クーポラだより最新号


岡山市を流れる百間川は、旭川の氾濫を防止するために人工的につくられた川です。


奈良時代から干拓によって農地を増やし治水工事に情熱を注いできた岡山の藩主たちは、築城時も、堀の役目をもたせるために城を取り囲むように旭川の流れを付け替えました。



しかし、それが仇となり、無理に蛇行させられた旭川は、たびたび氾濫を起こし、岡山城下はそのたびに洪水被害に見舞われたので、旭川の途中から分流させ、放水路の役目を持つ百間川を江戸時代につくりました。



百間川にはとても広い土手があります。



その土手は、現在は真砂土が敷き詰められて、テニスや野球が楽しめる緑地公園として整備されていますが、今から約45年前(昭和50年頃)、私が小学生の頃は広い野原でした。



私が通っていた宇野小学校は、百間川の土手のすぐ裏にあり、その野原は子供たちの絶好の遊び場でした。



春一番が吹き、早春の土手の陽だまりに土筆が生えたら、柔らかそうなものを選んで摘み取り、丁寧に、はかまをとり、佃煮や卵とじにして食べました。



ピンク色のレンゲの花が咲くと、その蜜をちゅうちゅうと吸いながら、白レンゲを見つけたら、それだけで嬉しくなりました。


シロツメ草のポンポンのように丸くて真っ白な花が、土手一面絨毯のように咲く初夏は、その花を数珠つなぎに編んで、花冠やネックレスをつくって、お姫様気分になりました。



秋にはススキを集めてほうきを作ります。



そして冷たい北風が吹く冬は、自分で作った凧で、凧揚げをして遊ぶのです。



私の母校の宇野小では、毎冬に行われる学校行事の凧揚げ大会に向けて、秋ごろから全校児童で凧作りを始めました。



凧作りは図画工作の時間に、先生から指導を受けながら作りますが、学年ごとに課題がありました。



低学年は奴凧、中学年は角凧、高学年は自由創作の凧で、毎年ひとつは、必ず凧を作り、小学校卒業までに最低でも6つは凧を作るので、6年生になる頃には、凧作りは本格的な腕前になり、工作上手な男子の中には、難しい連凧や、複雑な立体凧をつくる大人顔負けの小学生もいました。



凧の材料は和紙と竹ひごとタコ糸です。



竹ひごを曲げるにはろうそくの火であぶり、和紙を貼るには、洗濯糊を薄めて刷毛で塗り、タコ糸を放射状につけて、表面は、裏側の角と角を引っ張って、反り(そり)をだし、角度調節しました。



しっぽは、荒縄や古新聞紙でつくりました。



私が6年生の時に作った楕円の大きな凧は、とても良く飛んで、凧揚げ大会で大空賞をもらいました。



今、思い出すだけでも、誇らしくてワクワクします。



宇野小学校の凧作りを指導していたのは、学級担任を持っておられなかった、図画工作専門の斉田先生でした。



斉田先生は、初老の男性で、教え上手な方でした。



凧つくりで何かわからないことがあって、図画工作の準備室に行くと、白いスモッグを着た斉田先生がおられて、どんな質問にも答えてくれました。



先生のスモッグの裾周りや袖口には、絵の具のシミがいっぱいで、頭髪のない斉田先生はピカソのようでした。



宇野小のピカソこと、斉田先生に指導を受けながら、毎年、自分で凧をつくり、誰はばかることなく、百間川の広い土手を駆け回り、私は思いっきり凧揚げをして遊んだ、楽しい小学生時代を送りました。



この凧揚げのことは、私にとっては当たり前過ぎて、気にしたこともなかったのですが、先日、若い頃宇野小の先生をした経験をお持ちの、退職された校長先生と知り合いになって、当時の話に花が咲き、私の凧揚げ経験は、とても稀有で幸運なことだと知り、驚きました。



その校長先生によると、宇野小凧揚げ大会は、独自の取り組みで、保護者や学区地域の協力と宇野小の先生方、特に斉田先生の尽力の賜物だということでした。



その事実を知った私は、じっとしていられなくなり、斉田先生のことをもっと知りたくなって、現在の宇野小学校へ行ったりもしましたが、まったく手がかりはありません。



わからないとなると、ますます知りたくなるという、好奇心を抑えられない困った性格の私は、捨てずにとっておいた昔の教職員名簿から、斉田先生の消息を知っていそうな先生の名前を、片っ端からウェブ検索してみました。



すると私の小学1年生の担任の船越先生が、「心の旅路」と題する素敵な写真展を長年続けておられて、ご健在なことがわかり、50年ぶりにお会いしてきました。



船越先生は、宇野小時代は斉田先生とは懇意の間柄で、ご自宅まで何度も遊びにも行かれたとのことで、船越先生の記憶を頼りに、斉田先生のご自宅があった岡山市東山をいっしょに訪ねてみました。



すると、家はあとかたもなく消え失せて、近所の方によると、斉田先生は何年も前に、亡くなられたとのことでした。



それにしても、宇野小のピカソ、斉田先生にはご家族はなかったのでしょうか?



船越先生によると、斉田先生のご自宅に家族の影はなく、おそらくは独身で、生涯を教職に身を捧げた人生だったのではと、推測されていました。



宇野小学の凧揚げ大会は2003年まで続きましたが、住宅が密集し、近隣の理解も得られず、斉田先生のように熱心な先生もおられないので、そのまま消滅し、百間川の土手の野原は開発され公園となり、凧を竹から作って遊ぶ小学生の姿もなくなってしまいました。



斉田先生がどんな想いで凧揚げを奨励したのか、ついに突き止めることはできませんでしたが、私のように大人になっても好奇心が踊りだしたら止まらない人を育てたかったからではないですか?と船越先生と退職された校長先生から言われました。



そういえば、凧揚げは、向かい風に向かって走ると良く飛びます。



人生には、大小さまざま試練がありますが、それを乗り越えようとする時は、向かい風に向かって走る凧揚げのようなものかなと思います。



力いっぱい走って凧が大空のぼった嬉しさは、50年ぶりにお会いできた船越先生との再会の喜びそのものです。

2021年2月28日

大江利子


「マンモーネ」とはイタリア語でマザコンの男性を指す言葉で、「マンモーニ」は、マンモーネの複数形です。


マンモーニは、一般的な意味のマザコンだけではなく、大人になっても子供の時と同じように母親に世話を焼いてもらっている会社勤めの独身イタリア男性たちの社会現象を指しています。


日本では成人した男性が母親に身の回りの世話を焼かれている姿は頼りなくて、甘えているとされ、結婚相手を探している独身女性から見るとマイナスな要素ですが、聖母マリア信仰が強いイタリアではマンモーネを、日本ほど重大な欠陥とは見なさず、イタリア男性の一般的な傾向だと受け入れられています。


マンモーネの正当性はイタリアのルネサンス時代の画家ラファエロの聖母子像を見ればすぐに納得がいきます。


ラファエロはモナリザの作者レオナルド・ダ・ヴィンチとシスティーナ礼拝堂の天井画と巨大なダビデ像で有名なミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠と称されるイタリア人画家です。


1520年、37歳の若さでこの世を去ったラファエロは、柔らかく写実的な筆致で調和のとれた聖母子像をたくさん描いた「聖母子」の画家で知られ、それらの絵画は世界各地の美術館に点在しています。


イタリア、花の都フィレンツェのウフィツィ美術館には、ラファエロ23歳の作品、幼い洗礼者ヨハネがイエスに小鳥のヒワを差し出す様子を見守るマリア「ヒワの聖母」が展示されています。



フランスのパリ、ルーブル美術館には、画家24歳の作品、つかまり立ちをはじめた幼子イエスに手を差し伸べるマリアが、控え目ながらも母として誇らしく嬉しそうな表情した瞬間を描いた「美しき女庭師」が展示されています。



オーストリア、ウィーンの美術史美術館にはラファエロ23歳の作品「草原の聖母」、アメリカ、ワシントン・ナショナル・ギャラリーには、スペインのアルバ公爵のコレクションからロシア皇帝ニコライ1世によってエルミタージュ美術館に渡り、その後アメリカ人収集家のアンドリュー・メロンに買い取られた漂泊の運命の聖母子画「アルバの聖母」が飾られています。



若くして亡くなったラファエロですが、画家としては出世が早く、5m × 7mの巨大なフレスコ画で、彼の代表作となった「アテネの学堂」を、25歳の時にヴァチカン宮殿の壁に完成させています。



しかし彼の最も人気のある作品は、「小椅子の聖母」という小さな板絵で、フィレンツェのアルノ川の西岸に位置し、ウフィッツィ美術館とは回廊で結ばれたピッティ宮殿に展示されています。



「小椅子の聖母」はラファエロが30歳の頃に描かれた71㎝×71㎝の小さな油彩画で、エキゾチックな緑色のショールを羽織り、深紅の衣装をきた美しいマリアが、バラ色の頬をもつ健康そうな赤ちゃんのイエスを、しっかりと抱いた構図で、聖母子像というよりは、うら若き母と子の日常を切り取った写真のようで、他の聖母子像よりも一層、人間的で親近感があります。



この「小椅子の聖母」に象徴されるように、親近感のあるマリアと可愛い赤ちゃんのイエスの姿は、イタリア芸術の特徴のように思えます。


イタリアオペラにも、ラファエロの描くマリアのような親しみやすい女性を題材にした作曲家がいます。


ラファエロの生まれた街ウルビーノからフィレンツェを挟んで、真西の街、ルッカに生まれたプッチーニです。



ラファエロよりも475年後、1858年に生まれたプッチーニは、代々、宗教音楽家を輩出した家柄で、彼も職のスタートは教会付属のオルガニストでしたが、オペラ作曲家のコンクールに作品提出したことがきっかけで、楽譜出版社のリコルディの社長に注目されてオペラ作曲家としての道を歩みはじめ、彼のオペラは、今も世界各地の歌劇場の重要な演目として上演され続けています。



日本では蝶々夫人の作曲家としてよく知られているプッチーニですが、彼のオペラにはラファエロのマリアのように親しみやすく、清らかな性格を持った女性が登場します。



愛する我が子の未来のために自害してしまう蝶々さん、オペラ「ボエーム」のヒロインのお針子のミミは、自分の身体が弱いので、恋人ロドルフォの負担にならないようにと、身を引きます。


