってしたことはアシュレにとって悪いようにしかならない。


なんとアシュレは哀れだろう。


スカーレットを愛しているのにスカーレットからくる愛の報酬は仇にしかならないとは。


それに気づかぬスカーレットも哀れだ。


つまり彼女は子供なのだ。


愛に対してはまったく無知なのである。


彼女は自分にくる愛はきづかず形のない夢のようなうその愛を追い続ける。


そして自分を愛しているものには、その愛をとりあげて、利用する。


そのため、三人の男性が犠牲になり、そして命を落とした。


ではそんなスカーレットをなぜレットは愛したのだろうと私は思う。


彼は何もかも見通していたはずなのに。


そんなことは気づかないはずはないのに。


いや彼だけではない。


ほとんどと言っていいほどすべての男性が彼女のとりこになる。


女の私の目から見て、美しさ以外は彼女の魅力はこれといってないのだが。


男性というものは美しさだけでなく相手の性格に魅力を感じるのだろうか。


しかし愛というものは不思議なものだ。


人間の人生、運命は愛によってその歯車が回転し、推し進められているのだろうと思う。


なんと愛は私たちのまわりに大きく君臨するのだろう。


愛はいつも、私たちを育くみ、見つめ、いたわり、そして苦しみを与える。


この小説を読んで、愛のすべてがわかったわけでもないけれど、若い私にとって大きな収穫だったと思う。


この感想文は毎年発行される母校高揚中学校の校誌に掲載されたものです。


本棚の整理をしていたら、懐かしい冊子が見つかり、約半世紀ぶりに自分の書いたものを読み返しました。


そして反省しました。


あのころのように、もっと真剣に本を読もうと。

2025年7月6日

大江利子



2025年5月26日午前4時15分、62歳の誕生日を1カ月後に控えた私はオートバイの後部座席に最小限の着替えと日用品を詰め込んだバッグを載せて、走り出しました



私が向かった先は瀬戸内海の児島湾沿岸の小さな港、小豆島行きのフェリーが発着する新岡山港です。



新岡山港は我が家からは東南に位置し、ちょうど日の出の方角です。



4時15分は夜明け前で、周囲の景色はまだ漆黒の闇に溶け込んでいましたが、目指す港の空には朝焼けが見え始めています。



この日、岡山市の日の出時刻は4時55分、私が新岡山港に到着した4時40分には、海の彼方の空の端は朝焼け色の濃いローズピンクが広がっていました。



新岡山港からは神武天皇が降り立ったという伝説が残る高島が見えます。



潮が引いたら、歩いていけそうなくらいの距離の小さな無人島で、鳥たちの楽園になっています。



高島の上空を鳥たちが乱舞しつつ朝のあいさつをする鳴き声を聞きながら水平線上に太陽が昇るのを待ってみましたが、あいにく雲が邪魔をして、朝日を拝むことはできないまま、日の出時刻が過ぎました。



ちょっと残念ですが、雨が降っていないだけでも幸運です。



なぜなら、私はこれから石川県の千里浜海岸まで、約500キロの距離を走るサンライズ・サンセットラリーのスタートをこの新岡山港で切るからです。



太平洋側の任意の海辺から日の出とともにスタートし、同日、日の入りまでに千里浜海岸にゴールするサンライズ・サンセット・ラリーに私が出走するのは、今回で7回目です。



過去6回はいずれも完走、この日は、連続7回目の完走をかけて、午前5時に新岡山港から走り始めました。



ラリーの時は、連続走行50キロごとに休憩を取る、というのが、私のペースですが、この日は想定外の寒さで、いつものようには走れず、40キロ走行したら、休憩をとり、ストレッチで身体のこわばりをとりながら走り続けました。



出発前に、防寒用のダウンを携行しようかと迷いましたが、荷物は少ない方がオートバイのバランスには有利なのでやめたことを後悔しました。



私がラリーに使うオートバイは、スズキのボルティです。



オートバイのことは鉄の馬と呼ぶ人がいますが、ボルティは馬というよりもポニーです。



排気量250㏄の小さなボルティはスピードこそ出ませんが、ポニーのように車高が低く、足つきもよく、郵便屋さんが使っているカブのように、小回りが効いて、取り回しが非常に楽なことが利点です。



二輪はスピードに乗って走っている時は、バランスが取れますが、乗降時にバランスを崩して、倒しやすいものです。



同じ二輪でも自転車なら車体が軽いので、倒しても簡単に起こすことができますが、200キロ以上もある大型オートバイのバランスが崩れて、地面に横倒しになると、私のように非力な女性にとって引き起こしは不可能に近いです。



万が一、倒れたとしても自力で引き起こしができる車体は、私にとってはボルティだけなので、毎回ラリーにはボルティを選びます。



しかし、そんな可愛いボルティでも、欲張って携行品をたくさん積めば、重量が増して、引き起こしがやりにくくなります。



実は過去のラリー(帰路の時)で、倒してしまった経験が数回あり、いずれも荷物をたくさん積んでいたため、引き起こしに苦労した苦い思い出があるのです。



それゆえ、7回目の今回は、過去最小限の荷物で臨んだのですが、予想外の寒さで、ダウンを持参しなかったことを後悔しました。



幸いにも雨具は持っていたので、合羽を着こみ、途中でカイロを買って寒さと戦いながらのラリーとなりました。



岡山から兵庫までは東に約100キロ山陽道を走りますが、姫路東からは北上して舞鶴に入り、舞鶴若狭道から北陸道に向かうのがいつもの定石ルートです。



しかし今回は、寒さゆえに、迷いました。



舞鶴へは姫路東から北上しなくとも、滋賀県まで走り、米原から北上して北陸道に乗るという選択肢もあるのです。



少しでも、北上を遅らせると、寒さが和らぐかもしれないと、甘い考えが私の脳裏をかすめましたが、思いとどまりました。



下調べをしていない新しいルートを、一瞬の迷いから選択するのは、危険だからです。

過去6回の定石ルートなら、どこのサービスエリアにどんな施設があり、給油所はどこにあるかなども、ほぼ覚えていました。



寒いけれど、手堅く定石ルートで走ろうと覚悟を決めて、こまめに休憩をとりながら無事に7度目の完走を果たしました。



しかし、私の中では、ゴール翌日が7度目完走以上の挑戦でした。



過去のラリーでは、ゴール翌日は一日200キロ程度をのんびり走って体力回復を図りながら帰路につきます。



しかし今回は、どうしても行きたいところと、どうしても会いたい人が関東地方にいたので、ゴール翌日も500キロ走りました。



宿をとった金沢から上越まで北陸道を北上、上信越道で長野から群馬、栃木、茨城へまでたった1日で500キロ走ったのです。



つまり、5月26日で500キロ、5月27日で500キロ、2日で1000キロを走破しました。



そして1000キロ走った翌日は、茨城から東京の東久留米を経由し、長野県諏訪に宿をとり、最終日は、諏訪から中央自動車道を使って名神、新名神、山陽道で帰宅したのです。



総走行距離は2007キロとなりました。



計画をたてたときは、かなり不安でしたが、今までの経験値からすると、できそうにも思えました。あとは自分の体力と集中力がもつかどうかでしたが、62歳目前の新たな挑戦は、ボルティを倒すこともなく、満点ではないけれど、まあまあ成功でした。



来年のラリーでは、この挑戦を踏まえて、もう少し新しい何かを付け加えられる元気な私でいたいです。



2025年6月4日

大江利子



「何か練習したい歌はありませんか?リクエストを下されば自習練習できる動画を作りますよ」



最近の私は、親しくなった人からリクエストをいただき、歌の自主練習動画を作成し、YouTubeで公開しています。



私の自主練習動画の特徴は歌詞だけでなく楽譜も付いていることです。



つまり弾き語りをしている私の歌声に合わせて映画の字幕のように歌詞と楽譜が同時に流れるのです。



この楽譜と歌詞付きの動画を作るには、大変な手間と時間がかかります。



しかし出来上がったときの達成感は、その労苦を忘れるほどに大きく、またリクエストをしてくれた人も喜んで使ってくれるので、自分の弾き語りが誰かの役に立つことが嬉しくて、寝不足と戦いながら、せっせと動画を作り続けています。



