20150129kan

バッタ君(KLX 650)と鳩サブレ号(GPZ 250R)とボルティ君(スズキ volty)に 乗っています。

いつか、夫の遺した ビモータYB 8(1000㏄)を 乗りこなせるような ライディングテクニックを 身につけるために、ジムカーナ練習会や大会に 参加しています。

二輪デビューが 52歳からなので、遅咲きで、狂い咲きのライダーです。

普段は、歌とピアノとバレエの先生をしつつ、物書きも しています。

たまーに、コンサートも します。

何足もの、わらじを履いてますが、基本は、お料理好きで、心

記事一覧(64)

クーポラだよりNo.64~プルチネルラとベルガンサとみんなの発表会~

「プルチネルラ」は、ナポリの恋人たちの痴話げんかを描いたコミカルなバレエです。町娘ロゼッタとプルデンザは、自分の恋人に飽き飽きし、色男のプルチネルラに惹かれています。娘たちから秋波をおくられたプルチネルラは、美しい妻ピンピネルラを持つ身でありながら、娘たちの期待に応えて戯れの恋を楽しみます。そんな様子を見て、嫉妬に狂った娘たちの恋人カヴィエルロとフロリンドは、闇夜にプルチネルラを襲います。命の危険を感じたプルチネルラは、死んだふりをして暴挙をかわします。カヴィエルロとフロリンドは、動かなくなったプルチネルラを見て、自分達が犯した罪に恐ろしくなり、その場から逃げ出してしまいます。一方、知恵者プルチネルラは、友人フルボに自分の変装をさせて死体になってもらい、離れたところから街の人たちの反応を伺います。まず、やってきたのは妻のピンピネルラで、愛しい夫の哀れな死体を見て半狂乱です。嘆き悲しむ彼女のもとへ街の人々が集まり、皆悲しみに暮れているところに、本物のプルチネルラがひょっこりと現れて、一同は幽霊が出たと勘違いし、大騒ぎになります。しかし、実はプルチネルラは生きていて、死体は変装した友人だと判明し、町娘と若者も仲直りし、大団円におさまります。この大衆芝居のような「プルチネルラ」は、17世紀のイタリア仮面喜劇「4人の瓜二つのプルチネルラ」を参考にしてつくられたバレエで、1920年5月15日、ロシアのバレエ団「バレエ・リュス」によって、パリ・オペラ座で初演されました。「バレエ・リュス」は興行師セルゲイ・ディアギレフによって結成されたバレエ団です。1872年、ディアギレフは、帝政ロシアの裕福な地方貴族の息子として生まれ、大学在学中の彼は、本業の法律の勉強にはまったく身が入らず、芸術家になりたくて、作曲家リムスキー・コルサコフのもとで個人的に音楽を学んでいました。しかし、師のコルサコフから作曲の才能がないことを明言された彼は、自分が愛する芸術を世の中に紹介することに情熱を傾けるようになります。当初ディアギレフは、私財を投じ、買い集めた絵画の展覧会を開いていましたが、次第にオペラやコンサート興行で成功をおさめ、ついには新進気鋭の人材を集めたバレエ団「バレエ・リュス」を結成し、世界各地を巡演してバレエ界に革命をおこします。バレエ・リュス登場以前のバレエは、伝統の型からはみ出さず、そのパトロンである王侯貴族に受けの良い、格調高く優雅な芸術でした。「白鳥の湖」に代表されるように、贅沢な空間の広い舞台で、華やかな衣装をまとったバレリーナの正確な回転や跳躍、猫のように柔軟な四肢と爪先立ちの踊りで観客を魅了することがバレエでしたが、大衆にとっては、どこか近寄り難い芸術でした。