クーポラだよりNo.115~スカラ座の名歌手ルチアーノ・パヴァロッティの言葉~


オペラ歌手を夢見てイタリア留学に思いを募らせていた20代の頃、私の愛読書は『スカラ座の名歌手たち』でした。



スカラ座とは、イタリアのミラノ市中心街にあるオペラハウスのことです。



その歴史は古く1598年まで遡り、オペラが誕生した頃とほぼ同じです。



スカラ(scala)とは、イタリア語で階段という意味です。



しかし、オペラハウスの名前が「階段」に直接的に由来するものではありません。



1776年、前身だったオペラハウスが焼失し、取り壊されたサンタ・マリア・アッラ・スカラ教会跡地に新しいオペラハウスが建設されたので、元の教会に因んで、スカラ座と呼ばれるようになりました。



2年間かけて建設された新しいミラノのオペラハウス「スカラ座」は、以後、オペラの国イタリアの中心的な存在としてその名を歴史に刻み、著名なオペラ作品の初演が成されてきました。



日本人に馴染み深い「蝶々夫人」もスカラ座で初演されました。



オペラ歌手にとって、スカラ座で歌うことは、どんなに有名な歌手でも、別格だとされています。



なぜなら、スカラ座の聴衆の大部分を占めるミラノ市民はオペラに精通し厳しい批評家だからです。



例えば、私が初めてミラノを訪れたとき、乗車したタクシーの運転手に、オペラを勉強するために日本から来たのだと告げると、その運転手は、


「Mi piace L’Opera  Il Barbiere di Siviglia (私が好きなオペラは「セビリアの理髪師」だ)


と言い、セビリアの理髪師の中で最も有名な、フィガロのアリアの出だしを、とても良い声で歌ってくれて、驚かされたことを思い出します。



座席が深紅のベルベットで覆われた格調高いスカラ座の客席は、平土間、ボックス席、天助桟敷の三部構成になっています。



平土間は世界のオペラ通である大金持ちの社交場であり、ボックス席は、先祖代々オペラを愛する裕福な家柄のミラノ市民に買い占められ、天井桟敷は、これまた熱狂的なオペラファンであるミラノの下町っ子たちが集まります。



そして舞台で歌っているオペラ歌手たちの声が少しでも、かすれたり、引っかかったりしようものなら、どんなに有名な歌手でもスカラ座の聴衆は容赦しません。



野次や口笛の大ブーイングを飛ばして歌を遮ります。


反対に、聴衆を圧倒するような素晴らしい歌声ならば、拍手が鳴りやまないといった具合です。



つまり、スカラ座の聴衆たちを満足させられたなら、世界的なオペラ歌手としてのパスポートを手に入れたようなものなのです。



私の愛読書『スカラ座の名歌手たち』は、そんなスカラ座の聴衆の洗礼をかいくぐり、世界的なオペラ歌手としてお墨付きを与えられた30人の歌手たちが、下積み時代にどんな研鑽を積んできたかのインタビューをまとめたものです。



30人の国籍は様々で、イタリア人とは限りません。



スペイン、ブルガリア、ハンガリー、フランスと国際色豊かで、スカラ座の聴衆たちが排他的ではないことが伺えます。



残念ながら、この30人の中に日本人はいませんでしたが、私もいつかスカラ座で歌える歌手になりたいものだと、途方もない夢を描きながら、本のページをくったものです。



面白いもので、30人の中で、幼い頃からオペラ歌手を目指していた人は意外と少なく、良い声をしていたけれど、声を職業に選ぼうとは思わなかったという人がほとんどです。



黄金のトランペットと異名をとった往年の大テノール歌手マリオ・デル・モナコは「絵を描くのが好きで、画家になりたかった」とインタビューに答え、映画スターのような甘いマスクのプラシド・ドミンゴは、「闘牛とサッカーに夢中でした」と語っています。



またこの本の出版は1985年ですが、本に登場する歌手たちの当時の年齢は30代から60代で、第二次世界大戦を経験した人も多く、イタリア各地の歌劇場へ列車移動している最中に空爆を受けた体験や実際に兵士として戦地に赴いた人や、捕虜として捕まり、ドイツの強制収容所で過ごした経験の持ち主もいます。



様々な人生経験を積み、人として大きく成長した歌手が、スカラ座の聴衆の心を捉えることができたのかしらとも思います。



そして、改めて今、30年ぶりに、この本を開き、読んでみましたが、30年前は気がつかなかった発見がありました。



それはテノール歌手ルチアーノ・パヴァロッティの言葉です。



「あなたの成功の秘密は何ですか?」との問いかけに、パヴァロッティは「舞台に出ていない時は、自分のレコードを聞いて自ら批評をし、自分の声を聞いて欠点を探し出している」と答えているのですが、30年前の私は、それが歌手としてどんなに大切なことかまったく気に留めていませんでした。



パヴァロッティは「神に祝福された声」「イタリアの国宝」と評された20世紀を代表する歌手ですが、彼を最初に有名にしたのは、ドニゼッティ作曲のオペラ「連隊の娘」の中のテノールが歌う難曲(8回も二点ハ音が登場するソロ「僕にとっては何という幸運」(Amici miei che allegro giorno))を、らくらくと歌ったことです。



パヴァロッティ以前の歌手たちは、8回連続二点ハ音が登場するこの曲を普通の発声では歌うことが困難なので、オペラの発声では逃げの声とされる裏声で歌うことが当たり前でした。



しかし、パヴァロッティはその当たり前をぶち壊し、逃げの裏声ではなく、ノーマルの発声で堂々と歌ってのけたのです。



この成功によりパヴァロッティは「キング・オブ・ハイC(二点ハ音の王者)」と称され世界的な名声を手に入れましたが、それだけでは満足せず、オペラハウスから飛び出して、オペラ歌手としては異例の野外コンサートを開催し、多くの聴衆を集め、オペラを広く一般大衆に浸透させました。



1991年7月30日ロンドンのハイド・パークで開催した最初のコンサートでは、公園の歴史上初のクラシック演奏会となり、15万人の聴衆を動員、1993年6月にはニューヨークのセントラル・パークは50万人、9月のパリのエッフェル塔の下のコンサートは約30万人、その他、パヴァロッティと同時期に活躍していた人気のテノール歌手ドミンゴとカレーラスと組んで、三大テノールの野外コンサートを世界各国で開きオペラファンを一層広げていきました。




オペラ歌手にとって、野外コンサートを開くことは、大冒険です。



なぜなら、野外コンサートの聴衆は、スカラ座の聴衆のようにオペラに精通しているとは限らないからです。



恐らく、まったくオペラを知らない聴衆の方が多いかもしれません。



オペラをまったく知らない人にも感動を与えるためには、客観的な視座で、自分を批評し、自分で欠点を解決していくことが大切ですが、パヴァロッティは、その重要性をすでに本の中で語っていたのでした。



最近、YouTubeで自分の歌声を流すようになり、パヴァロッティの言葉の重みがようやく実感できた私です。


パヴァロッティは71歳で亡くなりました。


今61歳の私にはどれくらい時間が残されているのかわかりませんが、生きている限り勉強を続けて、微力ながらオペラを知らない人たちにオペラの良さを広めていきたいです。



2024年9月29日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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