リクエストは、私の専門のオペラに限らず、何でも喜んで受け付けています。



アニメソング、シャンソン、映画音楽、フォークソング、昭和歌謡、いろいろなジャンルのリクエストをいただきますが、もしもリクエストをいただかなかったら、オペラ一筋の私にとっては、積極的には出会うことのない曲ばかりなので、強制的に視野が広がり、とても良い勉強になっています。



そしてそのリクエストによって最近の音楽の流行もわかり、感心させられたり、憂えたりもしています。



感心させられたことの中で、最も印象的なことは、ロックバンドの男性歌手、大森元貴さんの驚異的な声域とその美しい裏声です。



オペラを専門とする私の声域は五線よりも下のファから五線よりも上のミまで、つまり約3オクターブあり、ソプラノ歌手としては普通よりやや広い方ですが、大森元貴さんの声域(裏声も含む)はさらに広く、3オクターブ半あり、まるでひとりの人間の中に、テノール歌手とソプラノ歌手が混在しているようです。



これまで裏声を使う男性歌手は幾人もいましたが、大森元貴さんのように地声と裏声を自由自在に操りながら小鳥がさえずるように楽々と高音を出せる歌手を私は他に知りません。



また往々にして裏声を使った歌声は弱過ぎたり、金切り声に近かったりで、耳心地も悪く、美しく聞こえないものですが、大森元貴さんの裏声は瑞々しくて艶やかで、しかも力強いので、圧倒的な歌唱力を持っています。


初めて彼の裏声の歌声を聞いたとき、私はすぐにジェラール・コルビオ監督の映画「カストラート」の主人公のファリネッリを思い浮かべたほどです。



カストラートとは、ボーイソプラノ時代の美しい声を大人になっても保つため、変声期を迎える前に去勢手術を受けた男性歌手のことで、今でこそカストラートは存在しませんが、彼らが活躍した全盛期は、その美しい歌声に人々が酔いしれ、特に優れた歌唱力をもつものはスーパースターだったようです。



そして映画になったファリネッリの声域は3オクターブ半、彼の歌声を聞いた女性はその驚異的なテクニックと美声に失神したとの記録がヨーロッパ各地に残っています。



ファリネッリの美声は、ナポリの高名な声楽教師ポルポラに師事したことにより身につけたと言われています。



私もそのポルポラが作曲した練習曲集をミラノの楽譜店で見つけて購入し、練習してみましたが、ファリネッリの驚異的な発声の秘密がわかる気がしました。



一般的に声楽の練習曲は、朗々と声を響かせることと、音と音を綺麗なレガートで繋いで歌えることを一番の主眼とするために叙情的な旋律が多いのですが、ポルポラの練習曲は異なります。



まるでピアノやバイオリンの運指のためかと誤解するくらい機械的な旋律の練習曲なのです。



音階の激しいアップダウンや、トレモロのような細かい動きを含むメロディーを、どんなに速いテンポでも正確に歌えるようになることを主眼とした練習曲で、これが完璧にマスターできた上で、ボーイソプラノの美しい声を響かせることができたなら、ファリネッリのような歌手が誕生しても不思議はないと思います。



大森元貴さんの歌声は、どうやって身につけたかは謎ですが、ポルポラが要求したような技巧の正確さ、ボーイソプラノのような美しい裏声の両方を合わせもっているのです。



さらに付け加えるなら、楽曲の作詞作曲も大森元貴さん自身なので、凄い天才が現れたものだと感心しているところです。



さてもう一方の憂えることですが、最近の若い日本人女性歌手の発声です。



発声をする体の器官は、声帯と呼ばれている喉の中にある二枚の粘膜ですが、この粘膜は息を吸う時は開き、声を出す(息を吐くとき)ときはぴったりとくっつき1本の弦のようになって振動することにより音を出します。



時報や調律に使う基本のラの音は440ヘルツですが、私たちがラを歌うときは、1秒間に喉の中で声帯が440回振動しているわけです。



くっついた声帯は肺から出てくる空気に振動して音を出し、舌や歯にぶつかって言葉を作り、鼻腔や頭蓋骨に共鳴して歌声となります。



この驚くべき高性能な楽器である声帯は宿っている人の体と呼応しています。



華奢な体つきの人の声帯は薄くて高い声が出やすく、頑健で大柄な体つきのひとの声帯は、厚く低い声が得意です。



そして欧米の女性に比べて華奢な体つきの日本人女性の声帯は、ほとんどの人が高い声を得意とするソプラノ(薄い声帯)が多いと言われ、低い声が得意なアルト(厚い声帯)は稀だと言われています。



公立学校で音楽教師の経験ある私は数千人以上の女生徒の声を聞きましたが、やはりソプラノがほとんどでアルトに出会った経験はないです。



それなのに、最近の日本人女性歌手たちは、無理して低い声を出し、本来ならば地声で歌える音の高さを裏声で歌い、優しく女性らしい高い歌声に価値を見出していないように思うからです。



声帯は、どんなに意図的に作った声で歌っていても、生物的に向いていなければ、やがては音声障害を起こし、薄い2枚の膜の柔軟性は失われ、2枚の膜はくっつきにくくなり、息もれして、しゃがれた声しか出させなくなり、最悪の場合はポリープが出来て、歌うことはおろか、話すことさえも不自由になります。



カストラートのような高音の美声をもつ男性歌手がスーパースターとなり、低くてドスの効いた歌声の女性歌手の方に人気が集まるのは時代の流れなのでしょうか?



なぜそんな流行になるのか私には理解できませんが、声帯はそれぞれの人に与えられた唯一無二の楽器です。



流行に振り回されないで、自分の声帯に合った発声法で、健やかな声を保ち、何歳になっても歌を楽しんで欲しいです。



2025年4月29日

大江利子


手放せずにいたものをメルカリと呼ばれるインターネット上のフリーマーケットに出品しています。手放せずにいたものは、たくさんあります。


夫が大好きだったオートバイ用品や、仕事で使っていたカメラ、趣味の模型やそれらに関する膨大な書籍です。


それらは生前の夫が、どこに何があるかを瞬時に見つけだせるようにと、壁一面の棚に並べて収納しているので、我が家はまるで博物館か図書館のようです。


手放せないものを、思い出という感傷的な感情抜きにして、使う、使わないかの二択でふるいにかければ、一日の大半を生徒とのレッスンや歌やバレエのお稽古に費やす私にとって、大半は不要品です。


整然と収納してはいるけれど、我が家のモノは、それを必要とする主(あるじ)を失ったものばかり、それらに囲まれて暮らす私はまるで不要品倉庫の番犬のようです。


ある日それに気が付いた私は、夫のものを喜んで使ってくれる人と出会えるチャンスがあるメルカリに出品し始めたというわけです。


そしてそれに気づくきっかけをくれたのは、夫の母の硯です。


その硯はしっかりとした和紙の箱に入っており、蓋を開けるとクチナシ色に染められた布に包まれ、硯の裏面には「百歳記念 高井慎一郎 昭和51年9月12日」の刻印があり、実際に使った形跡はありません。


高井慎一郎は夫の母方の親戚で、勝山町の町長を務めた人物でした。


元勝山町長百歳の祝い品として配られたその硯は高田硯と呼ばれる県指定の伝統工芸品です。



硯の原石である高田石は、1億4千万年前頃に堆積した関門層群と呼ばれる黒色粘板岩で、勝山町で採掘されるとても貴重な石です。



高田硯の伝統は古く、室町時代の文献にまで遡ることができ、高田城の重臣・牧兵庫助が、豊後の大友宗鱗に高田硯を送ったと「牧文書」に記されています。



現存する最も古い高田硯は、江戸時代初期の寛永20年、作州高田住村上氏の銘のあるものですが、この頃盛んに製作されていたらしく、寺の過去帳にも硯屋何々とよく登場します。



江戸時代中期の明和元年(1764年)、三浦氏が高田城主となりましたが、初代の三浦明次公は名筆家の誉れが高く、原石を藩有として乱堀を防ぎ保護しました。



また、代々藩主交代のときには高田硯を将軍家へ献上するのを例としてきました。



高田硯はすべての工程を手作業で行われ、完成したものは、気品あふれる漆黒の光沢が特徴で、石が軟らかく、墨が良く乗り、水持ちが良いという性質があります。



私は高田硯の名前くらいは知っていましたが、実際に使ったことも、見たこともないはずなのに、和紙の箱の蓋を開けて、それを手にとって眺めていると、懐かしい記憶がふいによみがえりました。