しかし、バレエ・リュスのバレエは、自分達でオリジナルな作品を創造し、伝統に縛られない斬新なステップで、広く一般に親しみやすい芸術でした。たとえば、1919年ロンドンで初演されたバレエ・リュスの「三角帽子」は、衣装と舞台のデザインはピカソが担当し、美人の粉ひき屋の女将に悪代官が恋をするという歌舞伎の世話物のような筋書きのバレエです。バレエ・リュスの活動期間は、1909年の旗揚げ公演から、ディアギレフの死とともに解散した1929年までですが、その20年間に、「春の祭典」「シェヘラザード」「火の鳥」など、現代のバレエ上演に欠くことのできない重要な作品をつぎつぎと誕生させました。それにしてもなぜ、ディアギレフ個人によって結成された小さなバレエ団に、バレエ界の流れを変える革新力があったのでしょうか?それはディアギレフが、バレエ公演にとって難しいことを逆手にとり、柔軟なアイデアで新しい形のバレエを創り続けたからです。国や王から手厚く保護されていた伝統的な国立や王立バレエ団とは違い、専用の劇場を持たない流浪の集団バレエ・リュスが、二つの大戦にはさまれ世情不安な時代に、巡業先で公演を成功させるには、舞台演出はなるべく簡素で小人数のダンサーで、観客を夢中にさせなければなりません。この難題を常に抱えていたバレエ・リュスは、伝統や常識は無視して、一般大衆の観客が、すぐに理解できて、作品の最初から最後まで目が離せないほど興味をそそられるバレエを創ることに重きを置いたので、プルチネルラのような傑作が誕生したのです。プルチネルラは、バレエ・リュス作品の中でも際立って面白いバレエですが、音楽が特にユニークで、作曲は「春の祭典」のストラビンスキーが担当しました。しかし本人のオリジナルではなく、ディアギレフがナポリの音楽学校の図書館で見つけた17世紀のオペラを、ストラビンスキーが編曲してつなぎ合わせたもので、古典オペラのアリア(ソロの歌)で、ダンサーが踊ります。プルチネルラのもっとも有名なアリアは、メゾソプラノによって歌われる「Se tu ’ami(セ・トゥ・マ・ミ=もしもあなたが私を愛してくれるなら)で、26歳の若さで世を去った、作曲家ペルゴレージのオペラの1曲です。バレエ好きな私の夫は、プルチネルラが特にお気に入りで、いろいろなバレエ団のプルチネルラのレーザディスクを集めて、見比べていましたが、夫一押しの一枚があります。それは、オランダのバレエ団、スカピーノ・バレエのプルチネルラです。スカピーノバレエ団は、第二次世界大戦直後1945年に結成され、学校巡回公演を通じて子供たちにバレエの楽しさを伝えることを大切にしてきたダンサーグループです。そんなスカピーノバレエ団のプルチネルラの演出はとても単純で、普段着にしたいような可愛い衣装を身につけたダンサーが、子供たちが真似をして踊りだしたくなるような楽しいステップで踊ります。そして「Se tu m’a mi」を歌っているのは、スペイン出身のオペラ歌手テレサ・ベルガンサです。ベルガンサは、超一流の歌劇場で主役を歌い続け、バルセロナ五輪の開会式で歌った経験をもつメゾソプラノですが、その世界的な歌手ベルガンサのコンサートが1997年2月16日、香川県志度町で開かれました。私と夫が、香川県志度町のコンサート会場に足を運んだのは言うまでもありません。23年前、四国の小さな街の音楽ホールの舞台に登場したベルガンサは、シンプルな黒のパンツ姿で、プログラム内容も、シューベルトの魔王など、学校で習うような歌が中心で親しみやすい曲目でした。

