クーポラだより最新号


「くいしん坊のカレンダー」という楽しい歌があります。



1975年(昭和50年)12月から翌年の1月までの2か月間、NHKの「みんなのうた」で放送された歌です。



「くいしん坊のカレンダー」の歌詞には旧暦の名称、その月の伝統行事、そして季節にふさわしい和菓子が登場します。


当時、小学校6年生で歌の大好きな私は、毎日放送される5分間の音楽番組「みんなのうた」を楽しみにしていました。



わらべうた風のリズミカルな「くいしん坊のカレンダー」の歌に合わせて、着物姿の大和撫子が美味しそうな和菓子を次々と食べていく映像を、初めて目にした時には衝撃が走りました。




くいしん坊で、音楽と同じくらい、お料理が大好きな私は、和服の美女が、色とりどりの和菓子を食べまくる「くいしん坊のカレンダー」の映像と歌が、43年前、脳裏に焼き付いてしまったのです。



大学時代、私が暮らしたアパートは、東京郊外の東大和市で、下町風情(ふぜい)が残る商店街の近くにありました。



商店街には、揚げたてコロッケを1個売りしてくれる肉屋、冬になったら灯油を配達してくれる米屋など、庶民の生活に密着した個人商店が立ち並び、独り暮らしの私には、お店の人との会話が嬉しい場所でもありました。



その商店街には、老舗の和菓子屋があり、竹久夢二の画のような、淡い色合いの和菓子がショーケースに並んでいました。



毎週火曜日、私はその和菓子屋で、3種類の和菓子を1個ずつ買い、一気に、食べるのが、何よりも楽しみでした。



桜餅とみたらし団子は大好物なので、毎回必ず、あと1つは、「くいしん坊のカレンダー」に登場する季節の和菓子でした。



毎火曜は、音大で、恐ろしいピアノレッスンの日でしたので、レッスンが無事終了すると、緊張の糸がほどけて無性に甘いものが欲しかったのです。



和菓子の美味しさの決め手はあんこです。



和菓子はあんこが美味しくないと、いくら見た目が美しくても、たくさん食べられません。



大学時代に毎火曜にお世話になった和菓子屋のあんこは、実に上品でさっぱりした甘さで、3個一気に食べても大丈夫でした。



美味しいあんこを作るには小豆選びが決め手となります。



日本の小豆は、大納言、中納言、白(しろ)小豆(しょうず)、黒小豆の4種類があり、小豆生産量の8割は北海道が占めています。



小豆は雨を嫌うので、梅雨明けに種まきをします。



また連作を嫌い、昼夜の寒暖差が必要なので、梅雨がなく、広大な土地と冷涼な気候を持つ北海道が小豆の一大産地となっています。



しかし、小豆の中で最高級とされる白(しろ)小豆(しょうず)は、岡山県で栽培されています。



岡山県の北西部、備中松山城のある高梁(たかはし)で白(しろ)小豆(しょうず)は栽培されています。



白小豆で作ったあんこは、くどさのない甘さが特徴で、変化のない、ありきたりの味ではなく、奥行きある味わいです。



この白小豆のあんこで、和菓子を作っている、こだわりの和菓子屋があります。



日光東照宮にその味を認められた「ひさの(久埜)」菓子店です。





「ひさの」の店主の先代は、おいしいあんこを作るために、質の良い小豆を探していましたが、白小豆の噂を聞きつけ、栃木県から、はるばる岡山県高梁市までやってきました。



「ひさの」の先代は、白小豆の種を岡山から持ち帰り、土壌改良などの工夫を重ねて、栃木県でも白小豆の栽培を可能にし、こだわりの白あんで、美味しい和菓子を作りはじめたのです。



昨年秋、「ひさの」を訪れる機会に恵まれた私は、「ひさの」先代のご子息で、現材のご当主から、当時のお話をうかがいながら、その和菓子をいただきました。




「ひさの」ご当主と奥様のおふたりで、先代の遺志を継いで、守ってこられた白あんの味は、その店構えと同様に気取らず、親しみやすく、けれども食べる人を納得させる奥行きある深い味わいの甘さでした。



そして何よりも驚いたのはその価格です。



こんなにも手間をかけて作った和菓子なのに、庶民の値段なのです。



貧しかった大学時代の私が火曜日ごとに、買っていた和菓子のように、庶民の生活に合わせた優しい値段なのでした。



これだけの素晴らしい味ならば、いくらでも値を吊り上げることは可能であるはずなのに、「ひさの」菓子店は、こだわりの味の上にあぐらをかくことなく、お客様の側にたった姿勢なのです。



先日、「ひさの」の白あんの味と同じように、親しみやすいけれど、奥行きのある彫刻に出会いました。



岡山県の白小豆の産地、高梁市の南、井原市出身の平櫛(ひらぐし)田中(でんちゅう)の彫刻です。



平櫛(ひらぐし)田中(でんちゅう)は107歳で亡くなる直前まで鑿(のみ)をふるい続けた生涯現役だった彫刻家です。



関東大震災、第二次世界大戦と、芸術家にとっては困難な時代をくぐりぬけながらも、貧しさに屈することなく、自分の納得いくまで作品を何度でもやり直し、完成させた人です。



平櫛(ひらぐし)田中(でんちゅう)の代表作は6代目尾上菊五郎をモデルとした「鏡獅子」です。



田中(でんちゅう)はこの「鏡獅子」を完成させるまで、何体ものやり直しや、試行錯誤を重ね、20年かけて見事に完成させました。



完成作の「鏡獅子」は日本の伝統芸能を上演する国立劇場に飾られています。



しかし、試作品の「鏡獅子」は岡山県井原市にある田中(でんちゅう)美術館で見ることができるので、私は夫のオートバイと見に行ってきました。



彩色していない試作品の「鏡獅子」はポーズがリアルで今にも動きだしそうな迫力がありますが、威圧感はなく、奥行きがあって、親しみやすい魅力がありました。



「鏡獅子」を観賞し終え、田中(でんちゅう)彫刻に酔いしれながら、館外を散策していますと、ある碑文に目が留まりました。



それは、岡山県民謡「中国地方の子守歌」の碑文でした。



「中国地方の子守歌」は私が、コンサートで歌う大好きな曲のひとつで、岡山県西南に伝わる民謡ということは知っていましたが、その碑文から発祥地が井原市だとわかり、とても嬉しくなりました。



偶然の出会いですが、改めて、井原市までやってきて、良かったなと思いました。



「ひさの」の先代は白小豆のことを、同乗したバスの紳士から、偶然に情報を得て、種を持ち帰ることができたそうです。



田中(でんちゅう)は、初日から千秋楽までの毎日、菊五郎の舞姿を生の舞台で見て、「鏡獅子」のポーズを思いつきました。



「中国地方の子守歌」は、井原市出身の若き歌手、上野耐之が、幼い頃から耳にしてきた、ふるさとの民謡を、昭和3年の春分の日、大作曲家、山田耕筰の前で披露しました。



山田耕筰は「中国地方の子守歌」のもつ、親しみやすく、奥行きある旋律に、とても感動して、たちどころに素晴らしいピアノ伴奏をつけて、広く知られるようになりました。



「ひさの」の和菓子や田中の「鏡獅子」、「中国地方の子守歌」のように奥行きがあり、親しみやすい歌手を目指して、私も視野を広げながら、日々精進しようと思います。



2018年3月29日

大江利子


東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて春な忘れそ



この和歌は、学問の神様として親しまれている、天神様こと平安時代の貴族、菅原道真(すがわらみちざね)が都を出立するときに、詠んだ歌です。



無実の罪で左遷となり、都を追われる身となりましたが、幼少から詩歌を詠むことに優れ、高潔な人柄の道真公は、取り乱すことなく、この和歌一首を残して、九州へ流されたのでした。



天神様を祀っている神社には必ず植えられている梅は、冬枯れの寂しい景色の中で、真っ先に蕾を開いて、春の訪れを告げてくれる花木です。



薄桃色や真珠色の梅の花が満開になる頃には、我が物顔に暴れていた北(冬)風も、穏やかな春(東)風に変わっていきます。



日本では、道真公の和歌のとおり、東風は春を呼ぶ優しい風で、西風は、秋に吹く寂しい風です。



しかし、ヨーロッパでは、春を呼ぶのは西風です。



ルネサンスの画家ボッティチェリが描いた「ヴィーナスの誕生」では、海の泡から生まれたばかりのヴィーナスを乗せた貝を、陸まで運ぼうと、ゼフュロス(西風)が薔薇の蕾が混ざった春風を、吹き付ける様子が描かれています。



また、ドイツの詩人ゲーテが恋人への愛を詠った「西東詩集」に収められた詩「ズライカ」にも西風が登場します。



歌曲王のシューベルトはその「ズライカ」に春風(西風)を思わせるような、浮き浮きとした喜び溢れるピアノ伴奏に甘いメロディーの歌を作曲しました。



洋の東西が変われば、森羅万象にこめられた意味が反対なものありますが、似た捉え方をされるものもあります。



首が長くて大きな鳥の後ろ姿は人のようですが、ヨーロッパでは白鳥が人の化身として

神話や童話の中に登場します。


ギリシャ神話では大神ゼウスは白鳥に姿を変えて、スパルタ王妃レダを誘惑します。



チャイコフスキーが作曲したバレエ音楽「白鳥の湖」に登場する白鳥たちは、悪魔の魔法にかかったお姫様と娘たちの化身です。



日本では鶴が、人の化身としてお話の中に登場します。



民話「鶴の恩返し」は、貧しい男に助けられた一羽の鶴が、若い女性に姿を変えて恩返しをするお話です。



劇作家の木下順二がこの「鶴の恩返し」を戯曲化した「夕鶴」は1949年の初演以来、上演回数1000回を超えるほどの人気芝居演目となり、宇野重吉、渡辺徹(与ひょう)、坂東玉三郎(おつう)ら舞台俳優の重鎮たちも演じてきました。