50年以上前、小学4年生の頃、私は確かに高田硯を見たことがあるのです。



当時10歳の私は岡山市内の団地に住んでいましたが、その同じ団地内で書道を教えくれる先生のお宅へ週一度、通っていました。



書道教室が開かれる日、先生のお宅にあがると、弟子たちは部屋の隅に立て掛けてある折り畳み式の長机を2つ並行して広げ、弟子の数だけ座布団をポンポンと置いて、即席の教室をつくります。



先生の教え方は学校のように一斉式ではなく、子供たちの習熟度によって課題の文字を与えます。

子供たちは与えられた文字を練習し、上手く書けたと思ったら、先生に見てもらい未熟なところは朱色の毛書で訂正してもらい、良く書けているところは〇をもらい、全部良かったら、書全体に大きな花〇をもらって喜んでいました。



私はそんな先生の教え方が大好きで、一生懸命に練習し、通い始めて1年足らずで、毛筆検定の初段までとっていました。


もう先生のお名前もお顔も覚えてはいませんが、壁に飾られていた掛け軸の達筆の毛書について、質問したことだけは、はっきりと記憶しています。



その書は先生の書で、先生が大きな展覧会で賞をいただいた時のものでした。



「先生、どうやったらこんな風に書けるの?」



先生は子供の質問の意味がよく理解できる素晴らしい指導者でした。



「あのね、としこちゃん、この字は、みんなが当たり前に使っている墨汁では書けないの。書を書く時、本当はね、固形の墨を自分で擦るものなのよ。心をこめて、硯に向かって一生懸命に墨を擦るの。この掛け軸の字は大きいでしょう? だから硯いっぱいに墨を擦っても、たった一文字しか書けないの。

一文字書いては墨を擦り、また一文字書くことの繰り返し。先生がこれを書き上げたときは、真冬の早朝から一心不乱に墨を擦り始めて、夕方までかかってようやく一枚完成させたのよ。」



先生はそう説明すると、私が今日書いた文字を朱色の文字で直してくれました。先生が直してくださると、文字にバランスがとれて美しく見えてくるので不思議です。



ふと先生の硯に視線を落とすと、私が使っている学童用の小さな角ばった硯ではなく、角がなだらかな曲線に落ちたどっしりとした硯でした。



とっさに私は思いました。「ああ、先生は、きっとこの硯で墨を擦ったのだ。」



あのとき先生が使われていた硯は、高田硯に違いないのです。



改めて思い返してみれば、先生はよくもあんなに狭い団地の一室で教えておられたものだと感心します。



先生のお宅は、私が住んでいた団地と同じ間取りなので、台所をいれても部屋数は3つ、書道教室として使っていた部屋は和室の6畳でした。



先生は結婚されていて、息子さんは大学生で外に出られて、ご主人とふたり暮らしだったと記憶していますが、よほど子供たちに書道を教えることがお好きだったのだろうと思います。



使わない時は立て掛けてあるとはいえ、大きな長机は幅を利かせ、大勢の子供たちが出入する部屋は汚れもひどくて掃除が大変だったろうと思います。



しかし先生はいつも熱心に子供たちに書道を教えておられました。



きっと、書道に必要なもの以外は、モノを持たないようにして、子供たちに書道を教えるために、空間を作っておられたのだと思います。



なぜそう思えるかというと、今の私がその書道の先生と同じ心境だからです。



バレエや歌やピアノの生徒さんが増え始め、彼らのために、少しでも広い空間を作ってあげたいと思うようになったからです。



我が家が何歳になっても、学ぶことへ意欲ある人たちが集う場所となるなら、夫のものをメルカリで売っても、夫はきっと許してくれることでしょう。



2025年4月1日

大江利子


「僕らの条件にピッタリの古家があったから見に行こうよ!」


1996年9月22日、夫は嬉しそうに弾んだ声で私にそう告げると、岡山県の南部、藤田という土地の古い空き家を案内しました。


今から29年前の平成8年9月22日は、台風17号による大きな被害が報道されていました。


関東地方や本州北部では突風で倒れた木の下敷きになったり、濁流にのまれたりして7人が死亡、9人行方不明、43人が怪我、床上浸水567棟、床下浸水2056棟、崖崩れ100か所、交通網も大混乱、暴風雨のために空も海も欠航、JRは新大阪から東京までの東海道新幹線が正午から夕方6時まで全面運休という惨憺たる状況でした。


しかし私が住んでいた岡山では、台風被害の報道がまるで遠い外国のことのように思えるほどの澄んだ青空が広がっていました。最低気温18℃、最高気温26℃、秋分の日の前日にふさわしく爽やかな秋晴れのその日、夫に案内された古い空き家は、築17年の木造2階建て、元の家主が揚げ物好きで、愛煙家だったらしく、台所は油汚れでベトベト、窓の桟には、タバコのヤニが染み付いて、私の第一印象はあまり良いものではありませんでした。


しかし、家の周りには見渡す限り田んぼが広がり、はるか遠くに金甲山の山頂に設置された岡山・高松放送局の6機の送信塔が見えます。


南北にはその古い家に似たような隣家がありますが、東西は何処までも田んぼと用水ばかりで、気持ちの良い風が吹き抜けています。


「この家、いいでしょう?」


夫は大きな瞳を一層見開いてキラキラ輝かせながら得意そうに笑みを浮かべながら言います。


「この家だったら、利子君が思いっきり歌えるし、ピアノも遠慮なく弾けるし、僕はオートバイをたくさん並べて整備ができるよ!」


「うーん、でも家はかなり汚いよ。(私)」  


「掃除したら綺麗になるよ!(夫)」  


「そうねぇ(私)」


乗り気でない私に向かって夫が力説します。


「新しい家は綺麗で気持ちが良いけれど、住み始めた最初が一番良くて、住めば住むほど古くなっていくから寂しいよ。でも古い家は、自分たちで掃除していけば、住めば住むほど綺麗になっていくから楽しいよ。」


古い家を住めば住むほど自分たちの力で綺麗な家にする、という考え方は独立精神旺盛な夫らしく、反対しても無駄だと悟った私は、心の片隅に新しい家に未練があったものの折れました。


そんな私の本心を見透かしたようにさらに夫は言いました。


「利子君、藤田の人たちは僕たちと気が合うよ。」  


「どういうこと?」


「だって藤田は干拓地だもの、藤田で農業をしている人たちは、米造りをやりたいから海を干拓してまで入植してきた人たちだ。自分のやりたいことは、自分たちで切り開く開拓精神を持っている人たちだから、きっと僕たちと気が合うよ。」


江戸時代まで藤田は土地ではなくて海でした。


1876年(明治9年)岡山藩の還禄士族の授産のために計画されたことが始まりで、干拓のパイオニアであるオランダから技士を招聘し、児島湾の干潟を干拓して生まれた土地が藤田なのです。


「蒼海変じて美田となる」


藤田干拓史を語った書籍、藤田村史の最初に掲げられた言葉です。


この美田に囲まれた古い空き家には1997年3月から移り住み、28年目となりました。


夫の言葉通り、オペラの発声をしようが、ピアノを弾こうが、整備のためにオートバイのエンジンをどんなに吹かそうが誰からも苦情は入りません。


藤田に住む人々は、皆それぞれに目的意識を明確に持って暮らしている人々が多く、ある意味、他人に無関心なのです。


私が住んでいる古家は、非農家ばかりが集まった団地ですが、美田が広がる中に、ところどころに点在する天水井戸を庭に構えた大きな農家があります。


天水井戸とは、屋根に降った雨水を、配管を通 して井戸に水を集めるしくみのことです。


干潟だった藤田は、上水道が整備されるまではいくら地面を掘っても地下水からは塩水しか出ないので、先人の知恵で生まれたしくみでした。


「ここらは昭和に入っても塩水が出てくるから、アケボノしか育たないんよ」


我が家の目の前の田んぼに、真夏の盛りに毎日草引きにやってくるおばあちゃんに、稲の種類は何を育てているのですか?と質問した時の返答です。


「本当はアサヒが美味しいけどなぁ、藤田じゃあアケボノしか育たないんよ」


おばあちゃんは淡々とそう付け加えると、休めていた手に再び鎌を握り、稲の間に生えている雑草を、独り黙々と引き続けていました。


そんなおばあちゃんの後ろ姿に藤田の先人たちの開拓精神を見る思いでした。


藤田は1912年(明治45年)4月に児島郡藤田村として誕生し、1975年(昭和51年)5月に岡山市に合併されました。村時代の藤田には村議会があり、村役場があり62年の間、藤田の人々は自分たちだけで行政も執り行ってきたのでした。


