クーポラだより最新号


上方落語に「口入れ屋(くちいれや)」という、日本の伝統音楽にとっては興味深い演目があります。



口入れ屋とは奉公人に勤め先を紹介する仲介屋のことですが、丁稚(でっち)、仲居、板前など斡旋する職種によって専門が分かれていました。



この落語に登場する「口入れ屋」は、明治の頃、商家の大店(おおだな)が立ち並ぶ大阪の船場(せんば)で、女子衆(おなごし=女中)を斡旋していた店のお話です。



ある日のこと、丁稚の定吉は、口入れ屋でいちばん美しい女性を連れ帰り、女将(おかみ)さんから、お叱りを受けます。



定吉が働いていた商家の奉公人は、住み込みの若い男ばかりでした。



当時、男の奉公人は、丁稚から番頭になるまで長く勤めましたが、女の奉公人は半年契約で入れ替わりました。



半年ごとに女子衆(おなごし)さんが入れ替わるたびに、男の奉公人が色めき立っては商売に障るので、女将さんは、なるべく不細工な女性を口入れ屋から連れ帰るように定吉に言っていたのです。



いつもなら、女将さんのお言いつけどおりにする定吉でしたが、今回は、番頭どんから十銭の駄賃と引き換えに美女を連れ帰るようにと、こっそり頼まれていました。



番頭どんは、暖簾(のれん)分けが決まっていて間もなく晴れて別家(べっけ)し、独立するので、美女の女子衆さんにお嫁さんになってもらおうと、彼女を口説くつもりだったのです。



そうとは知らず、人の良い女将さんは、定吉が連れてきた女性を不細工でないからと、追い返すのは気が引けるし、さりとて、あてにしていた掃除や炊事番などの下(しも)の女子衆さんとして使うにはもったいないと、美貌の彼女に、上(かみ)の仕事であるお針ができるかどうかを尋ねます。



すると美女は、「袷(あわせ)、単衣(ひとえ)、綿入れ、襦袢、羽織袴、十徳(じっとく)、雪駄の裏側、と針が通るものならなんでも縫い上げられる」と恥じらいながら答えます。



次に、三味線は弾けますかと問われた美女は、やはり謙虚に、「地唄、江戸歌、長唄、常盤津、義太夫、清元、端唄、大津絵、伊予節、都々逸、よしこの、追分、騒ぎ唄、新内、源氏節、チョンガレ、祭文、阿保陀羅経(あほだらきょう)…」と、自分ができる日本のあらゆる音楽を立て板の水のごとく答えます。



私が、初めてこの「口入れ屋」聞いたのは、ごく最近ですが、この美女の三味線の口上の部分をとても愉快だと思う反面、恥ずかしく思いました。



なぜなら、地唄も長唄も江戸歌、その他、「口入れ屋」の美女ができるといったいずれも、私は日本人として生まれ育って半世紀以上も経つのに、まったく頭に浮かばなかったからです。



節を耳にすれば、どこかで聞いたことを思い出すかも知れませんが、普段慣れ親しんだクラシック音楽のように、曲の冒頭を聞くだけで、たいていの曲の題名と作曲家が口からでるようなわけにはいきません。



歌舞伎、文楽、箏曲、雅楽など我が国を代表する伝統音楽は、大学時代に知識として身につけ、中学校で音楽を指導していた時代は、生徒に教えなくてはならない曲に限り、勉強しましたが、その他は、まったく自ら親しもうともせず、今日まで過ごしてきたことを反省したのです。



もちろん私が日常の仕事に使う楽器はピアノであり、専門とする発声はオペラを歌うためのものなので、西洋音楽中心になってしまうのは当然なのですが、だからといって、母国の伝統音楽に対して、いつまでも無知なままで良いわけがありません。



このように、日本の伝統音楽も西洋音楽と等しく理解していかなければ片手落ちだ、と私が思い始めたのには、あるきっかけがありました。



それは、おととしの秋に、初めて生の詩吟を聞いたからです。



その詩吟は武田信玄と上杉謙信の戦いを題材にした「川中島」でした。



吟じてくれたのは毎月一回、私が開催する合唱講座に参加していた80代の女性でした。



彼女は人前で吟ずることは自分の良い勉強になるからと、自らすすんで、長年続けてこられた詩吟を披露してくださったのです。



彼女の声は80代という年齢をまったく感じさせず、みずみずしくて清らかな音色で、しかも言葉の発音が明瞭でした。



詩吟は、オペラのように遠くまで声が届き、詩の内容がはっきりと聞き手に伝わるように正しい腹式呼吸を使って吟じることが大切ですが、80代の彼女が、私の合唱講座で、どんな曲も正しい音程で滑らかに歌っておられた秘密を見たように思いました。



そして、合唱も詩吟も等しく取り組み「人前で発表することは自分の勉強になる」という彼女の前向きな姿勢に私は深く感動し、そんな彼女の姿を若い人達に見てもらいたいと思いました。



また同時に日本の音楽も西洋の音楽も、さらには室内できることなら何でもいっしょに発表し合って楽しめたらいいなと思いつき、昨年から「みんなの発表会」というユニークなコンサートを始めたのです。



昨年初回は、詩吟、吹き矢、独唱、ピアノ、バレエ、ヴァイオリン、サキソフォンで、和の演目はふたつでした。



今年の第2回は、バレエ、ピアノ、飛行機、ヨーヨー、シャンソン、歌謡曲、イタリア歌曲、日本歌曲、オペラで、和の演目はなかったものの、一層楽しい会となりました。



1955年から2002年まで続いたテレビ番組で「素人名人会」という演芸を発表し合う視聴者参加型の番組がありました。



素人名人会は「みんなの発表会」のように何でも発表できましたが、和の出し物が中心で、踊りは、日舞や剣舞、楽器は三味線や尺八や筝、歌は民謡や歌謡曲でした。



ピアノを本格的に習い始める以前の小学生の私は、鳴り物なら洋の東西を問わず、何でも好奇心があったので、この「素人名人会」を見るのが大好きでした。



小学校で習う音楽は、西洋音楽中心で、音楽室で触れることができた楽器もアコーディオン、木琴、鉄琴、オルガン、大太鼓など洋楽器ばかりでしたから、「素人名人会」で、一般の人が当たり前のように和楽器を奏し、小さな男の子が袴姿で日舞を踊る姿はとても新鮮でした。



当時の私にとっては、日本の民謡もクラシックもすべての音楽が等しく楽しめたのです。



しかし、音楽大学で専門教育を何年も受けた後の私は、いつしか西洋のクラシック音楽が最上に思えて、その他の音楽の良さを発見することも楽しむことも忘れていたように思います。



けれど、詩吟と合唱を両方とも親しむ彼女の歌声に触発されて始めた「みんなの発表会」で、再び小学生の頃のように、広い視野で音楽を楽しむ自分を取り戻せたように思います。



落語「口入れ屋」の美女のように何でもできる人になれたらいいなと思うと同時に、来年の「みんなの発表会」では和の出し物が増えることをひそかに期待している私です。



2020年8月29日

大江利子


先月7月6日、イタリアの偉大な作曲家エンニオ・モリコーネが亡くなりました。


1928年(昭和3年)、ローマで生まれたモリコーネは、音楽の守護聖人サンタ・チェチーリアの名を冠する国立音楽学校「サンタ・チェチーリア音楽院」でトランペットと作曲を学んだ人ですが、映画音楽の作曲によって彼の才能は開花しました。



500曲以上の映画音楽を作曲した中で、モリコーネの名前を最も有名にしたのは、「Nuova Cinema Paradiso(ヌォーヴァ・チネマ・パラディーゾ)=ニュー・シネマ・パラダイス 」のテーマ音楽です。



ニュー・シネマ・パラダイスの主人公は、戦争未亡人の母と幼い妹との3人暮らしの少年サルバトーレです。



サルバトーレは、小学校が終わると一目散に教会で映画を上映している映写技師のアルフレードのところへ行きます。



映画館がなかったサルバトーレの街では、教会がその代わりをしていました。



娯楽の少ない街では、映画を見ることは人々の大きな慰めと喜びで、教会の祭壇の裏側の狭い部屋で、たった独りで一年中休むことなくアルフレードは映写機を操作していました。



戦争のために小学校の課程も満足に終えることができなかった無学なアルフレードは、他に生きていく術(すべ)がなかったこともありますが、人々が映画を見て、泣いたり笑ったりする姿を見ることが何よりもの生きがいと感じ地味な仕事である映写技師をしていたのです。



映画が大好きなサルバトーレは、仕事の邪魔だからとアルフレードから追い払らわれても、少しも懲りずに毎日、教会に行って彼の仕事を観察するうちに映写機の操作方法を覚えてしまうほどでした。



我が子がいないアルフレードは、サルバトーレのことを、本当の息子のように愛しく思えて、ふたりの間には親子のような心の交流が芽生えていきました。



アルフレードの大きな父性愛を代弁するかのような、人の心を優しく包み込み、どこか懐かしい音楽をモリコーネは、この映画のために作曲しました。



1988年、ニュー・シネマ・パラダイスは、このモリコーネの音楽に乗って、世界的な大ヒットを飛ばし、アメリカ映画嗜好が強い日本でも、イタリア映画の魅力に開眼させられました。



ニュー・シネマ・パラダイスの監督は、当時32歳のジュゼッペ・トルナトーレで、還暦を迎えた60歳のモリコーネとは、サルバトーレとアルフレードのように親子ほどの年の差があるコンビでしたが、その後もふたりは「みんな元気」「マレーナ」「シチリア!シチリア!」など、イタリアの魅力がふんだんに詰まった名画を世に送り出していきました。



トルナトーレには、心温まる曲を提供したモリコーネですが、彼自身が30代の頃は、西部劇の名監督セルジオ・レオーネのために、野生的な音楽を作曲していました。



「荒野の用心棒」は、レオーネ監督とモリコーネが組んだ西部劇で俳優クリント・イーストウッドの出世作として有名なマカロニウェスタンですが、日本と特別な因縁のある映画です。