プッチーニの遺作となったオペラ「トゥーランドット」の女奴隷のリューは、愛するカラフ王子が異国のトゥーランドット姫と結婚するために、喜んで我が命を差し出します。



これらマリアのように献身的な愛に満ちたヒロインたちに、プッチーニは、とびきり美しく親しみやすい旋律の独唱曲を作曲しました。



ミミには「私の名はミミ」、蝶々さんには「ある晴れた日に」、リューには「氷のような姫君の心も」と、いずれの旋律も独立してその曲だけを歌っても、十分にプッチーニ・オペラの味わいを伝えてくれる名曲で、私も自分のコンサートでしばしば歌ってきました。



また、プッチーニのオペラのヒロイン像は、私自身と重なり合うところが多く、自分と反映させやすいので、好んで歌ってきました。


しかし、そんなプッチーニのヒロインたちの中で、どうしても歌えない曲が、1曲だけありました。


それは、オペラ「修道女アンジェリカ」のヒロインのアンジェリカの独唱曲「Senza Manmaセンツァ・マンマ=(母もなく)」です。


オペラのあらすじは、ある修道院に立派な馬車が着いて、身分の高い女性が修道女アンジェリカに面会にやってきます。


その女性はアンジェリカの親戚でした。


アンジェリカは、もともと身分のある家柄に生まれた娘だったのです。


しかし、未婚なのに子供を身ごもったアンジェリカは、家名に傷がつくとされて、お産のあとすぐに修道院に入れられて、我が子を抱くことなく修道女として7年間過ごしてきたのです。


もちろん一日たりとて、我が子を忘れたことはありませんでした。


そしてアンジェリカの親戚の女性は、残酷な事実を告げにやってきたのです。


「お前の産んだ子は高熱のために5歳で死んだ。」と。


絶望したアンジェリカが歌うのが「Senza Manmaセンツァ・マンマ」です。



この曲は、とても哀愁を帯びた旋律で、私の声質にとてもよく似合うのですが、他のプッチーニの曲のように、声のコントロールをしながら感情移入が出来ないのです。


その理由は、自分でもよくわかっていました。


私がアンジェリカの子供のように、生みの母を知らずに育ち、長い間、母から捨てられたと思いこまされて、成長したからです。


「Senza Manmaセンツァ・マンマ」を歌っていると、あまりにも自分の痛みに近すぎて、演技を忘れて声のコントロールを失ってしまい曲の最後まで歌えないのです。


けれども、もうそんな心配はいりません。


先日、親友の言葉に勇気をもらって生母に会ってみると、生母に捨てられたことは周りの大人たちの都合良いウソだったことがわかり、私の痛みはすっかり消えたのです。


半世紀以上もウソを信じ続け、生母に会うことを恐れていた私に勇気をくれたのは、夫亡き後も、変わらない友情を示してくれた聖母マリアのような慈愛に満ちた親友でした。


彼女の存在のおかげで、夫の7回忌を前向きな姿勢で迎えられる今の自分があるのだと、

神に感謝せずにはいられません。


2021年1月29日

大江利子

(小椅子の聖母)


伊豆の海中に鳥柱(とりはしら)といふものあり。晴天に白き鳥数千羽、盤舞(ばんぶ)して高く颺(あが)る。空は眼力の及ばざるに到る。大なる白き柱を海中に立たるがごとし。八丈島より南にありぞ。

(伊豆の海に鳥柱というものがある。晴れた空に白い鳥が数千羽、ぐるぐると舞い飛んで高く上がる。上空の見えなくなるほどの高さに達する。大きな白い柱を海に立てたようだ。八丈島より南にあるという。)


この「鳥柱」の記述は、江戸時代の学者、菅(かん)茶山(ちゃざん)が書き残した随筆集「筆のすさび」の中の一節で、鳥柱の白い鳥とはアホウドリのことです。


アホウドリは、北半球最大の海鳥で、翼を広げると3m近くもあり、一生のほとんどを海の上で過ごし、グライダーのように優雅に滑空し、歩くのはとても下手な鳥です。


夏季アホウドリはベーリング海やアラスカ湾、アリューシャン列島周辺で暮らし、冬季は日本近海まで渡ってきて、絶海の孤島(鳥島、尖閣諸島、小笠原諸島)で営巣します。


150年程前は「鳥柱」の記述のように、無数にいたアホウドリも、人をこわがらないこと、美しい羽毛をもつことが災いし、人の手によって絶滅寸前まで追い込まれたのです。


アホウドリの羽根は西洋人が好む羽根布団の材料に適していることに目をつけた日本の実業家は1887年~1902年(明治20~35)の間、羽根の輸出目的でアホウドリを大量殺戮、その結果1949年、絶滅宣言が出されたほどでした。


しかし、1981年から始まった山科鳥類研究所を中心とする保護活動が功を奏し、現在は約5千羽まで生息数が回復しています。


山科鳥類研究所が保護活動の最初に選んだ手段は「デコイ作戦」と呼ばれるユニークな方法です。


デコイとは模型のことで、アホウドリそっくりの木型を設置して、本物のアホウドリを誘うのです。


保護活動前、絶滅寸前のアホウドリが繁殖していた鳥島の営巣地は、台風による地滑りや火山噴火の恐れがあり、アホウドリの雛が危険にさらされていました。


そこで、デコイを設置して仲間がいるのだとアホウドリに思わせて、別の安全な場所で営巣させようという作戦です。


この「デコイ作戦」を、1990年代の報道で知って依頼、長い間私は、アホウドリは自然界には珍しい貴重な鳥で、もともとの個体数が少ないのだという認識でしたが、先日「筆のすさび」を読んで、江戸時代、鳥柱がたつほど、日本近海にアホウドリが生息していたと知って驚きました。


「筆のすさび」には、他にも興味をそそられる記述がたくさんあります。


倹約しなければならないご時世に、岡山藩で文鳥の飼育が流行し禁止令が出されたとか、間宮林蔵がロシア人に遭遇したとか、桜島が噴火したとか、和紙と竹で手作りした翼で飛んだ表具師が岡山藩を所払いになったとか、自然科学や歴史的に面白い事柄が、飾らない率直な言葉で表現されており江戸の世の中が近しいもの感じられます。


私は「筆のすさび」を読むうちに、こんなにも簡潔な表現で読み手にイメージを膨らませる文才の持ち主、菅茶山自身に興味が沸き、彼の故郷の広島県神辺(かんなべ)に記念館があることを知って、今月初旬に訪問してみました。


中国地方の小さな町には不釣り合いなほどの立派な記念館には、書と漢詩に優れた茶山の作品がたくさん展示されていましたが、もっとも私の気を惹いたのは彼が指導していた塾のきまりです。


一、 ゴミは籠に入れむやみに投げ捨てないこと。

一、 読書に飽きたといって立ち騒いだり相撲をとらないこと。

一、 内々に酒肴の類など飲食物を持ち込まないこと。

一、 火事、盗賊、急病人などの場合以外は走らず歩くこと。

などなど、まるで小学校の教室や廊下に貼ってあるようなきまりが他にもたくさんありました。


神辺は、宿場町として栄えていましたが、賭け事や飲酒で人々が荒んでいたのを憂いた茶山は、故郷の町を学問で改善しようと私塾を開きました。


上記のきまりは、試行錯誤で塾を続けているなかで、わんぱくな塾生たちの行動に手を焼いた結果つくらざるを得なかったものと想像されます。


茶山の私塾は、寺子屋のようなもので、常時20名ほどの塾生がいましたが、血気盛んな若者が集まると、さぞや苦労が絶えなかったろうと、学校勤めをした経験のある私には他人事ではありません。


しかし、「筆のすさび」の中には、そんな苦労や愚痴は見当たらず、愉快で明るく前向きな話題ばかりです。


どんな分野でも、苦労が多い人ほど、自分の苦労には目を向けず、人のために尽くすことを喜びとして、前向きな姿勢で生きているように思います。


音楽の世界では、その筆頭がベートーベンです。


今月26日、久しぶりに生演奏を聞くため名古屋市内の音楽専用ホール、三井住友しらかわホールまで足を運びましたが、茶山の「筆のすさび」のように飾らない美しさに満ちたベートーベンの演奏を聞くことができました。


先月号のクーポラだよりNo.69でお伝えした、大学時代、指揮研究会の先輩、新田ユリ氏がタクトをとった愛知室内管弦楽団とピアニストのオピッツ氏の演奏会です。


曲目は、ベートーベン作曲のピアノ協奏曲第5番「皇帝」です。


ピアノの名手だったベートーベンは生涯に5曲の協奏曲を作曲しましたが、第5番「皇帝」がもっとも華やかで堂々たる作品で、次第に耳が聞こえなくなっていくことに絶望して、遺書まで書いた彼がふたたび生きる力を取り戻したのちに作曲した音楽です。


ベートーベンがちょうど「皇帝」を作曲していた時、破竹の勢いのナポレオンがウィーンに攻め込んで、フランス軍が放つ大砲の爆音に、難聴だった楽聖の耳が、ますます悪化したと伝えられています。


けれども、「皇帝」には、そんな恐れや哀しみもなく、田園交響曲を思わせるような小鳥のさえずりや、小川のせせらぎなど森羅万象への讃歌と、希望に満ちた音楽です。


生きる喜びにあふれた「皇帝」ですが、ピアニストにとっては高い技術力を鼓舞できるので、指がよく動くことに満足した自己陶酔な演奏が多く、素直なベートーベンになかなか出会えないものです。


しかし、新田ユリ氏が指揮する愛知室内管弦楽団とオピッツ氏が奏でる「皇帝」は、終始一貫して、ベートーベンの心の声を聞いているような演奏でした。


特に、静かな2楽章の終わりから陽気な3楽章に移行する瞬間は、得も言われぬ神々しさに包まれて私は鳥肌がたちました。


すべての演奏が終わった後、聴衆から割れるような喝采が沸き起こり、会場に居合わせたすべての人々が、私と同じ想いで「皇帝」を聴いていたのだと確信しました。


聴衆をこんなにも感動させるとは、ユリ先輩と愛知室内管弦楽団とオピッツ氏はいったいどれほど、真摯にベートーベンの作曲意図と向き合いながら、練習を積み重ねてこられたのでしょうか。