岡山市に合併されたとき、藤田には三角屋根のハイカラな建物の公民館ができました。


さんかく館という愛称で親しまれて、毎年3月には文化祭が開かれ、公民館でクラブ活動をしている人々の実技発表会があります。


私は昨年令和6年度から大人バレエクラブを新しく開講させ、先日初の発表会に臨みました。


藤田公民館にバレエクラブは初講座なので、講師の私もクラブ員たちも観客はゼロかもしれないと期待していなかったのですが、その期待を裏切り、大勢のお客様が集まってくれました。


お客様のほとんどは、あの真夏の盛り、独りで草引きをしていたおばあちゃんくらいの年齢のご婦人方でした。


私は一般的なただ踊るだけのバレエ発表会ではなく、口頭でバレエ用語のやさしい説明を入れた解説付きの構成にしていました。


ご婦人たちは、私の説明に熱心に耳を傾け、クラブ員たちの一挙手一投足に感動し、アットホームで楽しい舞台となり、こんなに幸せな舞台経験は初めてでした。


「藤田の人たちと、僕たちとは気が合うよ」


蒼海変じて美田の地で初の大人バレエクラブ実技発表は、29年前の夫の言葉を思い出せてくれた感動の舞台となりました。

2025年3月5日

大江利子


「どなたでも、洋の東西、ジャンルを問わず、お好きなことを発表しましょう」との呼びかけに応えて集まってくださった方々のための発表会、「みんなの発表会」の第7回目が先週土曜日無事に終了いたしました。


今回の発表者は男性2名、女性は私を含む9名、計11名、スタッフは司会やマルシェ販売員など2名、合計13名の運営側と数名のお客様とで楽しい時間を持つことができました。


プログラム作成などの会の準備は、経費節約のために発起人である私がすべてをこなしていますが、アイデアがあったものの時間が足らずに出来なかったことがありましたので、遅ればせながら今回のクーポラだよりでご紹介します。


それは、発表会で演奏される曲の解説です。プログラム順にご紹介します。


1. ブルクミュラーのアヴェ・マリア…日本ではピアノ初級教則本として知られているブルクミュラー25の練習曲の19番目の曲で、三拍子の柔らかな音楽です。


リュリのガボット…本当はリュリの弟子であるマレの作品です。ガボットとは、バロック時代の代表的な舞踏曲の総称で、元々はビィオラ・ダガンバ用の曲です。


2. いつも何度でも…宮崎駿監督の映画「千と千尋の神隠し」の主題歌です。小さな竪琴ライアーで弾き語りをする木村弓の姿がマスコミで紹介され大変話題になりました。


3.愛の讃歌…シャンソン界のカリスマ歌手エディット・ピアフが作詞した曲で1950年にレコーディングされて以後、世界的な愛唱歌として歌い継がれています。


4. シクラメンのかほり…歌唱力抜群の布施明の声で昭和50年に大ヒットした昭和の名曲です。この曲をつくった小椋佳は、現役銀行員で、2足のわらじを履いた作曲家であることも話題になりました。


5.真夜中のギター…歌手の千賀かほるのデビュー曲で第11回日本レコード大賞・新人賞を受賞し、フォークソングの名曲として今日まで歌い継がれています。


6. モーツァルトのピアノソナタK309の1楽章…モーツァルトにしては男性的な音楽でベートーヴェンのように力強いソナタです。作曲年は1977年、パリへの旅の途中で訪問した楽器工房で、非常に質の高いピアノに出会ったことが作風に影響したとも言われています。


7. 異邦人…1979年シンガーソングライターの久保田早紀のデビュー曲です。作曲者本人も驚くほど大ヒットし、エキゾチックな旋律が今も古さを感じさせない名曲です。


8. フォーリア…15世紀末のポルトガルあるいはスペインが起源とされる舞曲で、3拍子の緩やかな音楽ですが、フォーリアの語源は「狂気」あるいは「常軌を逸した」という意味をもち、元々は騒がしい踊りのための音楽であったことが想像されますが、時代とともに優雅で憂いを帯びた曲調に変化しました。


9.愛しい人よ…イタリア・ナポリ出身の作曲家ジョルダーノの声楽曲です。作詞者は不明で、愛する女性に対して自分のことを思ってくれるように願う切なく情熱的な歌です。


10.くるみ割り人形よりスペインの踊り…「白鳥の湖」のようにロマンティックなバレエ音楽を作曲したチャイコフスキーの1曲です。くるみ割り人形の物語は、降誕祭のお祝いで、少女クララにプレゼントされた胡桃割り人形が、クララの夢の中で王子に変身し、王子とともに夢の国でクララが見た世界各国の踊りの中の1曲です。


11.フローラの目覚めよりアウローラの踊り…フローラとは花の女神、アウローラとは暁の女神です。白鳥の湖の振り付け家プティパによってロシア皇帝夫妻の結婚祝賀のために作られた1幕物のバレエの中の1曲です。


12.シシリエンヌ…1893年に作曲されたフォーレの短編曲で、その物悲しい旋律は、1度でも聞けば、忘れ難く、人の心を捉えて離さない名曲です。


13. 勇者…ボーカロイドに歌わせた曲で、現代の若者たちから絶大な人気のある作曲家Ayaseの作品です。アニメ「葬送のフリーレン」の主題歌で、普遍的な歌詞内容が世代を超えた人々に共感を呼んでいます。


14.昴…2023年に亡くなった谷村新司の代表作で、ソロ歌手としては自身最高60万枚の大ヒットを飛ばした名曲です。


15.勝手にしやがれ…ジュリーの愛称で親しまれた昭和世代のアイドル沢田研二によって歌われて大ヒットした曲です。ロックリズムで刻まれる粋な音楽は今も新鮮です。


16.トスティのセレナータ…幼い頃はヴァイオリンの神童だったイタリア人トスティは、甘美な旋律をもつ歌曲をたくさん残した作曲家として著名です。セレナータは楽曲形式のことで、夜に恋人の為に窓下などで演奏される楽曲の総称で、ドイツ語ではセレナード、日本では夜曲と訳されます。


17.希望のささやき…新約聖書「ヘブライ人への手紙」を踏まえたクリスチャンソングですが、日本語歌詞には、キリスト教的要素はほぼ除外され、純粋に「希望の歌」として歌われています。


18.麦の唄…2014年NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」の主題歌として中島みゆきが作詞作曲した力強い歌です。


19.アデュー…フランス語で「さようなら」を意味する言葉は「オールボワール」と「アデュー」です。オールボワールは直訳すると「またお目にかかりましょう」の意、アデューは「永遠の別れ」を意味です。アデューの方を題名にしたこの曲は、恋人との永遠の訣別を表した寂しい歌です。


20.月光ソナタ三楽章…月光ソナタの三楽章は、静謐な月の光を彷彿させる緩やかなテンポの一楽章と対比するかのように、アップテンポで情熱的な音楽です。


オペラ「蝶々夫人」より、お母さんはお前を抱いて…もしもピンカートンが帰ってこないとしたら、蝶々さん、あなたはどうやって生活するのですか?との問いに、幼い我が子のために芸者に戻りますと、自分の心情を切々と歌いあげる悲しい独唱曲です。


21.野ばら…ゲーテ作詞の野ばらには、シューベルトとウェルナーの作曲があり、ウェルナーの方は旋律が穏やかでゆったりとしており、シューベルトはスキップするような快活な旋律です。本日はウェルナーの方をアカペラで二部合唱します。


雪山讃歌…西部劇映画"荒野の決闘"の中で、"いとしのクレメンタイン"(元はアメリカ民謡)に第一次南極越冬隊隊長、日本山岳会会長等を務めた西堀栄三郎が作詞、日本のポピュラーソングとなりました。