「夕鶴」は、作曲家の團伊玖磨(だんいくま)によって、日本人による純国産オペラにもなりました。



鶴も白鳥も季節によってねぐらを変える渡り鳥です。



雀や鳩は年中見かける身近な留鳥なので、親近感がありますが、遠くから渡ってくる白鳥や鶴に、人は神秘性を感じ、空想をかきたてられ、物語や神話が生まれていったのかもしれません。



人にはない翼をもち、何千キロも離れた土地から、迷うことなく生まれ故郷へ帰ってくる渡り鳥たちに、物語の題材としてではなく、科学的な理論を見出そうとした人がいます。



ルネサンスの巨匠レオナルド・ダヴィンチです。



パリのルーブル美術館に展示されている「モナリザ」や、ミラノの教会の食堂の壁画「最後の晩餐」で知られているダヴィンチは、500年以上前に、フィレンツェ近くの小さな村で生まれました。



ダヴィンチは、14歳から20歳くらいまで師の工房で修業しましたが、その後は独立し、すべて独学です。



画家として名高いダヴィンチですが、請われれば絵だけでなく、兵器や治水事業、騎馬像、など多方面に天才ぶりを発揮し、興味を持った分野は、とことん追求しました。



研究熱心なダヴィンチは、リアリティのある人物画を描くために、人体解剖し、人間の内蔵や血管、筋肉までも細かくスケッチし、それから絵筆をとりました。



興味の対象を納得いくまで観察し、どこまでも探索する心がダヴィンチの天才的な作品を生む秘密でした。



万能の天才ダヴィンチが、もっとも情熱を注いだ研究は飛ぶことでした。



その証は、彼の手書きのノート(手稿)に残されています。



ダヴィンチは興味を持ったあらゆる分野のことを13000ページの手稿に書き記しており、その中に、「鳥の飛翔」に関する研究があります。



ダヴィンチは、生まれ故郷の村の丘で、渡ってくる鳥を観察し、翼の研究をしました。



後世の人が滑空に成功した翼の形を、400年以上も先取りして、ダヴィンチはその翼に近い形のスケッチをのこしています。



先日、私は、世界一のナベヅル越冬地、鹿児島県の出水平野にオートバイで行ってきました。



野鳥観察が大好きな夫と私は、いつか出水平野のツルを見に行くことを楽しみにしていました。



しかし、夫は日々の忙しさに追いやられ、ついにその機会に恵まれず、旅立ってしまったので、私は元気なうちに彼の好きなオートバイで見に行こうと思い立ったのです。



出水平野のツル観察センターの隣の宿泊施設に宿をとり、窓越しから、降るような星空を眺めながら、1万3千羽のツルの鳴き声を聞き、眠りに落ちました。



その民宿は半世紀以上、ツルの保護に生涯をかけた又野末春氏が開いた施設で、ツル観察に訪れる人のための民宿でした。



又野氏は8年前に他界されましたが、又野氏のお嬢様と奥様が、毎年、ツルが越冬する季節だけ旅人を受け入れてくれます。



出水平野のツルは江戸時代、薩摩藩から手厚く保護されてきましたが、第二次世界大戦後、保護されなくなり、200羽ほどに激減し、危機的状況になりました。



しかし、又野氏は個人でツルの保護活動を始め、近隣の理解を得ながら半世紀もの活動によって出水平野は1万羽ものツルが越冬する飛来地になりました。



ダヴィンチも、又野氏も、独りで取り組み始め、たゆまぬ努力と試行錯誤をし、それぞれに前人未踏な素晴らしい成果を残しました。



ダヴィンチは400年も時代を先取りした鳥の飛翔の手稿を、又野氏は世界一のナベヅル飛来地を。



又野氏のツル保護活動を半世紀以上支えてこられた奥様の美味しい手料理をいただきながら、私にもできる前人未到のことがあることに気づき、夫と歩んだ暮らしを続けながら、自分の歌声を使って形にしていこうと思いました。



~つづく~

2018年3月1日

大江利子


チョコレート・ケーキの王様と称されるザッハートルテは、

音楽の都、ウィーンの名物菓子です。



チョコレート味のしっとりとしたバターケーキの外側をフォンダンと呼ばれる甘いチョコレートソースで覆い固めたザッハートルテは、1832年に、主の命を受けて、駆け出しの若い料理人フランツ・ザッハーによって考案されました。



ウィーンはヨーロッパ大陸の中心を流れるドナウ川沿いの町です。



ドナウは、ドイツ北部の森から流れの端(たん)を発し、ハンガリー、ルーマニアの東欧諸国を抜け、ウクライナ南西の内海、黒海にまで注ぐ、全長2860キロメートルの長い大河で、古くからヨーロッパの東西の重要な交通路でした。



ウィーンはドナウ川中流に位置する古都で、昔からヨーロッパ各地の珍しくて美味しいものが、ウィーンの町を行き交い、ウィーンの人々は美味しいものには慣れていました。



しかし、このザッハートルテは、考案されるとすぐに、舌の肥えたウィーンの人々を夢中にさせました。



ウィーンは昔からヨーロッパの文化と政治の中心を担ってきた都で、650年以上も栄華を極めたハプスブルク家によって街中に美しい建築物が残されています。



モーツアルトが結婚式をあげたことで知られている、壮麗な尖塔が美しいゴシック様式のシュテファン大聖堂や、悲劇のフランス王妃マリー・アントワネットが少女時代を過ごした離宮、シェーンブルン宮殿など、京都のように、ウィーンは街全体が美術館なのです。



シュテファン大聖堂と対峙するようにウィーンの中心に位置するホーフブルク王宮は、オーストリア皇帝の居城で、18の棟、19の中庭、2500以上の部屋を持つ広大な宮殿です。



18の棟には、宰相宮、スイス宮と名前がそれぞれつけられていますが、アマリアという愛らしい女性の名前の棟に、ザッハートルテが大好きな皇妃、エリーザベトが暮らしていました。



エリーザベト皇妃は、自分自身が美しくあることにこだわった女性で、毎日の運動と食事によって、身長173センチ、ウエスト52センチのプロポーションを生涯に渡って保ちました。



エリーザベト皇妃の化粧室には、彼女が使用した体操選手が使うような運動器具が残されています。



しかし、ハードな運動をしながらも、エリーザベト皇妃はザッハートルテが大好きで、ウィーンの王室御用達の菓子店には、ザッハートルテの大人の買いをしていた皇妃の注文書が残されています。



女性の憧れである永遠の美のために、不断の努力を生涯に渡って続けながらも、少女のように甘いものの誘惑に勝てなかった人間味あるエリーザベト皇妃は、ウィーン市民の人気者です。



エリーザベトの出身は公爵家の二女で、野山を駆け回って遊ぶ、おてんばな娘でした。



若きオーストリア皇帝フランツ2世が、お忍びの狩りの時に、偶然山で出会ったエリーザベトにひとめぼれし、ふたりは結婚したのです。



エリーザベトは幼い頃からシシーという愛称で呼ばれていたので、今でもウィーンの人々は、彼女ことをシシーと呼びます。



皇妃になっても、自由闊達なシシーは、政情不穏なヨーロッパ各地を恐れもなく旅行し、60歳の時に、スイスで、無政府主義者の刃によって暗殺されてしまいます。



ドラマティックなシシーの生涯は芸術家たちの琴線をくすぐり、映画、舞台、バレエになりました。



たくさんの美しい女優やバレリーナがシシー役を演じてきましたが、とりわけ、オーストリア女優ロミー・シュナイダーが演じたシシーは、素晴らしく、シュナイダー自身の代名詞になりました。



ロミー・シュナイダーは、17歳の時に演じた、映画「プリンセス・シシー」で、大評判となり、オーストリアのアイドルになりました。



その後のシュナイダーのキャリアに影響を及ぼすほど、シシー役のイメージが常に、彼女について回り、アイドル女優から脱出できずに、幅の狭い役しかできずに苦しみましたが、34歳の時に、イタリアの巨匠ヴィスコンティ監督の映画「ルードヴィヒ」で再び、シシーを演じて国際的な大女優としてその名を不動のものとしました。



ヴィスコンティ監督は、第二次世界大戦中の1942年に、映画「郵便配達は二度とベルを鳴らす」で、ファシズムに対抗する潮流ネオレアリズモの旗手として、監督デビューしました。



ヴィスコンティ監督は、「揺れる大地」「若者のすべて」など、社会の最下層で虐げられた労働者に熱い視線を注いだ映画を、世に送りだしますが、大戦終了後は、監督本人の出身である貴族社会を、美しく、かつ哀しく描いた作風に変わっていきます。



特に、アドリア海の女王と謳われたヴェネツィアを舞台にした「ベニスに死す」はため息の出るような美しい映像で、貴族出身であるヴィスコンティ監督の本領が存分に発揮された傑作です。