クーポラだよりNo.63~ベートーベンの遺髪と私の病気~

1994年に公開された「Immortal Beloved(不滅の恋人)」は、ベートーベンを描いた映画です。映画のあらすじは、ベートーベンの死後、彼の秘書が、「自分の楽譜、財産全てを「不滅の恋人」に捧ぐ」という遺書を発見し、ベートーベンと交流のあった女性を訪問し、不滅の恋人が誰なのかを探しあてるというものです。訪問を受けた女性たちは、ベートーベンと過ごした日々を回想し、天才作曲家の人間的な面を浮き彫りにしていきます。ベートーベン役には、徹底した役作りで有名なイギリス俳優ゲイリー・オールドマンで、自らもピアノの才能がある彼は、吹き替えを使わず、違和感のないベートーベンを演じています。不滅の恋人候補の女性役に、ロッセリーニ監督と女優イングリット・バーグマンを両親にもち、母の知的な美貌を受け継いだイサベラ・ロッセリーニが演じています。結末は、意外な展開で終わるフィクションですが、だんだんと耳が聞こえなくなり周囲との意思疎通がうまくいかないベートーベンの孤独感が胸に迫る、せつない映画です。不滅の恋人を探して旅する秘書は、実在人物でアントン・シンドラーという音楽家で、ベートーベンの伝記を最初に残した作家です。ただし、ベートーベン研究が進むにつれて、このシンドラーの本は、捏造があり、彼の著書の信用度は、今では失墜しています。生前ベートーベンは、シンドラーのことを嫌っていましたが、亡くなる前に、世話をしていたのは、彼だけだったため、天才作曲家の貴重な資料が、シンドラーの手元に渡りました。シンドラーはそれらをもとに、「ベートーベンの生涯」を書き上げましたが、自分の本に都合の悪い資料や、ベートーベンが、(400冊はあったと推定される)会話に使った筆談帳を破棄し、改ざんしていたことが、新しい研究が進むにつれて、露呈してしまったのです。一方、ベートーベンの形見を大切に保存していた人によって、学者たちの論争の的だったベートーベンの不名誉な病気について終止符が打たれました。その形見とは、ベートーベンの遺髪です。1827年3月26日、ベートーベンは56歳の生涯を閉じますが、死の直前に、友人である作曲家のフンメルの心からのお見舞いを受けました。フンメルは自分の弟子の16歳の少年も、お見舞いに同行させていました。少年は、フェルディナント・ヒラーという名前で、のちには、メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、ワーグナーたちと親交を結ぶ作曲家に成長した人です。ヒラー少年は、1827年3月27日、棺におさめられたベートーベンの遺体から、毛髪を一房切り取り、木製の小さな楕円形のロケットにその遺髪をおさめて、宝物として一生大切にしていました。このヒラーの宝物は、彼亡きあとは、息子が受け継ぎ、その後、数奇な運命をたどって無事に現代まで受け継がれました。その事実は「ベートーベンの遺髪」という本にまとめられています。2世紀も、ロケットの中におさめられていたベートーベンの毛髪は、1995年に初めて鑑定され、新事実がわかりました。亡くなった直後、ベートーベンの遺体は解剖され、彼の肝臓は革のように縮んで結節ができ、腎臓は石灰化して、脾臓は黒く硬化しその他の内臓も傷んでいたことがわかっていました。しかし、これらの内蔵損傷の原因は何の病気であったかは、当時の医学では解明できずに、ベートーベンは梅毒や淋病に感染していたと、非礼極まりない説を述べる学者もいました。しかし、ヒラーが保存していたベートーベンの遺髪を鑑定し、その中には鉛が大量に含まれていたことが解明され、梅毒や淋病の証拠はありませんでした。大量の鉛が残っていた理由を断定はできませんが、ベートーベンが好きだった、赤ワインには、当時添加物として鉛が使われ、また食器や水道管にも同様に鉛が使われていたので、徐々に作曲家の内臓に蓄積し内臓を傷つけてしまったのでは、と言われています。また、毛髪鑑定の結果、楽聖ベートーベンの偉大な創作欲を証明する事実も明らかになりました。それは、ベートーベンを苦しめていた疝痛にモルヒネが使われていなかったことです。当時、モルヒネは、鎮痛剤として一般的に使用されましたが、死の床にあっても作曲をしたかったベートーベンは、モルヒネによって意識が混濁することを拒んだのでした。音楽家にとって致命傷となる聴覚異常がベートーベンを襲ったのは20代の頃からです。激しい耳鳴りや難聴に悩まされ、徐々に聞こえなくなっていく恐怖で、32歳の時に自殺を考え遺書まで書いた彼ですが、新しい音楽を作曲したいという創作欲が、聴覚を失う恐怖に打ち勝ちました。40歳には完全に聴力を失ったベートーベンですが、彼の創作の泉は枯れるどころか、ますます新しい世界まで到達し、亡くなる3年前の53歳の時には、人類の宝と呼ぶにふさわしい第九交響曲を作曲したのです。ところで、私も30代の頃、自殺を考えたことがありました。37歳の夏、突然襲ってきた激しいかゆみによって、夜はほとんど眠れなくなり、首から下のあらゆる関節の周辺に発生した皮膚炎によって、全身かきむしって血だらけになりました。かゆみから開放される時は一瞬もなく、夜は眠れず、外出もままならず、発狂しそうになり、車ごと川に飛び込もうと思い、夜中に死に場所を探して、何時間も車を走らせたことさえありました。けれど、命を絶つ勇気はとうとうでなくて、家に帰り、かゆみに襲われ、身体中かきむしり、眠れず苦しみ続けました。そんな私の唯一の救いは、毎日のおけいこでした。どんなにかゆく、寝ていなくても、歌とピアノを練習し終えると、精神の均衡は保てたのです。皮膚科医が処方する対処療法的な塗り薬を使ったこともありましたが、悪化するだけでした。それよりは、おけいこをする方が精神に良い作用を及ぼし、かゆみを我慢し、かきむしってしまう手を止めることはできないけれど、絶望せず、ありのままの自分を受け入れることができました。「今日一日だけ、頑張ろう」そう心に言い聞かせ、出口のないかゆみと闘ったものです。いちばんかゆくてつらいとき、ピアノのおけいこに選んだ曲はベートーベンのソナタでした。生命力にあふれたベートーベンの音楽が、私の指を通して身体の隅々まで運ばれて、私の得体の知れない病をゆっくりと追い出しているようでした。かゆみは37歳から51歳まで17年間続きましたが、とうとう私はかゆみのない日常を取り戻してしまいました。けれども、今度は、夫を失ってしまった苦しみが、間断なく私を襲い責め続けます。しかし、またおけいこで乗り越えるしか、自分を救う方法が見つかりません。この苦しみを、誰かに預けることもできないし、また、もう解決しないことは、私自身がよく知っているからです。私が夫と再会できるまでに、どれくらいの時間があるのか神のみぞ知るだけですが、ベートーベンのピアノソナタだけでも32曲ありますから、凡人の私にとっては十分過ぎるほどで、やりがいがあるというものです。2020年5月29日大江利子