22.翼をください…フォークグループの赤い鳥が、1971年に発表、1976年以後、教科書出版社の教育芸術社が音楽の教科書に収録して以来、合唱曲として有名となり、老若男女誰でも歌える愛唱歌として定着しました。


以上、26曲、第7回みんなの発表会で演奏した曲です。

とても楽しくて有意義な会となりました。


次回は一層充実した内容となるように、会の皆様といっしょにまた一年間お稽古に励もうと思います。

2025年2月4日

大江利子


1979年11月26日、岡山市民会館1階の観客席で高校1年生の私は初めて聞く難波先生のピアノ演奏に圧倒されていました。



難波先生は、私の母校である山陽女子高等学校音楽科講師のおひとりで、高1から高3までの3年間、私のピアノ個人レッスンを担当してくださった先生です。



私が初めて難波先生にお会いしたのは、中学3年生の夏休みです。



当時、音楽科を併設する女子高として岡山県内唯一の山陽女子高等学校では、夏と冬の2回、受験生のための講習会が開催されており、毎回講習生は100名を超えていました。私はその講習会の個人レッスンの時間に難波先生にお会いしたのです。



難波先生のお噂は、中学2年生からピアノのレッスンに通っていた久山先生から聞いていました。



久山先生は私が目指していた山陽女子の音楽科で難波先生の薫陶を受けて、ピアノの名門である武蔵野音楽大学を卒業されたばかりの若い女性でした。



つまり私は久山先生の師匠である難波先生のレッスンを受けることになったのです。



「難波先生のレッスンはとても厳格なのよ。指使いの間違いやミスタッチは、絶対に見逃してはくださらないから、気を付けて、講習会の準備をしましょうね」



久山先生は私より9つ年上で、言葉も物腰も柔らかく、優しいお姉さんのような先生でした。



優しい久山先生のレッスンでは、自分独りで練習している時のように、リラックスして鍵盤を弾くことができました。



しかし、山陽女子音楽科の夏の講習会で初めてお会いした難波先生の前で、緊張し過ぎた私は、普段では有り得ない指使いやミスタッチをしてしまいました。



すると弾丸のように、厳しいお言葉が先生の口から飛び出しました。



「どうしてそんな変な指使いで弾くの!?私は久山さんに、そんなことは教えなかったわよ!」



真夏だというのに、私の背中には冷たい汗が一筋流れました。



中学1年生の夏からピアノを習い始めた私は、バイエルを終えたばかりで、やっとツェルニー30番に入ったところでした。



毎日欠かさず4時間ピアノのお稽古をしていましたが、私の指はなかなか思うようには動いてくれず、時々、自分の意志とは無関係に、指が変な動きをすることがありました。



極度の緊張で私の指に、その変な動きが出てしまったのです。



でも、そんなことは言い訳です。



私は無言で難波先生の𠮟責を受けながら、正しい指使いで弾きなおしました。



それ以来、山陽女子に合格したあとも、難波先生の前ではいつもカチコチに緊張しながらレッスンを受けていました。



難波先生のレッスンは検査のようです。



どんな曲も、片手ずつ、ゆっくりのテンポで弾かされます。



誤作動を見つけ出す機械の検査官のように、難波先生の目と耳は、私が奏でるピアノの音と鍵盤上の指使いを厳しくチェックします。



正しい指使いかどうか、リズムや音程に間違いは無いか。



少しでも、引っかかるところがあると、部分的に取り出して、何十回でも同じところを練習させられます。



その目的は、片手で、滑らかに弾けるようになるためです。



右手も左手も、いささかもつまずくことなく、鍵盤の上で指が滑らかに動くようになったら、ようやく両手で弾く許可がおります。



そして両手でも、片手と同じように、先生の前で、ゆっくりの速さで確実に弾けることが確認できるまでは、速いテンポでは弾かせてはもらえません。



技術的に優しいところも困難なところも、片手と同じように両手で滑らかに指が動くようになった時、やっと曲本来の速度に上げて、感情を込めて弾く許可がおります。



まるで大工さんが家を一棟、独りで丸ごと建てるように、基礎から確実に積み重ねるやり方が難波先生のレッスンなのです。



伝統的なものづくりに共通した基礎から確実に積み重ねる方法でレッスンをしてくださる難波先生の弟子となった私は、高校1年生の11月、山陽女子音楽科の優秀な生徒と講師たちが出演する年1度の定期演奏会で、先生の舞台演奏を初めて聞いたのでした。



この定期演奏会は山陽女子音楽科の実力テストのようなもので、市民会館の会場を埋め尽くす観客席には父兄に混ざり、耳の超えたクラシック関係者も座っていました。



先生が弾かれた曲は、リスト作曲の『ため息』です。



リストは彼自身が非常に大きな手の持ち主で、圧倒的な超絶技巧で衆目を集めたピアニストでもあり、その彼が作曲した曲も、彼自身の技術力を存分に発揮できる曲ばかりです。



難波先生は小柄な人で、手も非常に小さく1オクターブがやっとですが、そんなことはおくびも感じさせず、完璧な技術力で、優雅で情感あふれるリスト演奏でした。



滑らかに鍵盤の上を動く難波先生の指を私は羨望の眼差しで見つめながら、こう思いました。



「先生は私のように苦労してお稽古しなくても、生まれつき指が滑らかに動くに違いない!」



つい先日、私が高校卒業以来、初めて難波先生にそのことについて伺う機会がありました。



先生はレッスンの時とは、別人格かと思うような、柔らかい笑顔で、話してくださいました。



「学生の時の演奏は、自分で頑張ってきた成果を聞いてもらうだけだから、責任がないけど、講師として演奏する時は、その学校の看板を背負って弾くから責任重大なのよ。」



そして先生は酷いあがり症なために、舞台演奏をする前は、それを克服するために猛稽古をして体重が落ち、周囲の人が心配するほど、げっそりと瘦せてしまうのだそうです。



あの素晴らしい先生のリスト演奏は身が細るまでお稽古した賜物だったのです。



80歳になられた先生は、今も人前での演奏を続けておられます。



教職を退いたあとも、民生委員を任されたり、地域活動に奉仕されたりと、その活動の関係者から乞われて独奏コンサートをすることがあり、全曲暗譜で弾かれるそうです。



きっと先生は今も、人知れず猛稽古されて、舞台に臨んでおられるのだと思います。



再来月、私は自分が主催する発表会で、講師演奏としてベートーヴェンの月光ソナタの3楽章を弾きますが、難波先生の弟子として恥じない演奏ができるよう、高校生の時のように練習に励もうと思います。

2024年12月29日

大江利子


「パリアッチ、歌ってください」


30年前、岡山市内の夜景が眺望できる高層ビルの最上階のラウンジで、弾き語りのアルバイトをしていたある夜、お客様からリクエストされました。


パリアッチとは、イタリア語で道化師という意味ですが、まさにその名前のオペラがあります。


1892年に初演されたレオンカヴァッロ作曲のオペラ「道化師」です。


オペラ「道化師」の登場人物はたった5人、旅回りの芝居一座の座長カニオ、その妻ネッダ、一座の二枚目役者ベッペ、せむしの役者トニオ、そして村の青年シルヴィオです。



オペラの舞台は南イタリア・カラブリア地方、カラブリアは長靴の形をしたイタリア半島のつま先にあたる部分です。



時代設定は、1865年頃(和暦では慶応元年、大政奉還まであと3年となる幕末の頃)の8月15日です。



日本では8月15日は終戦記念日ですが、イタリアは聖母マリアの祭、聖母被昇天祭で、クリスマス、復活祭と並ぶ国民的な祝日であり、その日は伝統的にピクニックをします。



つまり、座長カニオは、聖母昇天祭にあてこみ、村で芝居をうち、一儲けしようと思っているわけです。



しかし、その芝居の本番前にカニオは、妻のネッダが浮気をしていることをせむし役者トニオから告げられます。



せむしのトニオはネッダに恋しており、座長であり夫であるカニオの目を盗んで彼女に迫りますが、肘鉄をくわされました。



それを恨んだトニオは腹いせにネッダをつけまわし、彼女が浮気をしていることをつきとめて、カニオに告げ口したのです。



でも、ネッダが浮気するのには理由がありました。



ネッダとカニオは普通の夫婦のように、大人同士の恋愛の末に結婚したのではなく、源氏物語の紫の上と光源氏のような関係でした。



幼い頃、孤児だったネッダは座長のカニオに拾われ養育され、その末に結婚したのです。



ネッダは嫉妬深いカニオから解放されたくて、鳥ように自由に空を飛んでどこかに行きたいと、憧れていました。



そしてネッダはその憧れを現実にできる相手をついに見つけたのです。



旅先でいつも立ち寄る村の青年シルヴィオと恋仲になったネッダは、彼と駆け落ちしようと計画しました。



ネッダの浮気を知らされたカニオは、嫉妬に狂い、男泣きにむせびながら顔におしろいを塗って道化の顔にメイクし、衣装をつけて芝居に出る支度を整えます。



オペラ道化師の中では、このシーンは、テノールの名高い独唱「衣装をつけろ!=Vesti la giubba !」で表現されます。



~Vesti la giubba !(衣装をつけろ!)~



Recitar! Mentre preso dal delirio  non so più quel che dico,e quel che faccio!