「ベニス死す」の主人公の男性は、初老にさしかかった作曲家です。



作曲家は創作の疲れを癒すため、ひとり孤独に、ヴェネツィアの豪華なホテルに滞在しますが、ギリシア彫刻の生き写しのような異国の美少年に出会い、その美しさに圧倒され、心の平静を失っていきます。



この主人公のモデル像のひとりは、ドイツの作曲家マーラーで、「ベニスに死す」の音楽はマーラーの第5交響曲4楽章「アダージェット」が使われています。



この「アダージェット」は、マーラーが自分の美しい妻アルマにあてたラブレターだと言われています。



マーラーは6歳から音楽を勉強しはじめ、ピアノの腕はすぐに上達し、10歳で初リサイタルを開くほど天分に恵まれていましたが、作曲家として生計はたてられず、生涯、指揮者として活躍しました。



指揮者マーラーのキャリアは田舎の小さな劇場からスタートし、音楽の殿堂、ウィーン国立歌劇場まで登り詰めました。



作曲家として過ごした時間は一年のうちで、劇場が休暇になる夏休みの間だけで、美しい湖のほとりの作曲小屋で、短期間に集中して自分の曲をつくりました。



マーラーの音楽には、作曲小屋で耳にした美しい自然風景、森のざわめき、風の音や小鳥のさえずりがたくさん入っています。



マーラーは、自分が指揮者として活躍した時代に、もてはやされた作風には迎合せず、自分が美しいと信じる作風で、「アダージェット」のように、彼の死後も、コンサートホール内だけ威力もつ音楽とは一線を画した、万人に魅力を放つ素晴らしい音楽を残しました。



マーラーは、夏休み作曲家としては、信じ難いほどの作品数を遺して51歳の生涯を閉じました。



マーラーは音楽だけでなく、その生涯もケンラッセル監督によって、「マーラー」という映画になっています。



マーラーやシシーのように、世界を覆いつくほどの魅力も才能も持ち合わせてはいませんが、凡人の私でも、彼らの美しさを、クーポラだよりで、お伝えできるほど、豊富な資料を遺してくれた夫に感謝する日々です。



2018年1月29日

大江利子


瀬を早み 岩にせかるる滝川の 割れても末に逢はむとぞ思ふ


(滝の水は岩にぶつかると二つに割れますが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれることでしょう。)



大和歌壇の宗匠、藤原定家が選定した小倉百人一首の77番歌として知られている情熱的なこの歌の作者は、崇徳(すとく)天皇です。



崇徳天皇は第75代の天皇で、保元の乱で覇権争いに敗れ、都を追われ讃岐に流されました。



朝廷の邪魔な存在だった崇徳天皇は罪人扱いされ、都に戻ることを生涯許されず、流刑地の讃岐で、46歳で崩御しました。



都に戻ることを切望しながらも、その願いが聞き届けられなかった崇徳天皇は、我が身が叶わないなら、せめて我が文字だけでも都に入れて欲しいと、3年がかりで、無欲無心で完成させた写経に、哀しい歌を添えて都へ送ります。



浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく


(書き写したわが文字のみは、あの千鳥と同じように都へ辿り着くことができるが、当の自分はこの松山でただ泣き沈むばかりである)



しかし、その写経さえも、怨念がこもっているとされて、朝廷から送りかえされてしまいます。



送り返された写経を見た崇徳天皇は、怒りのあまり、夜叉のようになったとの伝説が残っています。



この悲運の天皇、崇徳天皇の夜叉伝説は、後世の芸術家たちの琴線をくすぐり、浮世絵の題材や、保元・平治物語にも登場しています。



江戸時代の奇想天外な発想の絵師、歌川国芳も夜叉と化した崇徳天皇を描いています。



2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」では、崇徳天皇役に日曜美術館の司会をつとめる井浦新が迫力ある夜叉ぶりで印象的な演技を残しました。



崇徳天皇の陵墓は香川県坂出市の白峰寺に隣接しています。



白峰陵(しらみねのみささぎ)と呼ばれ、宮内庁の管轄下にあり普段は、一般人は参拝できません。



その地を訪れたことのある夫の「真夏にもかかわらず、白峰陵の真上だけは雲が垂れ込め、ただならぬ気配を感じた」という神秘的な感想が懐かしく思い出されます。



崇徳天皇は、「崇徳院」という題目で、古典落語にもなっています。



ただし、崇徳天皇が落語の主人公ではなく「瀬をはやみ~」の歌にまつわった町人の恋物語です。



古典落語は、「崇徳院」のように日本の文化や伝統を巧みに織り交ぜた独り芝居です。



噺家は声色や仕草を行く通りにも使い分けて、たった一人で何人も演じます。



古典落語を聞く側は、同じ作品でも、噺家によって表現される面白さの違いを楽しみます。



古典落語「崇徳院」は30分もの大作で、噺家大御所の演目とされており、例えば、その名人とされる三代目桂米朝と二代目桂枝雀は師弟関係ですが、両者ともまったく違う味わいの面白さを表現しています。


オペラも、古典落語と似た楽しみ方ができます。



オペラハウスで上演される演目は、どの国のオペラハウスもだいたい似ています。



「カルメン」「蝶々夫人」「椿姫」「フィガロの結婚」などの定番演目は、熱心な聞き手はそれぞれのオペラの細かなストーリーも音楽も熟知しており、同じオペラでも歌手や演出家によって異なる演奏表現を楽しみにしているのです。



落語は、春は「貧乏花見」夏は「千両蜜柑」、年末は「富くじ」というように、季節感あるものが上演されますが、オペラも同様に、季節によって上演する恒例の演目があります。



音楽の都ウィーンの、国立オペラハウスでは、大晦日に「こうもり」というオペラを上演するのが恒例です。



「こうもり」は「美しき青きドナウ」の作曲家ヨハン・シュトラウス二世の作品です。



「こうもり」は親しみやすく覚えやすいメロディーで、茶目っ気あふれた、粋で楽しいオペラです。



見る側は楽しい「こうもり」ですが、歌手の技量はとてもハイレベルを要求されるので、

さまざまな名歌手によって、たくさんの名盤が映像として残されています。



夫は「こうもり」が大好きで、何種類もの「こうもり」の映像をそろえており、私たちは、演出の隅々まで覚えてしまうほど、お気に入り盤の「こうもり」を見ていました。



そして、1997年12月31日、私たちは、ウィーン国立オペラハウスの立見席で「こうもり」を楽しみました。



歌手に代わって歌えるほどに、「こうもり」の予習をしていた私たちは、異国の地であることを忘れるほどに、くつろいでオペラを楽しみました。


落語もオペラも、初めてでも充分に楽しめるものですが、あらかじめ内容を知っておくだけで、その楽しさは倍増します。



堅苦しいと思われがちな古典芸術のオペラも、ほんの少し予備知識を入れるだけで、楽しい世界が広がるのです。



夫とともに、異国の地で国籍を越えた人々と「こうもり」というオペラを通して音楽の喜びを共有できたことは、私にとって人生の宝物です。



たくさんの人に、古典芸術の楽しみを知ってもらい、荷物にならない心の宝物を増やして欲しいと願い、私はクーポラだよりを書き続けるのです。


~つづく~

2017年12月29日

大江利子



(ウィーン国立オペラハウスの廊下の鏡の前で自撮りている夫 大江完 ↓ )