昨今、インターネットの発達とコロナの影響で、様々なアーチストの演奏がうんざりするほどウエブで配信されているため、コンサートそのものに魅力を感じられなくなっていましたが、生演奏でしか味わえない感動があるのだと、思い直させてくれるベートーベンの皇帝でした。


2020年12月29日

大江利子




倉敷市藤戸寺の前には、とても美味しい酒蒸し饅頭「藤戸饅頭」が売られています。



上品な甘味のこし餡を、甘酒を入れた小麦粉の薄皮で包み、蒸したお饅頭です。



藤戸饅頭は、岡山城下町の京橋で江戸時代から売られている大手饅頭によく似ていますが、

大手饅頭よりも小ぶりで、女性でもひと口で食べきれる大きさで、私は大好きです。



大手饅頭は岡山城主の池田公の茶会で愛でられたお饅頭ですが、藤戸饅頭の方は、

源平合戦「藤戸の戦い」で、命を落とした人の法要を藤戸寺で行ったときに、

振る舞われたお饅頭が始まりといわれています。



「藤戸の戦い」は平家物語の十巻に登場します。



一ノ谷の戦い(1184年3月20日)で敗れた平氏は西へと逃れ、当時は瀬戸内海に点在する島のひとつだった児島の琴浦付近に(現在は干拓よって半島)に陣を構えました。



瀬戸内海の制海権を握り、水軍を持っていた平氏は、天然の要塞である海に囲まれた児島の陣ですっかり安心し、水軍を持たない源氏が対岸の藤戸で手をこまねいているのを見て、小舟で近づき「源氏ここを渡せや(源氏ここを渡ってみろよ)」と扇で招いて挑発するほどでした。



現在の藤戸周辺は干拓により陸地になっていますが、「藤戸の戦い」が行われた当時(1184年10月7日)は、まだ海だったのです。



藤戸の源氏と児島の平氏の間を隔てる海は25町(約2.7キロ)ほどでした。



そこで、源氏の武将、佐々木盛綱は地元漁師から浅瀬を聞き出し、先陣をきって藤戸海峡を馬で渡り、油断していた平氏の不意をついて敗走させます。



武勲をあげた佐々木盛綱は、備前国児島一帯を受領しますが、漁師の若者は口封じのために、戦いの前に盛綱によって殺され打ち捨てられてしまいました。



それを知った若者の母は、盛綱をひどく恨み、佐々木盛綱の「ささ」と同じ音がつく笹は憎いと、自宅の裏山一体に生えていた笹をすべて引き抜き、笹無し山ができたほどでした。



この漁師の母の深い悲しみは、室町時代の申楽(さるがく=江戸時代以前の能楽のこと)師の世阿弥によってつくられた謡曲「藤戸」で今も語り継がれています。



祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人もひさしからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前のちりに同じ。



平家物語の冒頭一節は、誰しも皆、中学校で暗唱させられたことでしょう。



私も中学2年生の時に、暗誦の宿題が出て「ぎおんしょうじゃの~」と何度も口に出しながら覚えた記憶があります。



国語が大好きだった私は、「あり」や「ごとし」など古文の言い回しが、とても新鮮で、平家物語の冒頭をよどみなく暗誦できるようになるまで、楽しみながら練習したものです。



祇園精舎がどこにあるのか、沙羅双樹の花が実在するのかなど、平家物語に登場する固有名詞は、理解しづらいものばかりでしたが、簡素でリズミカルで歌のように流れる文章そのものに、とても魅力を感じたからです。



「映画も音楽も、簡素でわかりやすいものが名作である」と夫はしばしば申しておりましたが、同感です。



バレエにも高いジャンプや連続回転もない素朴な振り付けの作品があります。



デンマーク人のブルノンヴィルによって振り付けられた「ナポリ」です。



バレエ「ナポリ」の初演は1842年、日本では江戸時代、天保の改革が始まった頃で、

大手饅頭(1837年)と藤戸饅頭(1860年)が販売されはじめた幕末です。



「ナポリ」は、デンマーク王立バレエの振り付け師ブルノンヴィルが旅先のイタリアで得た着想をバレエ化したものです。



ナポリ湾の港町サンタルチアに住む、気立ての良いテレシーナと漁師のジェンナーロは恋仲です。



ある日、ふたりは港でボートに乗っていると突然、嵐に襲われて、テレシーナは行方不明になります。



テレシーナはカプリ島の洞窟に流れ着き、そこで海の王から愛されて、姿をニンフに変えられて、人間の記憶をなくしてしまいます。



けれども恋人を想うジェンナーロの真心と聖母マリアの救いによって、再びテレシーナは人間にもどり、めでたくふたりは結ばれます。



このチャーミングなストーリーをバレエのステップのなかでは、地味な部類のプチ・ジュッテ(小さく低いジャンプ)を中心に、身体の向きや腕の動きのアレンジをつけるだけで、ワクワクするような踊りになるようにブルノンヴィルは振り付けています。



ブルノンヴィルのステップはシンプルなのに味わい深く、飽きの来ない美しさは、まるで平家物語の文体や藤戸饅頭のようです。



バレエ「ナポリ」との出会いは、夫が買ってくれたレーザディスクです。



十数年前の夏、彼が嬉しそうに「珍しいバレエを見つけた!」と、自慢そうにディスクを取り出してふたりでいっしょに、初めて「ナポリ」を鑑賞し、ブルノンヴィルのステップの楽しさに夢中になりました。



おもしろいことに、バレエ「ナポリ」の振り付け師はブルノンヴィルひとりですが、

作曲は4人のデンマーク人、ヘルステッド、パウリ、ゲーゼ、ロンビの共作です。



それゆえ、よけいに「ナポリ」は、振り付けのブルノンヴィルばかりが印象的で作曲家たちのことは、ずっと関心がなかったのです。



しかし4人のうちのひとり、ゲーゼの音楽を先日、偶然に耳にする機会がありました。



大学時代の指揮研究会の先輩、新田ユリ氏は、プロの女性指揮者として活躍しておられますが、彼女が6年前から愛知県室内オーケストラの常任指揮者に就任され、そのオーケストラとともに日本ではまだ珍しい北欧音楽を公演し続けています。



愛知室内オーケストラは今月の定期演奏会でもゲーゼの交響曲を演奏することになっており、私は、オーケストラ・リハーサルを見学できるという幸運に恵まれて、大学以来の先輩のタクトを見つめていました。



すると、初めて聞く音楽なのに、なぜか耳懐かしい気がするので、こっそりとスマホで調べると、たった今、目の前で先輩が指揮しておられるゲーゼは、バレエ「ナポリ」のゲーゼだとわかり、あの夏の思い出とつながって、とても嬉しくなりました。



定期演奏会のリハーサルのあとは、先輩の指揮で愛知室内オーケストラの伴奏で椿姫を歌える夢のようなひとときでした。



私はオーケストラの皆様のお土産にと、藤戸饅頭を持参していました。



飾らない素朴な味のお饅頭を「美味しい、美味しい」と言って食べてくださる団員の方々を見つめながら、57歳まで椿姫を歌えるコンディションを保つため、毎日積み重ねてきた地味で孤独なお稽古の時間が、すべて昇華されたように思えて幸せでした。



2020年11月29日

大江利子


 雁(かり)がわたる 鳴いてわたる 鳴くは嘆きか喜びか 月のさやかな秋の夜(よ)に

さおになり かぎになり わたる雁 おもしろや


 雁がおりる つれておりる つれは親子か友だちか 霜のましろな秋の田に

むつましく つれだちて おりる雁 おもしろや


この歌詞は明治45年(1912年)刊行された尋常小学唱歌の第三学年用の文部省唱歌「雁がわたる」で、4拍子のその旋律は単純ですが、とても美しい曲です。


雁(かり)とは、秋に日本へ飛来するガンの総称で、マガンやヒシクイ、カリガネ、ハクガン、コクガン、シジュウカラガンなどがいます。


ガンはツバメのように日本を繁殖地とせずに、冬の間、日本の湖沼や湿原でのんびりと羽を休めて力を蓄え、春になると海を越えて北へ渡り、北米大陸やユーラシア大陸の寒帯で産卵し雛を育てます。


春、北の大陸で生まれたガンの雛は、夏の間中、親鳥と行動をともにしながら成長し、秋の渡りまでには立派な若鳥になります。


しかし、ガンの若鳥は、飛び方は知っていても、渡りのルートは知らないので親鳥のあとについて日本までのルートを覚えます。


ガンは、渡りをする時はV字編隊を組んでお互いに鳴き合って励まし合いながら空高く飛行します。


このガンの編隊を雁行とよび、秋に初めて渡ってくる雁行を初雁とよびます。


雁行は日本の絵や和歌の主題として、昔からたくさんの作品に登場しています。


まず、文学の世界では、平安時代の女流歌人、清少納言が随筆「枕草子」の秋の段で雁行について語っています。


秋は夕暮れ。

夕日のさして山の端 いと近うなりたるに からすの寝どころへ行くとて 三つ四つ二つ三つなど 飛びいそぐさへ あはれなり。

まいて雁などの つらねたるが いと小さく見ゆるは いとをかし。


(秋は夕暮れがよい。

夕日がさして、山の端に近くなっているところに、からすがねぐらに帰ろうとして、3羽4羽、2羽3羽と急いで飛んでいく様子さえも、しみじみとした趣きがある。

ましてや、雁などが列をつくって連なっているのがとても小さく見えるのは、たいへん趣き深い。)


短歌の世界では平安の歌人で土佐日記の作者、紀貫之が憂き世を渡るつらい心情を雁行と巧みにかけあわせて和歌に詠んでいます。


初雁の なきこそ渡れ 世の中の 人の心の あきし憂ければ


(秋に初雁が渡って行くが、私も世の中を泣きながら渡っている。世の中の人や、あの人の心が飽きてしまったのが辛いので)


浮世絵では江戸時代の絵師、歌川広重が大きな月を背景に、三羽の雁が水辺に舞い降りようとしている瞬間「月と雁」を描きました。


親鳥らしい雁が先導し、後をついていく子供らしい雁がよそ見をしている姿が、なんとも微笑ましい雁行です。


音楽の世界では滝廉太郎作曲、土井晩翠(どいばんすい)作詞の「荒城の月」が有名です。


荒城の月は、明治時代1901年に西洋音階を初めて取り入れて作曲された歴史的な日本の芸術歌曲ですが、その2番の歌詞に雁が登場します。


秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて 植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいずこ


いつの時代にも自然を観察し愛でながら心豊かに暮らしてきた日本人と雁行は深く結びついてきたのです。


昭和生まれの私も「雁がわたる」を小学生の頃に歌い、「枕草子」は中学の国語で、紀貫之の和歌は、高校の古典で習い、「荒城の月」は、中学校音楽必須指導教材でしたので教師時代に毎秋、生徒たちと歌い、机上や音楽の世界では長い間雁行に親しんできました。


しかし残念ながら本物の雁行を一度も目にしたことはなかったのです。


私の生まれ故郷の岡山は、温暖な気候で、いろいろな種類のカモが毎秋たくさん渡ってきて、自宅近くの池や湖で見ることができますが、寒い地方を好むガンは渡ってこないのです。


けれど、先日参加したオートバイラリーで生まれ初めて雁行を目にする幸運に恵まれました。


私が参加したラリーは、自選した太平洋側の海岸地点から日の出とともにスタートし、同日の日没までに日本海側の砂浜、千里浜海岸にゴールするというルールの「サンライズ・サンセット・ラリー」です。


サンライズ・サンセット・ラリーは、スタートからゴールまでの道順も、オートバイの排気量も自由で、2輪免許を持っている人なら誰でも参加資格があり、完走できた選手は全員勝者であるという自己完結型のラリーです。


昨年初参加した私は、スタート地の新岡山港からゴール千里浜海岸まで、雨風に守られた車でさえも過酷な500キロの距離をオートバイで走り切れるかどうか不安でした。


しかし無事に完走できて、大きな達成感を味わうとともに、自分の中に潜む力に驚きました。


50代後半の自分にも、まだこんなにも体力があったのかと思うと不思議で、今年もう一度完走できるかどうか自分に挑戦してみたくて、再びラリーに参加したのです。


今年はコロナの影響で開催が秋にずれ込み、日照時間が短く気温も低く、厳しい条件下のラリーで、私がスタートした10月4日は、途中で雨に降られ激しく体力を奪われながらの走行でしたが、午後2時過ぎ、日本海が見えるところまで来たとき、初雁に遭遇したのです。


小学生の頃、意味もわからず歌っていた「雁がわたる」の歌詞や清少納言が「いとおかし」と表現したとおり編隊を組んで高い空を渡る雁を見た瞬間の驚きと感動は、私だけの忘れられない宝物の風景となりました。


また初雁を目にした感動で、それまでの疲れも吹き飛び、元気を取り戻し、残り約200キロを走り切って日没までに千里浜海岸に到着して今年も完走できました。


2回目の完走で私が確信したものは、人が疲れ切って、前進できなくなった時に生気を取り戻すきっかけは、肉体のための栄養だけでなく、心のための栄養が必要なのであり、日本人はそれを自然に求めてきたのだなと思いました。


このラリーの発案者は南極も北極も、エベレストもオートバイで到達し、サハラ砂漠を渡る過酷なラリーで有名なパリ・ダカールにも完走した経歴の持ち主のオートバイ冒険家、風間深志氏です。


風間氏は昨今、減少しつつあるオートバイ愛好家の輪を広げたいと、このサンライズ・サンセット・ラリーを発案しました。


地球の両極までオートバイで到達した風間氏は、きっと彼だけの宝物の風景や心の栄養となる美しい思い出をたくさんお持ちなのだろうと思います。


そして自分だけの宝探しの旅の醍醐味を多くの人に伝えたくて、サンライズ・サンセット・ラリーを発案したのではないかなと思いました。


2020年10月29日

大江利子


東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(拾遺和歌集)

(東の風が吹いたならば、その香りを私の元まで送っておくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、春を忘れるなよ。)


これは、平安時代の学者の菅原道真が太宰府への出立する時に詠んだ有名な和歌です。



幼い頃から学問に優れ、文人として名高い菅原道真は、891年47歳の時に讃岐国の国司(現在の県知事のような役職)から、信頼をおかれていた宇多天皇に抜擢されて蔵人頭(天皇の秘書長)となりました。



その後、短期間のうちに出世した道真は、899年55歳の時、太政大臣に次ぐ最高職の地位、右大臣となり天皇の忠臣として政治改革に着手しました。



しかし政治の反対派藤原氏の策略により、道真は謀反の嫌疑をかけられてしまいます。



901年1月、57歳の道真は疑いを晴らす暇も与えられずに、太宰府への左遷が決まり、右大臣の役職を剥奪されて都を追われたのでした。



太宰府では侘しい暮らしを強いられ絶えず藤原氏の刺客に怯えた生活で、左遷から2年後の903年2月25日、謀反の疑いが晴れることなく、道真は59歳で亡くなりました。



道真亡き後、都では異変が起きました。



まず道真を失脚させた首謀者が病死、皇子、天皇ともに相次ぎ落命、都は異常気象により干ばつに見舞われ人々は飢饉に苦しみ疫病が蔓延、政務をつかさどっていた清涼殿には落雷が起きて死者がでました。



人々は道真の祟りだと恐れおののき、鎮魂行事をしないことには政務も立ち行かなくなってしまいました。



道真没後20年目の923年、政府は彼の左遷を撤回し、右大臣の役を再び贈り、京都北野に怨霊鎮魂のために神殿を建立しました。



清涼殿の落雷以来、天神(雷神)は道長の化身と考えられて、天神を祀る神社、天満宮は道真を祀る神社となりました。



時代が下るにつれて、天満宮の道真は祟り神としてよりも、生前に彼が優れた学者だったことから学問の神様として祀られるようになりました。



道真没後千年以上経過した今では、誰も道真のことを恐ろしい祟り神だとは考えず、彼の生誕と没日がともに25日であることから、毎月25日の天満宮の祭日の門前市は人々の楽しみとなり、毎冬の受験シーズンには合格を祈願する学生たちの心のよりどころとして、人々に愛される身近な神様となりました。



それにしても、道真没後に起きた干ばつや落雷は本当に彼の祟りなのでしょうか?



私には周囲の人の濡れ衣に思えてなりません。



道真を失脚させた藤原氏やその謀略を知っていながら傍観した当時の人々が、自分たちの心に負い目があるために、得体の知れない厄災を道真のせいにしたのではないでしょうか?



もともと道真は、右大臣拝命の折、周囲の嫉妬を理由に辞退を上申しましたが、退けられた経緯があり、聡明な彼は自分の運命を承知した上での右大臣着任だったかもしれません。



太宰府への出立する数日前に、道真は宇多天皇に哀惜するような和歌を詠んでいます。



流れ行く我は水屑となりはてぬ 君柵(しがらみ)となりてとどめよ

(流されていく私は水屑となるとしても、我が君よ、どうかしがらみとなってせきとめてください)



謀反の嫌疑をかけられても道長が詠んだのは恨みごとではなく、花鳥風月を愛した彼らしい雅で風流な和歌でした。



道真の漢詩集「菅家文章(かんけぶんそう)」からも彼の思想を伺えます。



未だかつて邪(じゃ)は正(せい)に勝たず

(邪まなことはどんなことがあっても、結局正義には勝てないのである。)



ところで最近の私は、和傘に興味をもち、調べたり取材したりしています。



私の故郷の岡山には江戸時代に手作りの飛行機で空を飛んだ人物の記録が残っています。



その人は浮田幸吉という腕の良い表具師でした。



幸吉は幼い頃に父を亡くし奉公に出されましたが、9歳で和傘を丸ごと手作りするほど手先の器用な少年だったそうです。



鳥のように飛びたいと、空飛ぶことに憧れた幸吉は、1785年28歳の時に和紙と竹で作った自作の飛行機で岡山城の近くを流れる旭川にかかる京橋の欄干から河原で夕涼みをしている人々の上を飛びました。



この幸吉の飛行は、ライト兄弟よりも118年早いのですが、時代を先駆け過ぎました。



当時の岡山城主、池田家7代目の池田治正に認められるどころか、空を飛んで世間を騒がせたことは罪だとお裁きが下り、幸吉は所払いになってしまいました。



幸吉はその後、静岡県に移り住み、そこでも空を飛んだらしく、彼の飛行機は明治時代まで実在していたようですが、縁者の人達に捨てられてしまいました。



幸吉の岡山所払いの罪は212年後の1997年、池田家16代目当主池田隆正より許され、彼の人物像は江戸時代に空を飛んだ偉人として映画や小説の題材になっています。



しかし、肝心の幸吉の飛行機は、図面も機体も残っていないので謎のままです。



重要なヒントは幸吉が和傘つくりに長けていたことですが、和紙と同じく和傘も、かつて日本の各地で盛んに作られていましたが、洋傘にその座を追いやられて今では岐阜や金沢、京都でごく少数の職人が祭事や踊りや野点などの限られた用途の和傘を作っているだけとなり、一朝一夕に作り方を見ることも知ることも難しいのが現状です。



幸吉のふるさとは岡山南部の瀬戸内海沿岸の玉野市八浜です。



八浜は私の住まいの近くであり、オートバイが好きな夫のお気に入りツーリングコースでした。



今では、八浜は、毎日曜日の私のツーリングコースです。



50歳を過ぎてから、ピアノを弾く我が手で、二輪のハンドルを握るなんて想像すらしていませんでしたが、夫の形見のオートバイにまたがり八浜を疾走していると、幸吉のことが人ごとではないように思うのです。



幼くして奉公に出された幸吉につらく孤独に耐えきれないことはなかったのか?