(芝居をするんだ!混乱しちまって、自分で何を言っているか、何をしているかわからないけれど!) 


Eppur è d'uopo, sforzati! Bah! sei tu forse un uom? Tu se' Pagliaccio!

(それでも無理にでもやるんだ!お前は人か?お前は道化なんだ!)



Vesti la giubba,e la faccia infarina.La gente paga, e rider vuole qua~

(衣装をつけろ、おしろいを塗れ、観客はそれを笑いたくて金を払うのだから)~



30年前に「パリアッチ歌ってください」と言ったお客様は、このカニオの独唱「衣装をつけろ!」をリクエストしたのです。



歌手の演技力と声量を存分に発揮できるこの曲は、男性歌手のコンサートで歌われることが多く、道化師のオペラ全部を見たことがない人でも、「衣装をつけろ!」だけは知っているという人が多いのです。



また「衣装をつけろ!」はテノールが歌う曲なので、その常識に囚われていた私は、「私はソプラノですから歌えません。」と、当然のようにリクエストを退けました。



そして以降、このリクエストのことをすっかり忘れていたのですが、1週間前にふと思い出しました。



思い出したきっかけは、私が講師をしている公民館の大人バレエクラブの文化祭舞台発表です。



11月23日に開催された公民館文化祭の大人バレエクラブ舞台発表には、今年4月からバレエを始めたという新人2名を含む6名が出演しました。



その6名のうち5名は現役社会人、看護師、小学校の先生など第一線で働く人たちです。



そして公民館の大人バレエクラブの活動は月2回しかなく、しかもその1回は、クラブ員たちの年齢と体力を考慮すると1時間くらいが限度です。



つまり今年4月からバレエを習い始めた新人たちは、10時間足らずで、文化祭本番を迎えたわけですが、バレエの常識で判断するなら、その時間数では、振り付けを理解して記憶するのは難しいでしょう。



そこで私は、バレエの常識を破り、振り付けを記憶することをクラブ員のみなさんに強制しませんでした。



本番は、振り付けのカンニングペーパーとして私が先頭にたち、本来バレエは無言で踊るべきものですが、私が先導して振り付けを声に出しながらクラブ員たちと踊りました。



舞台本番当日、6名の大人バレエクラブの面々は、ロマンチックな濃紺の衣装を身につけ、少女のような愛らしい笑顔で生き生きと踊っていました。




本番のあと、新人さんのひとりが言いました。



「この年齢でバレエを習い始めて、舞台で踊れるなんて、本当に嬉しいです」



この言葉を聞いて、バレエの常識を破って正解だったなと思うと同時に、「衣装をつけろ!」のリクエストのことをふと思い出しました。



「衣装をつけろ!」のリクエストをいただいたとき、テノールが歌うものだと決めつけて、ソプラノの私には歌えないとお断りしたけれど、お客様のご要望は、ただ単に、ご自分が知っていたオペラの曲を歌って欲しかっただけで、私なりに歌えば喜んでくださったのかもしれないなと、ようやく思えるようになりました。



こんな風にオペラやバレエのことを柔軟に考えられるようになったのも大人バレエクラブで頑張っている皆様のおかげです。



2024年11月29日

大江利子

6年前の2019年から年に1度のオートバイラリーに参加しています。



ラリーの名前はサンライズ・サンセット・ツーリング・ラリー、略してSSTRという愛称で親しまれています。



このラリーのルールはその名前が示すように、日の出とともにスタートし、同日の日没までにゴールします。



スタート地点は、太平洋側の海辺(瀬戸内海も可)なら、

日本列島どこでも可、ただしゴールは石川県羽咋市の千里浜海岸です。



私は岡山市児島湾沿いの港から毎年スタートします。



なぜ児島湾沿いかというと、自宅から近いし、週末にオートバイで走るお決まりコースでもあるからです。



二輪免許は52歳で取得し早9年になりますが、オートバイに乗る前はいつも不安でいっぱいになります。



ただし、いったん走り出すと、爽快感に包まれて恐怖感は薄れます。



けれど恐怖がすべて消え去るわけではなく、お決まりコースの景色や路面の状態、信号もカーブも標識もすべてを記憶し、走り方に余裕があるだけで、心の片隅には、今日こそ事故に遭うかもしれないという想いを抱きつつ、オートバイのアクセルを握っています。



SSTRの時も同じです。



児島湾から千里浜海岸までの距離500キロ、毎年同じルートを選択し、高速道路のジャンクションも、サービスエリアも記憶して、突発的なハプニングを覚悟しつつラリーに臨みます。



スタートの港から、まず目指すのは、日本のエーゲ海と呼ばれる美しい瀬戸内海沿いの自動車専用道路、岡山ブルーラインの途中に併設された道の駅一本松です。



ここにはミニSLが走る鉄道公園や岡山県特産の野菜や果物の直売所がありますが、ラリーで立ち寄る時はいつも、6時過ぎか7時前なので、人の気配はありません。



今年は7時ジャスト、お天気は快晴、ややひんやりとした朝の空気が爽やかです。



スタートからまだ37キロ、残りあと463キロ、ゴールまでは途方もなく遠い気がしますが、あまりそのことは考えないようにします。



残り全部の距離を思うと、あまりの遠さにやる気がそがれるからです。



私のラリーに対する作戦は、連続50分走行したら、休憩10分です。



時速80キロで50分走れば、距離67キロ進めます、時速60キロなら距離50キロです。



つまり時速60キロ以上で50分走り、休憩10分という単位を、10回繰り返せば、10時間後には、自然に500キロ先のゴールにくるはずです。



「今走っている50分間に集中し、安全確実に走ろう!」と自分に言い聞かせつつ、アクセルを握ります。



10分の休憩は携行食として甘いパンやおにぎりを持参しているので、一口だけかじります。



お腹いっぱい食べると、眠くなり危険なので、空腹を紛らわす程度にとどめます。



岡山ブルーラインを終点まで走ると、山陽自動車道に上り、童謡「赤とんぼ」の作詞者三木露風の生まれた兵庫県龍野市のサービスエリア、龍野西で給油休憩です。



私がラリーに使うのは、スズキのボルティで排気量250㏄の小さなオートバイです。


ボルティは非力な私でも取り回しが楽で、とても気に入っているのですが、難点はガソリンタンク容量が少なく、満タンで12リットルしか入りません。



燃費は1リットルにつき平均27~28キロ、上手に走ると30キロ近く走ります。



単純計算すると1回の満タンで、300キロを走れますが、燃料切れの警告ランプは無いので、給油のたびに距離メーターを0にもどし、早め早めに給油して、ガス欠を防ぎます。



龍野西を出ると、姫路から播但道経由で舞鶴若狭自動車道に乗り、舞鶴を目指して、一気に北上します。



なぜ一気かというと、播但道と舞鶴若狭道は道幅が狭い上に、片側一車線が多く非常に緊張するからです。



制限速度で走る私の後ろについている普通車が、追い越し禁止にもかかわらず、ボルティの横ギリギリを、すり抜けるように追い抜いていくことが時々あります。



そんな時は、とても肝を冷やします。追い越されるときの風圧でオートバイごと押されるし、その恐怖で集中力がそがれてしまうからです。



集中力が落ちたときは、事故に遭いやすいので、車が横をすり抜けても、努めて平常心を保ちます。



午前中に舞鶴まで行けたら、ラリーは半分成功です。



今年は11時過ぎに舞鶴を通過し、少し先の福井県小浜市の加斗(かど)パーキングエリアで休憩しました。



加斗パーキングエリアは必要設備が最低限しかない狭くてコンパクトな休憩所です。



土産物屋も食堂もなく、トイレと自販機のみで、休憩にやってくる車が少なく、駐車スペースはガラガラで駐車白線が目立ち、寂しいようですが、オートバイには好都合なのです。



