20150129kan

バッタ君(KLX 650)と鳩サブレ号(GPZ 250R)とボルティ君(スズキ volty)に 乗っています。

いつか夫の遺した ビモータYB 8(1000㏄)を 乗りこなせるような ライディングテクニックを 身につけたいと、ジムカーナ練習会や大会に 参加していました。

二輪デビューが 52歳からなので、遅咲きで、狂い咲きのライダーです。

普段は、歌とピアノとバレエの先生をしつつ、物書きも しています。文芸社から「ガンピの翼ストーク」という飛行機と和紙の本を出版しました。
たまーに、コンサートも し

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クーポラだよりNo.107~オペラ「ラ・ボエーム」の思い出~

遠い記憶をたどれば、私が初めて見たオペラは「ラ・ボエーム」でした。小学生の時、学校の授業だけではもの足らず、もっとたくさんの歌を知りたかった私は、新聞のテレビ番組欄で歌番組を見つけると、毎日必ず見ていました。歌謡曲、クラッシック、民謡など、ジャンルにこだわりはなく、とにかく、素敵な詩に音がつき、それを人の声で奏でているならば、食い入るようにテレビ画面を見ながら全身を耳にして、声色の違いを聞き分けて、自分の好みの歌と歌声を見つけることに必死でした。当時の私が最も好きだった歌声は、由紀さおりの高い声と美川憲一の低い声です。ふたりの声は、私にとって他の歌手の声とは別格でした。たいていの歌手の声には、ざらつき、カスレ、音程のふらつき、低音から高音へ移動するときの不自然な音色の変化、感情過多な表現などが散見され、せっかくの歌詞の意味が伝わらないで、安っぽく聞こえてくることが多々ありましたが、由紀さおりと美川憲一の歌声には、それがありませんでした。由紀さおりの「夜明けのスキャット」の透明感のある高い声と美川憲一の「さそり座の女」の重厚な響きの低い声を両立できるような歌い方をしてみたい、おぼろげながら小学生の私は思ったものです。そんなある日、テレビを見ていると、ブラウン管に不思議な光景が広がっていました。外国の演劇舞台のようですが、舞台上の人は、セリフを話しているのではなく、歌っているのです。セリフを話さず、歌うお芝居、それはまさしく私が生まれて初めて目にしたオペラ「ラ・ボエーム」でした。ラ・ボエームの舞台は、パリの学生街のラタン区のアパートです。一人暮らしの貧しい娘ミミは、クリスマスの夜、ローソクの灯りをたよりに薄暗い階段を上がって屋根裏の自分の部屋に帰るところでした。しかし不意の風でローソクの火が消えてしまい、近くの部屋をノックして、部屋の住人に火をつけてくれるように頼みます。その部屋には、ミミと同じように貧しい青年ロドルフォが住んでいました。戸口で、ミミはロドルフォからローソクの火をつけてもらうと、お礼を言って立ち去ろうとしますが、急に気分が悪くなり、その場に気を失って倒れてしまいます。驚いたロドルフォはミミを自分の部屋で介抱します。介抱しながら、ロドルフォはミミの可愛いらしい顔立ちに心を奪われますが、同時にその顔色の悪さを心配します。ミミは間もなく意識を取り戻し、ロドルフォから勧められたブドウ酒を少しだけ口にするとまたすぐに立ち去ろうとします。しかし彼女は、倒れた時に、手にしていた部屋の鍵を落とし、失くしたことに気がついて、もう一度、ロドルフォの部屋に戻ってきます。ミミとのきっかけができたことにロドルフォは内心喜び、このチャンスを逃すまいと、自分の部屋のローソクの灯りも消えてしまったと、わざと火を吹き消し、暗闇の中で鍵を探すふりをしながらミミの手をとるのです。ロドルフォはミミの手をとりながら歌で自己紹介します。なんと冷たい可愛い手だ 僕に温めさせてください 鍵を探しても無駄ですよ 暗闇では見つかりません しかし幸運なことに 今夜は月夜で、月の近くに私たちはいます 待ってくださいお嬢さん!あなたに一言話させてください いったい私が何者か?どうやって暮らしいるのかということを 私は詩人です 何をしているかって?書いています それでどうにか暮らしています 貧しくとも、私は大金持ちのように贅沢です 愛の詩や歌 夢や幻想 そして空に描く城のおかげで 私は億万長者のような心を持っているのですから でもそんな贅沢な私の心の財宝を、美しい瞳という泥棒がすべて奪い去ってしまうことがあります たった今も その泥棒が入ってきて 私の心の財宝が消え去ってしまいました しかし 盗まれたことを悲しくはないのです なぜならそこは甘い希望の部屋となったからです! さあこれで私のことがわかりましたね 今度はあなたが話してください あなたは誰ですか? お願いです 僕にあなたのことを聞かせてください?ロドルフォに答えて、今度はミミが歌いながら自己紹介をします。ソプラノ独唱曲として名高い「私の名はミミ」ですはい、私はミミと呼ばれています でも、私の本当の名前はルチアなの私の話は短いです 家や外で織物や絹に刺繍をして、ひっそりと幸せに暮らしています私の趣味はユリやバラを育てることです この花たちは甘く優しい愛や春について語ってくれるのですもの、こういうことを詩と呼ぶのでしょう? そうですね(ロドルフォが答える)私はミミと呼ばれていますが、理由はわかりません 私はひとりぼっちで食事をとり、ミサには滅多に行かないの でも神様にお祈りはきちんとしているわ一人暮らしですけどね。 あの白い小さな部屋から屋根の上の空を眺めているの すると、雪解けの季節、春一番の太陽や四月のキスは私のものなのよ 植木鉢の薔薇の新芽の間をのぞくと、なんて優しい花の香りでしょう!でも残念なことに私が作る刺繡のお花には香りがないのよ私のお話はこれだけよ こんな時間に突然お邪魔をして、私ったら迷惑な隣人ね。こうして恋に落ちたふたりは一緒に暮らし始めますが、オペラの最後はミミの死という悲しい結末です。まったくオペラを知らず、恋の経験もない小学生の私でしたが、このラ・ボエームのストーリーとオペラ歌手の声の魅力に惹きこまれて、息を引き取ったミミを抱きしめて絶叫するロドルフォの悲しい姿が映しだされる最後までブラウン管から目が離せませんでした。その後、音大を卒業後、働きながら本格的にオペラを学ぶようになり、この「私の名はミミ」も歌えるようになった時、私はあることに気がつきました。オペラをよく知らない時は、常人には不可能な高い声で歌うことが、オペラの魅力で、そのことが人を感動させるのだと思い込んでいましたが、実はそれだけではなく、低い声から高い声まで、むらのない透明感と厚みのある声で歌うからこそ、お芝居に臨場感を与え、聞く人の心を打つのだということがわかってきたのです。そしてそれは、小学生の私がおぼろげながらに思った由紀さおりの声と美川憲一の声を両立させることで、低音から高音まで自由自在に操れる声があるからこそ、歌でお芝居をすることに不自然さを感じさせず、むしろ感動を増大させると気がついたのです。ところで、おととい、私が主催するみんなの発表会で講師演奏として、ラ・ボエームの「私の名はミミ」を歌いました。観客は10歳(小3)から84歳までの幅広い年齢層でした。歌う前に簡単に説明しただけで、オペラアリアを字幕もなしに歌うという冒険でしたが、観客の皆様の耳と心にストレスなく届いたようで、暖かい拍手をいただき、たいへん嬉しかったです。2024年1月29日大江利子