おそらく幸吉は、寂しいことやつらいことに心を傾けるよりも目の前にある謎を自分で解決しないと気が済まない好奇心旺盛な少年だったのではと思います。



私も夫を失った悲しみに浸り、彼を死に追いやった原因を恨み続けるよりも、彼が残した大量の飛行機の本を読み、わからないことや見たいことを解決するために彼が愛したオートバイで各地を疾走する方が性に合っていたようです。



学問の神様の菅原道真も、乗馬が好きで自然の中を馬で駆け巡ることが大好きでした。



来月10月、昨年初参加したオートバイ・ラリーに再び参加するために、岡山から石川県まで走りますが、帰り道に北陸地方から岐阜まで和傘の産地を訪問し、幸吉の翼の謎解きに役立つことをつかみたいと、今から心が高鳴ります。



2020年9月29日

大江利子


上方落語に「口入れ屋(くちいれや)」という、日本の伝統音楽にとっては興味深い演目があります。



口入れ屋とは奉公人に勤め先を紹介する仲介屋のことですが、丁稚(でっち)、仲居、板前など斡旋する職種によって専門が分かれていました。



この落語に登場する「口入れ屋」は、明治の頃、商家の大店(おおだな)が立ち並ぶ大阪の船場(せんば)で、女子衆(おなごし=女中)を斡旋していた店のお話です。



ある日のこと、丁稚の定吉は、口入れ屋でいちばん美しい女性を連れ帰り、女将(おかみ)さんから、お叱りを受けます。



定吉が働いていた商家の奉公人は、住み込みの若い男ばかりでした。



当時、男の奉公人は、丁稚から番頭になるまで長く勤めましたが、女の奉公人は半年契約で入れ替わりました。



半年ごとに女子衆(おなごし)さんが入れ替わるたびに、男の奉公人が色めき立っては商売に障るので、女将さんは、なるべく不細工な女性を口入れ屋から連れ帰るように定吉に言っていたのです。



いつもなら、女将さんのお言いつけどおりにする定吉でしたが、今回は、番頭どんから十銭の駄賃と引き換えに美女を連れ帰るようにと、こっそり頼まれていました。



番頭どんは、暖簾(のれん)分けが決まっていて間もなく晴れて別家(べっけ)し、独立するので、美女の女子衆さんにお嫁さんになってもらおうと、彼女を口説くつもりだったのです。



そうとは知らず、人の良い女将さんは、定吉が連れてきた女性を不細工でないからと、追い返すのは気が引けるし、さりとて、あてにしていた掃除や炊事番などの下(しも)の女子衆さんとして使うにはもったいないと、美貌の彼女に、上(かみ)の仕事であるお針ができるかどうかを尋ねます。



すると美女は、「袷(あわせ)、単衣(ひとえ)、綿入れ、襦袢、羽織袴、十徳(じっとく)、雪駄の裏側、と針が通るものならなんでも縫い上げられる」と恥じらいながら答えます。



次に、三味線は弾けますかと問われた美女は、やはり謙虚に、「地唄、江戸歌、長唄、常盤津、義太夫、清元、端唄、大津絵、伊予節、都々逸、よしこの、追分、騒ぎ唄、新内、源氏節、チョンガレ、祭文、阿保陀羅経(あほだらきょう)…」と、自分ができる日本のあらゆる音楽を立て板の水のごとく答えます。



私が、初めてこの「口入れ屋」聞いたのは、ごく最近ですが、この美女の三味線の口上の部分をとても愉快だと思う反面、恥ずかしく思いました。



なぜなら、地唄も長唄も江戸歌、その他、「口入れ屋」の美女ができるといったいずれも、私は日本人として生まれ育って半世紀以上も経つのに、まったく頭に浮かばなかったからです。



節を耳にすれば、どこかで聞いたことを思い出すかも知れませんが、普段慣れ親しんだクラシック音楽のように、曲の冒頭を聞くだけで、たいていの曲の題名と作曲家が口からでるようなわけにはいきません。



歌舞伎、文楽、箏曲、雅楽など我が国を代表する伝統音楽は、大学時代に知識として身につけ、中学校で音楽を指導していた時代は、生徒に教えなくてはならない曲に限り、勉強しましたが、その他は、まったく自ら親しもうともせず、今日まで過ごしてきたことを反省したのです。



もちろん私が日常の仕事に使う楽器はピアノであり、専門とする発声はオペラを歌うためのものなので、西洋音楽中心になってしまうのは当然なのですが、だからといって、母国の伝統音楽に対して、いつまでも無知なままで良いわけがありません。



このように、日本の伝統音楽も西洋音楽と等しく理解していかなければ片手落ちだ、と私が思い始めたのには、あるきっかけがありました。



それは、おととしの秋に、初めて生の詩吟を聞いたからです。



その詩吟は武田信玄と上杉謙信の戦いを題材にした「川中島」でした。



吟じてくれたのは毎月一回、私が開催する合唱講座に参加していた80代の女性でした。



彼女は人前で吟ずることは自分の良い勉強になるからと、自らすすんで、長年続けてこられた詩吟を披露してくださったのです。



彼女の声は80代という年齢をまったく感じさせず、みずみずしくて清らかな音色で、しかも言葉の発音が明瞭でした。



詩吟は、オペラのように遠くまで声が届き、詩の内容がはっきりと聞き手に伝わるように正しい腹式呼吸を使って吟じることが大切ですが、80代の彼女が、私の合唱講座で、どんな曲も正しい音程で滑らかに歌っておられた秘密を見たように思いました。



そして、合唱も詩吟も等しく取り組み「人前で発表することは自分の勉強になる」という彼女の前向きな姿勢に私は深く感動し、そんな彼女の姿を若い人達に見てもらいたいと思いました。



また同時に日本の音楽も西洋の音楽も、さらには室内できることなら何でもいっしょに発表し合って楽しめたらいいなと思いつき、昨年から「みんなの発表会」というユニークなコンサートを始めたのです。



昨年初回は、詩吟、吹き矢、独唱、ピアノ、バレエ、ヴァイオリン、サキソフォンで、和の演目はふたつでした。



今年の第2回は、バレエ、ピアノ、飛行機、ヨーヨー、シャンソン、歌謡曲、イタリア歌曲、日本歌曲、オペラで、和の演目はなかったものの、一層楽しい会となりました。



1955年から2002年まで続いたテレビ番組で「素人名人会」という演芸を発表し合う視聴者参加型の番組がありました。



素人名人会は「みんなの発表会」のように何でも発表できましたが、和の出し物が中心で、踊りは、日舞や剣舞、楽器は三味線や尺八や筝、歌は民謡や歌謡曲でした。



ピアノを本格的に習い始める以前の小学生の私は、鳴り物なら洋の東西を問わず、何でも好奇心があったので、この「素人名人会」を見るのが大好きでした。



小学校で習う音楽は、西洋音楽中心で、音楽室で触れることができた楽器もアコーディオン、木琴、鉄琴、オルガン、大太鼓など洋楽器ばかりでしたから、「素人名人会」で、一般の人が当たり前のように和楽器を奏し、小さな男の子が袴姿で日舞を踊る姿はとても新鮮でした。



当時の私にとっては、日本の民謡もクラシックもすべての音楽が等しく楽しめたのです。



しかし、音楽大学で専門教育を何年も受けた後の私は、いつしか西洋のクラシック音楽が最上に思えて、その他の音楽の良さを発見することも楽しむことも忘れていたように思います。



けれど、詩吟と合唱を両方とも親しむ彼女の歌声に触発されて始めた「みんなの発表会」で、再び小学生の頃のように、広い視野で音楽を楽しむ自分を取り戻せたように思います。



落語「口入れ屋」の美女のように何でもできる人になれたらいいなと思うと同時に、来年の「みんなの発表会」では和の出し物が増えることをひそかに期待している私です。



2020年8月29日

大江利子


先月7月6日、イタリアの偉大な作曲家エンニオ・モリコーネが亡くなりました。


1928年(昭和3年)、ローマで生まれたモリコーネは、音楽の守護聖人サンタ・チェチーリアの名を冠する国立音楽学校「サンタ・チェチーリア音楽院」でトランペットと作曲を学んだ人ですが、映画音楽の作曲によって彼の才能は開花しました。



500曲以上の映画音楽を作曲した中で、モリコーネの名前を最も有名にしたのは、「Nuova Cinema Paradiso(ヌォーヴァ・チネマ・パラディーゾ)=ニュー・シネマ・パラダイス 」のテーマ音楽です。



ニュー・シネマ・パラダイスの主人公は、戦争未亡人の母と幼い妹との3人暮らしの少年サルバトーレです。



サルバトーレは、小学校が終わると一目散に教会で映画を上映している映写技師のアルフレードのところへ行きます。



映画館がなかったサルバトーレの街では、教会がその代わりをしていました。



娯楽の少ない街では、映画を見ることは人々の大きな慰めと喜びで、教会の祭壇の裏側の狭い部屋で、たった独りで一年中休むことなくアルフレードは映写機を操作していました。



戦争のために小学校の課程も満足に終えることができなかった無学なアルフレードは、他に生きていく術(すべ)がなかったこともありますが、人々が映画を見て、泣いたり笑ったりする姿を見ることが何よりもの生きがいと感じ地味な仕事である映写技師をしていたのです。



映画が大好きなサルバトーレは、仕事の邪魔だからとアルフレードから追い払らわれても、少しも懲りずに毎日、教会に行って彼の仕事を観察するうちに映写機の操作方法を覚えてしまうほどでした。



我が子がいないアルフレードは、サルバトーレのことを、本当の息子のように愛しく思えて、ふたりの間には親子のような心の交流が芽生えていきました。



アルフレードの大きな父性愛を代弁するかのような、人の心を優しく包み込み、どこか懐かしい音楽をモリコーネは、この映画のために作曲しました。



1988年、ニュー・シネマ・パラダイスは、このモリコーネの音楽に乗って、世界的な大ヒットを飛ばし、アメリカ映画嗜好が強い日本でも、イタリア映画の魅力に開眼させられました。



ニュー・シネマ・パラダイスの監督は、当時32歳のジュゼッペ・トルナトーレで、還暦を迎えた60歳のモリコーネとは、サルバトーレとアルフレードのように親子ほどの年の差があるコンビでしたが、その後もふたりは「みんな元気」「マレーナ」「シチリア!シチリア!」など、イタリアの魅力がふんだんに詰まった名画を世に送り出していきました。



トルナトーレには、心温まる曲を提供したモリコーネですが、彼自身が30代の頃は、西部劇の名監督セルジオ・レオーネのために、野生的な音楽を作曲していました。



「荒野の用心棒」は、レオーネ監督とモリコーネが組んだ西部劇で俳優クリント・イーストウッドの出世作として有名なマカロニウェスタンですが、日本と特別な因縁のある映画です。



1964年(昭和39年)に制作された「荒野の用心棒」は、その3年前に公開された黒澤明監督の「用心棒」にそっくりだったのです。



ふたつの映画の違いはガンマンが登場する西部劇か、侍が登場する時代劇かの違いだけで、どちらも、ふらりと現れた主役が、街で対立していた影の組織を全滅させて去っていくという物語です。