設備の充実した休憩所の方が、楽しく便利に思えますが、オートバイには困ることの方が多いです。



レストランや充実した土産物屋、広いドッグランまで備えたような、人気のサービスエリアは、広大な敷地を確保しなければならないので、高速道路本線からはとても遠く、長く曲がりくねったアプローチを走り抜けなければなりません。



そして長いアプローチのあと、ようやくエリア内にたどり着いたら、駐車した車と車の間から子供の飛び出しなどに気をつけながら、一番奥にある二輪スペースを探さなければならず、休憩したくて、サービスエリアに入ったのに、逆に疲れが増してしまいます。



そんな理由で、人気の少ないパーキングエリアを選びながら、50分ごとに休憩を取りつつ、北陸自動車道をひたすら北上します。



全身に風を受けながら北へ北へとひたすらに走っていると、北帰行する渡り鳥になったような気分です。



孤独だけれど、疲れるけれど、ラリーで走っている瞬間は何もかも忘れています。

スタートするまでは、61歳になった自分でも、ゴールまで走れるだろうかと不安ですが、いざラリーが始まると走ることにだけ集中し、年齢のことなんてどこかへ飛んでいきます。


この感覚は、人前で演奏している時と似ています。

試験でも、発表会でもコンサートでも、人前で演奏するときは、やり直しはありません。

何度も何度も同じ曲を練習してきたけれど、緊張でミスをするかもしれないし、最悪、途中で途切れてしまうかもしれないと、演奏を始める前は恐怖ですが、いざ始めてしまうと、曲に集中しています。



曲に集中できるかどうかは、普段のどれだけ練習し、曲を覚えているかどうかにも比例します。



今年令和6年、6度目のラリー挑戦のためにオートバイに乗る回数は以前よりは減ったけれど、それでも週末ごとに距離50~60キロ走りました。



そのかいあってか、スタートから10時間20分後、午後4時16分、私とボルティは無事にゴールの千里浜海岸に着きました。


水平線が朱色に染まり始めた日本海は、何度眺めても雄大で感無量です。


その景色を眺めながら来年もまたゴールできるように、元気でいようと思った私です。

2024年10月29日

大江利子


オペラ歌手を夢見てイタリア留学に思いを募らせていた20代の頃、私の愛読書は『スカラ座の名歌手たち』でした。



スカラ座とは、イタリアのミラノ市中心街にあるオペラハウスのことです。



その歴史は古く1598年まで遡り、オペラが誕生した頃とほぼ同じです。



スカラ(scala)とは、イタリア語で階段という意味です。



しかし、オペラハウスの名前が「階段」に直接的に由来するものではありません。



1776年、前身だったオペラハウスが焼失し、取り壊されたサンタ・マリア・アッラ・スカラ教会跡地に新しいオペラハウスが建設されたので、元の教会に因んで、スカラ座と呼ばれるようになりました。



2年間かけて建設された新しいミラノのオペラハウス「スカラ座」は、以後、オペラの国イタリアの中心的な存在としてその名を歴史に刻み、著名なオペラ作品の初演が成されてきました。



日本人に馴染み深い「蝶々夫人」もスカラ座で初演されました。



オペラ歌手にとって、スカラ座で歌うことは、どんなに有名な歌手でも、別格だとされています。



なぜなら、スカラ座の聴衆の大部分を占めるミラノ市民はオペラに精通し厳しい批評家だからです。



例えば、私が初めてミラノを訪れたとき、乗車したタクシーの運転手に、オペラを勉強するために日本から来たのだと告げると、その運転手は、


「Mi piace L’Opera  Il Barbiere di Siviglia (私が好きなオペラは「セビリアの理髪師」だ)


と言い、セビリアの理髪師の中で最も有名な、フィガロのアリアの出だしを、とても良い声で歌ってくれて、驚かされたことを思い出します。



座席が深紅のベルベットで覆われた格調高いスカラ座の客席は、平土間、ボックス席、天助桟敷の三部構成になっています。



平土間は世界のオペラ通である大金持ちの社交場であり、ボックス席は、先祖代々オペラを愛する裕福な家柄のミラノ市民に買い占められ、天井桟敷は、これまた熱狂的なオペラファンであるミラノの下町っ子たちが集まります。



そして舞台で歌っているオペラ歌手たちの声が少しでも、かすれたり、引っかかったりしようものなら、どんなに有名な歌手でもスカラ座の聴衆は容赦しません。



野次や口笛の大ブーイングを飛ばして歌を遮ります。


反対に、聴衆を圧倒するような素晴らしい歌声ならば、拍手が鳴りやまないといった具合です。



つまり、スカラ座の聴衆たちを満足させられたなら、世界的なオペラ歌手としてのパスポートを手に入れたようなものなのです。



私の愛読書『スカラ座の名歌手たち』は、そんなスカラ座の聴衆の洗礼をかいくぐり、世界的なオペラ歌手としてお墨付きを与えられた30人の歌手たちが、下積み時代にどんな研鑽を積んできたかのインタビューをまとめたものです。



30人の国籍は様々で、イタリア人とは限りません。



スペイン、ブルガリア、ハンガリー、フランスと国際色豊かで、スカラ座の聴衆たちが排他的ではないことが伺えます。



残念ながら、この30人の中に日本人はいませんでしたが、私もいつかスカラ座で歌える歌手になりたいものだと、途方もない夢を描きながら、本のページをくったものです。



面白いもので、30人の中で、幼い頃からオペラ歌手を目指していた人は意外と少なく、良い声をしていたけれど、声を職業に選ぼうとは思わなかったという人がほとんどです。



黄金のトランペットと異名をとった往年の大テノール歌手マリオ・デル・モナコは「絵を描くのが好きで、画家になりたかった」とインタビューに答え、映画スターのような甘いマスクのプラシド・ドミンゴは、「闘牛とサッカーに夢中でした」と語っています。



またこの本の出版は1985年ですが、本に登場する歌手たちの当時の年齢は30代から60代で、第二次世界大戦を経験した人も多く、イタリア各地の歌劇場へ列車移動している最中に空爆を受けた体験や実際に兵士として戦地に赴いた人や、捕虜として捕まり、ドイツの強制収容所で過ごした経験の持ち主もいます。



様々な人生経験を積み、人として大きく成長した歌手が、スカラ座の聴衆の心を捉えることができたのかしらとも思います。



そして、改めて今、30年ぶりに、この本を開き、読んでみましたが、30年前は気がつかなかった発見がありました。



それはテノール歌手ルチアーノ・パヴァロッティの言葉です。



「あなたの成功の秘密は何ですか?」との問いかけに、パヴァロッティは「舞台に出ていない時は、自分のレコードを聞いて自ら批評をし、自分の声を聞いて欠点を探し出している」と答えているのですが、30年前の私は、それが歌手としてどんなに大切なことかまったく気に留めていませんでした。



パヴァロッティは「神に祝福された声」「イタリアの国宝」と評された20世紀を代表する歌手ですが、彼を最初に有名にしたのは、ドニゼッティ作曲のオペラ「連隊の娘」の中のテノールが歌う難曲(8回も二点ハ音が登場するソロ「僕にとっては何という幸運」(Amici miei che allegro giorno))を、らくらくと歌ったことです。



パヴァロッティ以前の歌手たちは、8回連続二点ハ音が登場するこの曲を普通の発声では歌うことが困難なので、オペラの発声では逃げの声とされる裏声で歌うことが当たり前でした。



しかし、パヴァロッティはその当たり前をぶち壊し、逃げの裏声ではなく、ノーマルの発声で堂々と歌ってのけたのです。



この成功によりパヴァロッティは「キング・オブ・ハイC(二点ハ音の王者)」と称され世界的な名声を手に入れましたが、それだけでは満足せず、オペラハウスから飛び出して、オペラ歌手としては異例の野外コンサートを開催し、多くの聴衆を集め、オペラを広く一般大衆に浸透させました。