クーポラだよりNo.106~恐ろしい体験とユネスコ無形文化遺産~

美しい声はその持ち主よりも、他者の方に価値がわかるようです。童話「人形姫」の主人公は声を代償に魔女と取引します。深い海の底のお城で暮らす人魚姫のひいさまは、15歳の誕生日が待ち遠しくてなりません。15歳なったら、海の上に浮び上がって人間の世界を見ても良いからです。ひいさまは1歳ずつ年の離れた6人姉妹の末娘です。15歳になった姉さまたちが、毎年順番に海の上に浮かび上がって、見てきた人間世界のことを話してくれるたびに、ひいさまは、まだ見ぬ世界への憧れを膨らませていきました。念願の15歳になった日、海の上に浮かび上がったひいさまの目に留まったのは、船上の美しい王子でした。ひいさまはその王子に恋をしてしまいました。その夜、嵐がやってきて船は大破し、王子は海へ投げ出されてしまいます。ひいさまは溺れかけている王子を助けて砂浜へ運び、また深い海の底へ戻っていきました。深い海のお城で、王子を想い、想うだけでは堪えられなくなったひいさまは、とうとう海の魔女ところへ行って人間になれるように頼みました。すると魔女は、「人魚を人間にする薬は、自分の胸の血をたらして調合するから、その代償はとても高くつくよ」と言いました。魔女が要求したのはひいさまの美しい声でした。ひいさまは、誰もおよぶことのない美しい声をもち、その声で素晴らしい歌を歌うことができたのですが、その美しい声を、恋心ゆえに、あっさりと魔女に差し出したのです。魔法の薬の高価な代償が美しい声である、とした作者の意図がとても興味深く私には感じられます。人魚姫の作者は、デンマークを代表する童話作家のハンス・クリスチャン・アンデルセンです。アンデルセンは1805年、デンマーク最古の都市の1つ、オーデンセに生まれました。オーデンセという地名は北欧神話の主神オーディンに由来するものです。働き者で信心深い母と、手作りの人形劇の舞台でアラビアン・ナイトや創作劇を楽しむ父を持つアンデルセンは、豊かな想像力を育みながら幼少期を送りました。しかし、11歳の時、父が精神を病んで亡くなり、13歳の時、母が再婚したので、アンデルセンは学校を中退し、織物職人の見習いをしますが、空想好きで現実的な職業には向いていない彼は、オペラ歌手を目指して首都コペンハーゲンに行きます。アンデルセンには美しいボーイソプラノの声がありました。けれども、変声期を過ぎたあとは、その美しい声は失われ、アンデルセンはオペラ歌手の道をあきらめて童話作家となったのでした。幼いころから当たり前だった自分の美しいボーイソプラノが、変声期を過ぎたあと、二度と戻ることがないのだと悟った時のアンデルセンは、さぞかしショックだったことでしょう。声と引き換えに魔法の薬を手に入れる人魚姫のストーリー展開は、アンデルセンの実体験によるものに思えてなりません。実は私も、アンデルセンと同じように、つい先日、美しい声を失う恐ろしい体験をしました。2023年11月25日の大人バレエ舞台発表の翌日の夜、39度近い高熱が私を襲いました。熱は数日で下がりましたが、今度は、激しい咳が昼夜絶え間なく出続け、私は歌うどころか、話声さえ出なくなってしまいました。咳は声帯にとって凶器です。咳を出せば、ナイフのように鋭利な刃物で声帯に傷を入れているようなもので、連続した咳は、声帯を傷だらけにします。そしてそれが長引けば、元の声質が変わってしまう危険さえあるのです。ベルカント唱法を学ぶためにイタリア留学した時、咳については恩師のカヴァッリ先生から厳重注意を受けていました。Toshiko(トシコ), il(イル) tosse(トッセ) é(エ) molto(モルト) male(マーレ) per(ペル) la(ラ) voce(ヴォーチェ) (利子、咳はとても声に悪いのよ)そして冬の寒い日はレッスンが終わったあと、帰ろうとする私に向かって先生はいつも言いました。Tenete(テネーテ) il(イル) cappotto(カポット) ben(ベン) chiuso(キューゾ) e(エ) non(ノン) fai(ファイ) freddo(フレッド) alla(アッラ) gola(ゴーラ). (コートをしっかり閉じて、喉を冷やさないように。)ベルカント唱法は、毎日の発声練習で維持します。アスリートたちが毎日の筋肉トレーニングで筋肉を鍛えて運動能力を維持するように、オペラ歌手たちは毎日の発声練習で声帯を鍛えてベルカント唱法を維持するのです。ですから私もベルカント唱法を維持するため、毎日の発声練習を欠かず、カヴァッリ先生の言いつけを守って30年近く風邪も引かずに咳とは無縁だったのに、あろうことか、大人バレエ舞台本番翌日、少しの気の緩みから、不完全な防寒でオートバイに乗り、冷たいアイスクリームを食べて喉を冷やし、高熱を出して肺炎になりかけたのでした。日課だったベルカント唱法の発声練習ができず、歌えない日々が続き、声が出ないことがこんなにも悲しいことだと身に染みてわかりました。アンデルセンが、魔法の薬の対価は美しい声だとしたことも納得できます。そして声が出ない期間中に素晴らしいニュースを耳にしました。2023年12月6日、ベルカント唱法がユネスコ無形文化遺産に認定されたのです。カヴァッリ先生から教えていただいたベルカント唱法は、人類の宝だと世界が認めたのです。お馬鹿な私は、そんな素晴らしい瞬間に、何十年も発声練習を続けて、維持してきたベルカント唱法を失いかけたのでした。人類の宝物であるベルカント唱法を自分の声で毎日歌える幸せに感謝して、二度と声帯を危険にさらさないよう気をつけようと肝に銘じた恐ろしい体験でした。2023年1月29日大江利子