1964年(昭和39年)に制作された「荒野の用心棒」は、その3年前に公開された黒澤明監督の「用心棒」にそっくりだったのです。



ふたつの映画の違いはガンマンが登場する西部劇か、侍が登場する時代劇かの違いだけで、どちらも、ふらりと現れた主役が、街で対立していた影の組織を全滅させて去っていくという物語です。



セリフや細かい演出も、何もかもそっくりなのにもかかわらず、レオーネ監督はオリジナル側の日本の映画会社と黒澤監督に、無許可で「荒野の用心棒」を公開したため、訴訟騒ぎに発展し、裁判は日本の東宝が勝訴し、賠償金の支払いで決着しましたが、そもそもの盗作の発端は、レオーネ監督が黒澤監督の「用心棒」を見て、とても感動したことによるものです。



その後、黒澤監督は、盗作問題はわきにおいて、映画の先進国であり、芸術の国イタリアの名監督から真似されるほどの名誉に浴した「用心棒」の続編として「椿三十郎」を制作しました。



「椿三十郎」も「用心棒」同様、ふらりと現れた浪人が、武家の汚職問題を解決し、見返りをもとめず、去っていくという筋書きです。



ふらりと現れた人が厄介な問題を解決し、また去っていく、つまりアメリカ映画の傑作「シェーン」のような筋書きは、映画や舞台作品にはとても魅力的なのです。



レオーネ監督も「荒野の用心棒」のあとも、「夕陽のガンマン」、「続夕陽のガンマン」と引き続きクリント・イーストウッドを主役にして、同様の筋書きで映画を制作しました。



日本では、「椿三十郎」のように、武士の身分でありながら主家を失い、諸国を浮浪する侍を浪人、ヨーロッパでは、定住せずに放浪している人たちをジプシーと呼びます。



平凡な浪人やジプシーは芸術の題材としては、面白くありませんが、非凡な存在、例えば宮本武蔵や坂本龍馬のような魅力ある人物は、ドラマや映画の主役に引っ張りだこです。



オペラ「カルメン」では、どんな男性をも虜にする魔性の魅力をもつジプシーの女性が主人公です。



オペラのラストにカルメンは、元恋人からナイフを突き付けられて復縁を迫られますが、「死なんて恐れない、私は自由気ままに生きるのだ」と高らかに歌い、元恋人に殺されてしまいます。



フランスの小説家メリメが執筆した原作では、色恋のもつれから殺されたジプシー女の暗い小説なのに、オペラでは、ビゼーが作曲した美しくて官能的な音楽の力によって、カルメンは情熱のままに生きた自由奔放なヒロインとして表現されています。



音楽の力を借りると、不道徳な人物も、非現実な筋書きも、人は素直に受け入れて感動してしまうのが不思議です。



いつも安心が保証された生活をしていると、反対のことに魅力と憧れを感じてしまうものなのかも知れません。


バレエにもジプシーの女性が主役になった素敵な作品があります。



「レ・ミゼラブル=ああ無情」の作者のヴィクトル・ユーゴの小説「ノートルダムのせむし男」をもとにしたバレエ「エスメラルダ」は、パリにふらりと現れた、エスメラルダという名の美しいジプシーの踊り子が主役です。


バレエ「エスメラルダ」の音楽を作曲した人は「ニュー・シネマ・パラダイス」のモリコーネと同じイタリアの作曲家チェーザレ・プーニで、彼より126年前の1802年に生まれ1870年に68歳で亡くなるまでにバレエ音楽を300曲以上残しました。



プーニは、バレエと切り離なされて、彼の音楽だけを演奏会で耳にする機会の少ない作曲家ですが、非現実なストーリーを納得させるプーニ音楽の力は、チャイコフスキー同様に素晴らしいものです。



来月8月、私は自分が企画した第2回目の「みんなの発表会」で、バレエ「エスメラルダ」より、情熱的な一曲を踊りますが、プーニの音楽の力を借りて、50代後半の私でも魅惑的なバレエが踊れるようにと、お稽古に励む毎日です。



2020年7月29日

大江利子


「プルチネルラ」は、ナポリの恋人たちの痴話げんかを描いたコミカルなバレエです。


町娘ロゼッタとプルデンザは、自分の恋人に飽き飽きし、色男のプルチネルラに惹かれています。

娘たちから秋波をおくられたプルチネルラは、美しい妻ピンピネルラを持つ身でありながら、娘たちの期待に応えて戯れの恋を楽しみます。


そんな様子を見て、嫉妬に狂った娘たちの恋人カヴィエルロとフロリンドは、闇夜にプルチネルラを襲います。


命の危険を感じたプルチネルラは、死んだふりをして暴挙をかわします。


カヴィエルロとフロリンドは、動かなくなったプルチネルラを見て、自分達が犯した罪に恐ろしくなり、その場から逃げ出してしまいます。


一方、知恵者プルチネルラは、友人フルボに自分の変装をさせて死体になってもらい、離れたところから街の人たちの反応を伺います。


まず、やってきたのは妻のピンピネルラで、愛しい夫の哀れな死体を見て半狂乱です。


嘆き悲しむ彼女のもとへ街の人々が集まり、皆悲しみに暮れているところに、本物のプルチネルラがひょっこりと現れて、一同は幽霊が出たと勘違いし、大騒ぎになります。


しかし、実はプルチネルラは生きていて、死体は変装した友人だと判明し、町娘と若者も仲直りし、大団円におさまります。


この大衆芝居のような「プルチネルラ」は、17世紀のイタリア仮面喜劇「4人の瓜二つのプルチネルラ」を参考にしてつくられたバレエで、1920年5月15日、ロシアのバレエ団「バレエ・リュス」によって、パリ・オペラ座で初演されました。



「バレエ・リュス」は興行師セルゲイ・ディアギレフによって結成されたバレエ団です。



1872年、ディアギレフは、帝政ロシアの裕福な地方貴族の息子として生まれ、大学在学中の彼は、本業の法律の勉強にはまったく身が入らず、芸術家になりたくて、作曲家リムスキー・コルサコフのもとで個人的に音楽を学んでいました。



しかし、師のコルサコフから作曲の才能がないことを明言された彼は、自分が愛する芸術を世の中に紹介することに情熱を傾けるようになります。



当初ディアギレフは、私財を投じ、買い集めた絵画の展覧会を開いていましたが、次第にオペラやコンサート興行で成功をおさめ、ついには新進気鋭の人材を集めたバレエ団「バレエ・リュス」を結成し、世界各地を巡演してバレエ界に革命をおこします。



バレエ・リュス登場以前のバレエは、伝統の型からはみ出さず、そのパトロンである王侯貴族に受けの良い、格調高く優雅な芸術でした。



「白鳥の湖」に代表されるように、贅沢な空間の広い舞台で、華やかな衣装をまとったバレリーナの正確な回転や跳躍、猫のように柔軟な四肢と爪先立ちの踊りで観客を魅了することがバレエでしたが、大衆にとっては、どこか近寄り難い芸術でした。



しかし、バレエ・リュスのバレエは、自分達でオリジナルな作品を創造し、伝統に縛られない斬新なステップで、広く一般に親しみやすい芸術でした。



たとえば、1919年ロンドンで初演されたバレエ・リュスの「三角帽子」は、衣装と舞台のデザインはピカソが担当し、美人の粉ひき屋の女将に悪代官が恋をするという歌舞伎の世話物のような筋書きのバレエです。



バレエ・リュスの活動期間は、1909年の旗揚げ公演から、ディアギレフの死とともに解散した1929年までですが、その20年間に、「春の祭典」「シェヘラザード」「火の鳥」など、現代のバレエ上演に欠くことのできない重要な作品をつぎつぎと誕生させました。



それにしてもなぜ、ディアギレフ個人によって結成された小さなバレエ団に、バレエ界の流れを変える革新力があったのでしょうか?



それはディアギレフが、バレエ公演にとって難しいことを逆手にとり、柔軟なアイデアで新しい形のバレエを創り続けたからです。



国や王から手厚く保護されていた伝統的な国立や王立バレエ団とは違い、専用の劇場を持たない流浪の集団バレエ・リュスが、二つの大戦にはさまれ世情不安な時代に、巡業先で公演を成功させるには、舞台演出はなるべく簡素で小人数のダンサーで、観客を夢中にさせなければなりません。



この難題を常に抱えていたバレエ・リュスは、伝統や常識は無視して、一般大衆の観客が、すぐに理解できて、作品の最初から最後まで目が離せないほど興味をそそられるバレエを創ることに重きを置いたので、プルチネルラのような傑作が誕生したのです。



プルチネルラは、バレエ・リュス作品の中でも際立って面白いバレエですが、音楽が特にユニークで、作曲は「春の祭典」のストラビンスキーが担当しました。しかし本人のオリジナルではなく、ディアギレフがナポリの音楽学校の図書館で見つけた17世紀のオペラを、ストラビンスキーが編曲してつなぎ合わせたもので、古典オペラのアリア(ソロの歌)で、ダンサーが踊ります。



プルチネルラのもっとも有名なアリアは、メゾソプラノによって歌われる「Se tu ’ami(セ・トゥ・マ・ミ=もしもあなたが私を愛してくれるなら)で、26歳の若さで世を去った、作曲家ペルゴレージのオペラの1曲です。



バレエ好きな私の夫は、プルチネルラが特にお気に入りで、いろいろなバレエ団のプルチネルラのレーザディスクを集めて、見比べていましたが、夫一押しの一枚があります。



それは、オランダのバレエ団、スカピーノ・バレエのプルチネルラです。



スカピーノバレエ団は、第二次世界大戦直後1945年に結成され、学校巡回公演を通じて子供たちにバレエの楽しさを伝えることを大切にしてきたダンサーグループです。



そんなスカピーノバレエ団のプルチネルラの演出はとても単純で、普段着にしたいような可愛い衣装を身につけたダンサーが、子供たちが真似をして踊りだしたくなるような楽しいステップで踊ります。



そして「Se tu m’a mi」を歌っているのは、スペイン出身のオペラ歌手テレサ・ベルガンサです。



ベルガンサは、超一流の歌劇場で主役を歌い続け、バルセロナ五輪の開会式で歌った経験をもつメゾソプラノですが、その世界的な歌手ベルガンサのコンサートが1997年2月16日、香川県志度町で開かれました。



私と夫が、香川県志度町のコンサート会場に足を運んだのは言うまでもありません。



23年前、四国の小さな街の音楽ホールの舞台に登場したベルガンサは、シンプルな黒のパンツ姿で、プログラム内容も、シューベルトの魔王など、学校で習うような歌が中心で親しみやすい曲目でした。



コンサート終了後、私と夫は、ベルガンサに、彼女が歌ったスカピーノバレエのプルチネルラのレーザディスクのジャケットを差し出し、サインを乞いました。



サインをしているベルガンサに、私はイタリア語で質問しました。「Lei ha ricordato questo lavoro ?レイ・ア・リコルダート・クエスト・ラボーロ(あなたはこのお仕事を覚えておられますか?)



