クーポラだよりNo.113~ゴッホのひまわりと友人~
猛暑日が続く炎天下、太陽に向かって元気いっぱいに花を咲かせているひまわりを見ると、私が真っ先に思い浮かべるのはゴッホが描いたひまわりです。
37歳の時、画題として好きだった麦畑の中でピストル自殺してしまったゴッホですが、亡くなる2年前、35歳の真夏から真冬にかけての半年間に、合計7点のひまわりの絵を描いています。
現像するのは6点、いずれも花瓶に挿した、切り花のひまわりですが、作品によってその花の数や色調が違い、保管されている場所もすべて異なります。
最初のひまわりは1888年8月に描かれました。
ひまわりは3本、花瓶の色と背景がエメラルドグリーンで、こげ茶のテーブルの上に置かれています。
この絵はアメリカの個人が所有しています。
2作目も1888年8月、ひまわりは5本、この作品が失われた1点です。
1920年、日本の実業家が購入し、何度か展覧会が開催された後、実業家の家に飾られていましたが、第二次世界大戦の阪神大空襲で焼失してしまいました。
1作目と同じように3本のひまわりが花瓶に挿され、残りの2本はその周りに置かれており、背景が濃いブルーです。
3作目も1888年8月、花の数は12本、背景は淡いペパーミントグリーンで、花瓶もテーブルもひまわりの花の色と同じ明るい黄色です。
ドイツ・ミュンヘンの美術館が所蔵しています。
4作目も1888年8月、ひまわりは15本、茎と種以外はすべて黄色です。
花びらも背景も花瓶もテーブルも色の濃さの違う黄色で描き分けています。
イギリス・ロンドンの国立美術館所蔵です。
5作目は1888年12月から翌年1889年1月にかけて制作されました。
花の数も色の使い方もロンドンの美術館所蔵品と同じですが、全体的に黄色の色味が鮮やかで赤みを帯びています。
この5作目は、1987年、世界的に権威あるイギリスのオークション・クリスティーズにて、安田海上火災(損保ジャパン)が53億円で落札し、海を渡って日本へやってきて、以来、東郷青児美術館(現SONPO美術館) 所蔵となり、常設展示されています。
6作目は1889年1月に制作、ひまわりは15本です。
これはSONPO所蔵品の模写と考えられています。
5作目とほぼ同じですが、一層黄色の色味が強いです。
オランダのゴッホ美術館が所蔵していますが、損傷を防ぐため、門外不出とされています。
最後の7作目も1889年1月制作で、花の数は12本、アメリカのフィラデルフィア美術館が所蔵しています。
このひまわりも、6作目同様に模写と考えられており、お手本は3作目のミュンヘン所蔵品ですが、それよりも、筆致が大胆で花が一層生き生きとしています。
以上7点もひまわりを描くなんて、よほどゴッホは、この花に魅せられたのでしょう。
ゴッホがひまわりを描いたアトリエは南仏のアルルです。
真夏でも最高気温が25℃前後、最低気温は17~18℃という北国オランダ生まれのゴッホにとって、アルルの明るい太陽は、パラダイスだったことでしょう。
そしてこのパラダイスのようなアルルのアトリエに、ゴッホは尊敬していたゴーギャンを招待し、二人は共同生活をしながら、それぞれ制作に没頭します。
ゴッホはアルルで芸術家村のような構想を抱いていたのでした。
しかし、芸術家として、どちらも非凡な才能をもつふたりが、何事においても意見が合うことなどなく、特に絵については意見が衝突してばかりで、発作的にゴッホはカミソリで自分の耳を切り落とし、結果としてゴーギャンはパリに戻り、ふたりの共同生活は2ヶ月で終わりを告げました。
ゴッホの7点のひまわりはちょうどゴーギャンとの共同生活の前後に描かれた作品です。
ゴーギャンとの人間関係が破綻し、異常行動を起こした人とは思えないほど、「オーヴェルの教会」、「医師ガシェの肖像」、「糸杉」など、ゴッホは亡くなる直前まで明るく力強いタッチで傑作を描きました。
けれども、その明るい絵とは裏腹に、ゴッホの私生活は寂しく孤独でした。
過去に何度か好きになった女性もいて、プロポーズまでしていますが、すべて拒絶され、結婚の経験はありません。
たとえ妻はいなくとも、心許せる友人でもいたらゴッホは37歳で自殺しなかったかもしれないと思います。
なぜ、そう思うかというと、私も37歳で似たような経験があるからです。
人生に大きな目標がある人は、若い時代は友人や恋人よりも、今、自分がやりたいことに夢中なものです。
けれど、何かの事情でそれが挫折し、年齢も30代後半になると、すべての道が塞がれたような気分になり、ゴッホのように生きる気力さえも失う人もいるでしょう。
私も30歳の時、念願かなってイタリアへ留学したものの、父の会社倒産のために、たった一年で帰国せざるを得なくなり、道半ばで日本に戻りました。
けれど日本にいてもオペラ歌手としての登竜門である国際コンクールを受けることだけは、諦めてはいませんでした。
けれどその年齢制限は、遅いものでも35歳です。
毎日お稽古はしていたものの、会社倒産後に病気になった父への仕送りや、日々の生活に追われてあっという間に時は流れました。
37歳の夏7月に、父が亡くなり、もう仕送りしなくても良くなり、金銭的には楽になりましたが、国際コンクールの年齢制限も超えていました。
オペラ歌手としてのプロの道は永久に閉ざされたように思えましたが、ある友人との出会いによって私は救われました。
彼女は母であり妻であり、ピアノの先生でもあるけれど、自分自身の演奏を極めようと毎日お稽古をしている人でした。
師匠について定期的に習っているわけでもなく、コンサートの予定があるわけでもないけれど、人前でいつでも演奏できるよう心掛けてお稽古を重ねていました。
そんな彼女と友人となった私は、家族も生活も何もかも犠牲にしてまで、オペラハウスや大きなホールの舞台で歌うことだけに固執していたことが、無意味に思えたのです。
私の歌を喜んで聞いてくれる人がいるなら、いつでもすぐ歌えるように、お稽古できていることが一番大切だと思うようになり、毎日のお稽古に再び意味が見出せたのです。
さあ今日もいつ現れるかわからない私の歌を喜んでくれる人と私自身のために、大切にお稽古をしましょう。
2024年7月29日
大江利子
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