クーポラだよりNo.105~アソーリャック先生のひと言と大人バレエクラブ初舞台~

「トシコサン、アナタハ ゴバンガ デキマス 」ある日のバレエレッスンで、ロシア人の先生が私に言いました。その先生のお名前はスベトラーナ・アソーリャック、ウラル山脈の麓の都市ペルミのご出身で、彼女はそのペルミ国立オペラ・バレエ劇場で長年ソロを踊るバレリーナとして活躍された人です。アソーリャック先生はバレリーナを引退されたのち、教える道に入られました。日本と違い西洋のバレリーナは、引退後、必ずしもバレエの教職の道には進まないのですが、教えることがお好きで、勉強熱心なアソーリャック先生は、モスクワの舞踏大学に進学し、ペルミ国立バレエ学校の教授となり、プロフェッショナルな人材をたくさん育ててこられた女傑です。アソーリャック先生の指導力は、ロシア国外にも鳴り響き、高い技術水準を求めることで定評のある中国のバレエ学校にも招聘されて教鞭をとられたご経験もお持ちです。そんな素晴らしい指導者が、なぜ岡山で、一個人が創設したバレエスタジオにおられたのか不思議でしたが、私が通っていたそのバレエスタジオでは、一年のうちの半分は、アソーリャック先生がスタジオに常駐され、バレリーナを目指す小中高生たちのクラスを直接ご指導しておられたのです。私は、32歳から習い始めて、熱心なだけが取り柄のバレエ愛好家で、本来ならば、バレリーナを目指す本気クラスの少女たちに、大人の私が混ざることは、迷惑だったことでしょう。しかし、アソーリャック先生も、また岡山にバレエスタジオを創設した先生も非常に寛大で公平なお人柄だったので、大人の私にも門戸を開いてくれたのです。アソーリャック先生のレッスンの特徴はなんといっても、毎回、違うアンシェヌマンで踊らせてくださることです。アンシェヌマンとは、バレエ用語で、2種類以上のパ(ステップ)を組み合わせた一連の動きのことで、アンシェヌマンはフランス語で「鎖でつなぐこと」という意味ですが、文字通りに、パ(ステップ)とパ(ステップ)を滑らかにつなぐことによって一連の踊りになることを示します。オリジナルなアンシェヌマンを考えだすことは、アンシェヌマンを「創作する」とは言わず、「振り付ける」といいます。アソーリャック先生は、生徒の力量に合わせてアンシェヌマンを振り付ける名人でした。一般的にバレエレッスンの流れは万国共通で、片手でバーをもって、半身ずつ筋肉を鍛えるバーレッスンとバー無しで、鏡の前で身体を動かすセンターレッスンの2つに分けられ、それぞれ、足の筋肉を鍛える目的別に共通の名前があります。最初は、プリエと呼ばれる膝の屈伸、次はつま先を伸ばす目的のタンジュ、床から45度の高さまでつま先を上げるジュッテ、時計の針のように足を回すロンデ、軸足と動かす足を同時に曲げながらつま先を出すフォンジュ、膝を固定し、膝から下だけを時計の針のように回すロンデ・ジャン・アンレール、アイスピックで氷を砕くように鋭く素早く足を動かすプチバットマン、90度以上足をゆっくりとあげるデブロッペ、そして最後は90度以上、素早く高く足をあげるグランバットマンです。おさらいすると、バーレッスンだけでも、①プリエ、②タンジュ、③ジュッテ、④ロンデ、⑤フォンジュ、⑥ロンデ・ジャン・アンレール、⑦プチバットマン、⑧デブロッペ、⑨グランバットマンと、最低でも9種類のアンシェヌマンが必要で、センターレッスンも同等にありますので、指導者は、レッスンのために、18種類以上のアンシェヌマンの振り付けを用意しなければならないのですが、この振り付けに、当然、指導者の主義やセンス、指導力が現れるのです。筋肉を鍛えることばかりに重点を置きすぎて単調でつまらないもの、反対に、あまりも高度過ぎて、手も足も出なくて意気消沈してしまうもの、また、いくら素敵なアンシェヌマンでも、何か月も何年も同じで、ラジオ体操のようにマンネリズムなものなどです。しかし、アソーリャック先生はいずれとも違います。私は、年に半年、週に4回のアソーリャック先生のレッスンを15年、皆勤賞で受講したので、おおよそ1440回のアソーリャック先生のアンシェヌマンを踊ったことになりますが、記憶にある限り、同じ振り付けはありませんでした。毎回、いつも新しくて、カッコ良くて楽しくて、少し難しいパがところどころあるけれど、もう少し頑張ればできるようになるかもしれない期待感を持たせてくれる振り付けで、いつもワクワクドキドキしながら、アソーリャック先生のレッスンを受け続けた15年間でした。ところで、バレエの指導者の視点は、一般の公立学校とは異なり、自分が今目の前で指導している集団の中で最も上手な生徒だけに向けられます。なぜなら、もしもプロフェッショナルなバレリーナを育てている集団に、公立学校の授業のように平均的な生徒にちょうどいい内容の振り付けを与え続けると、上手な生徒が伸びなくなり、結果として、その集団の技術レベルが落ちてしまうからです。だから、大人で覚えが悪くて、バレリーナの卵たちのような柔軟な身体でもない私が、アソーリャック先生からレッスン中に注意を頂けるなんてあり得ないことなのです。しかし、ある日のバーレッスンのタンジュの時に、アソーリャック先生はそっと私に近づいて、耳元ではっきりとおっしゃったのです。「トシコサン、アナタハ ゴバンガ デキマス 」と。これは私にとって青天の霹靂です。なぜなら、5番とは、両足を重ねて立った時に両足のつま先と踵が左右どちらともくっついている状態で、この5番ポジションができないうちは、形だけはバレエのステップをなぞって自己満足で踊っても、周りから見れば不自然なバレエになってしまいます。しかし、幼い頃からバレエの訓練を積んだ少女でも完璧な5番は難しいとされているポジションでもあるので、アソーリャック先生が「アナタハ ゴバンガ デキマス」とおっしゃったことに私は舞い上がってしまったのです。「アソーリャック先生がそうおっしゃったのだから、私にだって希望があるのだ。もっともっと頑張れば、いつか私も完璧な5番に立てるようになって、プロのバレリーナのような滑らかな踊りができるようになるかもしれない」と。以来、飽くことなく、私の5番への挑戦は続いていて、多分、一生の課題でしょう。さて、11月25日に公民館で指導している大人バレエクラブの初舞台がありました。出演してくれた生徒さんたちは大人バレエ歴1年足らずの人から20年以上の大ベテランまで、年齢は40代から70代までです。私は彼らのために、独奏ヴァイオリンの名曲、コレッリ作曲のフォーリアに、ちょっと難しいけれど楽しくて素敵なアンシェヌマンを振り付けました。彼らなら、踊れると信じて。練習の時、「フォーリアの振り付けは楽しいけど、順番が覚えられない、難しい」と、嘆いていた彼らでしたが、本番の日、誰ひとり投げ出さず、堂々と全員フォーリアを踊ってくれました。生徒の可能性を引き出すのは、楽しい課題と指導者が生徒を信頼することだなと、改めて感じた大人バレエ初舞台の日でした。2023年11月29日大江利子

クーポラだより No.104~コチャエの思い出と興除公民館文化祭50周年~

クーポラだより No.103~トゥシューズと私~

「としこさんもポワントの練習を始めましょう」バレエ教室に通い始めて、半年ほど経った頃、師匠が言いました。1995年9月から、週2回、幼いころからバレエを習っている中高生たちに混ざって、緊張しながらレッスンを受け始め、なんとか形だけは、レッスンの流れに乗れるようになってきたころのことです。当初の目的は、オペラの発声=ベルカント唱法を極めるために、バレエのレッスンで身体作りをしたいというささやかなものでしたが、いざ、習ってみるとすっかりその魅力の虜になり、本気でバレエを極めてみたい、と大胆不敵な思いを抱き始めていた私は、すでに32歳でした。大人からのスタートなので、ポワントを履いて踊るなんて、不可能に近いと思っていたのですが、師匠のひとこと「ポワントの練習を始めましょう」は、32歳の私にだって、まだまだ可能性があることを保証されたようで、とても嬉しかったことを覚えています。ポワントとは、フランス語でつま先という意味ですが、バレエの世界ではトウシューズの踊りを意味します。一般的に、バレエのイメージは、トウシューズで踊ることだと思われがちです。しかし、1533年にイタリアのメディチ家のカトリーヌがフランス王室に嫁いだことでバレエが誕生し、もうすぐ500年になるその長い歴史の中で、トウシューズが登場するのは、かなり後の時代になってからです。以前のクーポラだより(No.23)でも少し触れましたが、ここで改めて、バレエの歴史を振り返りながら、いつ、トウシューズが登場するかを見てみましょう。まず、バレエの前史ですが、イタリアのルネサンス時代にまでさかのぼります。ルネサンスの巨匠ミケランジェロの彫刻ダビデ像に出会えるフィレンツェのアカデミア美術館には、当時の宮廷の踊りを伝える貴重な箪笥が保管されています。15世紀、フィレンツェの裕福な家の婚礼の儀式の舞踏の様子が描かれた花嫁箪笥です。