すると、ベルガンサは「Si si ,Certo!シ、シ、チェルト!=ええ、もちろん」と人懐っこい笑みを浮かべながら答えてくれ、私と夫はとても幸せな気持ちで家路につきました。



今年の夏、私は、自分が企画した新しい形の発表会の第2回目を開くことを決心しました。



バレエでも歌でも詩吟でも、ジャンルを問わず、老若男女年齢を問わず、発表したい人なら誰でも大歓迎というユニークな会「みんなの発表会」を昨夏初めて開催し、とても好評だったからです。



コロナウィルス影響で制約ある状況ですが、バレエ・リュスのように難題を逆手にとり、ベルガンサのコンサートのように、わかりやすい内容で、会に参加された方々全員に幸せな気持ちになってもらえるように知恵を絞り、会を成功させようと思います。



2020年6月29日

大江利子


1994年に公開された「Immortal Beloved(不滅の恋人)」は、ベートーベンを描いた映画です。



映画のあらすじは、ベートーベンの死後、彼の秘書が、「自分の楽譜、財産全てを「不滅の恋人」に捧ぐ」という遺書を発見し、ベートーベンと交流のあった女性を訪問し、不滅の恋人が誰なのかを探しあてるというものです。



訪問を受けた女性たちは、ベートーベンと過ごした日々を回想し、天才作曲家の人間的な面を浮き彫りにしていきます。



ベートーベン役には、徹底した役作りで有名なイギリス俳優ゲイリー・オールドマンで、自らもピアノの才能がある彼は、吹き替えを使わず、違和感のないベートーベンを演じています。



不滅の恋人候補の女性役に、ロッセリーニ監督と女優イングリット・バーグマンを両親にもち、母の知的な美貌を受け継いだイサベラ・ロッセリーニが演じています。



結末は、意外な展開で終わるフィクションですが、だんだんと耳が聞こえなくなり周囲との意思疎通がうまくいかないベートーベンの孤独感が胸に迫る、せつない映画です。



不滅の恋人を探して旅する秘書は、実在人物でアントン・シンドラーという音楽家で、ベートーベンの伝記を最初に残した作家です。



ただし、ベートーベン研究が進むにつれて、このシンドラーの本は、捏造があり、彼の著書の信用度は、今では失墜しています。



生前ベートーベンは、シンドラーのことを嫌っていましたが、亡くなる前に、世話をしていたのは、彼だけだったため、天才作曲家の貴重な資料が、シンドラーの手元に渡りました。



シンドラーはそれらをもとに、「ベートーベンの生涯」を書き上げましたが、自分の本に都合の悪い資料や、ベートーベンが、(400冊はあったと推定される)会話に使った筆談帳を破棄し、改ざんしていたことが、新しい研究が進むにつれて、露呈してしまったのです。



一方、ベートーベンの形見を大切に保存していた人によって、学者たちの論争の的だったベートーベンの不名誉な病気について終止符が打たれました。



その形見とは、ベートーベンの遺髪です。



1827年3月26日、ベートーベンは56歳の生涯を閉じますが、死の直前に、友人である作曲家のフンメルの心からのお見舞いを受けました。



フンメルは自分の弟子の16歳の少年も、お見舞いに同行させていました。



少年は、フェルディナント・ヒラーという名前で、のちには、メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、ワーグナーたちと親交を結ぶ作曲家に成長した人です。



ヒラー少年は、1827年3月27日、棺におさめられたベートーベンの遺体から、毛髪を一房切り取り、木製の小さな楕円形のロケットにその遺髪をおさめて、宝物として一生大切にしていました。



このヒラーの宝物は、彼亡きあとは、息子が受け継ぎ、その後、数奇な運命をたどって無事に現代まで受け継がれました。その事実は「ベートーベンの遺髪」という本にまとめられています。



2世紀も、ロケットの中におさめられていたベートーベンの毛髪は、1995年に初めて鑑定され、新事実がわかりました。



亡くなった直後、ベートーベンの遺体は解剖され、彼の肝臓は革のように縮んで結節ができ、腎臓は石灰化して、脾臓は黒く硬化しその他の内臓も傷んでいたことがわかっていました。



しかし、これらの内蔵損傷の原因は何の病気であったかは、当時の医学では解明できずに、ベートーベンは梅毒や淋病に感染していたと、非礼極まりない説を述べる学者もいました。



しかし、ヒラーが保存していたベートーベンの遺髪を鑑定し、その中には鉛が大量に含まれていたことが解明され、梅毒や淋病の証拠はありませんでした。



大量の鉛が残っていた理由を断定はできませんが、ベートーベンが好きだった、赤ワインには、当時添加物として鉛が使われ、また食器や水道管にも同様に鉛が使われていたので、徐々に作曲家の内臓に蓄積し内臓を傷つけてしまったのでは、と言われています。



また、毛髪鑑定の結果、楽聖ベートーベンの偉大な創作欲を証明する事実も明らかになりました。



それは、ベートーベンを苦しめていた疝痛にモルヒネが使われていなかったことです。



当時、モルヒネは、鎮痛剤として一般的に使用されましたが、死の床にあっても作曲をしたかったベートーベンは、モルヒネによって意識が混濁することを拒んだのでした。





音楽家にとって致命傷となる聴覚異常がベートーベンを襲ったのは20代の頃からです。



激しい耳鳴りや難聴に悩まされ、徐々に聞こえなくなっていく恐怖で、32歳の時に自殺を考え遺書まで書いた彼ですが、新しい音楽を作曲したいという創作欲が、聴覚を失う恐怖に打ち勝ちました。



40歳には完全に聴力を失ったベートーベンですが、彼の創作の泉は枯れるどころか、ますます新しい世界まで到達し、亡くなる3年前の53歳の時には、人類の宝と呼ぶにふさわしい第九交響曲を作曲したのです。



ところで、私も30代の頃、自殺を考えたことがありました。



37歳の夏、突然襲ってきた激しいかゆみによって、夜はほとんど眠れなくなり、首から下のあらゆる関節の周辺に発生した皮膚炎によって、全身かきむしって血だらけになりました。



かゆみから開放される時は一瞬もなく、夜は眠れず、外出もままならず、発狂しそうになり、車ごと川に飛び込もうと思い、夜中に死に場所を探して、何時間も車を走らせたことさえありました。



けれど、命を絶つ勇気はとうとうでなくて、家に帰り、かゆみに襲われ、身体中かきむしり、眠れず苦しみ続けました。



そんな私の唯一の救いは、毎日のおけいこでした。



どんなにかゆく、寝ていなくても、歌とピアノを練習し終えると、精神の均衡は保てたのです。



皮膚科医が処方する対処療法的な塗り薬を使ったこともありましたが、悪化するだけでした。



それよりは、おけいこをする方が精神に良い作用を及ぼし、かゆみを我慢し、かきむしってしまう手を止めることはできないけれど、絶望せず、ありのままの自分を受け入れることができました。



「今日一日だけ、頑張ろう」そう心に言い聞かせ、出口のないかゆみと闘ったものです。



いちばんかゆくてつらいとき、ピアノのおけいこに選んだ曲はベートーベンのソナタでした。



生命力にあふれたベートーベンの音楽が、私の指を通して身体の隅々まで運ばれて、私の得体の知れない病をゆっくりと追い出しているようでした。



かゆみは37歳から51歳まで17年間続きましたが、とうとう私はかゆみのない日常を取り戻してしまいました。



けれども、今度は、夫を失ってしまった苦しみが、間断なく私を襲い責め続けます。



しかし、またおけいこで乗り越えるしか、自分を救う方法が見つかりません。



この苦しみを、誰かに預けることもできないし、また、もう解決しないことは、私自身がよく知っているからです。



私が夫と再会できるまでに、どれくらいの時間があるのか神のみぞ知るだけですが、ベートーベンのピアノソナタだけでも32曲ありますから、凡人の私にとっては十分過ぎるほどで、やりがいがあるというものです。



2020年5月29日

大江利子


ピアノでバッハを弾くのは、私の日課です。



スポーツをする前に柔軟体操するように、音階練習で指をほぐしたら、まずバッハを弾くのです。



この習慣は、私がピアノを本格的に習い始めた中学生からです。



私が初めて、バッハのピアノ曲に出会ったのは、中学2年生の時です。



中学2年の私は、地元岡山では難関だった女子高のピアノ科への受験を目指していました。



その女子高は、少数精鋭の生徒に英才教育を行っていることで定評があった、私立の山陽女子高等学校でした。



女の子の習い事として、今ではすっかり下火になったピアノですが、私が山陽女子の音楽科を受験した頃は、ピアノ人口は、とても多かったのです。



山陽女子のピアノ科の入学試験は、自由曲と課題曲、それぞれ1曲、試験当日に、弾かなくてはなりません。



自由曲は、モーツァルトかベートーベンかハイドンのピアノソナタの中から、好きな1曲、課題曲は、山陽女子が指定した1曲です。



山陽女子が課題曲に指定していたのは、バッハの「インベンション」です。



バッハの「インベンション」は、15曲から構成された練習曲集で、課題曲はその中から、1曲が指定されます。



バッハのインベンションは、楽譜を見ると、一見簡単そうですが、モーツァルトやベートーベン、ハイドンのソナタと、まったく異なる難しさがあります。



私たちが普段、耳にしているポピュラー音楽は、旋律と伴奏があり、ひとつの曲の中に、異なるふたつのメロディーが、混在することはありません。



モーツァルトやベートーベン、ハイドンのソナタも同様に、旋律と伴奏があり、右手が旋律、左手で伴奏、というパターンで作曲されています。



しかし、バッハのインベンションは、伴奏部分は存在せず、複数の旋律が絡み合うように作曲されていて、右手と左手は、それぞれに異なる旋律を弾くという、非常にややこしい音楽です。