理由もないのに、心をつかまれて、忘れられない詩に出会います。



御正忌(ごしょうき) 参詣(めん)らんかん

情人(やね)が 髪結うて まっとるばん

寺の 夜明けの 細道に

鐘が鳴る

逢(お)うて 泣け との 鐘が鳴る



「からたちの花」の作詞者、北原白秋が残した「六騎(ろっきゅ)」という詩です。



六騎(ろっきゅ)とは、馬に乗った六人の平家落武者のことです。



壇ノ浦の戦いに敗れた平氏の残党は四国や九州各地の秘境に落ち延びました。



白秋の生まれ故郷にも六人の平家落武者が住み着き、地元住民たちを夜盗から守りました。



御正忌(ごしょうき)とは親鸞上人の命日、情人(やね)とは、恋人のことです。



クリスマスもバレンタインもなかった、その昔、結婚前の男女が夜明けまで共に過ごすことができるのは、御正忌の夜くらいでした。



「六騎」は、六騎伝説が残る北原白秋の生まれ故郷の町で行われる、年に一度の伝統行事、御正忌の夜を待ち焦がれていた恋人たちのせつない心情を表した詩なのです。



白秋のお国言葉の柔らかなアクセントが、艶っぽい内容を一層魅力的にしています。



この「六騎」の詩に、すっかり心を奪われた私は、昨年秋、オートバイで、六騎伝説が残され、白秋の生家が保存されている福岡県柳川市まで行ってまいりました。



柳川市は菅原道真公を祀った九州太宰府天満宮から60キロほど南西方向で、有明湾に近い水郷の町です。



柳川には、「掘割」と呼ばれる水路が市内を縦横に走り、「掘割」の水辺はたおやかな柳の木に縁どられています。



北原白秋の生家は川下りが楽しめる、柳川市内の最も美しい地区に今も大切に保存されています。



「六騎」の伝説となった平家落武者の魂を祀った六騎神社も、白秋生家の近くにあり、岡山からオートバイで走ってきた私を大いに満足させてくれました。



北原白秋は恋多き人で、若い時は情熱のあまりに、人の道を踏み外したこともありましたが、生涯の伴侶、菊子さんが見つかったあとは子煩悩な良きお父さんでした。



カニの床屋とウサギのお客のユーモラスなやりとりを詩にした「あわて床屋」は幸せな家庭の中で優しいお父さんになった白秋が伺い知れます。



一方、情熱的で息苦しいような詩、「六騎」は、道ならぬ恋に白秋が溺れた時期なのでしょう。



白秋が生まれ育った家や町を散策していると、自分にとっては、活字の世界だけに住んでいた遠い存在の白秋が、親しみが持てる人間になったような感覚を覚えました。



「六騎」は、山田耕筰によって幻想的な旋律がつけられ、歌曲になっています。



「六騎」を歌う時、柳川を訪れる前と後では自分の歌の中に込める感情の深さに厚みが増したように思えます。



20年前、1997年の元旦にも、この柳川訪問のように、心をつかまれた音楽に導かれてオーストリアのウィーンまで、夫と共に、足を運びました。



私と夫をウィーンまで導いたのは、モーツアルトが作曲したオペラ「フィガロの結婚」です。



モーツアルトは5歳で作曲し、ヨーロッパ各地で神童と称えられましたが、成人してからは、その才能に見合う役職を与えられませんでした。



モーツアルトが生きていた時代は、王侯貴族など、一部の特権階級が政治権力を握っていた封建社会でしたので、音楽家は、現代のように自由に作曲できなかったのです。



常に、特権階級である雇い主の趣味に合った音楽を作曲しなければなりませんでした。



しかしモーツアルトはそうしませんでした。



モーツアルト自身が納得する台本にしか、音楽をつけなかったのです。



その最たるものが「フィガロの結婚」です。



「フィガロの結婚」は、当時、絶対王政下のフランスで執筆され、貴族を痛烈に批判した内容で、思想的に危険とされたお芝居でした。



知恵者で平民の立場の召使いフィガロが、貴族の特権を振りかざして、傍若無人な振る舞いをする主人を、やりこめて、笑い者にするお話です。



モーツアルトは、この一歩間違えれば、自分の政治的な立場を足元から覆されそうな

「フィガロの結婚」に音楽をつけて、オペラにしました。



モーツアルトは、ウィーンの街中のアパートで「フィガロの結婚」を作曲しましたが、そのアパートは「フィガロ・ハウス」と呼ばれて、今も、柳川市の白秋生家のように大切に保存されています。



私は、夫とともに、ヨーロッパに記録的な大寒波が訪れた1997年の元旦に、マイナス13度のウィーンの街中を歩き、フィガロ・ハウスを詣でました。



かつてモーツアルトが暮らしていたアパートは趣味の良い上品な家具が置かれ、明るい色合いのインテリアは、生き生きとした躍動感あふれる音楽を作曲したモーツアルトらしいお部屋でした。



吐く息が凍り付いてしまうほど厳寒のウィーンの外気とフィガロ・ハウス室内の温もりある雰囲気がとても対照的で、強く印象に残っています。



オペラ「フィガロの結婚」は、完全な形で演奏すると3時間もかかる大作です。



しかしその中身の旋律と歌詞は、どの部分も、親しみやすく、男女の恋をテーマにした「六騎」のような小さな音楽の集合体です。



一般的に、オペラは、専門的に訓練を受けた人だけが歌うもの、と思われがちですが、モーツアルトは歌が好きな人ならば、誰でも歌ってもらいたいと思い、「フィガロの結婚」を作曲したのではと、思います。



茶目っ気がたっぷりのオペラ「フィガロの結婚」の楽しさや、「六騎」の切なさを広くお伝えしたいな、またできるなら歌っていただきたいなと願いつつ、オートバイで巡礼し、クーポラだよりを書く日々です。


~つづく~

2017年11月29日

大江利子


深く感動した映画は、人生の宝となります。



その映画のことを思い出すだけで、心が温かな感動に包まれ、生きる勇気を与えてくれます。



小学生の頃、喘息持ちだった私は、学校を休みがちでした。



季節の変わり目ごとに、体調を崩し、喘息の発作がでました。



喘息の発作は、真夜中におきます。



半身をおこし、掛け布団を抱きかかえて、背中を丸めて発作による呼吸困難をしのぎます。



夜明け前、やっと発作がおさまり、眠ることができます。



一晩中、喘息の発作と闘い続けたので、体力を奪われ、とても学校へ行く元気はありません。



午前中は、死んだように眠っていますが、午後には目が覚めます。



少しでも、元気になると、布団の中でじっとしているのが退屈になってきます。



両親共働き、一人っ子の私は、誰もいない家の中で茶の間のテレビで退屈な午後をしのぎました。



1970年代(昭和50年代)テレビで、白黒の古い洋画を放映していました。



「秘密の花園」や「若草物語」など、文学作品を題材にした白黒映画は、図書館で借りた本で原作を読んでおり、あらすじを知っていたので、小学生の私でも、とても楽しめました。



たくさん見た白黒映画の中で、特に印象に残っている映画があります。



1937年のアメリカ映画「オーケストラの少女」です。



失業したオーケストラ楽団員たちのために、歌の上手な少女が奔走する心温まる物語です。



「オーケストラの少女」には実在の指揮者やオーケストラが登場し、クラシック音楽の名曲がたくさん演奏されます。



成長するにしたがって、喘息発作は減り、音楽大学に進学した私は、ピアノの練習に追われ、映画を見る余裕などない青春時代でしたが、映画好きな夫と結婚して再び映画を見る機会が巡ってきました。



1990年代、一般的に新作映画を見るには、封切館(ロードショー館)と呼ばれる、大規模な映画館を利用しました。



岡山市内には岡山駅前に千日前映画館と中山下に映画館がありました。



どちらの映画館も、大資本に支えられた商業目的の娯楽映画を上映していました。



スピルバーグ監督の「インディ・ジョーンズ」、ルーカス監督の「スターウォーズ」、

キャメロン監督の「タイタニック」のような作品です。



しかし、クーポラだよりNo.31の岡本忠成のように小さな映画や、「オーケストラの少女」のように古典映画は、儲けを度外視しているので、封切館では上映されません。



では、岡本忠成作品のような、小さな傑作映画はどこで出会えたのでしょう?



1980年代、岡山市内では、オリエント美術館の地下ホール、岡山県総合文化センター(天神山文化センター)などで、映画通の人たちが自主上映会を開き、隠れた傑作映画を見せてくれていました。



現在、岡山市北区にシネマ・クレールという名の素敵なミニシアターがあります。



シネマ・クレールの館長の浜田高夫さんは、京都の大学を卒業後、郷里の岡山でご自分の見たい映画に出会えないもどかしさから、サラリーマンをしながら自主上映会を開き続けていました。



若き夫は、浜田高夫さんの自主上映会で素敵な名画にたくさん出会いました。



夫のファイルには半券やチラシが当時のまま美しく保管されています。



1994年に、浜田高夫さんは、映画への想いがいっぱい詰まったシネマ・クレールを

岡山市の石関町に誕生させました。



49席の可愛いホールですが、映画審美眼の鋭い浜田高夫さんが納得のいく傑作映画を上映する全国的にも貴重なミニシアターです。



1995年、夫と私は開館して間もない、石関町のシネマ・クレールにベルギー人コルビオ監督の「カストラート」という映画が上映されると聞きつけ、見に行きました。



コルビオ監督は「仮面の中のアリア」という作品で、我が家ではお馴染みでした。



「仮面の中のアリア」は本物のオペラ歌手が主役で、引退したオペラ歌手が若い歌手を育てる映画です。



「仮面の中のアリア」には、オペラ歌手になるための秘訣がたくさん散りばめられ、私は、何度も繰り返し見ていました。



そのコルビオ監督の新作がシネマ・クレールで見られると知って夫と私は石関町に足を運んだのです。



「カストラート」とは、オペラを歌うために去勢された男性歌手のことです。



ヘンデルやバッハが活躍したバロック時代は、オペラ歌手の発声技法は華やかでスペクトルなもので、常人には信じ難い高音を、目の覚めるようなスピードで歌うことのできる歌手が、スーパー・スターとして、もてはやされたのです。