セリフや細かい演出も、何もかもそっくりなのにもかかわらず、レオーネ監督はオリジナル側の日本の映画会社と黒澤監督に、無許可で「荒野の用心棒」を公開したため、訴訟騒ぎに発展し、裁判は日本の東宝が勝訴し、賠償金の支払いで決着しましたが、そもそもの盗作の発端は、レオーネ監督が黒澤監督の「用心棒」を見て、とても感動したことによるものです。



その後、黒澤監督は、盗作問題はわきにおいて、映画の先進国であり、芸術の国イタリアの名監督から真似されるほどの名誉に浴した「用心棒」の続編として「椿三十郎」を制作しました。



「椿三十郎」も「用心棒」同様、ふらりと現れた浪人が、武家の汚職問題を解決し、見返りをもとめず、去っていくという筋書きです。



ふらりと現れた人が厄介な問題を解決し、また去っていく、つまりアメリカ映画の傑作「シェーン」のような筋書きは、映画や舞台作品にはとても魅力的なのです。



レオーネ監督も「荒野の用心棒」のあとも、「夕陽のガンマン」、「続夕陽のガンマン」と引き続きクリント・イーストウッドを主役にして、同様の筋書きで映画を制作しました。



日本では、「椿三十郎」のように、武士の身分でありながら主家を失い、諸国を浮浪する侍を浪人、ヨーロッパでは、定住せずに放浪している人たちをジプシーと呼びます。



平凡な浪人やジプシーは芸術の題材としては、面白くありませんが、非凡な存在、例えば宮本武蔵や坂本龍馬のような魅力ある人物は、ドラマや映画の主役に引っ張りだこです。



オペラ「カルメン」では、どんな男性をも虜にする魔性の魅力をもつジプシーの女性が主人公です。



オペラのラストにカルメンは、元恋人からナイフを突き付けられて復縁を迫られますが、「死なんて恐れない、私は自由気ままに生きるのだ」と高らかに歌い、元恋人に殺されてしまいます。



フランスの小説家メリメが執筆した原作では、色恋のもつれから殺されたジプシー女の暗い小説なのに、オペラでは、ビゼーが作曲した美しくて官能的な音楽の力によって、カルメンは情熱のままに生きた自由奔放なヒロインとして表現されています。



音楽の力を借りると、不道徳な人物も、非現実な筋書きも、人は素直に受け入れて感動してしまうのが不思議です。



いつも安心が保証された生活をしていると、反対のことに魅力と憧れを感じてしまうものなのかも知れません。


バレエにもジプシーの女性が主役になった素敵な作品があります。



「レ・ミゼラブル=ああ無情」の作者のヴィクトル・ユーゴの小説「ノートルダムのせむし男」をもとにしたバレエ「エスメラルダ」は、パリにふらりと現れた、エスメラルダという名の美しいジプシーの踊り子が主役です。


バレエ「エスメラルダ」の音楽を作曲した人は「ニュー・シネマ・パラダイス」のモリコーネと同じイタリアの作曲家チェーザレ・プーニで、彼より126年前の1802年に生まれ1870年に68歳で亡くなるまでにバレエ音楽を300曲以上残しました。



プーニは、バレエと切り離なされて、彼の音楽だけを演奏会で耳にする機会の少ない作曲家ですが、非現実なストーリーを納得させるプーニ音楽の力は、チャイコフスキー同様に素晴らしいものです。



来月8月、私は自分が企画した第2回目の「みんなの発表会」で、バレエ「エスメラルダ」より、情熱的な一曲を踊りますが、プーニの音楽の力を借りて、50代後半の私でも魅惑的なバレエが踊れるようにと、お稽古に励む毎日です。



2020年7月29日

大江利子


「プルチネルラ」は、ナポリの恋人たちの痴話げんかを描いたコミカルなバレエです。


町娘ロゼッタとプルデンザは、自分の恋人に飽き飽きし、色男のプルチネルラに惹かれています。

娘たちから秋波をおくられたプルチネルラは、美しい妻ピンピネルラを持つ身でありながら、娘たちの期待に応えて戯れの恋を楽しみます。


そんな様子を見て、嫉妬に狂った娘たちの恋人カヴィエルロとフロリンドは、闇夜にプルチネルラを襲います。


命の危険を感じたプルチネルラは、死んだふりをして暴挙をかわします。


カヴィエルロとフロリンドは、動かなくなったプルチネルラを見て、自分達が犯した罪に恐ろしくなり、その場から逃げ出してしまいます。


一方、知恵者プルチネルラは、友人フルボに自分の変装をさせて死体になってもらい、離れたところから街の人たちの反応を伺います。


まず、やってきたのは妻のピンピネルラで、愛しい夫の哀れな死体を見て半狂乱です。


嘆き悲しむ彼女のもとへ街の人々が集まり、皆悲しみに暮れているところに、本物のプルチネルラがひょっこりと現れて、一同は幽霊が出たと勘違いし、大騒ぎになります。


しかし、実はプルチネルラは生きていて、死体は変装した友人だと判明し、町娘と若者も仲直りし、大団円におさまります。


この大衆芝居のような「プルチネルラ」は、17世紀のイタリア仮面喜劇「4人の瓜二つのプルチネルラ」を参考にしてつくられたバレエで、1920年5月15日、ロシアのバレエ団「バレエ・リュス」によって、パリ・オペラ座で初演されました。



「バレエ・リュス」は興行師セルゲイ・ディアギレフによって結成されたバレエ団です。



1872年、ディアギレフは、帝政ロシアの裕福な地方貴族の息子として生まれ、大学在学中の彼は、本業の法律の勉強にはまったく身が入らず、芸術家になりたくて、作曲家リムスキー・コルサコフのもとで個人的に音楽を学んでいました。



しかし、師のコルサコフから作曲の才能がないことを明言された彼は、自分が愛する芸術を世の中に紹介することに情熱を傾けるようになります。



当初ディアギレフは、私財を投じ、買い集めた絵画の展覧会を開いていましたが、次第にオペラやコンサート興行で成功をおさめ、ついには新進気鋭の人材を集めたバレエ団「バレエ・リュス」を結成し、世界各地を巡演してバレエ界に革命をおこします。



バレエ・リュス登場以前のバレエは、伝統の型からはみ出さず、そのパトロンである王侯貴族に受けの良い、格調高く優雅な芸術でした。



「白鳥の湖」に代表されるように、贅沢な空間の広い舞台で、華やかな衣装をまとったバレリーナの正確な回転や跳躍、猫のように柔軟な四肢と爪先立ちの踊りで観客を魅了することがバレエでしたが、大衆にとっては、どこか近寄り難い芸術でした。



しかし、バレエ・リュスのバレエは、自分達でオリジナルな作品を創造し、伝統に縛られない斬新なステップで、広く一般に親しみやすい芸術でした。



たとえば、1919年ロンドンで初演されたバレエ・リュスの「三角帽子」は、衣装と舞台のデザインはピカソが担当し、美人の粉ひき屋の女将に悪代官が恋をするという歌舞伎の世話物のような筋書きのバレエです。



バレエ・リュスの活動期間は、1909年の旗揚げ公演から、ディアギレフの死とともに解散した1929年までですが、その20年間に、「春の祭典」「シェヘラザード」「火の鳥」など、現代のバレエ上演に欠くことのできない重要な作品をつぎつぎと誕生させました。



それにしてもなぜ、ディアギレフ個人によって結成された小さなバレエ団に、バレエ界の流れを変える革新力があったのでしょうか?



それはディアギレフが、バレエ公演にとって難しいことを逆手にとり、柔軟なアイデアで新しい形のバレエを創り続けたからです。



国や王から手厚く保護されていた伝統的な国立や王立バレエ団とは違い、専用の劇場を持たない流浪の集団バレエ・リュスが、二つの大戦にはさまれ世情不安な時代に、巡業先で公演を成功させるには、舞台演出はなるべく簡素で小人数のダンサーで、観客を夢中にさせなければなりません。



この難題を常に抱えていたバレエ・リュスは、伝統や常識は無視して、一般大衆の観客が、すぐに理解できて、作品の最初から最後まで目が離せないほど興味をそそられるバレエを創ることに重きを置いたので、プルチネルラのような傑作が誕生したのです。



プルチネルラは、バレエ・リュス作品の中でも際立って面白いバレエですが、音楽が特にユニークで、作曲は「春の祭典」のストラビンスキーが担当しました。しかし本人のオリジナルではなく、ディアギレフがナポリの音楽学校の図書館で見つけた17世紀のオペラを、ストラビンスキーが編曲してつなぎ合わせたもので、古典オペラのアリア(ソロの歌)で、ダンサーが踊ります。



プルチネルラのもっとも有名なアリアは、メゾソプラノによって歌われる「Se tu ’ami(セ・トゥ・マ・ミ=もしもあなたが私を愛してくれるなら)で、26歳の若さで世を去った、作曲家ペルゴレージのオペラの1曲です。



バレエ好きな私の夫は、プルチネルラが特にお気に入りで、いろいろなバレエ団のプルチネルラのレーザディスクを集めて、見比べていましたが、夫一押しの一枚があります。



それは、オランダのバレエ団、スカピーノ・バレエのプルチネルラです。



スカピーノバレエ団は、第二次世界大戦直後1945年に結成され、学校巡回公演を通じて子供たちにバレエの楽しさを伝えることを大切にしてきたダンサーグループです。



そんなスカピーノバレエ団のプルチネルラの演出はとても単純で、普段着にしたいような可愛い衣装を身につけたダンサーが、子供たちが真似をして踊りだしたくなるような楽しいステップで踊ります。



そして「Se tu m’a mi」を歌っているのは、スペイン出身のオペラ歌手テレサ・ベルガンサです。



ベルガンサは、超一流の歌劇場で主役を歌い続け、バルセロナ五輪の開会式で歌った経験をもつメゾソプラノですが、その世界的な歌手ベルガンサのコンサートが1997年2月16日、香川県志度町で開かれました。



私と夫が、香川県志度町のコンサート会場に足を運んだのは言うまでもありません。



23年前、四国の小さな街の音楽ホールの舞台に登場したベルガンサは、シンプルな黒のパンツ姿で、プログラム内容も、シューベルトの魔王など、学校で習うような歌が中心で親しみやすい曲目でした。



コンサート終了後、私と夫は、ベルガンサに、彼女が歌ったスカピーノバレエのプルチネルラのレーザディスクのジャケットを差し出し、サインを乞いました。



サインをしているベルガンサに、私はイタリア語で質問しました。「Lei ha ricordato questo lavoro ?レイ・ア・リコルダート・クエスト・ラボーロ(あなたはこのお仕事を覚えておられますか?)