このややこしいインベンションを、なめらかに弾けるようになるには、片手で丁寧に練習することが、いちばんの近道ですが、そうすることによって、飛躍的にピアノの腕が上達します。



バッハはもちろん、その効果を意図して、鍵盤楽器の学習者のために、このインベンションを作曲したのです。



このインベンションのように複数の旋律だけで作られる作曲法は、対位法と呼ばれ、バッハが活躍したバロック時代に発展し、バッハはその対位法の大家です。



対位法で作曲されたバッハの曲は、弾けるようになったことに満足を覚えますが、沸き立つような感情の高まりとは無縁です。



ピアノの詩人と呼ばれるショパンの曲ならば、弾いていると、とても感傷的な気分に浸れるのですが、バッハの曲を弾いていると、指の訓練をしているようでロマンチックにはなれません。



対位法のバッハの音楽は、虚飾のない、構成の美しさを追及した、究極の音楽だと言われています。



まるで、漢字を楷書体で毛筆したような、堅苦しいけれど、正確な美しさをもつバッハの音楽ですが、残念ながら、私にとっては、高校受験という思い出が、その美しさを、素直に感じるとることを長らく邪魔していました。



指の訓練と割り切って、いつもバッハを鍵盤でたたいていたものです。



しかし、そんな私のバッハ観を変えてくれた人がいます。



その人は、1927年、東京生まれの皆川達夫という音楽学者です。



皆川達夫は、バッハや古い時代の音楽の美しさを、ラジオや紙面で説き、クラシック音楽に詳しくない人にも、わかりやすく解説した学者です。



私が皆川達夫に出会ったのは、ラジオ番組「音楽の泉」でした。



日曜日の朝、8時5分から50分間「音楽の泉」で、皆川先生(私が勝手に先生と呼んでいました)の正しい日本語で、音楽の解説を聞けることが、とても楽しみでした。



「音楽の泉」では、作曲家も、時代も、ジャンルを問わず、いろいろなクラシック音楽を、皆川先生のわかりやすい解説付きで、紹介していました。



知っている曲もあれば、知らない曲もありましたが、どの曲も、皆川先生の解説を聞くと、とても新鮮な気持ちで、心から楽しんで音楽に耳を傾け、今まで軽視していた曲も、その良さを発見できました。



皆川先生は、造語や流行りの言い回しを使わず、正しい日本語で曲の解説をします。



もし、他の人が使ったならば、妙によそよそしく感じられるはずなのに、皆川先生ならば、よそよそしいどころか、親しみやすく美しい日本語でした。



皆川先生の「音楽の泉」の締めくくりの言葉は、「それではみなさん、ごきげんよう、さようなら」でした。



正しい日本語のあいさつは、バッハの音楽のように、清らかな美しさがあります。



毎日曜日、皆川先生の「ごきげんよう、さようなら」を聞くたびに、私のバッハ観が少しずつ変わり、指の訓練のためでなく、心から好んでバッハを弾くようになりました。



皆川先生が「音楽の泉」を担当されていたのは1988年から2020年3月29日までの32年間です。



2020年3月29日、「音楽の泉」で、きちんと引退のあいさつをされてから、翌月4月19日に、皆川先生は、92歳の生涯を閉じました。



もう二度と、あの「ごきげんよう、さようなら」が聞けないと、思うと、とても寂しく思います。



使う言葉は、その人の教養と品格を表します。



浅学な私には、皆川先生のような正しい日本語は、まだ不釣り合いな気がします。



いつの日か、正しい日本語だけでも、自然な会話ができる人を目指して、バッハと勉強を続けようと思います。



2020年4月29日

大江利子

白くて大きな鳥の立ち姿は、人を思わせます。


私の故郷、岡山の後楽園では、8羽の丹頂鶴が、檻の中で飼育されています。



かつて後楽園では、丹頂鶴が園内を自由に飛び回っていたこともありましたが、今では、元旦と1月3日、その他、年にわずか数日、しかも一日1時間程、放鳥されるだけです。



丹頂鶴が放鳥される日には、大勢のアマチュアカメラマンたちが、ご自慢の一眼レフカメラを手に、後楽園にやってきます。



先月の2月2日の日曜日、希少な丹頂鶴の放鳥日でしたが、その放鳥タイムに、私は偶然、後楽園に居合わせていました。



その日は、九州の友人が私に会いにきてくれた日で、遠方からやってきてくれた友人に、早春の後楽園を案内したいと来園して、幸運にも、丹頂鶴の放鳥タイムと重なったのです。



芝生が広がる園内の小道には、巨大な望遠レンズを構えたアマチュアカメラマンたちが、我先にと、シャッターチャンスに有利な場所を陣取っていました。



私と友人は、撮影の心得もなく、スマホのオートマチックなカメラ機能を使うのが、せいぜいでしたので、気合が入っているカメラマンたちの邪魔にならないように、少し離れたところで、丹頂鶴が飛んでくるのを待ちました。



すると、驚いたことに、2羽の丹頂鶴は、私と友人を目指すように、まっすぐに、こちらに向かって飛んでくるではありませんか。



そして、手を伸ばせば、触れられるほど近くに、2羽は舞い降りて、その場を動きません。



私と友人は、思う存分にスマホカメラで丹頂鶴を撮影したのは言うまでもありません。



2羽の丹頂鶴は、長いくちばしで、芝生をつつき、リラックスした様子でした。



ときおり、丹頂鶴は不意に、顔をあげて、じっとこちらを見つめます。



丹頂鶴の瞳は、黒くつぶらで、綺麗な女性から見つめられているようで、胸がドキドキしました。


2羽は、私達の側から離れようとしないので、飼育員さんが、カメラマンたちが構えている場所の方へ誘導しにやってきました。



飼育員さんに促されるようにして、2羽は、細くて長い足で、ゆっくり歩いて私たちから遠ざかっていきました。



丹頂鶴の立ち去る後ろ姿は、黒い帯をしめた、純白の振袖を着た乙女のようでした。



2羽が、去ったあと、別の4羽が、放鳥されましたが、やっぱり私たちの方へ飛んできました。



カメラマンたちの嫉妬の視線を感じた私たちは、その場所を早々に離れました。



それにしてもなぜ、丹頂鶴たちは、私たちの近くにばかり飛んできたのでしょうか。



恐らく、丹頂鶴たちはカメラを向けられることが嫌だったのだろうと思います。



鳥にとって、巨大な望遠レンズは、恐ろしい一つ目怪獣のように見えるのかも知れませんし、また、シャッターチャンスを狙って、躍起になっているカメラマンの姿は、彼らの祖先から受け継いだ記憶から、その昔、鉄砲で彼らを捕獲しようとした恐ろしい猟師の姿と重なったのかも知れません。



いずれにせよ、邪心や欲が見える人間の近くには、野生の鳥はやってこないものです。



丹頂鶴のように、人の姿に見えるほどの大きな白い鳥は、世界各地の天女の伝説に登場します。



天女の伝説には、いくつかパターンがありますが、だいたいどのパターンも、美しい水辺に白い鳥の衣を着た天女が、舞い降りて水浴びをします。



その水浴びの様子を見て、天女に恋をした人間の男性が、天女の鳥の衣を隠してしまいます



衣を隠されて、天上に帰れなくなった天女は、人間の男性と結婚し、子供を産みますが、ある日、衣を見つけて、天に帰ってしまいます。



天女は、夫も子供も地上に置き去りにする場合、子供だけ連れて行く場合と、伝説により多少違いがありますが、共通するのは、天女を娶る人間の男性が、誠実で真面目だということです。



誠実で真面目な男性だけが、天女の水浴びを目撃できるような幸運に恵まれる、という、昔の人の教訓なのかも知れません。



静岡県の三保半島には、天女の伝説の中で、最たる真面目な男性が登場する伝説が残っています。



「三保の漁師の白陵(はくりょう)は、いつも漁をする海岸の松林の1本の松の木から、とても良い香りがするので、近づいてみると、その枝に美しい羽衣を見つけました。羽衣は、天女が水浴びのために、脱いで、松の枝にかけたものでした。羽衣のあまりの美しさに、白陵はそれを持ち帰り、家の宝にしようとしましたが、天女から、羽衣がないと天に帰れることができないと、懇願されて、返します。ただし、天上の舞いを、舞ってほしいという、交換条件をつけて。天女は喜んで、舞いを舞い、天上へ帰っていくのです。」



つまり、三保の漁師の白陵が欲したものは、舞いを見ることだけで、他には、何の見返りも求めなかったのです。



この無欲で清らかな伝説は、日本の伝統音楽の能「羽衣」になりました。



また、能「羽衣」の存在を知り、感動したフランス人のバレリーナ、エレーヌ・ジュグラリスは、「羽衣」をモダンバレエにして、1949年、フランスで大成功しました。



エレーヌは現代舞踊の祖と仰がれる、イサドラ・ダンカンの手ほどきを受けた優れたバレリーナでした。



しかし、バレエ「羽衣」に情熱を傾け過ぎたエレーヌの肉体は燃え尽きて、35歳という若さでこの世を去りました。



エレーヌは、「羽衣」の伝説の舞台、三保の松原の地を踏むことに憧れ続けていましたが、あまりにも短い彼女の生涯に、その機会が訪れることはありませんでした。



彼女の遺言により、夫君の手によってエレーヌの遺髪だけが、天女が羽衣をかけたと伝えられる松の木の傍の碑に納められています。



先日、私は、執筆の取材のために「羽衣」の伝説の地、三保の松原を訪れました。



三保の松原は、能「羽衣」の他に、富士山の景勝地として世界遺産に登録された美しい海岸でもあります。



私が訪れた日の三保の松原は、雲一つなく、松林の続く白い砂浜と青い空と海に、富士山が浮かび、歌川広重の描くコバルトブルーの浮世絵の世界そのものでした。



エレーヌの遺髪が納められた碑には、松の木の枝の間から漏れる、春の陽光が、子守唄のように優しく降り注いでいました。



無欲な天女伝説「羽衣」に、価値を見いだして、情熱を傾けたフランス人のエレーヌの碑を見つめ、松原を抜ける清涼な風を頬に感じながら、私は、日本の自然の美しさと日本人の美徳を再認識しました。