技巧的な歌い方は、強靭な肉体としなやかな声帯が不可欠です。



女性オペラ歌手は、しなやかな声帯を持っていますが、男性並の筋力はありません。



ひばりがさえずるような軽い声で歌う歌手は、演歌歌手のようなドスの効いた低音は出せません。



ヴァイオリンとコントラバスで音域を分けるのと同じです。



けれども、ひとりの人間の肉体の中で不可能に挑戦したのがカストラートなのです。



自然に逆らって、技巧のために誕生したカストラート歌手の活躍と哀しみを描いた映画が、

「カストラート」です。



カストラートは、危ない医療行為が問題視されて、現在は存在しません。



けれども、怪しく、美しいカストラートの技巧的な歌声は人々の耳に残り、ヘンデル以降の作曲家たちも魅力しました。



女性オペラ歌手たちの見せ場のソロ部分で、アップ・ダウンの激しい技巧的な旋律が登場するのは、その名残りなのかもしれません。



私がオペラ歌手の歌い方に魅了される理由のひとつも、その技巧的な部分です。



自分で何故なのか説明がつかず、言葉が見つかりませんでしたが、夫とともに、石関町のシネマ・クレールで「カストラート」を見てからは、答えが見つかったように思います。



失われた幻の技法、不可能な歌い方をいつか我が物にしたいと思い、日々精進する毎日なのです。


~つづく~

2017年10月29日

大江利子


旅の面白さは、偶然に出会う味や風景です。



入念な下調べに従って、自分の計画通りに、はこんでいく旅も、気持ち良いものですが、

行き当たりばったりの旅は、偶然の連続が面白いものです。



この夏、青森までオートバイでひとり旅をした時も、忘れがたい偶然の味に出会いました。



夜明け前から延々と日本海沿岸の単調な北陸道を何時間も走り、やっと新潟県に入った時のことです。



長時間の高速道路のオートバイ運転は、まるでマラソンをしているようです。



時速80キロの風を全身でうけとめて走るのが心地良いのは、1~2時間だけです。



単調な高速運転は、心も身体も緊張の連続です。



休憩のために、オートバイから降りた時、空腹を感じるものの、脂ぎったごちそうは欲しくないのです。



消化しやすく、力が出るもの、口当たりの良い甘いものを、身体が要求します。



新潟県のサービスエリアの売店で、私は、疲れた心と体を癒してくれそうな食べ物を探しました。



カラフルな包装紙に包まれ、お土産用で、日持ちのよさそうなお菓子が陳列棚に並ぶ中、

素朴なお団子に目がとまりました。



私が暮らす温暖な瀬戸内地方では見かけないほど、大きな笹の葉でくるみ、イグサで数珠つなぎに結んだお団子です。



飾り気のない赤い文字の紙片には「笹だんご」と書かれていました。



作りたてらしく、笹だんごを入れたビニール袋には水滴がついています。



一袋だけ購入し、ベンチで笹の葉を広げてみました。



新しい畳から匂うイグサ独特な良い香りがし、薄緑のふたこぶのヨモギのお団子が顔を出しました。



ほおばってみると、程よい甘さの粒あんが入っていました。



もちもちとした歯触りで、粘りのある求肥(ぎゅうひ)と餡子(あんこ)が、私の疲れた心を溶かし、再び走り出す気力をくれました。



笹だんごの味が忘れられず、自宅で再現しようとしましたが、岡山では、お団子を包む熊笹が見つからず、作るのをあきらめました。



熊笹は雪が降る寒い地方にしか自生しないのです。



笹だんごの味に思い馳せつつ、夏が終わり、夏目漱石の小説「坊ちゃん」の舞台の松山へも

オートバイで行って参りました。



道後温泉の重厚な木造建築やレトロな市内電車を目にして、学生時代に読んだきり、手に取ったことのなかった「坊ちゃん」を再読したくなりました。



夫がそろえてくれていた、旧仮名づかいの古い文庫本で「坊ちゃん」を読み始めて、私は驚きました。



「坊ちゃん」にあの「笹だんご」が登場していたからです。



ただし、正確には「笹飴」です。



新潟では、昔から、防腐効果のある笹の葉で甘いものを包むおやつがよく食べられてきました。



お団子を包むと笹だんごと呼び、水飴を包むと笹飴と呼びます。



夏目漱石はこの笹飴が大好物でした。



「坊ちゃん」の一節に「笹飴」を見つけ、文学の世界と自分の体験がつながったような気がしてとても嬉しくなりました。



「坊ちゃん」の笹飴体験と似たようなことが13年前の秋、長野の美しい高原道路ビーナスラインを車で走っている時にも起こりました。



愛車の黄色のインプレッサを運転していたのは夫です。



車窓から広がる蓼科高原の秋の景色に、私たちは見とれていました。



九十九折(つづらおり)のカーブをぬけるたびに、なだらかな草原と透き通るような青空が近づいてきます。



ビーナスラインの標高の最も高い地点にさしかかった時、私たちはふたり同時に「わー!」と声をあげました。



今までの景色は、刈り穂畑のような黄色の丘陵だったのに、突然、真っ白な綿毛がふわふわ揺れるススキの高原に変わったからです。



そしてこのススキの景色は岡本忠成(おかもとただなり)が演出したアニメーションのワンシーンにそっくりだったからです。



岡本忠成とは、宮崎駿より9歳年上のアニメーションの演出家です。



ただし、ジブリ映画のように、漫画が動くアニメーションではなく、お人形や毛糸、折り紙など、動く素材が面白いのです。



岡本忠成は、少人数で、他に例のないアニメーションを作りました。



岡本忠成のアニメーションはNHKの「みんなのうた」で、見ることができます。



「オナカの大きな王子さま」や、「メトロポリタン美術館」など、歌詞の雰囲気にピッタリのかわいらしいアニメーションです。



岡本忠成作品の大きな特徴は、わかりやすさと短さです。



大劇場で公開されるアニメーション映画は、マニアでないと、内容に共感できないものも多いのですが、岡本作品は昔話などを形にしたアニメーションなので、老若男女誰にでも、受け入れられます。



夫、大江完は、岡本忠成のアニメーションにとても憧れていました。



アニメーター志望だった夫は、大学卒業時、岡本忠成に、自分の将来について相談に行ったほどです。



岡山のローカルテレビ番組で、「あっぱれジュニア」という短い番組がありました。



地元の小中学生が頑張っている姿を紹介する内容です。



夫はこの番組のタイトルアニメーションの演出を2000回以上にわたって独りで仕上げました。



2000回を超えた頃、夫の言葉は「岡本さんにこれを見せたいな、褒めてくれるかな。」でした。



その言葉の数か月後に、夫は岡本忠成の世界に旅立ってしまいます。



夫の演出した「あっぱれジュニア」のタイトルアニメーションは、岡本作品のように素朴で、わかりやすく、どこか懐かしいオリジナルな作品です。



私の笹だんご体験のように、偶然に出会った味や風景に、どこか懐かしさを感じて、その体験が、文学や音楽、絵画などの芸術につながる瞬間は、得も言われぬ喜びです。



生前の夫は、自分の演出作品に大江完の名前をつけて世に公表しませんでした。



しかし彼の演出作品は人々の懐かしい体験と芸術をつなげる橋渡しをする力があると思います。



いつの日か彼の作品がもっとたくさんの人々の心に芸術を届けることを願って、クーポラだよりを書き続けようと思います。

2017年9月29日

大江利子



この夏、どうしても見ておきたい記念館があり、オートバイで青森県五戸町まで出かけてまいりました。



みちのく青森は岡山から片道1300キロ、自動車でも13時間はかかるみちのりです。



女性独りで、オートバイで行くなんて無謀です。



私の友人たちは、反対こそしませんでしたが、さぞかし肝を冷やしたことでしょう。



 青森県五戸町は、日本の航空の父、木村秀政の郷里です。



木村秀政は、ライト兄弟が世界で初めて動力付き飛行機を成功させた1904年に生まれました。



幼少期に夢中になった模型飛行機工作からスタートし、設計者として教育者として、文筆家として多方面にわたって、日本の航空技術発展のために大きく寄与しました。



 男の子なら誰しも、幼いころ、飛行機が好きなものですが、それを生涯の仕事として人生を貫いた木村秀政を育んだ郷里、青森県五戸町とは、いったいどんな自然風景なのかを肌で感じてみたくてオートバイで行ってみたのです。



八月の夏の盛りだというのに、みちのく青森の家々の庭先には瑞々しい紫陽花が咲き誇り、山肌の下草には真っ白な山百合が顔を出し、産直市場には、ルビーのように輝くサクランボが並んでいました。



町を囲む周囲の山々は、中部地方に見られる険しく崇高な日本アルプスとは違い、穏やかで人々を包み込むような優しい印象の緑でした。



食べ物も水も美味しく、冬には想像を超えるような雪との闘いがあるのでしょうが、それがまた、東北人の粘り強さ、生涯かけてひとつのことを貫く強さを育んでいるのかしら、と思えました。



穏やかで優しい五戸町の景色を見ながら、私は夫と行った長野県小布施町を思い出していました。



小布施には江戸時代の天才浮世絵師、葛飾北斎の晩年の傑作、巨大な天井画が残されています。



2007年の遅い春に、私と夫は北斎の天井画を見に行くため、愛車の黄色いインプレッサに布団を積み込み、交代で仮眠を取りながら、長野県を目指しました。



夜中に岡山を出発し、高速道路を使って7時間ほどで、長野県に到着しました。



目指す北斎の天井画は小布施の町はずれの岩松院というお寺にあります。



小布施の町を散策しながら私たちは岩松院を目指しました。



薄桃色の杏の花が咲く、美しく落ち着いた町並を通りぬけると、岩松院がありました。



北斎の天井画は本堂の天井の桧の板に直接に描かれています。



大きさは畳21畳分、金箔4400枚、辰砂(しんしゃ)、孔雀石、鶏冠石(けいかんせき)などの高級な岩絵具(いわえのぐ)をふんだんにつかって、極彩色の一羽の巨大な鳳凰(ほうおう)が描かれています。



北斎がこの鳳凰図を完成させて160年以上経過した今でも、一度も塗り替えることなく、鮮やかな色彩を保ち、直接に鳳凰を見ることができます。



この鳳凰は「八方にらみ」と呼ばれ、どの方向から眺めても鋭い鳳凰の眼と自分の眼が合います。



寝転んで見ないと全体が見渡せないほど巨大で、北斎最晩年88才から89才にかけて描かれました。



3万点を超える北斎作品の中で、この鳳凰図は最も巨大な作品です。



北斎が存命の頃、彼を当代一の絵師として有名にしたのは



72才の時に発表した富嶽三十六景です。



一枚とて同じ構図のない36景の富士山の浮世絵です。



勇壮な白波がたつ海原の遥か彼方に、可愛く姿を見せる富士山や、桶屋が一生懸命仕事をしている丸い桶の向こうに顔をのぞかせる小さな富士山、などと、ただ単に卓越した技量を持つ絵師ではなく、機知に富み、見るものを飽きさせない北斎のこだわりが感じられます。