クーポラだより No.102~アカデミックな曲とアカデミックな弾き方~

「どんなに難しいところがあっても、練習で克服し、楽譜に忠実に演奏する」これは、46年前、地元岡山で難関だった女子高の音楽科の狭き門を突破し、ピアノをアカデミックに弾く環境に身を置くようになった私の中に根付いた犯し難い不文律です。母校女子高の音楽科は、関東の有名音楽大学への進学率が高く、またそれを前提とした教育カリキュラムが組まれており、そこに集まってきた私の同級生たちは、3,4歳からピアノの個人レッスンを受けてきたエリートたちでした。そんな同級生に混ざり、13歳からピアノを習い始めた私の指は、彼女たちの指のように、鍵盤の上で思うように自由自在に動いてはくれませんでした。「自分の指が、同級生のようには動かない」という現実に直面し、私は激しい劣等感と羞恥心から、自分を練習の鬼に変えました。毎朝、6時半の始発バスに乗り、7時過ぎに登校、授業が始まるまで小1時間、学校の練習室で音階練習、音階練習は指の筋力トレーニングのためです。授業が終わったら一目散に下校し、家では、バッハ、チェルニー、ベートーベンをそれぞれ1時間、片手ずつゆっくりと練習します。片手ずつゆっくりと練習する理由は、ゆっくり弾くことによって、自分の指の動きを冷静に観察し、ギクシャクしたり、ミスタッチばかりする箇所を洗い出し、その部分の反復練習を徹底的に行うことにより、苦手箇所をつぶしていくためです。平日の練習時間は、学校で1時間、家で3時間、合計4時間です。日曜祭日、長期休暇は、音階以外の練習を倍にして一日7時間、この生活を高校、大学を通し、元旦以外は、一日も休むことなく頑張りました。その結果、大学4年の夏に受験した教員採用試験の実技試験では、難曲のショパンのピアノソナタ3番の1楽章を選曲し、試験官の前で演奏できるまでになっていました。しかし、大学卒業後は、すぐに中学校の音楽の先生になったので、学生時代のような練習時間は確保できず、またオペラに興味が移ったこともあり、貴重なプライベートな時間は、声の訓練に使ってしまったので、私の指は、あっという間に、動かなくなりました。指が、動かなくなるのは、早いものです。7年間、修行僧のような練習を積み重ねて獲得したテクニックは、たった3か月で失われてしまいました。中学校の授業で指導する唱歌や合唱などの簡単なピアノ伴奏なら、適当にごまかしながら弾くことができましたが、学生時代のような、アカデミックな曲をアカデミックに弾くことは、もうできなくなってしまったのです。ところで、アカデミックな曲をアカデミックに弾くとは、どういうことなのでしょう。そもそも、アカデミックの語源のアカデミーは、哲学者プラトンが紀元前387年頃、アテナ近郊のアカデメイアという名前の地所に学園を開いたことが由来です。今日では、物事を学問的に探求することや、伝統的な方法を踏襲しながら物事を展開させる時は、何でもアカデミックを使います。このアカデミックをクラシックのピアノ演奏に当てはめるなら、絶対音楽を楽譜のとおりに忠実に演奏すること=アカデミックな曲をアカデミックに弾くことだと私は思います。さて、ここで絶対音楽という用語がでてきましたが、絶対音楽とは、クラシック音楽の概念で、それに対立する概念に、標題音楽という用語があります。まず、標題音楽からご説明します。標題音楽とは、歌詞をもつ声楽曲や、文学や絵画や劇などから着想を得て作曲された、題名をもつ音楽のことで、ヴィヴァルディ作曲のヴァイオリン協奏曲「四季」やムソルグスキー作曲の組曲「展覧会の絵」などが有名な例にあげられます。標題音楽の大きな特徴は、聞き手にとって、わかりやすく楽しいことです。クラシック音楽をよく知らない人にも、標題音楽ならば、題と音楽の内容が密接に関連しているので、ポピュラー音楽のように、すぐに理解できるのです。それに対して、曲の題をもたない絶対音楽は、その音楽の意味を考えようとすると迷路に入るかもしれません。絶対音楽は、伝統的な作曲理論に基づきながら、音の新しい展開を探求して作曲、つまり、アカデミックに作曲された、音のためだけの純粋な音楽なのです。心を落ち着けて、耳を傾けると、とても美しい音楽ですが、曲の構成を知らない人にとっては、耳に心地良すぎて、眠ってしまうかもしれません。バッハの器楽曲、モーツァルト、ベートーベンの交響曲やピアノ曲のほとんどは、これにあたり、クラシック音楽のコンサートで、心地よく眠ってしまうのは、これらの絶対音楽が演奏されている時が多いです。そして、母校の高校や大学の入試、学年ごとに年に3回実施された実技試験でも、この絶対音楽によるピアノ曲、すなわち、モーツァルトやベートーベンやバッハのピアノ曲をいかに楽譜に忠実に演奏ができるかどうかが求められました。(卒業試験だけは、リストやドビュッシーなどの標題音楽の演奏も認められましたが)試験の会場の教室では、気難しい表情の先生たちの面前で、ピアノの椅子に座り、鍵盤の上に置いた自分の指先に、冷たく刺すような視線を感じながら、平然と自分の演奏に集中し、アカデミックな(絶対音楽)曲をアカデミックに(楽譜に忠実に演奏)弾かねばなりません。試験の演奏時間は、ひとり3分ほどですが、この3分のために、毎日毎日、修行僧のように、日々の練習を積むことが、私の学生時代の課題だったわけです。今、思い返せば、楽しい標題音楽には目もくれず、真面目な絶対音楽ばかりを練習し続けるという、禁欲的な日々をよくぞ送れたものだと、我ながら感心します。しかし、アカデミックな弾き方を試される実技試験は怖いけれども、私にとって、ちっとも苦ではなく、むしろ楽しみでさえあったのです。私の指がもっともっと動いて、大勢の人々を虜にするような素敵な演奏ができれば、コンサートホールの聴衆の前で弾く機会もあったでしょうが、私の平凡なピアノ演奏を、たとえ3分でも、真剣に耳を傾けてくれた聴衆は、試験官を務めた先生たちだけだったのです。今、試験官だった先生のお立場になって考えてみると、たくさんの学生たちが、アカデミックな音楽ばかりを、アカデミックに演奏するのを、延々と聞くのは、さぞかし、忍耐のいるお時間だったことでしょう。40年も前のことなので、試験官の先生方のお名前もお顔も忘れてしまいましたが、今ここで、改めてお礼を言いたいです。なぜなら、3か月で動かなくなった私の指ですが、40歳を過ぎて、もう一度、アカデミックな曲をアカデミックに弾く練習をしたら、数年で学生時代のテクニックを取り戻したからです。今、私は生徒さんの歌の伴奏やバレエの伴奏のために、短い練習期間で、たくさんの曲を仕上げなければなりませんが、さほど苦労せずに、指が滑らかに動いてくれるのは、試験官に聞いていただくため、学生時代に徹底的に絶対音楽を練習したおかげだと思います。学生時代のあのアカデミックな7年間は、私の一生の宝物です。2023年8月29日大江利子