そして自分はまだ生きていて、自分の手で、未来を作りだすことができる時間が残されている幸運に恵まれていると、実感したのです。



2020年3月29日

大江利子


初雁を 待つとはなしに この秋は 越路の空のながめられつつ


(待っていたわけでもないのに、貴方がおられる越後の方向の空を眺めていますと、初雁を見ました。)



この歌の作者は、明治天皇の皇后です。明治11年8月30日、明治天皇は、北陸・東海道の巡行に出発し、巡行は、長期におよび、明治天皇が皇后の元に帰ってきたのは、71日後の11月9日でした。



巡行中の夫の身を案じて、詠まれたこの歌は、明治11年9月26日、悪天候で、夕闇迫るころ、やっと北陸の行在所(あんざいしょ)に到着された天皇をねぎらうかのように届けられたのです。



夫への優しい愛を象徴した、「初雁の御歌」は、絵画に描かれ、聖徳記念絵画館で観賞できます。



聖徳記念絵画館は、明治天皇の崩御後、建築された美術館で、国内の画家80人が天皇と皇后の遺徳を描いた歴史画80点を、史実順に展示し、「初雁の御歌」は40番目の日本画です。



「初雁の御歌」を描いたのは、鏑木清方(かぶらききよかた)です。



鏑木清方は1878年(明治11年)、東京の神田に生まれ、1972年(昭和47年)鎌倉で没した日本画家です。



清方に絵を勧めたのは、小説家であり、ジャーナリストであり、起業家だった父です。



毎日新聞の創立に参加した清方の父は「やまと新聞」を創刊、社長に就任、清方が生まれ育った家には、父の仕事の関係者の小説家や、挿絵画家が大勢出入りしていました。



清方が幼い頃は、写真はまだ普及しておらず、新聞には、挿絵が描かれ、挿絵画家は、人目に触れる機会の多い華やかな職業でした。



清方は13歳の時に、歌川流の絵師、水野年方(みずのとしかた)のもとに弟子入りします。



清方本人は文学に素養があり、小説家にも興味がありました。しかし、師匠のもとで、徐々に画力を磨き、15歳頃から、父の新聞の挿絵を描いていました。



19歳の時に、父と縁故の無い、東北新聞から挿絵を任され、一人前の挿絵画家として認められます。



しかし、挿絵は、題材を画家自身が、決めるわけではなく、記事の内容に合わせた絵を描くだけなので、自由な画題で創造的に描くことができる日本画家へと、清方は、次第に方向転換します。



清方が日本画家へ、大きく方向転換するきっかけになったのは樋口一葉を画題にした絵です。



24歳の若さで夭折した樋口一葉の愛読者だった清方は、一葉の墓を探し出し、お参りし、その墓をスケッチしました。



清方は、そのスケッチをもとに、一葉の小説「たけくらべ」主人公の美登利が、一葉の墓を抱いている構図の日本画「一葉女史の墓」を描きました。



この「一葉女史の墓」は、芝居や、映画のワンシーンのように、劇的で、衝撃的で、小説家になりたかった清方の文才と絵の才能とが融合した傑作です。



「初雁の御歌」は清方54歳の時の作品で、雁の群れを眺める美しい皇后さまの心情を円熟味の増した画力で見事に描いています。



先月、私は、絵の観賞とは別の目的で聖徳記念絵画館に訪れ、偶然に、この「初雁の御歌」を見ました。



私の目的は、「神宮紙」という土佐で漉かれた和紙のことを調べるためです。



「神宮紙」とは、天皇と皇后を描いた絵が、正倉院の和紙のように、千年保存できるようにと、特別に漉かれた和紙です。



神宮紙を任された人は、土佐の伊野出身の中田鹿次で、彼は熱心な製紙研究家であり、彼が創業した中田製紙工場は、明治33年から昭和25年までの半世紀にわたって土佐屈指の大規模工場として栄えました。



しかし、採算を度外視した中田の工場は経営が悪化し、後継者のいない彼が引退後、工場は倒産し、神宮紙も門外不出であったため、その製法とともに滅びました。



けれども中田が、混ぜ物を一切使わずに、漉いた3m×3mの巨大で美しい神宮紙は、これまで絹本(けんぽん=書画のための絹の紙)が描くことが常識だった日本画家を開眼させます。



この中田鹿次のことは、私が読んでいた和紙の本「和紙風土記」の中に紹介されていました。



2年前から、私は日本独自の和紙、雁皮紙の存在を知り、和紙の本を読み漁っていて中田鹿次と神宮紙の知識を得たのです。



雁皮紙はとても魅力的で、知れば知るほどに惹かれ、ゆかりの地を訪問し、ついに、日本一手漉きで、雁皮紙を大量生産していたのは、土佐の伊野町だったことも突き止めました。



その伊野町出身の製紙家がこだわりぬき、今では、幻となった和紙、神宮紙に描かれている絵が、聖徳記念絵画館にあると知って、見に出かけたわけです。



つまり、絵を見に行ったわけでなく、その素地の神宮紙を見に行って「初雁の御歌」に出会ったわけです。



広い館内の80点の巨大な絵画を1点、1点見ていきましたが、真面目な歴史画なので、芸術的に楽しむ余地に乏しく、鑑賞する私が退屈してきたころ、40点目の魅力的な日本画に、驚きました。



描いた画家は、誰だろうと、作者を見ると、鏑木清方でした。



主張していないのに、魅力的で、見ていて飽きない絵、それが鏑木清方の「初雁の御歌」でした。



鏑木清方の日本画に、私が初めて出会ったのは、5年前の10月、広島のウッドワン美術館でした。



夫亡き悲しみのあまりに、やめてしまったことがたくさんあるなかで、私は、美術を紹介するテレビ番組を見る習慣だけは、続けていました。



5年前の10月、一周忌もまだで、家に引きこもっていた頃、テレビで紹介された鏑木清方の「朝涼(あさすず)」をどうしても見たくなり、独りで車を運転し、広島のウッドワン美術館まで行ったのです。



その日以来、私は、生気を取り戻し、悲しみの心に蓋をして、見たいものがあれば即、行動するという積極的な日々を送るようになりました。



そのおかげで、雁皮紙にまつわる小説を書くという好機に恵まれ、もうすぐ、その小説は出来上がります。



ところで、雁皮紙の「雁」の字は当て字で、なぜなのか、いろいろ調べてみましたが、わかりません。



一説には、紙のことは神と同じと考えられており、雁は、秋の彼岸に飛んできて、春の彼岸に帰っていくので、魂を運ぶ鳥、神様の遣いをする霊鳥だと考えられているので、紙(神)の王と称される和紙に、神様の遣いの鳥である雁の字を当てて、雁皮紙になったということです。



私は5年ぶりの懐かしい鏑木清方の絵、主張しないけれど、魅力的な「初雁の御歌」を見て、その説が、正しいのでは、と思いました。



2020年2月29日

大江利子


オペラ「ボエーム」は、クリスマスの夜に咲いた恋物語です。



詩人ロドルフォは、パリの学生街カルティエ・ラタンで、仲間の芸術家たちと暮らしていました。



ロドルフォの仲間は、画家と哲学者と音楽家です。



ロドルフォも仲間も、皆、夢を仕事にしていますが、稼ぎが少なく、貧乏なので、屋根裏部屋で共同生活しているのです。



クリスマスの夜、仲間たちは、レストランで外食しようと、出かけていきますが、ロドルフォは、独り部屋に残って、書きかけの原稿を仕上げています。



すると、そこへ、玄関のドアをノックする音がし、若い女性の声が聞こえてきました。



「灯りのろうそくの火が消えたので、火を貸してくれませんか?」ロドルフォは、ろうそくを手にして、すぐに、玄関をあけます。すると、清楚で、可憐な若い女性が、立っていました。



彼女が手にしていた、消えたろうそくに、ロドルフォは、火を付けてあげます。



彼女は、お礼を言って立ち去ろうとしますが、めまいを起こして、その場に倒れてしまいます。



驚いたロドルフォは、彼女が目覚めるまで、そばで介抱しながら、彼女の顔立ちや身なりを、観察します。



彼女は、とても美しい顔立ちでしたが、痩せて身なりも質素で、ロドルフォと同じように貧しいようです。



間もなく、目を覚ました彼女は、また、すぐに立ち去ろうとするので、ロドルフォは、お互い自己紹介をしようと、彼女を引き留めて、「冷たき手よ」の独唱で、自分の身の上話を始めます。



一方、ロドルフォに応える彼女は、「私の名はミミ」というソプラノ独唱です。



どちらの独唱も、高度な歌唱力を必要とする、美しい曲で、このオペラ「ボエーム」を作曲した人は、「蝶々夫人」で知られているイタリアの作曲家プッチーニです。



プッチーニは1858年にイタリアのトスカーナ地方の古都ルッカに生まれました。



プッチーニは、バッハのように、宗教音楽を職業としてきた家系の出で、ミラノの音楽院で、作曲を学び、20代の頃の作品が認められて、売れっ子のオペラ作曲家になります。



プッチーニが作曲するオペラは、「蝶々夫人」の独唱「ある晴れた日に」で知られるように、歌詞の内容と音楽が見事に調和し、旋律を聞いただけでも、情景が浮かべられる力を持っているので、観る人は、楽しい映画やお芝居を見るように、自然とオペラの世界に入れる魔法を持っています。



