クーポラだよりNo.111~飛行家とオペラ椿姫~


黎明期の日本の飛行家たちを調べているうちに魅力的な飛行家に出会いました。


その人はバロン(Baron)滋野、大正時代の飛行家です。


バロン(Baron)とはフランス語で男爵という意味で、彼のフランス人の部下や仲間たちが尊敬と親しみを込めた呼び方で、第一次世界大戦、フランス陸軍航空隊に入隊し大活躍、レジオンドヌールを授与された英雄です。


本名は滋野清武、日本の陸軍中将だった父、滋野清彦男爵の跡継ぎです。



そんな滋野男爵家の大切な跡取り息子がなぜ、日本軍ではなく、フランス軍なのか、また、オペラ椿姫に飛行家のバロン滋野がどんな関わりがあるのかを、今回のクーポラだよりでお話しましょう。



バロン滋野こと滋野清武は、1882年(明治15年)に滋野男爵家の三男として生まれます。

1896年(明治29年)父の清彦が胃がんのため51歳で亡くなり、二人の兄も彼らが幼い時に亡くなっていたので、13歳のバロン滋野が男爵家の跡取りとなります。

亡くなった父の階級の陸軍中将とは、1万人の部下を統率する司令官で、陸軍中将より上の階級は、陸軍大将、明治天皇となるので、いかに高位の武官だったか理解できます。

そんな偉い軍人だった父の跡継ぎなので、バロン滋野も、否応なく、学習院中等科を退学し、陸軍幼年学校に入ります。しかし運動神経は抜群だったものの、芸術家肌で「蒲柳(ほりゅう)の質(しつ)」だった彼は、幼年学校の気風に合わず、1903年3月、20歳の時に体調を悪くして退学してしまいます。

療養のため、狩猟や釣りで遊行な日々を過ごしているとき、「赤とんぼ」や「からたちの花」の作曲家で知られる山田耕筰と知己を得ます。

当時の山田耕筰はまだ東京音楽学校(東京藝術大学の前身)の学生で、バロン滋野の妹たちの英語の家庭教師をしていたのです。

2つ年下の山田耕筰とバロン滋野はとても気が合い、山田はバロン滋野の音楽的な才能を見抜き、東京音楽学校への入学を勧めます。

23歳でバロン滋野は見事、東京音楽学校のコルネット科に入学し、芸術的に豊かな環境で友人にも恵まれた学生時代を過ごし、子爵令嬢の和香子と知り合い、惹かれ合ったふたりは、学生恋愛結婚をします。

新郎26歳、新婦19歳、ままごとのような夫婦でしたが、1年後愛娘が誕生し、バロン滋野は幸せの絶頂でした。が、幸せは長く続かず、愛妻の和香子が結核のため20歳で亡くなってしまうのです。

幸せの絶頂から不幸のどん底に突き落とされたバロン滋野は何か月も妻和香子の墓にすがって泣き続け、自殺したいと口走るまで悲嘆に暮れてしまいますが、音楽学校の友人の知人女性に、言われた言葉に発奮します。



「そんなに死にたいなら、飛行機に乗りなさい。日本人はまだ飛行機を飛ばせないからヨーロッパに行って飛行家になることが近道ね」



悲しみを振り切ったバロン滋野は飛行家を目指しフランスに渡ります。1910年(明治43年)8月、28歳のバロン滋野がフランスに入国した時、もう一人別の日本人がいました。



その人は、徳川好敏、大日本帝国陸軍の大佐です。「徳川」という名前でお気づきかと思いますが、日本に鎖国を敷いた、江戸幕府の徳川、清水徳川家の8代目当主です。



そしてこの人が、バロン滋野がフランス航空隊に入隊する要因を作るのです。



ところでなぜ陸軍大佐の徳川好敏がフランスに居たのでしょう?