クーポラだより No.101~日本のオペラ考察~

「利子は、どうしてオペラを歌うんか?演歌を歌やぁーええのに。演歌の方があたりゃー、もうかるのに。オペラじゃあ、もうからんじゃろ!」オペラの発声を極めようと、イタリア留学を控えた30年前、両親の口から出た質問に、私は絶句してしまいました。私の両親は、夫の父のように、ヴァイオリン製作者だったわけでもなく、クラッシック音楽に造詣が深いわけでもありません。けれども、娘の私が音大に進学することに反対せず、音大卒業後も、中学校の教員をしながら熱心に勉強を続ける私を見守ってきた人たちです。そんなふたりから「なぜ、オペラを歌うのか?演歌を歌ったら良いのに。演歌の方が成功したら、お金を稼げるのに。オペラではお金を稼げないだろうに。」と、言われた私はショックでした。「オペラは儲からない、クラッシックでは食べていけない、好きなことで生計をたてるのは困難だ。」よく耳にする一般論ですが、自分の良き理解者だと信じて疑わなかった両親から、その俗っぽくて嫌味な常識を、不意に浴びせられて、私は言葉を失ってしまったのです。確かに、日本では、一般にオペラに対する人気も認知度も低く、それを裏付けるかのように、テレビ番組で取り上げる音楽は、アイドルや演歌歌手たちが歌う流行歌が中心です。ただし、「オーケストラがやってきた!(1972年~1983年放映)」、「題名のない音楽会(1964年~)」など、週に1度、わずか30分ですが、クラシック音楽の番組もあります。しかし、クラシック音楽という、くくりには、オーケストラの響きに浸る管弦楽曲、ピアノやヴァイオリンの超絶技巧に酔う独奏曲、アンサンブルを楽しむ室内楽など、いろいろな種類があり、オペラもその中のたった1つに過ぎません。したがって、たとえ毎週、クラシック音楽の民放番組が放映されていても、そこにオペラの順番がやってくるのは稀で、オペラがなかなか浸透しないのも当然でしょう。またNHKでは、「芸術劇場」や「クラシック・ロイヤルシート」という名称で、舞台芸術を紹介する長時間番組があり、毎月1回、海外で上演されたオペラをノーカットで放映していました。しかし、それでもまだ、演歌のようには、広まりません。それにしても、どうして、オペラが日本になかなか広まらないのでしょう。その理由の第一に考えられるのは、オペラは、歌手が歌いながら演技をする、歌芝居であり、その芝居の台本は、西洋の小説や神話がもとで、日本人の私たちがその西洋風の歌芝居を楽しむには、その台本に対して予備知識が乏しいからだと思うのです。例えば、「乾杯の歌」で有名な、ヴェルディ作曲のオペラ「椿姫」の台本は、フランスの小説家デュマが1848年に発表した長編小説が元です。上演時間は2時間40分、全3幕のオペラの大まかなストーリーは以下です。一幕、肺病を患っていた、パリの高級娼婦ヴィオレッタの館で、久しぶりに豪華なパーティーが開かれ、そこに新顔で、真面目な青年アルフレードがやってきます。彼はヴィオレッタに、娼婦としてではなく、ひとりの女性として本気で彼女に恋をしていることを告白します。二幕、アルフレ-ドの求愛に応えたヴィオレッタは、高級娼婦の生活を捨て、自分の財産をすべて出して、田舎に家を買い、ふたりで幸せに暮らしていました。しかしアルフレードの父が突然現れて、ヴィオレッタに別れを迫ります。理由は、ヴィオレッタの存在が、良家出身のアルフレードの将来と妹の結婚に差し障るからです。泣く泣く承知したヴィオレッタは、アルフレードに嫌われるような手紙を書き、再び元の生活に戻ります。三幕、肺病が悪化し、死の床についていたヴィオレッタはすべてを諦め、もはや独り寂しく天国へ登るのみと覚悟を決めていたところへ、アルフレードがやってきます。父から真実を知らされたアルフレードは、再びいっしょに暮らして病気を治そうと彼女を励まします。しかし、時すでに遅く、ヴィオレッタは息を引き取り、幕となります。いかがでしょう?「椿姫」のヴィオレッタは、森鷗外の「舞姫」のエリスのように、身分違いの恋に翻弄された哀しい女で、台本を知ってしまえば、日本の観客も感情移入しやすい物語です。そして「椿姫」を作曲したヴェルディの音楽は、民謡のように素朴でわかりやすく、ヴィオレッタの独唱は演歌のように、男女の情念をテーマとしており、切なく、艶っぽい旋律です。オペラの要素を一つ一つ分析してみれば、娯楽性が高く、クラシック音楽のくくりの中では、最も大衆受けしやすいジャンルと言えるでしょう。それでも、オペラの人気は私がイタリア留学した30年前も、今もあまり変化がないように思います。いったい何が障害なのでしょう?それは、海外の歌手たちの歌い方、つまり、楽器のように訓練された高い声で、正確な音程とリズムを厳重に守り、無駄なヴィブラートがない発声法に、日本人は戸惑い、違和感を覚えるのではないか、思うからです。日本に西洋音楽が入ってきたのは、今から164年前です。1879年、明治政府によって学制が布告され、文部省所属の音楽教育機関「音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり)が設立し、その長の伊澤修二が、アメリカから音楽教育者メイソン(ピアノとバイエルを日本に紹介した人)を招聘したときから、日本に西洋音楽が入ってきました。伊澤修二とは、幕末、信濃国高遠藩の藩士の息子として生まれ、江戸に出府して、ジョン万次郎や外国人宣教師に英語を習い、当時の日本人としては、最先端の西洋文化を身につけた人でした。伊沢は音楽取調掛の長に任ぜられ、調査のためにアメリカの学校に留学し、優秀な成績をおさめましたが西洋の歌を、歌うことだけは苦労したので、メイソンに個人指導してもらったのでした。メイソンが西洋音楽を導入する以前の日本には、雅楽、琵琶楽(平家琵琶)、能楽、歌舞伎など五線譜をもたない音楽でした。それらは、おおよその音程やリズムはあるものの、同じ作品でも、奏者によって異なります。そして、オペラのように特別に訓練された高い声ではなく、地声を使って、感情移入のために音程とリズムを揺らします。つまり、日本の伝統音楽の歌い方は、演歌に共通するものであり、日本人の心を揺さぶる歌い方をすれば、成功するとしたら、「オペラでなくて、演歌を歌えばいいのに」と言った私の両親も、あながち、間違いではないでしょう。けれども、私は訓練された均一な音色の声で明確な音程とリズムで歌うオペラが大好きだし、その歌い方がとても素敵だと思うのです。演歌の良さも認めますが、私は、オペラの良さも日本人に知って欲しいので、もうけは度外視で、これからもその普及に努めます。2023年7月29日大江利子

クーポラだより No.100~私とオートバイ~

50代最後の月、先月5月、私はSSTR(エス・エス・ティー・アール)というオートバイ競技に出走し、5回目の完走を果たしてきました。SSTRの正式名称はSunrise Sunset Touring Rally(サンライズ・サンセット・ツーリング・ラリー)で、毎年5月下旬に開催される独創的なルールの競技です。この競技は、一般的なモータースポーツのように、タイムアタックをして、ゴールまでのスピードを競うものではありません。「太陽を追いかけろ!」をテーマに、日本列島の太平洋側(瀬戸内海も可)の任意の海辺から日の出と同時にスタートし、同日の日没までに日本海の千里浜海岸にゴールするという自己完結型の競技で、無事にゴールできた競技者は、皆等しく勝利者なのです。ラリーへの出走は、二輪免許を有し、安全走行できる人なら老若男女誰でも応募可能で、また競技車両は、50㏄の原付でも1000㏄の大型でも特に規定はありません。そして、スタートからゴールまでのルートも、競技者の自由で、県道や国道だけでも、高速道路ばかりを選択しても大丈夫です。ただし、ラリーの途中で、道の駅や高速道路のサービスエリアに立ち寄って、その回数を点数に換算し、その点数合計が基準点以上を満たし、なおかつ、その点数の中に、主催者側が指定した道の駅も含まれていないと、いくら日没までに千里浜海岸にゴールできたとしても完走とは認められません。今回の完走基準は、15点以上です。高速道路のサービスエリアは1点、無指定の道の駅は2点、指定道の駅は3点です。最少でも5,6回以上は、走行を中断し、点数を加算しながらゴールを目指さなければならないわけです。2023年5月21日、私は、愛車のスズキVolty(ボルティー)250ccにまたがり、早朝4時半、自宅を出発し、新岡山港を目指しました。新岡山港は、瀬戸内海の児島湾沿いの小さな港で、小豆島行きのフェリーの発着港でもあり、堤防沿いに「市民の森」と呼ばれる公園が整備され、その公園からの日の出がとても素晴らしいのです。日の出とゼッケン番号を付けたオートバイの写真を撮影することが、スタート地点の課題の1つなので、海に面した遊歩道にボルティーを駐車し、夜明けを待ちました。その日は雲もなく、暦の時刻通り4時58分、バラ色に染まり始めた水平線から、太陽が顔を出してきました。太陽が顔を見せ始めると、暗幕がかかったような空にバラ色がどんどん広がって、夜の闇は、周りの山々に吸い込まれるように消えていきます。すると、さきほどまで、プラネタリウムのような漆黒の天空は明るい乳白色になって、小鳥の嬉しそうなさえずりが響き渡ります。夜と朝が交代するこの美しいひとときに立会うのは、今年で5回目ですが、いつも感動を覚えます。この素晴らしい自然現象の観客になれただけでも、出走を決めて良かった!と思える瞬間です。東の空に広がるバラ色と真っ赤な大輪のダリヤのような太陽に見惚れていると、私の立っている足元から、泳いでいけそうなほど近くに浮かぶ小さな島から、サギたちが飛び立ちます。この島は、高島と呼ばれ、初代天皇と伝わる神武天皇が、約2500年以上前に日向(宮崎県)を出発し、豊後水道を通り船で東へ進み大和(奈良県)へ向かう途中、「吉備国 高島宮」という行宮(あんぐう:一時的な宮殿)を置き、数年間(『古事記』では8年、『日本書紀』では3年)滞在した島なのではないかと、伝えられています。神武天皇の高島の候補地は、岡山県には4つあり、人が生活をしている島もありますが、児島湾の高島は無人島で、鳥たちの楽園になっています。朝焼けの空に向かって、サギやトンビたちが一斉に飛び立っていく幻想的な光景を眺めていると、私には、目の前のこの島が、古事記の高島に思えてなりません。さあ、日の出と私のオートバイを撮影したので、いよいよ千里浜海岸目指して出発です。今日の千里浜海岸日没は、18時58分、新岡山港から千里浜海岸まで、約500キロ、机上で計算するならば、時速50キロで10時間走行すればゴールなのですが、実際はそんなに簡単ではありません。風圧を受けながらのオートバイ走行は、体力を消耗させ、それに比例し集中力が低下します。晴天ならば、気温が上がり、アスファルトの照り返しの直撃と、オートバイのエンジンから吹き上がる熱とで疲労が倍増します。雨ならば、寒いし、視界がさえぎられる上に滑りやすい路面は恐怖以外の何者でもありません。ゴールまで何が起きるか、予想不能ですが、とにかく気を引き締めてのスタートです。多めに休憩をとりながら、高速道路中心の最短コースで、私はゴールを目指しました。新岡山港から東へ向かって兵庫県に入り姫路まで、姫路からは進路を北にとって舞鶴経由で福井県へ、日本海側に出たら、若狭湾に沿って小浜、若狭、敦賀を通過し、越前に入りました。越前では、高速道路から一旦おりて、指定道の駅「パークイン丹生ヶ丘」に立ち寄るために、越前市内を迷走しました。自力では、たどり着けそうもないので、コンビニに駐車していたドライバーや、商店の店員さんに道を尋ねたりして、ようやく、「パークイン丹生ヶ丘」にたどり着き、すこし気が楽になりました。時刻は13時、千里浜海岸日没まであと6時間58分、残りの距離は140キロ、このまま順調に走れば、5冠目の完走が視野に入ってきたからです。心に余裕ができた私は、田園景色を楽しみながら、北陸自動車道のインター目指して、農道をのんびり走っていました。すると、田んぼの中に、一羽の大型の白い鳥に目が留まりました。野鳥観察が好きな私は、身近な里山の野鳥の特徴は図鑑で覚えています。嘴が真っ黒で、目が赤く、翼の端っこだけが黒い大型の鳥は、サギでもなければ、鶴でもありません。「あれは・・・、コウノトリだ!」ヘルメットを被ったまま、声をあげた私は、急いでオートバイを脇にとめて、国の特別天然記念物のコウノトリを撮影しました。そもそも、4年前、SSTRに初出場したきっかけは、ストーク(コウノトリ)と命名された人力飛行機に使われた和紙の取材のためでした。初出場の時、自分で計画した和紙の里を取材しながら、完走を果たせたことが、執筆への原動力となり、人力飛行機ストークの小説を完成させることができました。オートバイに乗っていると、道に迷うし、雨や風には翻弄され、怖い目にも遭遇しますが、苦労したぶんだけ、出会った人や景色への感動は大きく、それが私の心にしっかりと刻まれて、やがてそれらは発酵熟成し、文字に変わり、文章に繋がっていくようです。今月26日が誕生日の私は、還暦を迎えました。夫の遺したオートバイに乗りたい一心で8年前に免許をとりましたが、いつの間にかその魅力にすっかりはまり、オペラやバレエやピアノと同じようにライフワークの1つになっています。執筆のためにも、私自身の楽しみのためにも、これからも安全運転でオートバイに乗り続け、たくさんの感動に出会いたいです。2023年6月29日大江利子