1991年7月30日ロンドンのハイド・パークで開催した最初のコンサートでは、公園の歴史上初のクラシック演奏会となり、15万人の聴衆を動員、1993年6月にはニューヨークのセントラル・パークは50万人、9月のパリのエッフェル塔の下のコンサートは約30万人、その他、パヴァロッティと同時期に活躍していた人気のテノール歌手ドミンゴとカレーラスと組んで、三大テノールの野外コンサートを世界各国で開きオペラファンを一層広げていきました。




オペラ歌手にとって、野外コンサートを開くことは、大冒険です。



なぜなら、野外コンサートの聴衆は、スカラ座の聴衆のようにオペラに精通しているとは限らないからです。



恐らく、まったくオペラを知らない聴衆の方が多いかもしれません。



オペラをまったく知らない人にも感動を与えるためには、客観的な視座で、自分を批評し、自分で欠点を解決していくことが大切ですが、パヴァロッティは、その重要性をすでに本の中で語っていたのでした。



最近、YouTubeで自分の歌声を流すようになり、パヴァロッティの言葉の重みがようやく実感できた私です。


パヴァロッティは71歳で亡くなりました。


今61歳の私にはどれくらい時間が残されているのかわかりませんが、生きている限り勉強を続けて、微力ながらオペラを知らない人たちにオペラの良さを広めていきたいです。



2024年9月29日

大江利子


「この歳(87歳)になって、やっと子供らしい絵が描けるようになった」という言葉を残したのは、スペインの画家パブロ・ピカソです。



ピカソは1881年(明治14年)、スペインのアンダルシアに生を受け、1973年(昭和48年)、91歳の時、南仏で亡くなりました。



私が初めてピカソを知ったのは小学生の頃、テレビニュースで映し出された本人です。



ベレー帽を被った老ピカソが、早口の外国語でインタビューに答えていました。



ピカソが何と言っていたのか、その内容はまったく覚えていませんが、彼の鋭い眼光が印象的で、彼の大きな2つの眼が、焼け付くような残像として私の脳裏に刻まれています。



一度見たら、忘れられない目、それがピカソに対する私の初めての印象です。



見るものを射抜くようなピカソの瞳は、常人には見えないものを見抜き、それを表現しているのでしょうか?



次に私がピカソを知ったのは中学の美術の時間です。



中学校の美術は、2時間続きで時間割が組まれ、普段はデッサンをしたり、粘土をこねたり、版画を彫ったりして、作品制作をします。



ただし定期考査が近づくと、先生は、ペーパー試験のために、教科書に掲載された絵画や建築を解説し、西洋と日本の美術を比較しながら駆け足で美術史の概要を説明してくれました。



美術史の始まりは、ギリシャのパルテノン神殿(紀元前447~438)、ローマのコロッセウム、や奈良の法隆寺(607)、興福寺の阿修羅像(733)など、鎮護国家のため、長い歳月に耐え抜くように設計された建造物や彫刻です。



次の時代の中世は、宗教のためのアートです。



フラ・アンジェリコの「受胎告知」(1440年頃)、龍安寺の石庭(1480年頃)のような思想の世界を表現する静謐なアートです。



静かなアートの次は、それを打ち破るようなルネサンスがやってきます。


人間の肉体を超写実的に表現するために遠近法が確立され、ミケランジェロの「ダビデ像」(1501~1504)、レオナルドダヴィンチの「モナリザ」(1503~1506)などの名作が生まれます。



一方日本では千利休(1522~1591)が完成させた「わび茶=草庵の茶」に呼応し、雪舟「秋冬山水画」(15世紀末~16世紀初め)長谷川等伯「松林図屛風」(1593~1596)のような日本独特なわびさび世界観が確立し、それに沿ったアートが生まれます。



さらに時代は下り、バロック・ロココになると、時の権力者、王侯貴族を際立たせるアートです。



可愛らしいお姫様に目が釘付けとなってしまうベラスケスの「女官たち」(1656)、やルイ15世の愛妾を描いたブーシェの「ポンパドール夫人」は、その典型的な例です。



対して日本は、徳川幕府の鎖国政策で町人文化が誕生、明治維新で開国となるまで約300年かけて隆盛し、伊藤若冲・牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)(1765以前)葛飾北斎・富嶽三十六景(1831)等、傑作が次々と生まれます。



日本が鎖国をしている間に西洋ではフランスの市民革命を皮切りにヨーロッパ諸国の絶対王政が崩れ始め、アートも貴族趣味に取って代わり、ロマン主義が生まれます。



ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」(1830)は、現代の写真誌「フォーカス」のように、ジャーナリズム的な要素をもつ絵です。



1839年銀板写真が発明されてからは、印象派モネの「日の出」(1872)、バルビゾン派ミレーの「落穂拾い」(1857)に代表されるように、ルネサンス以降、人物を写実的に描くことが絶対だった西洋絵画に新しい潮流が誕生します。



そして二度目の世界大戦の最中、1937年、ピカソがゲルニカを完成させます。



彼の名声を不動のものとした「ゲルニカ」は、ドイツ空軍による無差別爆撃を受けて廃墟と化したスペインの街ゲルニカを主題にした反戦を訴える壁画と絵画です。



一般的に戦争画は傷ついた兵士や惨たらしい戦場などがリアルに描かれるものですが、ピカソのゲルニカにはそれがなく、極端にデフォルメされた牝牛や女性が切り絵のように、でたらめに並べられ色調は暗く、中学生だった私の第一印象は「なんじゃ?こりゃ?」でした。



ただし、ゲルニカは、今まで美術史で習った絵画や建築とはまったく異なり、何にも似てないので、一目見るなり、ゲルニカという題名も絵の印象も忘れられなくなりました。



小学生の頃、ピカソをテレビで見た時、彼の目の鋭さゆえに、強烈な残像が脳裏に残ったように、ゲルニカもまた同じだったのです。



しかし、ゲルニカの何がそんなに素晴らしいのか、ピカソのどこが天才なのか、中学生の私にはまったく理解できませんでしたが、とにかくゲルニカは忘れたくても、忘れられない作品です。



世間が言うように、「ピカソが天才だ!」と私が実感できたのは、30歳を過ぎた頃、夢中になってバレエのお稽古に通っていたある夏、夫が私の勉強用にと、買ってきてくれたレーザーディスクで「三角帽子」というバレエ作品を見たときです。



バレエ「三角帽子」は、ロシアの興行師ディアギレフが結成したバレエ団「バレエ・リュス」のために、1919年に創作された作品で、一般的に知られている「白鳥の湖」とは、まったく異なります。


バレリーナはトウシューズをはかず、普通のダンスシューズで踊り、髪型もお団子ではなく、1本の三つ編みにして背中に垂らし、衣装はひざ下まであるフレアースカートです。



音楽はスペインの作曲家ファリャで、フラメンコのような情熱的で民謡調のカッコイイ旋律に乗ってダンサーたちは踊ります。



あらすじは、好色な代官が、美人の粉屋の女将さんに目をつけて、亭主を無実の罪で追い出した隙に迫ろうとしますが、逆に袋叩きに合ってしまうという、落語のような愉快なストーリーです。



この愉快でカッコイイバレエ「三角帽子」を上演するにあたり、ディアギレフは衣装のデザインを新進気鋭だった画家ピカソに依頼しました。



夫が買ってくれたレーザーディスクの「三角帽子」はまさに、そのピカソがデザインした衣装で上演されたものでした。



粉屋の女将は真っ白なスカートに腰に黒いレースのショールを巻き付けて、亭主は闘牛士のようなボレロにゆったりとした黒のズボン、街の人々の衣装は、緑や赤や黄の太いストライプや水玉模様が入った楽しいドレスで、一目見るなり忘れられない素敵なデザインです。



「わあ!なんて素敵な衣装でしょう!」感嘆の声を私があげると、隣でいっしょにレーザーディスクを見ていた夫が言いました。



「衣装と装置はピカソなんだよ」



夫の言葉を聞いて、初めて私はピカソが天才だと実感しました。



絵でも衣装でも一目見るなり、忘れられなくなる強烈な印象を残せる作品をつくることができる人、それがピカソであり、天才なのだと、今年の暑い夏を過ごしながら、ふと夫との懐かしい思い出がよみがえりました。



2024年8月29日

大江利子