それは、日本軍の代表として飛行機の操縦技術を習ってくるようにと、軍から派遣されたのです。



軍より派遣された軍人は、徳川好敏を含む2名で、もう一人は日野熊蔵陸軍大佐です。



文献で調べると、徳川と日野の選任のいきさつが、面白いので、簡単に紹介します。



日野の方は日本にいるときから、飛行機を自作していていたほどのマニアで、まさしく欧州派遣の適任者であり、飛行機を研究するために軍が組織した「軍用臨時気球研究会」のメンバーでした。



しかし、徳川は違います。飛行機に興味があったわけではなく、あったのは父が起こした不祥事で落ちぶれた徳川の家名を再興したいということだけです。欧州派遣で飛行機操縦を取得し、日本人初の空を飛んだ英雄になれば、徳川の家が再興できると思ったわけです。



もっというなら、徳川よりも適任だった奈良原海軍技士という軍用臨時気球研究会のメンバーで、のちには民間人となり国産初の飛行機を製作、自らの操縦で飛行成功した人ですが、その奈良原技士は外されて、徳川好敏が選ばれフランスに渡っていたのです。



軍の中でどんな裏事情があったかわかりませんが、徳川は家名再興のために、興味もなかった飛行機操縦技術を付け焼き刃で持ち帰り、日本人で初めて日本の空を飛んだ人として、栄誉が与えられ、できたばかりの飛行場で、軍のパイロット候補生を指導していました。



一方、バロン滋野の方は、心機一転、好きで飛行家を目指して渡仏した人ですし、20歳過ぎてから音楽の勉強を始めて、音楽学校に入学し、プロになれたほどの芸術感覚に秀でた人です。



フランスに到着したら、飛行機の前に、まずエンジンを勉強しなければと、自動車学校に入学、運転免許取得、次に飛行学校に入学しますが、自習が必須だとして、飛行学校内に、自分専用のレッスン室、すなわち格納庫を建てて、その中に練習用の飛行機を購入、それをバラバラにしたり、組み立たりしながら構造も勉強、ついには自分で自作機を設計し、その三面図をフランス人の専門家に見せると、大絶賛、博覧会に出品を推薦され、プロ契約を結び、実際に製作、その機体で飛行機の操縦免許取得試験を受け、見事合格しました。



バロン滋野の自作機は、愛妻の名前を冠した「滋野式和香鳥号」です。和香鳥号は日本に持ち帰り、日本の空を優雅に堂々と飛行し、軍のお買い上げとなり、バロン滋野は、操縦教官として、徳川好敏といっしょにパイロット候補生たちに飛行機の指導をしていました。けれど誰の目にも、その指導技術の差は明らかです。



天才的な芸術的感覚の持ち主で、また徹底した自習で操縦技術を習得したバロン滋野と家名再興目的で、付け焼き刃で帰国した徳川好敏とでは、比べようもありません。



が、そこはさすが徳川、裏工作には優れたもので、陰湿な嫌がらせでバロン滋野を孤立させて追い出し、軍のお買い上げになった和香鳥号も勝手に分解して壊してしまいます。



馬鹿馬鹿しくなったバロン滋野は再びフランスに渡り、ちょうど第一次世界大戦が始まったのでフランス航空隊に入隊、エースパイロットたちを統率する隊長として大活躍するのです。



バロン滋野は、オペラ椿姫がとても好きで、椿姫の歌詞をすべて暗唱していたそうです。



バロン滋野の飛行の優れた点は、非常に冷静な判断と的確な操縦技術で、同乗のフランス人は、いつも感心していたそうです。



今とは違い、デジタル音源で、気軽に音楽を聞けない時代です。



好きな椿姫の歌詞を頭の中で暗唱しながら、バロン滋野は、戦闘飛行していたのでしょうか?



どんな悲しみにも、周囲の嫌がらせにも、臆することなく冷静に行動し、オペラ椿姫を友として、自分で道を切り開いていったバロン滋野は本当に素敵です。



2024年5月29日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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