また、プッチーニは、名旋律を生み出す天才で、彼のオペラの一曲が、独り歩きをすることも、よくあります。



たとえば、プッチーニの遺作オペラ「トゥーランドット」のテノール独唱「誰も寝てはならぬ」は、2006年トリノオリンピックで、日本人女性フィギュアスケート選手としては、初めて金メダルを獲得した荒川静香選手が、フリーの曲で使用し、有名になりました。



この「誰も寝てはならぬ」は、中国のお姫様「トゥーランドット」に求婚した、異国の王子カラフが歌う独唱です。



絶世の美女、トゥーランドット姫は、次々とやってくる求婚者に3つの謎ときを課して、それが解けない場合には、求婚者の首をはねるという、恐ろしい姫でした。



しかし、異国の王子カラフが、見事に姫の課題の3つの謎を解いてしまいます。



姫は、常日頃から、自分の謎を解いた人ならば、その人の愛を受け入れると、父王と国民の前で誓って、恐ろしい処刑を繰り返してきました。



しかし、いざ、カラフ王子が、本当に、姫の謎を解くと、姫は、彼の愛を拒みます。



すると、寛容なカラフ王子は、「ぼくの名前を解き明かしてごらんなさい」と逆に、王子から、姫に、謎を与え、「姫が、謎を考える猶予は、一晩だけ、夜明けまでに、ぼくの名前がわからないときは、姫は、ぼくのもの、しかし、もし、姫にぼくの名前がわかったら、その時は、潔く、ぼくは、死にましょう。」とカラフ王子は宣言します。



そして、今宵、謎の解きの結末がわかる夜明けまで、誰も寝てはならぬと、トリノオリンピックで使用された、あの「誰も寝てはならぬ=Nessun dorma(ネッスン・ドルマ)」をカラフ王子は、歌うのです。



カラフ王子の祖国は戦いに敗れ、王子は異国をさすらう放浪の身なので、誰にも、自分の名前を見破られる心配はないと、勝算したのでした。



ただし、ひとつ、王子の誤算がありました。



群衆の中に、昔、王子に仕えていた女奴隷リューが、偶然に、その場に居合わせて、トゥーランドット姫に、見つかって捕まえられ、王子の名前を白状するまで、リューは拷問にかけられそうになります。



リューは、拷問にかけられる前に、短剣で自分の胸を刺し、命をたってしまいます。



リューは昔から、カラフ王子が好きだったので、王子の愛を成就させるために、我が身を犠牲にし、王子は、リューの死によって、トゥーランドット姫と結ばれます。



「ボエーム」のミミも、病弱な自分は、ロドルフォの負担になるからと、身を引き、死んでいきます。



「蝶々夫人」の蝶々さんも、約束を破ったピンカートンを、恨みもせず、大切な我が子をピンカートンのアメリカ人の妻に、差し出して、短剣でわが胸を貫き、自害します。



その他にも、プッチーニは、ヒロインの自己犠牲によって、男性を救うというオペラを作曲しています。



騎士道精神のヨーロッパは、殿方の方が、姫のために自己犠牲を引き受けるはずなのに、プッチーニの描く女性は、殿方を助けてばかりです。



オペラの世界だけでなく、イタリアの古典映画にも、若き女性の自己犠牲がありました。



フェリーニ監督の出世作、「道」のジェルソミーナです。



薄幸で心の清らかなジェルソミーナは、粗野な男ザンパノを恨むでもなく、彼に寄り添い続け、最期は、ザンパノに捨てられて、死んでしまいます。



ジェルソミーナは、いつもトランペットで哀しい旋律を吹いていました。



この旋律を生んだのは、イタリアの作曲家ニーノ・ロータで、彼は「道」他にも、「ゴットファーザー愛のテーマ」や「ロミオとジュリエット」の名旋律を世に送り出しています。



イタリア音楽界で、若き女性の自己犠牲の多数例は、なぜかしらと、考えながら、ふと20数年前に、夫と訪れたイタリアのある教会を思い出しました。



その教会は、イタリアの音楽の守護聖人、聖セシリアを祀った、ローマのサンタ・チェチーリア教会です。



聖セシリアは、AD200年ごろ、日本では邪馬台国の時代に殉教した女性です。



サンタ・チェチーリア教会には、斬首の傷跡が、生々しい若い女性が、横たわった大理石の彫刻が祀られています。



1600年製作の、その彫刻には、「聖セシリアの墓をあけた遺体の姿をそのまま写した。」と宣誓した碑文があります。



碑文が真実ならば、聖セシリアの遺体は、1400年以上も、当時のままだったことになります。



キリスト社会では、たびたび聖人の奇跡が、登場しますが、この聖セシリアの遺体にまつわるお話も、まさしく奇跡です。



私は夫ともに、この目で、聖セシリアの彫刻を見て、「碑文の内容は、真実だね」と、夫と感動し合った日のことを、思い出しました。



生前の聖セシリアは、楽器を奏でながら、歌ったと伝えられています。



イタリアの作曲家たちのオペラや音楽に、若き女性の自己犠牲のテーマが多いのは、聖セシリアに関係あるのかもしれないと、夫の5回目の命日の今日、古い記憶に想いを馳せながら、思いました。



2020年1月29日

大江利子


ニワシドリの仲間のアオアズマヤドリは、鮮やかな青色が大好きな野鳥です。



アオアズマヤドリを含むニワシドリたちは、オスが求愛のために、面白い行動をとります。



ニワシドリのオスたちは、「ニワシ=庭師」の名の通り、ガーデニングをして、美しい東屋(あずまや)をつくります。



オスが東屋をつくる目的は、子育てのための巣ではなく、メスに、プロポーズをするためだけです。



東屋の材料は、小枝や枯れ草です。



オスは、気に入った小枝をみつけると、建材として使いやすいように、くちばしで、好みの長さに折り、不要な枝は切り取り、見つけたその場で、小枝を加工し、持ち帰ります。



東屋は、アーチ状のものから、海辺のオープンカフェのような複雑な構造物まで、いろいろなタイプがありますが、彼らにとって大切なことは、メスの目に、触れやすい場所に、建てることです。



くちばしを器用に使い、柱にする枝は、地面にしっかりとつきさして、枯れ草は、編むように使い、だ液で湿らせながら、建材を曲げて、曲線状の東屋をつくっていきます。



舞台セットのように、東屋(あずまや)の周りには、花や、貝殻や、昆虫の殻などを、綺麗に並べて、飾り付けをします。



飾りは、白いものばかりを集める鳥や、葉っぱを、ぜんぶ裏向きにして、じゅうたんのように敷き詰める鳥など、ニワシドリの種類によって、こだわりや好みの色が違います。



アオアズマヤドリのオスは、飾りに青い色だけを使います。



アオアズマヤドリのオスとメスは、身体の色も、羽の模様も、違いますが、どちらも、瞳の色だけは、ラピスラズリのように、鮮やかな青色です。



その高貴な宝石のような青い瞳と、同じ色の飾りを求めて、ときには、人間の住む街まで、

姿をあらわし、危険をおかしてまでも、オスは、鮮やかな青色を集めて回ります。



ペットボトルの青い蓋、青いストロー、青い花びらと、得心のゆくまで、青色を集めてくると、今度は、東屋の周りに、センス良く敷き詰めて、プロポーズの舞台を整えます。



青の舞台が出来上がると、今度は、求愛ダンスと歌のおけいこが始まります。



オスは、お気に入りの、青い飾りを、ひとつ選びだし、くちばしにくわえて、ギューッ、ギューッと、弦楽器の低い響きのような声で、歌いつつ、両の翼を、笠のように広げ、上下にバウンスしながら踊ります。



広げた両の翼を、頭上高くもちあげて、顔を隠しながら、踊るようすは、まるで歌舞伎の女形役者が、きらびやかな衣装の振袖で、顔を隠しながら、妖艶に踊る、誘惑的な舞いを、思わせます。



そして、ポパイように大きく胸を膨らませ、胸の中心の青い羽毛をたたせると、鮮やかな青色に太陽の光が反射して、胸のあたりだけが、青く光輝く瞬間は、やはり歌舞伎役者の衣装の早替えのようで、とても魅力的です。



また、定点で踊り続けず、東屋の周りを、瞬間的に移動して、相手の意表をついた動きを、しています。



メスが、いつやってきても、ベストな動きができるように、オスは、この一連の踊りと歌を、毎日、暇さえあれば、お稽古しています。



また、東屋の手入れと見張りも怠りません。



というのも、ライバルのオスが、飾りを盗んだり、悪質なものだと、製作者がいない隙(すき)をねらって、せっかく作った東屋を、ぶち壊していくからです。



踊りが上手で、立派な東屋が作れて、たくさんの青い飾りを綺麗に並べることができるオスほど、メスに気に入られる確率が高いのです。



恋の季節になると、メスは、青い東屋をみつけると、東屋がよく見える枝まで、降りてきます。



東屋の出来栄えが、粗末だったり、青い飾りが少ないと、メスは、ちらっと見ただけで、すぐに飛び去って、別のオスのところへ、行ってしまいます。



東屋が好みだと、メスは、枝から降りてきて、青い飾りの配置をチェックし、自分流に、置き直したりしながら、東屋の中まで入ってきます。



その様子をみていたオスは、すかさず踊りはじます。



青い飾りをくわえて、ギューギューと、不思議な声で歌いながら、メスが入っている東屋のまわりを、ストリップダンスのように、視界に入ったり、消えたりしながら、青い胸の羽毛をちらつかせ、両の翼を広げて、笠小僧のような格好で、踊り回ります。



ずっと同じポーズを見せ続けるよりは、魅力的な部分は、チラッと見せる方が、恋人の気を惹くのは、人間も鳥も同じです。



メスが、踊りまで気に入って、合格の合図を出すと、ようやく結婚となります。



結婚したら、アオアズマヤドリのメスは、抱卵も子育ても、単独で行います。



オスは、子育てに、参加せずに、次の恋に向けて、踊りのおけいこと、豪華な東屋つくりと、青いもの集めに、さらに精を出します。



芸術的な感覚が優れたオスだけが、子孫を残せるとは、なんと優雅な人生の鳥でしょう。



アオアズマヤドリが住むのは、南半球のオーストリアやニューギニアの暖かい森林で、年中、食べ物は豊富にあり、恐ろしい天敵もいないので、生きていくことに、余裕があるのです。