クーポラだより No.99~初めての創作ダンスと大人バレエの振り付け~

1977年、6月のある午後、中学2年生の私は、自分で振り付けた創作ダンスを、見知らぬ大勢の体育の先生方の前で披露していました。当時、私が通っていた岡山市立操山中学校は、全校生徒1200人を超えるマンモス校で、教職員は50人以上、体育の先生だけでも4~5名はおられたと思います。私が指導を受けていた体育の女性の先生は、小柄な人でしたが姿勢がとても良くて、颯爽と歩くうしろ姿だけで、周囲を圧倒するような雰囲気をお持ちのベテラン教諭で、先生仲間からも一目置かれる存在でした。そんな近寄り難い体育の先生から、ある日の授業後、私は呼び止められました。「山本さん、創作ダンスの研究発表会があるから、踊ってみない?」突然のスカウトに私はびっくりしました。今でこそ、大人バレエの先生をしていますが、46年前の私は、ダンスに必須の柔軟性は皆無で、喘息持ちだったため猫背で姿勢は悪く、踊りの経験はフォークダンスのオクラホマミキサーかマイムマイム、あとは、盆踊りの備前太鼓唄(こちゃえ)くらいです。背ばかりがひょろひょろと高く、見た目も身体条件も、ダンスには不向きという自覚があったのに、なぜか私はためらうことなく、「はい」と答えました。先生は私の他に、もうひとり、私と仲が良かった同級生の女生徒にも声をかけていました。翌日から私と同級生は、昼休み体育館に集まって、先生のアドバイスを受けながら、創作ダンスの練習をすることになりました。創作ダンスには、テーマが必要です。いろいろとアイデアを出してみましたが、梅雨の季節なので「雨」を表現することにしました。しとしと静かに降る雨や、滝のようにざーざー降る雨、雷が鳴ったあと、雨が急に上がってパッと晴れ間が広がる様子も表現することにしました。ダンスに必要なステップは、ソテ(ジャンプ)やアラベスク(片足で立ち、もう一方の足を上げるバランスポーズ)、パ・ド・ブレ(両足をクロスさせながら、つま先立ちで、進むこと)など、基本的なバレエの動きを先生が教えてくださったので、自分たちで創った動きに、それらを組み合わせて、いろいろな雨をダンスにしていきました。音楽は使わず、カウントに合わせて、踊ることとし、動きが大きく変化する時のきっかけは、先生が打ち鳴らすタンバリンが合図でした。練習期間は、約1か月、昼休みは20分なので、合計480分=8時間足らずで、研究発表会の本番の日となりました。研究発表会の会場は、母校、操山中学校の体育館でした。本番の衣装は、学校規定の夏の体操着、ブルマに丸首半袖シャツに体育館シューズという、飾り気ゼロのいでたちで、私と同級生は、自分たちで作った「雨」の創作ダンスを踊りました。どんな振り付けを創ったか、断片的な記憶しか残っていませんが、2~3分のダンスを踊り終えた後、研究会に集まった近隣の中学校の体育の先生方から沸き起こった拍手と、いつもは恐くて近寄り難い私たちの先生が、とても柔和な表情で「良かったよ。」とねぎらいの言葉をかけてくださったことが、印象的で、うれしかったことを覚えています。しかし、創作ダンスの本番翌月、中学2年の夏休み直前に、私の家族は岡山市から赤磐郡(現在は赤磐市)へ引っ越しすることになりました。私も幼稚園からの幼なじみが大勢通っていた懐かしい操山中学校から、まったく知らない土地の赤磐郡の中学校へ転校となり、その体育の先生とも、ご縁が切れて、芽生えかけていた創作ダンスへの興味も、消えてしまいました。転校した中学校では、友人もできずに、私は孤独でした。制服も操山中学校が恋しくて、転校先でもそれを着続けて、周囲と距離を取り、孤独を自ら選んでいました。しかし、ピアノ科のある高校受験を目指して、毎日何時間もお稽古に励んでいたので、孤独が好都合でもあったのです。それにしても、なぜ、操山中学のあの体育の先生は、指導していた大勢の女生徒から、私に白羽の矢を立てたのでしょう?長い間不思議でしたが、最近になって、自分なりに答えが見えてきました。今年1月より、近所の公民館で大人バレエ講座の開設が認められ、私は指導者として、毎月2回のレッスンを担当することになりました。そして受講者のために振り付けを、考えることが日課となりましたが、その作業が寝食を忘れるほどに楽しいのです。バレエは、白鳥の湖やくるみ割人形など、一般に舞台でプロが踊っている振り付けは、身体的な条件が整わない限り、何年お稽古を積んでも、不可能であり、かつ危険です。職業的なプロバレリーナを養成する学校の指導者は、バレエ向きの身体能力を備えた子供だけを選別し、厳格なレッスンを積み重ねて、舞台人に育てあげます。しかし、大人バレエの場合、指導者は、生徒の身体条件が整っていなくても、彼らの踊りたいという欲求を満たし、バレエへの情熱の火を絶やさないようにしなければなりません。技術的には平易であっても、踊って楽しい振り付けがたくさん必要なのです。ピアノならば、人気の高いクラッシックや映画音楽、アニメ、歌謡曲など、平易な編曲がいくらでも出版されているので、指導者がレッスンのためにいちいち作曲しなくても、事は足るのですが、大人バレエは、すべてが指導者の肩にかかっています。私は、どんなにバレエ経験が浅く、身体の条件が未熟な人でも、楽しみながら踊れるようにと、フォークソングのステップやフラメンコなど、民族舞踊のステップをたくさん組み入れながら振り付けます。そして、この作業をしていると46年前に初体験した創作ダンスと、あの体育の先生が思い出されます。あの先生は、私の振り付けに対する情熱と興味を予感されて、白羽の矢を立ててくださったのかもしれません。2023年5月29日大江利子