すると、ベルガンサは「Si si ,Certo!シ、シ、チェルト!=ええ、もちろん」と人懐っこい笑みを浮かべながら答えてくれ、私と夫はとても幸せな気持ちで家路につきました。



今年の夏、私は、自分が企画した新しい形の発表会の第2回目を開くことを決心しました。



バレエでも歌でも詩吟でも、ジャンルを問わず、老若男女年齢を問わず、発表したい人なら誰でも大歓迎というユニークな会「みんなの発表会」を昨夏初めて開催し、とても好評だったからです。



コロナウィルス影響で制約ある状況ですが、バレエ・リュスのように難題を逆手にとり、ベルガンサのコンサートのように、わかりやすい内容で、会に参加された方々全員に幸せな気持ちになってもらえるように知恵を絞り、会を成功させようと思います。



2020年6月29日

大江利子


1994年に公開された「Immortal Beloved(不滅の恋人)」は、ベートーベンを描いた映画です。



映画のあらすじは、ベートーベンの死後、彼の秘書が、「自分の楽譜、財産全てを「不滅の恋人」に捧ぐ」という遺書を発見し、ベートーベンと交流のあった女性を訪問し、不滅の恋人が誰なのかを探しあてるというものです。



訪問を受けた女性たちは、ベートーベンと過ごした日々を回想し、天才作曲家の人間的な面を浮き彫りにしていきます。



ベートーベン役には、徹底した役作りで有名なイギリス俳優ゲイリー・オールドマンで、自らもピアノの才能がある彼は、吹き替えを使わず、違和感のないベートーベンを演じています。



不滅の恋人候補の女性役に、ロッセリーニ監督と女優イングリット・バーグマンを両親にもち、母の知的な美貌を受け継いだイサベラ・ロッセリーニが演じています。



結末は、意外な展開で終わるフィクションですが、だんだんと耳が聞こえなくなり周囲との意思疎通がうまくいかないベートーベンの孤独感が胸に迫る、せつない映画です。



不滅の恋人を探して旅する秘書は、実在人物でアントン・シンドラーという音楽家で、ベートーベンの伝記を最初に残した作家です。



ただし、ベートーベン研究が進むにつれて、このシンドラーの本は、捏造があり、彼の著書の信用度は、今では失墜しています。



生前ベートーベンは、シンドラーのことを嫌っていましたが、亡くなる前に、世話をしていたのは、彼だけだったため、天才作曲家の貴重な資料が、シンドラーの手元に渡りました。



シンドラーはそれらをもとに、「ベートーベンの生涯」を書き上げましたが、自分の本に都合の悪い資料や、ベートーベンが、(400冊はあったと推定される)会話に使った筆談帳を破棄し、改ざんしていたことが、新しい研究が進むにつれて、露呈してしまったのです。



一方、ベートーベンの形見を大切に保存していた人によって、学者たちの論争の的だったベートーベンの不名誉な病気について終止符が打たれました。



その形見とは、ベートーベンの遺髪です。



1827年3月26日、ベートーベンは56歳の生涯を閉じますが、死の直前に、友人である作曲家のフンメルの心からのお見舞いを受けました。



フンメルは自分の弟子の16歳の少年も、お見舞いに同行させていました。



少年は、フェルディナント・ヒラーという名前で、のちには、メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、ワーグナーたちと親交を結ぶ作曲家に成長した人です。



ヒラー少年は、1827年3月27日、棺におさめられたベートーベンの遺体から、毛髪を一房切り取り、木製の小さな楕円形のロケットにその遺髪をおさめて、宝物として一生大切にしていました。



このヒラーの宝物は、彼亡きあとは、息子が受け継ぎ、その後、数奇な運命をたどって無事に現代まで受け継がれました。その事実は「ベートーベンの遺髪」という本にまとめられています。



2世紀も、ロケットの中におさめられていたベートーベンの毛髪は、1995年に初めて鑑定され、新事実がわかりました。



亡くなった直後、ベートーベンの遺体は解剖され、彼の肝臓は革のように縮んで結節ができ、腎臓は石灰化して、脾臓は黒く硬化しその他の内臓も傷んでいたことがわかっていました。



しかし、これらの内蔵損傷の原因は何の病気であったかは、当時の医学では解明できずに、ベートーベンは梅毒や淋病に感染していたと、非礼極まりない説を述べる学者もいました。



しかし、ヒラーが保存していたベートーベンの遺髪を鑑定し、その中には鉛が大量に含まれていたことが解明され、梅毒や淋病の証拠はありませんでした。



大量の鉛が残っていた理由を断定はできませんが、ベートーベンが好きだった、赤ワインには、当時添加物として鉛が使われ、また食器や水道管にも同様に鉛が使われていたので、徐々に作曲家の内臓に蓄積し内臓を傷つけてしまったのでは、と言われています。



また、毛髪鑑定の結果、楽聖ベートーベンの偉大な創作欲を証明する事実も明らかになりました。



それは、ベートーベンを苦しめていた疝痛にモルヒネが使われていなかったことです。



当時、モルヒネは、鎮痛剤として一般的に使用されましたが、死の床にあっても作曲をしたかったベートーベンは、モルヒネによって意識が混濁することを拒んだのでした。





音楽家にとって致命傷となる聴覚異常がベートーベンを襲ったのは20代の頃からです。



激しい耳鳴りや難聴に悩まされ、徐々に聞こえなくなっていく恐怖で、32歳の時に自殺を考え遺書まで書いた彼ですが、新しい音楽を作曲したいという創作欲が、聴覚を失う恐怖に打ち勝ちました。



40歳には完全に聴力を失ったベートーベンですが、彼の創作の泉は枯れるどころか、ますます新しい世界まで到達し、亡くなる3年前の53歳の時には、人類の宝と呼ぶにふさわしい第九交響曲を作曲したのです。



ところで、私も30代の頃、自殺を考えたことがありました。



37歳の夏、突然襲ってきた激しいかゆみによって、夜はほとんど眠れなくなり、首から下のあらゆる関節の周辺に発生した皮膚炎によって、全身かきむしって血だらけになりました。



かゆみから開放される時は一瞬もなく、夜は眠れず、外出もままならず、発狂しそうになり、車ごと川に飛び込もうと思い、夜中に死に場所を探して、何時間も車を走らせたことさえありました。



けれど、命を絶つ勇気はとうとうでなくて、家に帰り、かゆみに襲われ、身体中かきむしり、眠れず苦しみ続けました。



そんな私の唯一の救いは、毎日のおけいこでした。



どんなにかゆく、寝ていなくても、歌とピアノを練習し終えると、精神の均衡は保てたのです。



皮膚科医が処方する対処療法的な塗り薬を使ったこともありましたが、悪化するだけでした。



それよりは、おけいこをする方が精神に良い作用を及ぼし、かゆみを我慢し、かきむしってしまう手を止めることはできないけれど、絶望せず、ありのままの自分を受け入れることができました。



「今日一日だけ、頑張ろう」そう心に言い聞かせ、出口のないかゆみと闘ったものです。



いちばんかゆくてつらいとき、ピアノのおけいこに選んだ曲はベートーベンのソナタでした。



生命力にあふれたベートーベンの音楽が、私の指を通して身体の隅々まで運ばれて、私の得体の知れない病をゆっくりと追い出しているようでした。



かゆみは37歳から51歳まで17年間続きましたが、とうとう私はかゆみのない日常を取り戻してしまいました。



けれども、今度は、夫を失ってしまった苦しみが、間断なく私を襲い責め続けます。



しかし、またおけいこで乗り越えるしか、自分を救う方法が見つかりません。



この苦しみを、誰かに預けることもできないし、また、もう解決しないことは、私自身がよく知っているからです。



私が夫と再会できるまでに、どれくらいの時間があるのか神のみぞ知るだけですが、ベートーベンのピアノソナタだけでも32曲ありますから、凡人の私にとっては十分過ぎるほどで、やりがいがあるというものです。



2020年5月29日

大江利子


ピアノでバッハを弾くのは、私の日課です。



スポーツをする前に柔軟体操するように、音階練習で指をほぐしたら、まずバッハを弾くのです。



この習慣は、私がピアノを本格的に習い始めた中学生からです。



私が初めて、バッハのピアノ曲に出会ったのは、中学2年生の時です。



中学2年の私は、地元岡山では難関だった女子高のピアノ科への受験を目指していました。



その女子高は、少数精鋭の生徒に英才教育を行っていることで定評があった、私立の山陽女子高等学校でした。



女の子の習い事として、今ではすっかり下火になったピアノですが、私が山陽女子の音楽科を受験した頃は、ピアノ人口は、とても多かったのです。



山陽女子のピアノ科の入学試験は、自由曲と課題曲、それぞれ1曲、試験当日に、弾かなくてはなりません。



自由曲は、モーツァルトかベートーベンかハイドンのピアノソナタの中から、好きな1曲、課題曲は、山陽女子が指定した1曲です。



山陽女子が課題曲に指定していたのは、バッハの「インベンション」です。



バッハの「インベンション」は、15曲から構成された練習曲集で、課題曲はその中から、1曲が指定されます。



バッハのインベンションは、楽譜を見ると、一見簡単そうですが、モーツァルトやベートーベン、ハイドンのソナタと、まったく異なる難しさがあります。



私たちが普段、耳にしているポピュラー音楽は、旋律と伴奏があり、ひとつの曲の中に、異なるふたつのメロディーが、混在することはありません。



モーツァルトやベートーベン、ハイドンのソナタも同様に、旋律と伴奏があり、右手が旋律、左手で伴奏、というパターンで作曲されています。



しかし、バッハのインベンションは、伴奏部分は存在せず、複数の旋律が絡み合うように作曲されていて、右手と左手は、それぞれに異なる旋律を弾くという、非常にややこしい音楽です。



