クーポラだよりNo.114~ピカソが天才だと実感したとき~
「この歳(87歳)になって、やっと子供らしい絵が描けるようになった」という言葉を残したのは、スペインの画家パブロ・ピカソです。
ピカソは1881年(明治14年)、スペインのアンダルシアに生を受け、1973年(昭和48年)、91歳の時、南仏で亡くなりました。
私が初めてピカソを知ったのは小学生の頃、テレビニュースで映し出された本人です。
ベレー帽を被った老ピカソが、早口の外国語でインタビューに答えていました。
ピカソが何と言っていたのか、その内容はまったく覚えていませんが、彼の鋭い眼光が印象的で、彼の大きな2つの眼が、焼け付くような残像として私の脳裏に刻まれています。
一度見たら、忘れられない目、それがピカソに対する私の初めての印象です。
見るものを射抜くようなピカソの瞳は、常人には見えないものを見抜き、それを表現しているのでしょうか?
次に私がピカソを知ったのは中学の美術の時間です。
中学校の美術は、2時間続きで時間割が組まれ、普段はデッサンをしたり、粘土をこねたり、版画を彫ったりして、作品制作をします。
ただし定期考査が近づくと、先生は、ペーパー試験のために、教科書に掲載された絵画や建築を解説し、西洋と日本の美術を比較しながら駆け足で美術史の概要を説明してくれました。
美術史の始まりは、ギリシャのパルテノン神殿(紀元前447~438)、ローマのコロッセウム、や奈良の法隆寺(607)、興福寺の阿修羅像(733)など、鎮護国家のため、長い歳月に耐え抜くように設計された建造物や彫刻です。
次の時代の中世は、宗教のためのアートです。
フラ・アンジェリコの「受胎告知」(1440年頃)、龍安寺の石庭(1480年頃)のような思想の世界を表現する静謐なアートです。
静かなアートの次は、それを打ち破るようなルネサンスがやってきます。
人間の肉体を超写実的に表現するために遠近法が確立され、ミケランジェロの「ダビデ像」(1501~1504)、レオナルドダヴィンチの「モナリザ」(1503~1506)などの名作が生まれます。
一方日本では千利休(1522~1591)が完成させた「わび茶=草庵の茶」に呼応し、雪舟「秋冬山水画」(15世紀末~16世紀初め)長谷川等伯「松林図屛風」(1593~1596)のような日本独特なわびさび世界観が確立し、それに沿ったアートが生まれます。
さらに時代は下り、バロック・ロココになると、時の権力者、王侯貴族を際立たせるアートです。
可愛らしいお姫様に目が釘付けとなってしまうベラスケスの「女官たち」(1656)、やルイ15世の愛妾を描いたブーシェの「ポンパドール夫人」は、その典型的な例です。
対して日本は、徳川幕府の鎖国政策で町人文化が誕生、明治維新で開国となるまで約300年かけて隆盛し、伊藤若冲・牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)(1765以前)葛飾北斎・富嶽三十六景(1831)等、傑作が次々と生まれます。
日本が鎖国をしている間に西洋ではフランスの市民革命を皮切りにヨーロッパ諸国の絶対王政が崩れ始め、アートも貴族趣味に取って代わり、ロマン主義が生まれます。
ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」(1830)は、現代の写真誌「フォーカス」のように、ジャーナリズム的な要素をもつ絵です。
1839年銀板写真が発明されてからは、印象派モネの「日の出」(1872)、バルビゾン派ミレーの「落穂拾い」(1857)に代表されるように、ルネサンス以降、人物を写実的に描くことが絶対だった西洋絵画に新しい潮流が誕生します。
そして二度目の世界大戦の最中、1937年、ピカソがゲルニカを完成させます。
彼の名声を不動のものとした「ゲルニカ」は、ドイツ空軍による無差別爆撃を受けて廃墟と化したスペインの街ゲルニカを主題にした反戦を訴える壁画と絵画です。
一般的に戦争画は傷ついた兵士や惨たらしい戦場などがリアルに描かれるものですが、ピカソのゲルニカにはそれがなく、極端にデフォルメされた牝牛や女性が切り絵のように、でたらめに並べられ色調は暗く、中学生だった私の第一印象は「なんじゃ?こりゃ?」でした。
ただし、ゲルニカは、今まで美術史で習った絵画や建築とはまったく異なり、何にも似てないので、一目見るなり、ゲルニカという題名も絵の印象も忘れられなくなりました。
小学生の頃、ピカソをテレビで見た時、彼の目の鋭さゆえに、強烈な残像が脳裏に残ったように、ゲルニカもまた同じだったのです。
しかし、ゲルニカの何がそんなに素晴らしいのか、ピカソのどこが天才なのか、中学生の私にはまったく理解できませんでしたが、とにかくゲルニカは忘れたくても、忘れられない作品です。
世間が言うように、「ピカソが天才だ!」と私が実感できたのは、30歳を過ぎた頃、夢中になってバレエのお稽古に通っていたある夏、夫が私の勉強用にと、買ってきてくれたレーザーディスクで「三角帽子」というバレエ作品を見たときです。
バレエ「三角帽子」は、ロシアの興行師ディアギレフが結成したバレエ団「バレエ・リュス」のために、1919年に創作された作品で、一般的に知られている「白鳥の湖」とは、まったく異なります。
バレリーナはトウシューズをはかず、普通のダンスシューズで踊り、髪型もお団子ではなく、1本の三つ編みにして背中に垂らし、衣装はひざ下まであるフレアースカートです。
音楽はスペインの作曲家ファリャで、フラメンコのような情熱的で民謡調のカッコイイ旋律に乗ってダンサーたちは踊ります。
あらすじは、好色な代官が、美人の粉屋の女将さんに目をつけて、亭主を無実の罪で追い出した隙に迫ろうとしますが、逆に袋叩きに合ってしまうという、落語のような愉快なストーリーです。
この愉快でカッコイイバレエ「三角帽子」を上演するにあたり、ディアギレフは衣装のデザインを新進気鋭だった画家ピカソに依頼しました。
夫が買ってくれたレーザーディスクの「三角帽子」はまさに、そのピカソがデザインした衣装で上演されたものでした。
粉屋の女将は真っ白なスカートに腰に黒いレースのショールを巻き付けて、亭主は闘牛士のようなボレロにゆったりとした黒のズボン、街の人々の衣装は、緑や赤や黄の太いストライプや水玉模様が入った楽しいドレスで、一目見るなり忘れられない素敵なデザインです。
「わあ!なんて素敵な衣装でしょう!」感嘆の声を私があげると、隣でいっしょにレーザーディスクを見ていた夫が言いました。
「衣装と装置はピカソなんだよ」
夫の言葉を聞いて、初めて私はピカソが天才だと実感しました。
絵でも衣装でも一目見るなり、忘れられなくなる強烈な印象を残せる作品をつくることができる人、それがピカソであり、天才なのだと、今年の暑い夏を過ごしながら、ふと夫との懐かしい思い出がよみがえりました。
2024年8月29日
大江利子
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