クーポラだより No.98~学習指導要領と楽譜付動画~

毎年4月、満開の桜の大木を見ると、小学1年生の時に受けた音楽の授業の楽しさと先生として初めて教壇に立った頃の驚きがよみがえります。1970年(昭和45年)、私が通っていた岡山市立宇野小学校には、音楽だけを指導する専科の先生がおられました。一般に、小学校では、すべての教科を担任の先生が受け持つ場合が多いのですが、音楽と図画工作だけは、中学校のように専科の先生が指導される場合もありました。私は、3、4、5、6年生の時は、担任の先生から、1、2年生の時は、専科の先生から音楽を指導していただきました。私の小学1、2年生の時の音楽の先生は、ベテランの女性で、アイデアに満ちた授業で、幼少期に必要な音感教育を授けてくれました。当時、6,7歳だった私は、残念ながらその先生のお名前もお顔も記憶にないのですが、ある日の父兄参観の時、三和音の授業が、とても楽しかったことを鮮明に覚えています。三和音とは、ドミソとかファラドのように3度音程を積み重ねて、つくった三つの音のことです。どんな音からも三和音は作れるのですが、代表的な和音は、ⅠとⅣとⅤの和音で、主要三和音といいます。単純なメロディーならば、この主要三和音だけで作曲もできるし、童謡や単純な歌謡曲の伴奏としても、すぐに応用できます。バッハやモーツァルトの時代の音楽は、この主要三和音を中心に作曲されたので、シンプルでわかりやすいのです。ⅠとⅣとⅤの主要三和音には、それぞれの響きに個性があり、その個性を活かした使われ方をします。Ⅰの響きは、どっしりと安定した感じで、旋律の始まりや終りに使われます。Ⅳの響きは躍動的で、どこか不安定なので、旋律を展開させる時に使われます。Ⅴは展開した旋律を結末に導く響きなので、Ⅰの直前に使われます。次の楽譜はチューリップです。ローマ数字のI、Ⅳ、Ⅴは、チューリップの調、ハ長調の主要三和音(Ⅰはドミソ、Ⅳはファラド、Ⅴはソシレ)で、上記の法則のように、Ⅰ、Ⅳ、Ⅴが使われています。

クーポラだより No.97~プロントと「ちょっと歌って!」~

イタリア人が電話をかけるとき、受話器の相手に向かって、最初に話しかける言葉は「プロント(Pronto)」です。プロント(Pronto)は、日本語の「もしもし」に似た決まり文句ですが、もともとは、「準備ができた」という意味の形容詞です。つまり、イタリア人が「プロント」と、目に見えない相手に向かって呼びかける本来の意味は、「あなたはお話をする準備ができていますか?」という、問いかけであって、日本語の「もしもし=私はこれから貴方様に申し上げます、申し上げます」というお断りの呼びかけとはニュアンスが異なります。プロント(Pronto)は、短く便利な単語なので、イタリア人の会話の中に、電話以外にも頻繁に登場します。例えば、お母さんが、朝、学校へ行く子供の準備を急かす時、「セイ・プロント?(Sei pronto)=用意できましたか?」また、何か重大な決断を相手に迫る時、「トゥ・セイ・プロント?(Tu sei pronto?)=君は覚悟はできているのか?」それから、恋人からサプライズを受けて、喜びを表す時、「トゥット・プロント・ペル・メ?(Tutto pronto per me?)=私のためにすべて用意してくれたの?」と、プロントには、多様な使い方があります。歌のレッスンでもプロントは登場します。レッスン前に先生が、生徒に向かって「セイ・プロント?」と尋ねた時は、「あなたの声帯は、歌う準備ができていますか?」つまり、「すぐに曲を歌うことができますか?」という意味です。この質問に対して、十分な発声練習ができておらず、喉の筋肉がまだ温まっていないときは、「ノー・ノナンコーラ(No, No’ancora)いいえ、まだです。」と答えます。オペラ歌手がプロントを口にする時は、かなり重要な意味をもちます。例えば、ソプラノ歌手が、指揮者や劇場支配人の前で「ソーノ・プロンタ※マダムバタフライ(Sono pronta Madama Butterfly)」と口にすることは、「私の声は舞台で蝶々夫人の主役をすぐ歌うことができます。」という意味です。私のイタリアの師匠のカヴァッリ先生も、ある時、プロントをおっしゃいました。「ティエーニ・ラ・ボーチェ・センプレ・プロンタ※(Tieni la voce senpre pronta)=声を常に準備をした状態にしておきなさい。」わかりやすく言い換えると「いつでもオペラが歌える声でいなさい。」です。しかし、もっと深い意味は、「たとえ本番が迫っていなくても、毎日の発声練習を怠らず、いつでもオペラが歌える臨戦態勢でいなさい。」という先生のご経験による歌手としての戒律なのです。カヴァッリ先生のオペラ歌手としてのデビューは、1955年、25歳の時ですが、世界的なプリマドンナとしての一歩を出されたのは、2年後、1957年にパリでオペラ「ノルマ」の主役を歌って大成功を収めて以来です。先生が、このオペラに出演するきっかけは、突然呼び出されたオーディションで、ノルマの独唱「清き女神よ」を指揮者の前で歌い、とても気に入られたからですが、その日から舞台初日まで3日間しかなかったのです。通常、オペラの主役は、何か月も前からオーディションによって決定し、ソリストや合唱、オーケストラ合わせの準備期間を経て本番を迎えるものです。オーディションから、たった3日間で本番だったということは、おそらくは、そのノルマの主役に歌うことが決定していた歌手が急に降板し、劇場側は代役を探したけれど、技術的に非常に難しい役柄のため、歌える大物歌手たちの都合がつかず、若手実力派のカヴァッリ先生に白羽の矢がたったのだと思います。カヴァッリ先生はノルマについては、「清き女神」を一曲知っていただけなので、本番までの3日間は、ご自身で弾き語りしながらスコアの譜読みに明け暮れたそうです。しかし、譜読みさえできれば、先生のお声は、いつもプロンタされていたので、見事、ノルマの大役を果たされたのでした。「トシーコ、ノン・スィ・プオ・マイ・サペーレ・ダ・ドーベ・アリベランノ・ラ・オッポルニタToshiko,non si può mai sapere da dove arriveranno le opportunità=利子、チャンスはどこからやってくるかわからないのよ。」このオーディションを、例にたとえて、ティエーニ・ラ・ボーチェ・センプレ・プロンタ※(Tieni la voce senpre pronta)の重要さを私にお話くださいました。カヴァッリ先生の教えに従い、私は、今でも毎日、声をプロンタして、オペラをいつどこでも歌える臨戦態勢です。そして、寂しいけれど、いくら毎日声をプロンタしても、オペラ歌手になれなかった私は、オペラの舞台に上がれる機会がほぼ絶無なのも現実です。けれども、無邪気で無謀なリクエストが、忘れたころに、突然私に訪れます。「ちょっと歌って!」私がオペラを勉強するため、わざわざイタリアまで留学したと知ると、好奇心旺盛な人は、皆、私の歌声を聞きたがります。「ちょっと歌って!」を私に向かって言う人は、オペラをまったく知らない人なので、ピアノがなかろうが、ホールでなかろうが、へっちゃらです。講師で赴任した高校の教室、健康診断で訪れた病院、オートバイで遊びに行った民宿など、人前で歌うチャンスはいつも思いもよらぬところから突然です。「今すぐ歌って!」と期待に胸はずませ、オペラに興味を持ってくれている聴衆に、こちらも応じないわけにはまいりません。若い人には、アクロバティックなアップダウンの激しい椿姫の「ああ、そはかの人か」を、年配の方にはしっとりとした「中国地方の子守歌」を歌ったりします。みなさん、異句同音に「すごーい!声がどこから出てくるかわからなーい!」と驚愕され、オペラの発声に興味をもたれます。中には、ご自身でもオペラを歌いたいと、私のところに習いにいらっしゃる方もおられます。最近では、私の交友関係に新しい出会いがないので、「ちょっと歌って!」のリクエストも減りましたが、つい先日、久しぶりに思いがけないところでいただきました。知り合いのピアノの先生のお弟子さんの発表会が、近所の公民館で行われるというので、単なる聴衆のひとりとして、会場に足を運ぶと、前例のない「ちょっと歌って!」が飛び出したのです。ピアノの先生は、私の顔をみるなり言いました。「大江先生!プログラム最後の全員合唱のとき、みんな高い声がでないから、先生の声で応援して!」本番5分前、しかも、私の知らない歌謡曲、ちょっと驚きましたが、初見の曲でも、声量のある高い声で歌うことができて、喜んでいただきました。カヴァッリ先生の戒律に従って声をいつもプロンタしていてよかったです。今度は、いつ、どこで「ちょっと歌って!」がくるのでしょうか?楽しみです。2023年3月29日大江利子※イタリア語の形容詞は人称変化します。男性名詞には語尾はo、女性名詞は語尾はaになります。Prontoも形容詞です。声(voce)は女性名詞なのでプロンタ(pronta)となります。