日本には、室町時代から江戸時代末期まで、400年にも渡って、画壇の本流を独占していた狩野派(かのうは)と呼ばれる絵師集団が存在していました。



織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人のお抱え絵師として、狩野派は時の権力者の意に沿う絵柄で、居住空間を飾りました。



しかし、狩野派の作品の多くは、安土城、大阪城、江戸城など権力争いが起こるたびに、

建物ごと失われてしまいました。



強いパトロンの庇護のもとに、絵を描いていた狩野派の作品は、パトロンが権力を失うと同時にその作品の運命も終わっていったのです。



けれども、葛飾北斎は、江戸時代、身分社会で生きながら、権力者にすがることなく、絵を描くことだけに専念しました。



誰の庇護も受けず、ひたすらに、自分が納得する作品だけを描き続けて、北斎は90才で生涯を閉じました。



小布施町の鳳凰図は人生最期まで進化し続けた北斎の魂の象徴のように思えます。



純粋に絵を描くことを追求した北斎の作品は、同胞の日本人だけでなく、西欧諸国の人たちにも感動を与えました。



ゴッホやセザンヌも北斎の絵からインスピレーションを得て自分の作品に活かしています。



今や、北斎の作品は、現在の人々の生活に溶け込んでいます。



イワシ雲がたなびく群青色の空にそびえるなだらかな赤富士は、北斎の富嶽三十六景の中の「凱風快晴(がいふうかいせい)」という作品です。



凱風快晴の名は知らずとも、赤富士の絵を見れば、日本人なら誰でも知っている絵です。



真の芸術とは、北斎の赤富士のように、人々の生活に自然に溶け込むものだと思います。



 青森県五戸町、オートバイで往復3000キロを走りきれたのは、ただ私が元気なだけではありません。



長時間、オートバイにまたがり同じ姿勢をし続けると、身体が固まります。



身体が固まらないように、私は常日ごろから、実践しているバレエで培ったストレッチをしながら旅を続けました。



未だ、バレエは幼いころからから始めないと身体が柔らかくならないとか、柔軟性はうまれつきだとか、固定観念が浸透していますが、葛飾北斎の赤富士のように、いつかは、必ず、バレエの正しいストレッチが人々の生活に浸透する日がやってくると思います。



私はそのさきがけとして、少しでもたくさんの人に、大人からでも、勇気をもって、

バレエのストレッチに挑戦し、元気になってもらいたいなと思います。



~つづく~

2017年8月29日

大江利子


「隣のトトロ」でお馴染みのジブリ映画は、大人も童心に戻れる楽しい作品を世に送り出しています。



ジブリ映画の特徴はワクワクする飛行シーンや、美味しそうな食事風景、愛らしい小動物などがあげられ、そのほとんどは、宮崎駿(みやざきはやお)と高畑勲(たかはたいさお)のふたりの監督によって制作されました。



宮崎監督は空物(そらもの)が得意で、イタリアの真っ赤な水上機が登場する「紅の豚」や、零戦をつくった堀越二郎が主役の「風立ちぬ」に、その才能が生かされています。



一方、高畑監督は文学作品が得意で、野坂昭如原作の「火垂るの墓」、日本民話「かぐや姫」をつくっています。また、ジブリ以前では、テレビアニメメーションの不朽の名作「赤毛のアン」も高畑作品です。



ジブリは、これまでに21の長編映画を制作してきましたが、空物(そら)でもない、文学作品でもない、異色の作品があります。



中学3年生の聖司くんと雫(しずく)ちゃんが主人公の「耳をすませば」という作品です。



聖司くんの夢は、ヴァイオリン職人になること、雫(しずく)ちゃんの夢は小説家になることです。



若いふたりが将来の夢に向かって思い、悩む姿を描いたみずみずしい作品です。



この「耳をすませば」を監督したのは、47歳の若さでこの世を去った近藤喜文(こんどうよしふみ)です。



近藤喜文は、高畑と宮崎の両監督の下で長年作画を担当してきた、いわば、縁の下の力持ち的存在でした。



高畑監督の「火垂るの墓」のリアルな人物描写は、感受性の鋭い作画をする近藤喜文の存在が大きいと言われています。



高畑、宮崎の二大巨頭の名前が大き過ぎて、近藤喜文の名前が取り上げられことは、少ないのですが、昨年秋、佐賀県立美術館で近藤喜文展が、開催されると聞き、私は夫の遺したオートバイにまたがり、はるばる九州へ出かけて参りました。



近藤喜文が長年、携わってきた作画という仕事は、監督のアイデアをリアルな絵にすることです。



建築でたとえるならば、建築家が出したアイデアを図面におこすような仕事です。



建築家がどんなに素敵なアイデアをだしても、それを実際の形にできる図面がなければ、大工さんたちが困るように、高畑、宮崎の両監督がどんなに面白いアイデアを出してもリアルな絵を描いてくれる作画者がいないと、ジブリのような楽しいアニメーション映画は出来ないのです。



我が夫、大江完も同じようにたくさんのデザイン画を遺し、一度も発表することなく、この世を去ってしまったので、近藤喜文展に行くことは、私にとって特別な思いがあったのです。



普段は、人目に触れることのない、下絵のデザイン画ばかりの回顧展、いったいどんな風に展示してあるのだろうと、期待と不安の半々の思いとともに、会場へ入りました。



会場に入ると、私の不安は消し飛び、近藤喜文の絵の力に圧倒されました。



鉛筆画でありながら、そのデッサン力の正確さ、緻密さに、感動しました。



また、どの絵も皆、とても、楽しそうです。



近藤喜文の描いた鉛筆画は、生命力にあふれ、今にも、紙の中の人物がこちらに向かって歩いてくるようでした。



はるばる岡山からオートバイで駆けってきたためもあるでしょうが、感慨もひとしおでした。



最後にひとつ、大きな疑問が残りました。



近藤喜文展が佐賀県で行われたことです。



近藤喜文の郷里は新潟県なのでまず最初は、新潟県で回顧展が開催されました。


しかしその次に開催されたのが、いったいなぜ、佐賀県なのかと、私は不思議に思ったのです。



この疑問を私は佐賀県立美術館の学芸員(若い女性)にぶつけてみると、なんと、彼女自身が、ジブリ映画の大ファンで、彼女の働きかけで、この回顧展が実現したとのことでした。


回顧展の内容の濃さと、そのエピソード、ふたつの感動を胸に私は九州をあとにしました。



死後、何年も経過して、表舞台に立つことがほとんどなかった人の下書き鉛筆画が、まったく縁もゆかりもない若い世代に感動を与えるなんて、なんて素晴らしいのだろうと思いました。



近藤喜文の唯一の監督作品「耳をすませば」の主人公の聖司君は、ヴァイオリン職人になるため、イタリアのクレモナに行って修行するのが夢です。



1993年、私がイタリア留学した年のクリスマス、夫の大江完は、はるばる日本から、私に会いに来てくれました。



夫は私の歌のレッスンを見学したあと、まず、クレモナに行きたいと言いました。



クレモナは、名ヴァイオリン職人、ストラディバリが活動した街です。



ストラディバリは300年前に活動していた職人ですが、現存する彼のヴァイオリンは素晴らしい音色で、未だに、ストラディバリを超える職人は現れていません。



ストラディバリの作ったヴァイオリンは、「ストラディバリウス」と呼ばれ、第一線で活躍するヴァイオリストたちの手によって素晴らしい音色を聞かせてくれています。



夫の父は「耳をすませば」の聖司君が憧れていたヴァイオリン職人でした。



夫の父の夢はストラディバリの街クレモナに行くことでした。



夫は父のかなえられなかった夢を実現したのです。



手先が恐ろしいほど器用だった夫は、彼の父ゆずり、我が家に遺された膨大な本をすべて読みつくしたほどの博識さは、やはり「耳をすませば」のもう一人の主人公雫ちゃんのような、文学好きな夫の母ゆずりでした。