アオアズマヤドリのオスは、東屋つくりをマスターし、優秀な踊り手になって、メスに気に入られて、子孫をのこせるまでには、何年もかかり、若鳥のときは、ベテランのオスをお手本にして、技を盗み、修行を重ねますが、寿命が長いので問題ありません。



アオアズマヤドリの生態を見ていると、人間の歴史を思わずにはいられません。



戦いや飢饉や災害が続き、食べるものが不足し、誰もが、米やパンのためだけに、生きていかねばならない時代は、社会は秩序を失い、芸術や文化は荒廃します。



けれど、江戸の元禄時代のように、鎖国をし、たとえ海外との交流がわずかでも、世の中が平和ならば、広重や北斎などの絵師たちは、ゴッホやモネら西洋の画家たちが驚愕するほどの作品を仕上げ、町人の子供たちは寺子屋で字を習い、おかげで国民は、世界レベルでも高い識字率に達し、家庭には礼節がありました。



自然界の鳥たちや、歴史を勉強していると、こうして私が文を書き、音楽を続けられるのも、空気のようになった今現在の平和な時代に、生きていればこそと思えるのです。



夫のために、正月料理をつくれない境遇を嘆くより、アオアズマヤドリのオスのように、

自分の時間をすべて、芸術と学問に使える幸せに感謝し、新しい年を迎えようと思います。



令和1年12月29日

大江利子


映画「トスカの接吻」は、ある老人ホームで、自分らしく、尊厳ある日々を過ごす人たちを描いたドキュメンタリーです。



「トスカの接吻」で、登場する老人ホームは、「音楽家憩いの家」という名で、イタリアのミラノに実在し、その名のとおり、引退した音楽家のための福祉施設です。



「音楽家憩いの家」は、世界の頂点にたつ、オペラ劇場「スカラ座」から、3キロほど離れた、広場の一角に位置し、大使館のような壮麗な外観で、レンガ積みの美しい建物です。



建物の内部は、ミニコンサートも可能なグランドピアノが置かれた天井の高い広間や、練習室があり、そこで引退生活を送る音楽家たちが、現役の頃と変わらずに、音楽に包まれて日々を過ごせるように、工夫や配慮がなされています。



この「音楽家憩いの家」は、イタリアの国民的作曲家のヴェルディが私財を投じて建設し、また彼の遺産で運営されてきた特別な施設です。



ヴェルディは「椿姫」や「アイーダ」、「リゴレット」などのように、民謡調で覚えやすい旋律と極めて単純なリズムで、イタリア人好みの情熱的なストーリーが展開するオペラをたくさん作曲しました。



そんなヴェルディのオペラは、聴衆からとても愛されて、彼はスカラ座の人気作曲家となりました。



そしてヴェルディは、劇場から作曲の報酬が入るたびに、土地を購入し、農園にして財を増やしていきました。



ヴェルディの故郷は、彼が作曲活動をしていたオペラの殿堂スカラ座がある都会ミラノではなく、クリーミーで濃厚なパルミジャーノ・チーズの名産地パルマの小さな村です。



父は居酒屋を経営し、音楽家として独り立ちするためには、ゼロからキャリアを積まなければならなかった苦労人のヴェルディは、都会のミラノで、成功しても、放蕩な生活は送らなかったのです。



1813年に生まれて、1902年に亡くなったヴェルディが活躍した19世紀は、クリミア戦争やアメリカ南北戦争、イタリアの統一運動、明治維新など、戦争のたびに政治の仕組みは転覆しました。



国が運営する年金制度は、整っておらず、芸術家のパトロンだった王侯貴族たちは権力の座から退き、現役で演奏できなくなった音楽家が悲惨な晩年をおくるケースも稀ではなかったのです。



87歳まで長生きしたヴェルディは、そんな同胞の様子に心を痛めて、舞台から降りた音楽家たちが、みじめな引退生活を送らなくてもよいようにと、「音楽家憩いの家」を建設したのでした。



映画「トスカの接吻」では、ヴェルディの大いなる愛情に包まれて、音楽に満ちあふれた幸せな老後をおくる歌手や指揮者が登場します。



彼らは皆、建物の中でも、男性はネクタイ姿、女性はアクセサリーをつけて、いつ訪問客が来ても応対できるような服装と心持ちで暮らしています。



ただ、歩くのに、ちょっと杖の助けがいるくらいで、往年の全盛期を彷彿させるような迫力ある声で歌い、演奏しながら「トスカの接吻」に登場する引退した音楽家たちは日々を過ごしています。



もしも、彼らが、音楽を生業としてこなかった人たちの集団に、たった独りで、放り込まれて、引退生活を送らなければならないとしたら、さぞや、生気を失い、哀しみに満ちた晩年に、なるでしょう。



音楽だけでなく、どんなことも、生涯をかけて取り組んできた仕事を、老いのために、すべて手放し、あきらめてしまうのは、哀しすぎます。



また、「音楽家憩いの家」では、未来を担う若者にとっても貴重な場です。



引退生活をおくる音楽家たちのもとに、世界中から音楽家を目指す若者たちが、大先輩たちの教えを乞いにやってくるのです。



音楽の細かい技術や微妙な解釈は、直接に対面でないと伝わりにくいものです。



「音楽家憩いの家」では、次世代への技術伝習にも、大役を果たしているのです。



先日、11月16日から、突然、何かに背中を押されるような思いに駆られて、岐阜県の美濃和紙の里までオートバイで行ってきました。



そこで、まさしく、映画「トスカの接吻」の「音楽家憩いの家」のような光景に出会いました。



私が訪れた美濃の蕨生(わらび)地区は、奈良時代から紙漉きが盛んで、1400年前からの手漉き和紙の伝統を守り続けています。



和紙は、明治維新以来、日本人の暮らしの西洋化が進むにつれ、機械で大量生産する洋紙にその地位を奪われ、日本各地に存在した手漉き和紙の職人たちは姿を消していきました。



和紙の需要が激減したので、手漉き和紙職人たちは、生活ができなくなったのです。



美濃和紙の職人たちも例外ではなく、手漉き和紙を生業としていた家は、つぎつぎと廃業していく中で、古田行三氏が、先頭にたち美濃和紙の手漉き技術の伝統と保存に尽力しました。



古田氏は、単に、伝統技術保存だけでなく、その環境も大切だとして、明治5年に建てられた伝統的な日本家屋に住み、手漉き美濃和紙を漉き続けました。



しかし、古田氏は、1994年に亡くなり、御子息も跡を継がれませんでした。



古田氏の紙漉きの技は途絶えたのでしょうか?



いいえそうではありません。



美濃和紙の魅力にはまった、関西出身の可愛いらしい女性が、古田氏が存命中にその技術の教えを乞い、今では立派に独り立ちし、美濃和紙の未来は彼女の双肩にかかっているほどに、成長されています。



私は、ちょうど、その女性が、故古田氏の遺した明治の建物の日当たりの良い庭先で、作業をされているところに、お邪魔しました。



彼女は、丁寧に、優しく、ご自分の作業工程を説明してくれました。



そして、光栄にも、素晴らしいニュースを教えてもらいました。



来年の東京オリンピックに使われる表彰状に、彼女が漉く美濃和紙が選ばれたことです。



大切なものを伝えるためには、それに相応しい建物が不可欠だと見通していた、古田氏の想いが現実となったのです。



ヴェルディは「音楽家憩いの家」を自分の最高傑作と呼んでいました。



私が暮らす、この小さな家も、私が思う存分に音出しできるようにと、夫が選びに選んだ土地に建っています。



夫の想いと思い出がたくさん詰まったこの家で、私も頑張ろうと、古田氏の愛弟子の彼女の笑顔を見ながら、心を新たにした秋の一日でした。



2019年11月29日

大江利子



オーストリア風アップルパイのことをアプフェルシュトゥルーデルといいます。



アプフェルはドイツ語でりんごを意味します。



シュトゥルーデルも同じくドイツ語で、パイ生地を、新聞紙を広げたくらいの大きさにまで、薄く伸ばして、野菜やチーズなどを詰め物にして、春巻きのようにクルクル巻いて、オーブンで焼き上げた食べ物のことです。



シュトゥルーデルの詰め物をお肉にすれば、立派なおかずの一品ですし、フルーツやジャムにすれば、おやつになります。



リンゴはシュトゥルーデルと、とても相性が良く、アプフェルシュトゥルーデルはウィーンっ子が愛する素朴な焼き菓子です。


このアプフェルシュトゥルーデルを私が初めていただいたのは、1997年1月2日、オーストリアのウィーン空港内のカフェです。


この1997年のヨーロッパの冬は、記録的な大寒波に襲われました。


ウィーンの街では昼間でも、気温がマイナス13度までしか上昇せず、空港施設内のカフェに座っていても、私と夫は、厚手のコートも毛糸の帽子も脱ぐことはできず、寒さに震えていました。



瀬戸内の温暖な気候に生まれ育った私と夫は、初めて体験する、ヨーロッパ大陸の厳しい冬に圧倒され、ナポレオンが冬将軍に襲われて、ロシア遠征に失敗した歴史を、身をもって体験しました。



私たちは、言葉少なく、上半身は猫のように背を丸くして、身を縮め、背の高いゲルマン民族に合わせた寸法の椅子に座って、床に届かない足を、ぶらぶらさせながら、空港のカフェで注文したアプフェルシュトゥルーデルとコーヒーを待ちました。



数分のちに、ふたりのぶんの熱いコーヒーとアプフェルシュトゥルーデルが出てきました。



大きな平皿いっぱいに、真っ白なホイップクリームが、巨大な春巻きのようなアプフェルシュトゥルーデルを覆い隠すほどに、山盛りにのせられていました。


口に運ぶ前は、大量のホイップクリームに、怖気づきましたが、甘酸っぱくて、あたたかいアプフェルシュトゥルーデルと甘さを抑えた爽やかなホイップクリームとの相性は素晴らしく、山盛りのホイップクリームは、難なく、我々ふたりの胃袋におさまりました。