クーポラだより No.96~カヴァッリ先生との問答とコンコーネの録音~

イタリアで発達したオペラを歌うための発声法「ベルカント唱法」の練習をするには、場所の苦労がつきものです。ベルカント唱法によって発せられたオペラ歌手の声は、たった独りでも、オーケストラ伴奏の大音量を凌駕し、舞台からいちばん離れた天井桟敷席まで、マイク無しで通ります。そんな名人芸のような唱法のための発声練習は、オペラに理解のない人にとっては迷惑極まりないものです。自宅なら安心して発声練習できますが、一歩外に出ると、たちまち練習の場所に不自由します。29年前、カヴァッリ先生の魔法のようなレッスンによって、ベルカント唱法で歌えるようになってきた私は、自分の声の取り扱いとメンテナンスについて、いろいろな疑問がわきました。どんなに些細なことでも、私は、疑問がわくたびに先生に質問してみました。「Sta viaggiando, Se Lei non trovava il luogo per vocalizzio, Come sta faceva ?」スタ・ビアッジャンド、セ・レイ・ノン・トロヴァーバ・イル・ルオーゴ・ペル・ボカリッジョ、コメ・スタ・ファチェーヴァ?旅行中など、もしも発声練習の場所が見つからなかった時、先生はどうされていたのですか?「Cantavo nel’armadio del’albergo pineno di cappotto.」カンターボ・ネル・アルマーディオ・デラルベルゴ・ピエーノ・ディ・カポット(ホテルの部屋の洋服タンスの中に外套をいっぱいかけて、その中で歌ったのよ。)本拠地ミラノ・スカラ座だけでなく、ナポリのサン・カルロ劇場、パリのオペラ座、ロンドンのコベントガーデン劇場、ブエノスアイレスのコロン座など、世界中のオペラハウスで歌ってこられた先生が、旅先で発声練習の場所にご不自由された経験もおありでしょう。そういう時は、どうしておられたのだろうと、素朴な疑問が湧いたのでお尋ねすると、先生は愉快そうに即答されたのです。苦労や困難を、楽しみながら解決できる才もプリマドンナには必須ということでしょうか。「Anche Toshiko, Se tu non trovi il luogo tenti di cantare nel’armadio」アンケ・トシーコ・セ・トゥ・ノン・トローヴィ・イル・ルオーゴ・テンティ・ディ・カンターレ・ネラルマーディオ(利子も、もし場所が見つからなかったら、タンスの中で歌ってみて)大きな瞳を輝かせながら、実に魅力的な笑顔で、どんな質問にも先生は明快に答えたものです。この瞳と笑顔だけで、先生は、さぞやたくさんのオペラファンを虜にしたことでしょう。ミラノ郊外の高層マンションの一室の先生のレッスン室で、思いっきり声を出したあとは、脳が活性化するらしく、つぎつぎと疑問がわいてきました。「Se Prendo il raffredore, e’ meglio di riposare di cantare ?」セ・プレンド・イル・ラフレッドーレ・メーリィオ・ディ・リポザーレ・カンターレ(もし、風邪をひいたら、歌うことを休む方が良いですか?)「Se hai la tosse, non cantare, ma se ha soltanto la febbre, non riposare. Pero hai la febbre piu di garadi 37.5, non cantare.セ・アイ・ラ・トッセ、ノン・カンターレ、マ・セ・ア・ソルタント・ラ・フェッブレ、ノン・リポザーレ・ペロ・アイ・ラ・フェッブレ・ピュウ・ディ・グラーディ37.5、ノン・カンターレ(もし、咳が出るなら、歌ってはいけません、しかし、熱だけなら、休んではいけません、ただし、37.5度以上の熱があるなら、歌ってはいけません。以来、体調不良時の発声練習を休むかどうかは、37.5度の境界線を基準にしています。「Se non canta soltanto tre mesi, perdi la tutta di tecnica di belcanto 」セ・ノン・カンタ・ソルタント・トゥレ・メージ、ペルディ・ラ・トゥッタ・ディ・テクニカ・ディ・ベルカントもし、たった3か月間、歌わなかったら、それだけで、すべてのベルカント唱法のテクニックを失いますよ。質問はしていないけれど、先生は付け加えました。本物のプリマドンナだった先生の言葉は、私にとって絶対です。毎日、発声練習することは、ベルカント唱法を維持するには必須なので、喉を刺激する食べ物や、乾燥した空気、冷気にも注意して生活しています。おかげさまで、風邪で寝込むことはなくなりました。ある時、私はいちばん、恐ろしい質問をしてみました。「La mia voce ha il talento per essere una cantante opera lirica ?」ラ・ミア・ボーチェ・ア・イル・タレント、ペル・エッセレ・ウナ・カンタンテ・オペラ・リリカ?私の声はオペラ歌手になれる才能があるのでしょうか?この質問の時だけは、先生のお顔から笑顔は消えて、真剣な表情になりました。一瞬、じっと私を見つめて、先生ははっきりとおっしゃったのです。「Toshiko, nella tua voce c’e la talento. Pero aprire la carriera di cantante e’ un’altra cosa 」トシコ・ネッラ・トゥア・ボーチェ・チェ・ラ・タレント、ペロ・アプリィーレ・ラ・カリエラ・ディ・カンタンテ・エ・ウナルトラ・コーザ利子あなたの声には才能があります。けれども、歌手としてキャリアが開くことは別の問題なのです。先生は、それ以上、多くを語られませんでしたが、私は悟りました。日本人である私が、ましてや、もう30歳になった私が、先生のようにプロのオペラ歌手として劇場で歌うチャンスは、非常に困難だということを。一年間のイタリア給費生期間も、ほぼ終わりに近づいた頃でした。日本に帰国しても、オペラに出演できるチャンスは、ほぼ皆無でしたが、一度だけ、広島でオーディションに合格し、創作オペラの端役でオペラに出演できたことがありました。たった一度きりですが、たとえ端役でもオペラ出演できたことで、何か吹っ切れた私は、以降、自分の声の鍛錬に専念しました。「Deve diventare padorona di tua voce」デーベ・ディベンターレ・パドローナ・ディ・トゥワ・ヴォーチェあなたは、自分の声の主人にならなければなりませんよ。たびたび、先生が口にされた言葉です。つまり、「自分の声を自由自在にコントロールできるようになりなさい。」ということです。この言葉のようになれるにはどうしたらよいものか、何をどう歌ったらそうなれるのか、独りで考えて、得た結論は、声楽を習い始めた時、最初に歌ったコンコーネ50番に戻ることでした。音大に合格して以来、歌うことがなかった古い声楽教則本のコンコーネ50番を取り出して、私は1番から順番にベルカント唱法でやり直していきました。50番が終わったら、25番、15番、と100曲のコンコーネが自在に歌えるようになったとき、もう40歳になっていましたが、私はやっと自分の声の主人になった手ごたえを感じました。あれから、20年過ぎました。自分の声にまだ衰えは感じませんが、この声の輝きがあせないうちに、私は自分の声を使って、カバリエ先生の教えを誰かに伝えたいと思うようになり、コンコーネの動画撮影を始めました。今、30曲、撮り終えたところですが、還暦がやってくる3か月後までに、コンコーネ100曲、すべて撮り終えることを目標に日夜頑張っているところです。2023年2月28日大江利子