「耳をすませば」のラストは、聖司(せいじ)君と雫(しずく)ちゃんが、朝焼けの見える高台で、将来を誓い合ってエンディングを迎えます。



もしも、「耳にすませば」のふたりが結婚して、子供が生まれたら、私の夫のような人かも知れないなと、私は、勝手に想像してしまいます。



そして夫が遺した膨大な資料と日々向き合いながら、佐賀県美術館の学芸員のような若い方々に、夫の作品を知ってもらえたらなと、クーポラだよりを書き続けるのです。



つづく

2017年7月29日

大江利子


お気に入りの映画は、ストーリーを覚え、登場人物のセリフや演技までも覚えてしまいます。



大好きな映画の撮影場所を旅の目的にするのは、実に楽しいものです。



「男はつらいよ」は渥美清演じる寅さんが主人公で、48回ものシリーズが続いた大ヒット映画です。



「男はつらいよ」の筋書きは、パターン化しており、48作品、ほぼ同じです。



茶色のソフト帽をかぶり、皮のトランクケースを片手に、日本全国を旅しながら露天商売のてきや稼業の寅さんは、旅先でちょっと影のある美女に、恋をしてしまいます。



恋の結末は、必ず寅さんの失恋に終わります。



失恋の傷を癒すため、寅さんがあらたな旅に出発するところで映画はジ・エンドを迎えます。



観客は、寅さんの行く末を案じながら、映画館を後にし、次作が発表されると、寅さんの元気な姿に会いたくて、また、映画館に足を運んでしまうのです。



「男はつらいよ」の新作は、年に2回、お盆とお正月に発表され、夏の暑い盛りには北国へ、

寒さが厳しい冬には南国へ、寅さんは旅をします。



日本人の心のふるさとを呼び覚ますような懐かしい風景を、寅さんは旅してまわるので、

全国に「男はつらいよ」のロケ地が点在しています。



 私も先日、「男はつらいよ」の最終作のロケ地、岡山県北部の町、勝山へ行ってきました。



勝山は、木材の町として有名で、昔は宿場町として栄えました。



なまこ壁や連子格子窓など、懐かしい和建築の粋(すい)を凝らした建物が大切に保存され、今も、その歴史的な建物で人々は生活をしています。



黒光りする、木目美しい重厚な梁が素敵な、酒蔵を改造したレストランで、地味豊かなお昼ご飯をいただきながら、私は20年前の夏を思い出しました。



夫が同伴してくれた歌のレッスン旅行は、いつも飛行機代が安い冬でしたが、一度だけ夏に行きました。



ミラノで歌のレッスンを受けた後、私たちは、イタリアの小さな町、ヴィチェンツァを目指しました。



ヴィチェンツァは、ミラノから東へ、アドリア海の女王と謳(うた)われたヴェネツィアへ行く途中です。



私たちが、わざわざ、ヴィチェンツァを目指したのには、理由がありました。



我が家には、夫がそろえた、大量のレーザー・ディスク(映像ソフト)があります。



邦画、洋画と様々なジャンルがありますが、私の勉強用にと、貴重なオペラ映像もたくさんあります。



オペラは歌舞伎のように舞台作品なので、映像も、生舞台をそのまま収録した、ライブがほとんどですが、稀に、オペラ映画があります。



オペラ映画は、一流の歌手が、映画俳優のように自然な演技をしながら歌います。



衣装もセットも違和感なく音楽と一体化し、あらすじを知らないオペラでも、無理なく楽しめます。



我が家のオペラ映画コレクションの中で、特にお気に入りの一本は、「ドン・ジョバンニ」です。



「ドン・ジョバンニ」はスペインのハンサムな貴族で、女性遍歴を重ねるドンファンの物語をモーツァルトがオペラにしました。



愛らしく軽やかな音楽のモーツァルト作品とは異なり、暗く、ダイナミックで迫力満点のオペラです。



このモーツアルトの異色のオペラ「ドン・ジョバンニ」のオペラ映画が我が家にあります。



アラン・ドロン主役の「暗殺のメロディー」の監督、アメリカのジョセフ・ロージーが

1979年に発表したオペラ映画です。



主役のドン・ジョバンニは、当時のオペラ界で最も実力があり、容姿も申し分ないバリトン歌手、相手役の女性陣も、声も姿も美しい歌手たちばかりです。



そして何より、素晴らしいのは、映画の撮影場所です。



ロージー監督が選んだのは、イタリアの小古都ヴィチェンツァの町を彩る、ルネサンス建築の巨匠パッラーディオの建築物でした。



私たちは、そのドン・ジョバンニのオペラ映画に使われた撮影場所、パッラーディオ建築を見たくてヴィチェンツァの町まで行ったのです。



ヴィチェンツァに残されているパッラーディオ建築の一番の特徴は古典的な様式美です。



パッラーディオは若い頃、パルテノン神殿に代表されるギリシア建築をたくさん勉強しました。



パルテノン神殿は、堂々とした円柱とファサードが印象的です。


神殿の壮麗さを強調するために使われた円柱やファサードを、パッラーディオは個人の住居や劇場の建物に応用しました。



パッラーディオ様式は後の時代に広く浸透し、アメリカのホワイトハウスにも取り入れられています。



ヴィチェンツァは山あいの小さな街なので、私たちは、レンタサイクルで「ドン・ジョバンニ」ロケ地巡りをしました。



8月の真夏なのに、ヴィチェンツァの空気は清々しく、パッラーディオ建築は、どの建物も、実際に町の人たちに使われていて、500年前のルネサンス時代の建物が、現在の人々の生活に活きていることに、とても感動を覚えました。



パッラーディオの建築様式が先を見通した素晴らしいものなのでしょうが、500年にも渡って、その建物を大切に守りながら、日々の暮らしを積み重ねてきたヴィチェンツァの街の人々が素晴らしいなと思いました。



先日、勝山を訪れた時も、20年前にヴィチェンツァで抱いた感動とまったく同じでした。



様式美や伝統美は、建築も、彫刻も、音楽も、与えられた約束ごとからはみ出さずに、

いかに、美しく魅せるかを工夫することです。



約束ごとからはみ出さず、最大限、美しく魅せること、これは、バレエで最も大切なことです。



バレエのレッスンの中で、「フォンデュ」と呼ばれる動きがあります。



スイスの伝統食チーズ・フォンデュのように溶けるような柔らかな動きのことです。



両足の膝を曲げた状態から、片足で真っ直ぐ立ち、もう一方の足は、空中に出す動きを、

両足同時に、なめらかに、柔らかく行うのです。



地味な動きですが、実にこれが難しいのです。



でも、このフォンデュができないと、ぎこちない踊りになり、バレエの最大の魅力である、

優美さを、表現できないのです。



片足立ちで、反対の足を空中に伸ばすためには、立っている足に、全体重を受けねばなりません。



しかも、バレエはつま先立ちですから、かかとは使えず、足の指先だけで、自分の体重をコントロールします。



足の指先で体重をコントロールするには、身体全体の筋肉の調和が取れていないと出来ません。



毎日のバレエお稽古は、思うように動いてくれない我が身との闘いです。



伝統的な美や様式美を身体で表現するために、特効薬や近道はありません。



決して、替えることはできない我が身、つまり、与えられた約束ごとからはみ出さずに、最大限、美しく魅せるには、ヴィチェンツァや勝山の人々のように、日々の暮らしの積み重ねが大切なのです。