クーポラだよりNo.61~後楽園のタンチョウと羽衣伝説~

白くて大きな鳥の立ち姿は、人を思わせます。私の故郷、岡山の後楽園では、8羽の丹頂鶴が、檻の中で飼育されています。かつて後楽園では、丹頂鶴が園内を自由に飛び回っていたこともありましたが、今では、元旦と1月3日、その他、年にわずか数日、しかも一日1時間程、放鳥されるだけです。丹頂鶴が放鳥される日には、大勢のアマチュアカメラマンたちが、ご自慢の一眼レフカメラを手に、後楽園にやってきます。先月の2月2日の日曜日、希少な丹頂鶴の放鳥日でしたが、その放鳥タイムに、私は偶然、後楽園に居合わせていました。その日は、九州の友人が私に会いにきてくれた日で、遠方からやってきてくれた友人に、早春の後楽園を案内したいと来園して、幸運にも、丹頂鶴の放鳥タイムと重なったのです。芝生が広がる園内の小道には、巨大な望遠レンズを構えたアマチュアカメラマンたちが、我先にと、シャッターチャンスに有利な場所を陣取っていました。私と友人は、撮影の心得もなく、スマホのオートマチックなカメラ機能を使うのが、せいぜいでしたので、気合が入っているカメラマンたちの邪魔にならないように、少し離れたところで、丹頂鶴が飛んでくるのを待ちました。すると、驚いたことに、2羽の丹頂鶴は、私と友人を目指すように、まっすぐに、こちらに向かって飛んでくるではありませんか。そして、手を伸ばせば、触れられるほど近くに、2羽は舞い降りて、その場を動きません。

クーポラだよりNo.60~鏑木清方の初雁の御歌(はつかりのみうた)と雁皮紙(がんぴし)~

初雁を 待つとはなしに この秋は 越路の空のながめられつつ(待っていたわけでもないのに、貴方がおられる越後の方向の空を眺めていますと、初雁を見ました。)この歌の作者は、明治天皇の皇后です。明治11年8月30日、明治天皇は、北陸・東海道の巡行に出発し、巡行は、長期におよび、明治天皇が皇后の元に帰ってきたのは、71日後の11月9日でした。巡行中の夫の身を案じて、詠まれたこの歌は、明治11年9月26日、悪天候で、夕闇迫るころ、やっと北陸の行在所(あんざいしょ)に到着された天皇をねぎらうかのように届けられたのです。夫への優しい愛を象徴した、「初雁の御歌」は、絵画に描かれ、聖徳記念絵画館で観賞できます。聖徳記念絵画館は、明治天皇の崩御後、建築された美術館で、国内の画家80人が天皇と皇后の遺徳を描いた歴史画80点を、史実順に展示し、「初雁の御歌」は40番目の日本画です。「初雁の御歌」を描いたのは、鏑木清方(かぶらききよかた)です。鏑木清方は1878年(明治11年)、東京の神田に生まれ、1972年(昭和47年)鎌倉で没した日本画家です。清方に絵を勧めたのは、小説家であり、ジャーナリストであり、起業家だった父です。毎日新聞の創立に参加した清方の父は「やまと新聞」を創刊、社長に就任、清方が生まれ育った家には、父の仕事の関係者の小説家や、挿絵画家が大勢出入りしていました。清方が幼い頃は、写真はまだ普及しておらず、新聞には、挿絵が描かれ、挿絵画家は、人目に触れる機会の多い華やかな職業でした。清方は13歳の時に、歌川流の絵師、水野年方(みずのとしかた)のもとに弟子入りします。清方本人は文学に素養があり、小説家にも興味がありました。しかし、師匠のもとで、徐々に画力を磨き、15歳頃から、父の新聞の挿絵を描いていました。19歳の時に、父と縁故の無い、東北新聞から挿絵を任され、一人前の挿絵画家として認められます。しかし、挿絵は、題材を画家自身が、決めるわけではなく、記事の内容に合わせた絵を描くだけなので、自由な画題で創造的に描くことができる日本画家へと、清方は、次第に方向転換します。清方が日本画家へ、大きく方向転換するきっかけになったのは樋口一葉を画題にした絵です。24歳の若さで夭折した樋口一葉の愛読者だった清方は、一葉の墓を探し出し、お参りし、その墓をスケッチしました。清方は、そのスケッチをもとに、一葉の小説「たけくらべ」主人公の美登利が、一葉の墓を抱いている構図の日本画「一葉女史の墓」を描きました。この「一葉女史の墓」は、芝居や、映画のワンシーンのように、劇的で、衝撃的で、小説家になりたかった清方の文才と絵の才能とが融合した傑作です。