このややこしいインベンションを、なめらかに弾けるようになるには、片手で丁寧に練習することが、いちばんの近道ですが、そうすることによって、飛躍的にピアノの腕が上達します。



バッハはもちろん、その効果を意図して、鍵盤楽器の学習者のために、このインベンションを作曲したのです。



このインベンションのように複数の旋律だけで作られる作曲法は、対位法と呼ばれ、バッハが活躍したバロック時代に発展し、バッハはその対位法の大家です。



対位法で作曲されたバッハの曲は、弾けるようになったことに満足を覚えますが、沸き立つような感情の高まりとは無縁です。



ピアノの詩人と呼ばれるショパンの曲ならば、弾いていると、とても感傷的な気分に浸れるのですが、バッハの曲を弾いていると、指の訓練をしているようでロマンチックにはなれません。



対位法のバッハの音楽は、虚飾のない、構成の美しさを追及した、究極の音楽だと言われています。



まるで、漢字を楷書体で毛筆したような、堅苦しいけれど、正確な美しさをもつバッハの音楽ですが、残念ながら、私にとっては、高校受験という思い出が、その美しさを、素直に感じるとることを長らく邪魔していました。



指の訓練と割り切って、いつもバッハを鍵盤でたたいていたものです。



しかし、そんな私のバッハ観を変えてくれた人がいます。



その人は、1927年、東京生まれの皆川達夫という音楽学者です。



皆川達夫は、バッハや古い時代の音楽の美しさを、ラジオや紙面で説き、クラシック音楽に詳しくない人にも、わかりやすく解説した学者です。



私が皆川達夫に出会ったのは、ラジオ番組「音楽の泉」でした。



日曜日の朝、8時5分から50分間「音楽の泉」で、皆川先生(私が勝手に先生と呼んでいました)の正しい日本語で、音楽の解説を聞けることが、とても楽しみでした。



「音楽の泉」では、作曲家も、時代も、ジャンルを問わず、いろいろなクラシック音楽を、皆川先生のわかりやすい解説付きで、紹介していました。



知っている曲もあれば、知らない曲もありましたが、どの曲も、皆川先生の解説を聞くと、とても新鮮な気持ちで、心から楽しんで音楽に耳を傾け、今まで軽視していた曲も、その良さを発見できました。



皆川先生は、造語や流行りの言い回しを使わず、正しい日本語で曲の解説をします。



もし、他の人が使ったならば、妙によそよそしく感じられるはずなのに、皆川先生ならば、よそよそしいどころか、親しみやすく美しい日本語でした。



皆川先生の「音楽の泉」の締めくくりの言葉は、「それではみなさん、ごきげんよう、さようなら」でした。



正しい日本語のあいさつは、バッハの音楽のように、清らかな美しさがあります。



毎日曜日、皆川先生の「ごきげんよう、さようなら」を聞くたびに、私のバッハ観が少しずつ変わり、指の訓練のためでなく、心から好んでバッハを弾くようになりました。



皆川先生が「音楽の泉」を担当されていたのは1988年から2020年3月29日までの32年間です。



2020年3月29日、「音楽の泉」で、きちんと引退のあいさつをされてから、翌月4月19日に、皆川先生は、92歳の生涯を閉じました。



もう二度と、あの「ごきげんよう、さようなら」が聞けないと、思うと、とても寂しく思います。



使う言葉は、その人の教養と品格を表します。



浅学な私には、皆川先生のような正しい日本語は、まだ不釣り合いな気がします。



いつの日か、正しい日本語だけでも、自然な会話ができる人を目指して、バッハと勉強を続けようと思います。



2020年4月29日

大江利子

白くて大きな鳥の立ち姿は、人を思わせます。


私の故郷、岡山の後楽園では、8羽の丹頂鶴が、檻の中で飼育されています。



かつて後楽園では、丹頂鶴が園内を自由に飛び回っていたこともありましたが、今では、元旦と1月3日、その他、年にわずか数日、しかも一日1時間程、放鳥されるだけです。



丹頂鶴が放鳥される日には、大勢のアマチュアカメラマンたちが、ご自慢の一眼レフカメラを手に、後楽園にやってきます。



先月の2月2日の日曜日、希少な丹頂鶴の放鳥日でしたが、その放鳥タイムに、私は偶然、後楽園に居合わせていました。



その日は、九州の友人が私に会いにきてくれた日で、遠方からやってきてくれた友人に、早春の後楽園を案内したいと来園して、幸運にも、丹頂鶴の放鳥タイムと重なったのです。



芝生が広がる園内の小道には、巨大な望遠レンズを構えたアマチュアカメラマンたちが、我先にと、シャッターチャンスに有利な場所を陣取っていました。



私と友人は、撮影の心得もなく、スマホのオートマチックなカメラ機能を使うのが、せいぜいでしたので、気合が入っているカメラマンたちの邪魔にならないように、少し離れたところで、丹頂鶴が飛んでくるのを待ちました。



すると、驚いたことに、2羽の丹頂鶴は、私と友人を目指すように、まっすぐに、こちらに向かって飛んでくるではありませんか。



そして、手を伸ばせば、触れられるほど近くに、2羽は舞い降りて、その場を動きません。



私と友人は、思う存分にスマホカメラで丹頂鶴を撮影したのは言うまでもありません。



2羽の丹頂鶴は、長いくちばしで、芝生をつつき、リラックスした様子でした。



ときおり、丹頂鶴は不意に、顔をあげて、じっとこちらを見つめます。



丹頂鶴の瞳は、黒くつぶらで、綺麗な女性から見つめられているようで、胸がドキドキしました。


2羽は、私達の側から離れようとしないので、飼育員さんが、カメラマンたちが構えている場所の方へ誘導しにやってきました。



飼育員さんに促されるようにして、2羽は、細くて長い足で、ゆっくり歩いて私たちから遠ざかっていきました。



丹頂鶴の立ち去る後ろ姿は、黒い帯をしめた、純白の振袖を着た乙女のようでした。



2羽が、去ったあと、別の4羽が、放鳥されましたが、やっぱり私たちの方へ飛んできました。



カメラマンたちの嫉妬の視線を感じた私たちは、その場所を早々に離れました。



それにしてもなぜ、丹頂鶴たちは、私たちの近くにばかり飛んできたのでしょうか。



恐らく、丹頂鶴たちはカメラを向けられることが嫌だったのだろうと思います。



鳥にとって、巨大な望遠レンズは、恐ろしい一つ目怪獣のように見えるのかも知れませんし、また、シャッターチャンスを狙って、躍起になっているカメラマンの姿は、彼らの祖先から受け継いだ記憶から、その昔、鉄砲で彼らを捕獲しようとした恐ろしい猟師の姿と重なったのかも知れません。



いずれにせよ、邪心や欲が見える人間の近くには、野生の鳥はやってこないものです。



丹頂鶴のように、人の姿に見えるほどの大きな白い鳥は、世界各地の天女の伝説に登場します。



天女の伝説には、いくつかパターンがありますが、だいたいどのパターンも、美しい水辺に白い鳥の衣を着た天女が、舞い降りて水浴びをします。



その水浴びの様子を見て、天女に恋をした人間の男性が、天女の鳥の衣を隠してしまいます



衣を隠されて、天上に帰れなくなった天女は、人間の男性と結婚し、子供を産みますが、ある日、衣を見つけて、天に帰ってしまいます。



天女は、夫も子供も地上に置き去りにする場合、子供だけ連れて行く場合と、伝説により多少違いがありますが、共通するのは、天女を娶る人間の男性が、誠実で真面目だということです。



誠実で真面目な男性だけが、天女の水浴びを目撃できるような幸運に恵まれる、という、昔の人の教訓なのかも知れません。



静岡県の三保半島には、天女の伝説の中で、最たる真面目な男性が登場する伝説が残っています。



「三保の漁師の白陵(はくりょう)は、いつも漁をする海岸の松林の1本の松の木から、とても良い香りがするので、近づいてみると、その枝に美しい羽衣を見つけました。羽衣は、天女が水浴びのために、脱いで、松の枝にかけたものでした。羽衣のあまりの美しさに、白陵はそれを持ち帰り、家の宝にしようとしましたが、天女から、羽衣がないと天に帰れることができないと、懇願されて、返します。ただし、天上の舞いを、舞ってほしいという、交換条件をつけて。天女は喜んで、舞いを舞い、天上へ帰っていくのです。」



つまり、三保の漁師の白陵が欲したものは、舞いを見ることだけで、他には、何の見返りも求めなかったのです。



この無欲で清らかな伝説は、日本の伝統音楽の能「羽衣」になりました。



また、能「羽衣」の存在を知り、感動したフランス人のバレリーナ、エレーヌ・ジュグラリスは、「羽衣」をモダンバレエにして、1949年、フランスで大成功しました。



エレーヌは現代舞踊の祖と仰がれる、イサドラ・ダンカンの手ほどきを受けた優れたバレリーナでした。



しかし、バレエ「羽衣」に情熱を傾け過ぎたエレーヌの肉体は燃え尽きて、35歳という若さでこの世を去りました。



エレーヌは、「羽衣」の伝説の舞台、三保の松原の地を踏むことに憧れ続けていましたが、あまりにも短い彼女の生涯に、その機会が訪れることはありませんでした。



彼女の遺言により、夫君の手によってエレーヌの遺髪だけが、天女が羽衣をかけたと伝えられる松の木の傍の碑に納められています。



先日、私は、執筆の取材のために「羽衣」の伝説の地、三保の松原を訪れました。



三保の松原は、能「羽衣」の他に、富士山の景勝地として世界遺産に登録された美しい海岸でもあります。



私が訪れた日の三保の松原は、雲一つなく、松林の続く白い砂浜と青い空と海に、富士山が浮かび、歌川広重の描くコバルトブルーの浮世絵の世界そのものでした。



エレーヌの遺髪が納められた碑には、松の木の枝の間から漏れる、春の陽光が、子守唄のように優しく降り注いでいました。



無欲な天女伝説「羽衣」に、価値を見いだして、情熱を傾けたフランス人のエレーヌの碑を見つめ、松原を抜ける清涼な風を頬に感じながら、私は、日本の自然の美しさと日本人の美徳を再認識しました。



そして自分はまだ生きていて、自分の手で、未来を作りだすことができる時間が残されている幸運に恵まれていると、実感したのです。



2020年3月29日

大江利子