~つづく~

2017年6月29日

大江利子





自由な旅先で、頭を悩ますものは食べ物です。



旅行業者が企画した、パック旅行ならば、自分で考える必要はありませんが、個人旅行にこだわるならば、すべてを、自分で判断せねばなりません。



短い旅ならば、店構えだけで判断し、適当に入ったお店の味に、あたり外れがあろうと、さほど気にはなりません。



しかし、長い旅だと、体調にも関わるので、野菜がしっかり摂れて、栄養バランスの良い食事を提供してくれるお店を探すのにひと苦労です。



1994年、イタリア留学を、不完全燃焼で終わり、帰国した私のために、夫は、翌年から連続5年間、冬休みを利用してイタリアへ歌のレッスンに連れていってくれました。



毎回、お正月をはさんで、10日間ほど、私と夫は、イタリアに滞在しました。



私の歌の先生、カヴァッリ先生は、ミラノ郊外にお住まいだったので、ミラノ中央駅近くのホテル・フロリダを常宿にしていました。



ホテル・フロリダの建物は観光客が少ない、ビジネス街の裏通りに面していました。



その裏通りは、地元っ子向けのパン屋、お菓子屋、本屋などが、立ち並ぶ、商店街のような、たたずまいでした。



庶民的なお店が並ぶホテル・フロリダ界隈に、「ブレーク」という名前のレストランがありました。



「ブレーク」は、日本円で、千円も出せば、肉料理もサラダも、デザートまでも、いただけるとてもお財布に優しいセルフ式のレストランです。



「ブレーク」の店内に入ると、まず各自、大きなお盆を持ちます。



店内は、広いワンフロアで、料理別にエリアが分かれていて、お盆の上に、欲しい料理をのせていき、最後にレジで精算し、食事コーナーでいただくのです。



日本のスーパーマーケットで、入店したら、各自、かごを持って、店内を自由に歩き回り、

欲しい商品を見つけるシステムとよく似ています。



野菜料理は、フレッシュなサラダ、ジャガイモのバター焼き、などが山盛りに用意され、

自分で、好きな量を、お皿に取ります。



たくさんとっても、少しとっても、一皿のお値段です。



肉や魚料理は、専門の料理人が常駐していて、注文すると、美味しそうなステーキを目の前で、好みの焼き具合に、調理してくれます。



面白いのは、入店すると、まず、デザート・エリアがあることです。



イタリアのケーキは、日本のような、口当たりが柔らかな、ふわふわのスポンジケーキはありません。



干し果物や、ナッツ類を混ぜ込んだ、どっしりとした味のタルトばかりです。



でも、そのタルトの美味しいこと。



イタリアのバターやチーズがフレッシュで濃厚なので、セルフ式の安食堂の味とは思えない、素晴らしい美味しさです。



また、ルネサンス発祥の国だけに、タルトの配色の美しいこと。



宝石を散りばめたような鮮やかな色合いのタルトが、入店するなり、目の前に、現れるのですから、誰も、その魅力に逆らえません。



ダイエットを決め込んでいるらしい、ミラノっ子のOLも、肉料理やパスタは外しても、タルトだけは例外らしく、お盆に、サラダとタルトの大きな一切れをのせています。



「ブレーク」の味付けは、全体的に薄味でした。



食事コーナーのテーブルに、塩、胡椒、オリーブオイルが用意されているので、味が物足らない人は、後から、好きなだけ、濃くできるようになっているのです。



イタリアのお野菜は味が濃厚なので、シンプルな調理方法でも、とても美味しくいただけるのです。



薄味志向、野菜大好きな私と夫は、ミラノ滞在中、いつもこの「ブレーク」のお世話になっていました。



夫が嬉しそうに何種類ものお料理をお盆いっぱいになるまでのせていたのが、懐かしく思い出されます。



自由で、美味しくて、安くて、「ブレーク」は、イタリアの食文化の特徴を凝縮していました。



2015年、夫が亡くなり、彼のオートバイで、いろいろな場所へ独りで行くようになりました。



オートバイと一緒なら、今まで、入りにくかったお店にも、堂々と入れるようになりました。



例えば、サラリーマンやタクシー運転手さんがごひいきにしているような、殿方ばかりのセルフ式の食堂です。



「ブレーク」と同じように、入店するとお盆を持ちます。



でも、私は何か違和感を覚えました。同じセルフ式なのに、「ブレーク」と、何かが違うのです。



違いはすぐに、わかりました。「ブレーク」では店内を自由に歩き回れます。



お盆に載せるお料理の順番も自由、肉料理からでも、デザートからでも、各自が決めて良いのです。



しかし、日本の食堂は、お盆を持ったら、お料理の陳列棚の前に、一列に並びます。



陳列棚の中は、煮物、酢の物、焼き魚、揚げ物、と懐石料理の順番のように並べられ、

自分の順番が欲しい料理の前にきたら、手を伸ばしてとるのです。



いかにも、礼儀正しい日本風です。



しかし、面白いのは、日本の食堂の器は、中身のお料理に合わせて、すべて違うことです。



焼き魚は、長方形のお皿だし、冷やっこは、涼やかな半透明の小鉢、お味噌汁のお椀と、ご飯茶碗も、同じ椀でも、色やデザインが違います。



しかし、「ブレーク」のお皿は、野菜料理もパスタ料理もデザートも、皆、おなじ真っ白な平皿です。



大・中・小の大きさに分かれてはいますが、お皿の厚みも材質も全部同じです。



この両者の違いは、一般家庭でも同じです。



日本の家庭では、お料理に合わせて、様々な器に盛ります。



お料理好きの主婦は器にこだわる人も多いので、大きな食器棚が必要です。



しかし、イタリアの家庭では、家族の人数分の大・中・小の平皿があるだけです。



大家族でも、キッチンでの食器収納スペースはわずかです。



踊りの衣装もお皿に共通したところがあります。



クラシック・バレエの代名詞「白鳥の湖」では、第二幕に、森の奥深い湖に、悪魔の呪いによって、白鳥にされた乙女たちの踊りがあります。



皆、真っ白なチュチュを身につけて、真っ白な頭飾りをつけ、見事な群舞です。



真っ白なバレリーナたちの華麗な踊りは、脚を上げる高さ、視線の角度、腕を伸ばす方向、

すべがそろっていて、何十人も舞台で踊っていても、まるで、たった独りが踊っているようです。



チャイコフスキーの甘く、哀愁を帯びた音楽に合わせ、一糸乱れぬ群舞は、圧巻で、

クラシック・バレエの最大の見せ場は、息のそろった群舞なのです。



 しかし、日本の伝統舞踊の見せ場は、ソロの踊りです。



日本を代表する女形、五代目坂東玉三郎のあたり役に鷺娘(さぎむすめ)があります。



鷺娘は、白鷺に姿を変えた乙女の踊りで、ソロの踊りです。




白鳥の湖と同じように、真っ白な衣装の踊りですが、ソロの踊りなので、踊り手の個性によって腰のそらせ具合や、足の運びにも、自由度があるのです。



バレエは、どんなお料理も同じ平皿にもるイタリア料理のように、衣装の中身はどんなに、

個性豊かな人間でも、上げた足の高さや、伸ばした腕の方向がそろうように、お稽古によって、長い時間をかけて、肉体を改造していきます。



33歳から始めた私のバレエのお稽古で、最大の難関は、上げる足の高さでした。



片足立ちでもう一方の足を90度以上、上げようとすると床面では、180度開脚出来ないといけません。



私は33歳までは、180度開脚の必要性を感じなかったので、毎日の必須項目に開脚の練習はありませんでした。



しかし、バレエを始めてしまった以上、歯磨きのように、開脚練習に毎日、取り組みました。



長い時間はかかりましたが、私は、180度開脚を手に入れました。



古典的な決まり文句ですが、毎日の練習は、何よりも効果があるのです。



     (1996年12月 ブレークの晩御飯)

              

 ~つづく~

 2017年5月29日

大江利子


周防(すお)監督は、作品数は少ないけれど、ユニークな映画を世に送り出しています。



周防監督の代表作「シャル・ウィー・ダンス」は、当時、現役バレリーナだった草刈民代が出演し、とても話題になりました。



「シャル・ウィー・ダンス」は、ひとりの中年男性が、社交ダンスを通じて、社会に埋没しそうな自分を次第に取り戻していく物語です。



「シャル・ウィー・ダンス」のテーマ音楽は、ミュージカル映画の傑作「王様と私」のクライマックスで、主役の女優が歌う曲です。



ミュージカル映画「王様と私」の主役は、イギリス人家庭教師アンナです。



東洋の小さな国のシャム王が、西洋文化を取り入れ、進歩的な教育を我が王子に授けたいと、イギリスからアンナを家庭教師として招いたのです。



シャム国の一夫多妻制や、奴隷制度など、イギリス人のアンナにとって戸惑いと驚きの連続でしたが、アンナは次第に王と心を通い合わせていきます。



実在するこのお話は、まず、小説化され、映画になり、日本でも何度も舞台上演されている、言わばミュージカルの古典と言えましょう。



「王様と私」の数多くの名演のなかでも、1957年のアメリカ映画が、特に有名です。



知的美女、デボラ・カーと眼光するどいユル・ブリンナーが踊る、コミカルで、ロマンチックなダンスシーンは映画史上に残る、名場面となりました。



この「王様と私」の中で、東洋男性の王と西洋女性アンナが、心を通い合わせる名場面に使われた音楽は、ワルツでした。



ワルツは、もともと、13世紀頃、アルプス渓谷チロル地方の農民の踊りが、起源だといわれています。



娯楽が少なかった時代、男女が身体をくっつけて踊るリズミカルなステップは、農民間だけにとどまらず、オーストラリアの市民層にも広がりました。



もとの形は、激しい動きをもつワルツも、次第に洗練され、今のような優雅な形になりました。



ワルツを最も音楽的に高めたのは、オーストラリアの作曲家シュトラウス2世です。



スケーターたちの間で有名な「美しき青きドナウ」は、ワルツ王と呼ばれるシュトラウス2世の代表作です。



また、音楽の都ウィーンの国立歌劇場で、大みそかの恒例行事となっている演目は、シュトラウス2世のオペラ「こうもり」です。



オペラ「こうもり」は、美しく、軽快なワルツで彩られた、わかりやすくて、とても楽しい物語です。



ワルツはシュトラウス2世だけでなく、他の作曲家たちにも愛され、多くの名曲が生まれました。



ピアノの詩人こと、ショパンは、可愛いワルツ、「子犬のワルツ」を作曲しました。



西洋文化の写し鏡のようなワルツは、三拍子です。



この三拍子、実は、日本人がとても苦手な拍子です。



日本に古くから伝わる民謡は、二拍子か四拍子です。



「さくらさくら」のように、ゆったりとした四拍子か、「ヤーレンソーラン」のソーラン節のような、軽快な二拍子のどちらかなのです。



二拍子も四拍子も、とても規則正しいリズムで、拍と拍の間が、均等の長さで、リズムが、間延びすることはなく、几帳面で、真面目な日本人の性格にぴったりです。



しかし、三拍子のワルツは違います。



「いち・に・さん」の拍のうち「さん」が、間延びします。



この間延びした「さん」の瞬間に、華やかなジャンプや、ポーズが入ります。



バレエでも最も華やかなステップは、ワルツに合わせて踊られるジャンプです。



このバレエのジャンプには、特別な筋肉の使い方が必要です。



子供の頃、雨上がりの道路にできた、大きな水たまりを飛ぶような感覚です。



まるで、自分の身体の筋肉の中にバネがあって、内側から、筋肉のバネを伸ばすような感覚で、ジャンプするのです。



この「内側をから筋肉のバネを伸ばす」感覚を、自分の意志で、自由自在にコントロール出来るようにお稽古するのが、バレエの「ジュテ」です。



33年間も、日本人として暮らしてきた私は、なかなか、この「ジュテ」が大変でした。



特に、ワルツの三拍子に合わせて「ジュテ」の足が出ないのです。



お稽古場で、私よりも何十歳も若い仲間たちが、軽々と、三拍子のワルツに合わせて「ジュテ」を使ってジャンプするのに、私だけが、お地蔵さんのように、立ち尽くすことが、たびたびでした。



そんな時、顔から火が出るほど恥ずかしかったのを覚えています。



いくつもの、恥ずかしさと、自己嫌悪を繰り返しながら、ある日、ワルツに合わせて、「ジュテ」を使ってジャンプができた時、なんと嬉しかったことか!



そして、それ以来、思いがけない「おまけ」が、私の音楽人生に付くようになりました。



「内側から筋肉のバネを伸ばす感覚」は、高音を発声する時に、また、ピアノで指を大きく広げる時に、とても役に立つようになったのです。



~つづく~

2017年4月29日

大江利子