クーポラだよりNo.120~「蒼海変じて美田の地で初の大人バレエ」


「僕らの条件にピッタリの古家があったから見に行こうよ!」


1996年9月22日、夫は嬉しそうに弾んだ声で私にそう告げると、岡山県の南部、藤田という土地の古い空き家を案内しました。


今から29年前の平成8年9月22日は、台風17号による大きな被害が報道されていました。


関東地方や本州北部では突風で倒れた木の下敷きになったり、濁流にのまれたりして7人が死亡、9人行方不明、43人が怪我、床上浸水567棟、床下浸水2056棟、崖崩れ100か所、交通網も大混乱、暴風雨のために空も海も欠航、JRは新大阪から東京までの東海道新幹線が正午から夕方6時まで全面運休という惨憺たる状況でした。


しかし私が住んでいた岡山では、台風被害の報道がまるで遠い外国のことのように思えるほどの澄んだ青空が広がっていました。最低気温18℃、最高気温26℃、秋分の日の前日にふさわしく爽やかな秋晴れのその日、夫に案内された古い空き家は、築17年の木造2階建て、元の家主が揚げ物好きで、愛煙家だったらしく、台所は油汚れでベトベト、窓の桟には、タバコのヤニが染み付いて、私の第一印象はあまり良いものではありませんでした。


しかし、家の周りには見渡す限り田んぼが広がり、はるか遠くに金甲山の山頂に設置された岡山・高松放送局の6機の送信塔が見えます。


南北にはその古い家に似たような隣家がありますが、東西は何処までも田んぼと用水ばかりで、気持ちの良い風が吹き抜けています。


「この家、いいでしょう?」


夫は大きな瞳を一層見開いてキラキラ輝かせながら得意そうに笑みを浮かべながら言います。


「この家だったら、利子君が思いっきり歌えるし、ピアノも遠慮なく弾けるし、僕はオートバイをたくさん並べて整備ができるよ!」


「うーん、でも家はかなり汚いよ。(私)」  


「掃除したら綺麗になるよ!(夫)」  


「そうねぇ(私)」


乗り気でない私に向かって夫が力説します。


「新しい家は綺麗で気持ちが良いけれど、住み始めた最初が一番良くて、住めば住むほど古くなっていくから寂しいよ。でも古い家は、自分たちで掃除していけば、住めば住むほど綺麗になっていくから楽しいよ。」


古い家を住めば住むほど自分たちの力で綺麗な家にする、という考え方は独立精神旺盛な夫らしく、反対しても無駄だと悟った私は、心の片隅に新しい家に未練があったものの折れました。


そんな私の本心を見透かしたようにさらに夫は言いました。


「利子君、藤田の人たちは僕たちと気が合うよ。」  


「どういうこと?」


「だって藤田は干拓地だもの、藤田で農業をしている人たちは、米造りをやりたいから海を干拓してまで入植してきた人たちだ。自分のやりたいことは、自分たちで切り開く開拓精神を持っている人たちだから、きっと僕たちと気が合うよ。」


江戸時代まで藤田は土地ではなくて海でした。


1876年(明治9年)岡山藩の還禄士族の授産のために計画されたことが始まりで、干拓のパイオニアであるオランダから技士を招聘し、児島湾の干潟を干拓して生まれた土地が藤田なのです。


「蒼海変じて美田となる」


藤田干拓史を語った書籍、藤田村史の最初に掲げられた言葉です。


この美田に囲まれた古い空き家には1997年3月から移り住み、28年目となりました。


夫の言葉通り、オペラの発声をしようが、ピアノを弾こうが、整備のためにオートバイのエンジンをどんなに吹かそうが誰からも苦情は入りません。


藤田に住む人々は、皆それぞれに目的意識を明確に持って暮らしている人々が多く、ある意味、他人に無関心なのです。


私が住んでいる古家は、非農家ばかりが集まった団地ですが、美田が広がる中に、ところどころに点在する天水井戸を庭に構えた大きな農家があります。


天水井戸とは、屋根に降った雨水を、配管を通 して井戸に水を集めるしくみのことです。


干潟だった藤田は、上水道が整備されるまではいくら地面を掘っても地下水からは塩水しか出ないので、先人の知恵で生まれたしくみでした。


「ここらは昭和に入っても塩水が出てくるから、アケボノしか育たないんよ」


我が家の目の前の田んぼに、真夏の盛りに毎日草引きにやってくるおばあちゃんに、稲の種類は何を育てているのですか?と質問した時の返答です。


「本当はアサヒが美味しいけどなぁ、藤田じゃあアケボノしか育たないんよ」


おばあちゃんは淡々とそう付け加えると、休めていた手に再び鎌を握り、稲の間に生えている雑草を、独り黙々と引き続けていました。


そんなおばあちゃんの後ろ姿に藤田の先人たちの開拓精神を見る思いでした。


藤田は1912年(明治45年)4月に児島郡藤田村として誕生し、1975年(昭和51年)5月に岡山市に合併されました。村時代の藤田には村議会があり、村役場があり62年の間、藤田の人々は自分たちだけで行政も執り行ってきたのでした。


岡山市に合併されたとき、藤田には三角屋根のハイカラな建物の公民館ができました。


さんかく館という愛称で親しまれて、毎年3月には文化祭が開かれ、公民館でクラブ活動をしている人々の実技発表会があります。


私は昨年令和6年度から大人バレエクラブを新しく開講させ、先日初の発表会に臨みました。


藤田公民館にバレエクラブは初講座なので、講師の私もクラブ員たちも観客はゼロかもしれないと期待していなかったのですが、その期待を裏切り、大勢のお客様が集まってくれました。


お客様のほとんどは、あの真夏の盛り、独りで草引きをしていたおばあちゃんくらいの年齢のご婦人方でした。


私は一般的なただ踊るだけのバレエ発表会ではなく、口頭でバレエ用語のやさしい説明を入れた解説付きの構成にしていました。


ご婦人たちは、私の説明に熱心に耳を傾け、クラブ員たちの一挙手一投足に感動し、アットホームで楽しい舞台となり、こんなに幸せな舞台経験は初めてでした。


「藤田の人たちと、僕たちとは気が合うよ」


蒼海変じて美田の地で初の大人バレエクラブ実技発表は、29年前の夫の言葉を思い出せてくれた感動の舞台となりました。

2025年3月5日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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