アップルシュトゥルーデルをすっかり平らげ、煎じた漢方薬のように濃く苦いウィーン風コーヒーを飲み干すころには、私たちは、寒さも忘れていました。


ウィーンっ子の定番おやつのアプフェルシュトゥルーデルは、もともとはトルコがもたらした食べ物です。


現在のトルコは東ヨーロッパのバルカン半島東端に位置する国ですが、15世紀頃にはオスマン帝国として西ヨーロッパの大国の王様たちを脅かしていました。


オーストリア皇帝が暮らしていた、音楽の都ウィーンも、1529年と1683年の2回、オスマン軍包囲の憂き目に遭いました。


2度とも、オスマン帝国はウィーン陥落に失敗しますが、1683年のオスマン軍はウィーンに素敵な置き土産、コーヒー豆を残しました。


このトルコ人の食文化であるコーヒーは、ウィーンの人々を魅了し、ウィーンの街で初めてカフェが登場し、同時に、トルコ人の食べ物のシュトゥルーデルも広まり、アプフェルシュトゥルーデルというお菓子が誕生し、オーストリア人の愛するお菓子となりました。



音楽でも、オスマン軍、すなわちトルコ人の民族音楽が作曲に取り入れられました。



ハイドンの軍隊交響曲、ベートーベンやモーツアルトのトルコ行進曲が特に有名です。



なかでも、モーツアルトのトルコ行進曲は、この1曲だけが、ひとり歩きして広く知られていますが、実は、彼が作曲した3楽章構成のピアノソナタ第11番の最終楽章のことなのです。



モーツアルトのピアノソナタ11番の1楽章は、優雅な8分の6拍子の変奏曲で、つづく、2楽章は、のびやかで明るいメヌエット、そして3楽章が、その「トルコ行進曲」です。



トルコ軍は、伝統的に軍隊の士気鼓舞のために、軍楽隊を戦場に同行させる習慣があり、

その音楽はメフテルといいますが、モーツアルトのトルコ行進曲は、そのメフテルをとりいれたコスモポリタンな音楽です。



このモーツアルトのトルコ行進曲は、慣習的にとても速い速度で演奏されますが、あるユニークな存在のピアニストが超スローテンポで、演奏し、賛否両論の話題になりました。



そのピアニストはグレン・グールドです。



グレン・グールドについては以前のクーポラだよりNo.13でも、とりあげた、ちょっと変わり者の天才ピアニストです。



独特な審美眼をもち、時代を超越したグールドは、有名になり過ぎた曲でも、決して既成事実に迎合せず、はっきりと信念をもって、演奏するピアニストでした。


このモーツアルトのトルコ行進曲も、高速で弾き飛ばすよりも、超スローテンポで弾いた方が、曲の由来であるメフテルの雰囲気を伝えるためには効果的だと、グールドが判断したのかもしれません。



とにかく、グールドが超スローテンポで演奏したことにより、ピアノ初学習者の発表会の定番曲ぐらいにしかみなされず、軽んじられた扱いだったモーツアルトのトルコ行進曲に、光があたり、注目を集めました。



次元はあまりにも違いますが、私が取り組んでいるクラシックの弾き語りも、いつの日か、光があたればいいなぁと、思います。



そしてトルコ軍のコーヒーやアップルシュトゥルーデルのように、異なる民族の文化の交流が豊かな文化を育むように、私が弾き語る音楽も、クラシックジャンルにとらわれず、素敵な曲は、何でも演奏したいなと思う日々です。



2019年10月29日

大江利子


マカロニ・ウェスタンは、イタリア人監督が作った西部劇を指す和製の英語です。


昭和の時代に、お茶の間のテレビのブラウン管から、「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ、」と、上品でユーモラスな語り口の映画解説者として庶民に親しまれた淀川長春が、マカロニ・ウェスタンの代表作品「荒野の用心棒」を日本に紹介する際に、アイデアを出したとされる俗語です。



「荒野の用心棒」は、セルジオ・レオーネが監督し、のちに「ニュー・シネマ・パラダイス」を手掛けるエンニオ・モリコーネが音楽を担当、主役の名無しのガンマンには、まだ若手の駆け出しだったアメリカ俳優のクリント・イーストウッドでした。



マカロニ・ウェスタンの代名詞「荒野の用心棒」は世界的な大ヒットを飛ばし、クリント・イーストウッド主演で「夕陽のガンマン」、「続・夕陽のガンマン」の続編が製作されました。



マカロニ・ウェスタンは、1960年代から1970年代にかけて500本以上、イタリア人スタッフによって大量に製作され、撮影地も、コストが抑えられる理由で、本場のアメリカではなく、スペインなどが選ばれました。



そして、役者陣には、クリント・イーストウッドやヘンリー・フォンダのように、アメリカ俳優が起用されることもありましたが、ジュリアーノ・ジェンマや、フランコ・ネロといったイタリアの人気俳優や、「男と女」で名を馳せたフランス俳優ジャン・ルイ・トランティニャン、「テス」で、野生的で、素晴らしい美貌の持ち主の女優ナターシャ・キンスキーの父で、西ドイツの個性的な俳優クラウス・キンスキーなど、ヨーロッパの俳優が起用されました。



マカロニ・ウェスタンは、ヨーロッパ大陸内で、寄せ鍋風なユニークな製作手法で成功した映画ですが、もっともユニークなことは、役者のセリフがイタリア語で収録されたことでした。



日本のテレビ番組で、マカロニ・ウェスタンが放映されはじめたのは1970年代です。



1970年代の当時、小学生だった私は、平日は夜9時に就寝することを両親から厳しく言い渡されていましたが、土曜日だけは例外で、夜11時まで「土曜映画劇場」という名作映画を紹介するテレビ番組を見ることが許されていました。



この「土曜映画劇場」で、私は人生初のマカロニ・ウェスタン、フランコ・ネロ主演の「真昼の用心棒」を見たのです。



残念ながら映画本編の役者のセリフは日本語吹き替えが行われ、ガンマンたちの「チャオ」や「ボン・ジョルノ」と、イタリア語であいさつを交わす貴重な場面には、遭遇しませんでしたが、映画のテーマ音楽の歌だけは、原語のイタリア語でした。



「真昼の用心棒」のテーマソングは、1968年サンレモ音楽祭「カンツォーネ・ペル・テ(君のための歌)」で、優勝したセルジオ・エンドリゴが歌っていました。



明瞭な発音なのに、もの悲しく聞こえる、不思議な甘いエンドリゴの歌声に、魅力を感じて、私がじっと聞き入っておりますと、傍らでその様子を見ていた母が、「これは、イタリア語で歌っているのよ。」と、教えてくれました。



エンドリゴの歌を聞いたときが、自分の近い将来に、情熱を注いで学ぶことになるイタリア語の魅力的な発音を、初めて私が認識した瞬間でした。



「真昼の用心棒」を土曜映画劇場で見たときの私は、8歳の少女で、まさか、17年後の25歳から、働きながらイタリア語を本格的に学ぶ意欲が湧くなどと、想像さえもしていませんでした。



イタリア語の文法は、英語とは別の意味で複雑です。



中学校教師の仕事と両立させながら、イタリア政府給費生試験にチャレンジするレベルまで、イタリア語を習得するのは、とても大変でした。



ラテン語を起源とする複雑難解なイタリア語を使うどころか、理解するだけでも苦労し、文法書の丸写しを3回行い、やっと理解し、少しずつ頭にイタリア語が頭に入っていきました。



イタリア人と日常会話が話せるまでの、道のりが、なんと遠かったことでしょう。



オペラを歌うためには、ドイツ語もフランス語も必要で、どちらも勉強しましたが、どんなに難しくても、やはりイタリア語がいちばん好きです。



それはイタリア語との最初の出会いが、マカロニ・ウェスタンの映画で出会ったエンドリゴの魅力的な歌声のためでしょうか。



留学と前後の旅行も含め、イタリア滞在期間は1年半ほどで、26年前に、帰国してからは、せっかく覚えたイタリア語で、歌うことはあっても、会話として使うことは皆無でした。



言葉は道具なので、使わないと、サビついてしまい、使えなくなってしまいます。



大好きなイタリア語を忘れたくなくて、サビつき防止の私の勉強方法は、お気に入りのイタリア映画のセリフを覚えるまで何度も聞くことです。



聞く時間は、就寝前、子守唄代わりにイタリア映画の音だけ、聞くのです。



最近は、「星降る夜のリストランテ」が私の教材です。



ローマの地元住民に愛されている、とあるレストランに訪れた客たちが、テーブルを囲んで食事をしながら弾ませる会話が、「星降る夜のリストランテ」の主役です。



「星降る夜のリストランテ」のお客たちの会話を聞いていると、私も、そのレストランに座っているような感覚で、楽しみながらイタリア語を復習しながら眠りに落ちます。



日本列島の片田舎の岡山で、イタリア人との会話のチャンスも絶無だろうと思い、あきらめの混ざった悟りの境地で、何年間も、お気に入りの映画を聞くだけという、消極的な復習をしていました。



ところが、先月8月に、滅多に乗らないJR瀬戸大橋線で、懐かしいイタリア語が耳に飛び込んできました。



小さな男の子をふたり連れた、イタリア人の若い男性が、私と同じ車両に乗り込み、私のすぐ横にやってきました。



私は、勇気を絞って、男性に話かけました。「Quanti anni hanno? (クワンティ・アンニ・アンノ?=彼らは何歳ですか?)



男性は驚いた表情を見せましたが、すぐに、私がイタリア語を話せることを悟り、嬉しそうに笑顔で答えてくれました。



「Lui ha tre anni, lui ha cinque anni (ルーイ・ア・トゥレ・アンニ、ルーイ・ア・チンクエ・アンニ=彼は3歳、彼は5歳です。)



その後、私と男性は、目的の駅に下車するまでの10分ほど、イタリア語で会話を楽しみました。



偶然とはいえ、その10分間が、なんと楽しく充実した時間だったことでしょう。



小さな出会いに心踊り、人生は、どこに暮らしていても、偶然の楽しみに満ちていることを確認し、イタリア語の復習に少しだけ自信が持てた、真夏の朝でした。



2019年9月29日

大江利子