クーポラだよりNo.59~プッチーニのオペラと「道」と聖セシリア~

オペラ「ボエーム」は、クリスマスの夜に咲いた恋物語です。詩人ロドルフォは、パリの学生街カルティエ・ラタンで、仲間の芸術家たちと暮らしていました。ロドルフォの仲間は、画家と哲学者と音楽家です。ロドルフォも仲間も、皆、夢を仕事にしていますが、稼ぎが少なく、貧乏なので、屋根裏部屋で共同生活しているのです。クリスマスの夜、仲間たちは、レストランで外食しようと、出かけていきますが、ロドルフォは、独り部屋に残って、書きかけの原稿を仕上げています。すると、そこへ、玄関のドアをノックする音がし、若い女性の声が聞こえてきました。「灯りのろうそくの火が消えたので、火を貸してくれませんか?」ロドルフォは、ろうそくを手にして、すぐに、玄関をあけます。すると、清楚で、可憐な若い女性が、立っていました。彼女が手にしていた、消えたろうそくに、ロドルフォは、火を付けてあげます。彼女は、お礼を言って立ち去ろうとしますが、めまいを起こして、その場に倒れてしまいます。驚いたロドルフォは、彼女が目覚めるまで、そばで介抱しながら、彼女の顔立ちや身なりを、観察します。彼女は、とても美しい顔立ちでしたが、痩せて身なりも質素で、ロドルフォと同じように貧しいようです。間もなく、目を覚ました彼女は、また、すぐに立ち去ろうとするので、ロドルフォは、お互い自己紹介をしようと、彼女を引き留めて、「冷たき手よ」の独唱で、自分の身の上話を始めます。一方、ロドルフォに応える彼女は、「私の名はミミ」というソプラノ独唱です。どちらの独唱も、高度な歌唱力を必要とする、美しい曲で、このオペラ「ボエーム」を作曲した人は、「蝶々夫人」で知られているイタリアの作曲家プッチーニです。プッチーニは1858年にイタリアのトスカーナ地方の古都ルッカに生まれました。プッチーニは、バッハのように、宗教音楽を職業としてきた家系の出で、ミラノの音楽院で、作曲を学び、20代の頃の作品が認められて、売れっ子のオペラ作曲家になります。プッチーニが作曲するオペラは、「蝶々夫人」の独唱「ある晴れた日に」で知られるように、歌詞の内容と音楽が見事に調和し、旋律を聞いただけでも、情景が浮かべられる力を持っているので、観る人は、楽しい映画やお芝居を見るように、自然とオペラの世界に入れる魔法を持っています。また、プッチーニは、名旋律を生み出す天才で、彼のオペラの一曲が、独り歩きをすることも、よくあります。たとえば、プッチーニの遺作オペラ「トゥーランドット」のテノール独唱「誰も寝てはならぬ」は、2006年トリノオリンピックで、日本人女性フィギュアスケート選手としては、初めて金メダルを獲得した荒川静香選手が、フリーの曲で使用し、有名になりました。この「誰も寝てはならぬ」は、中国のお姫様「トゥーランドット」に求婚した、異国の王子カラフが歌う独唱です。絶世の美女、トゥーランドット姫は、次々とやってくる求婚者に3つの謎ときを課して、それが解けない場合には、求婚者の首をはねるという、恐ろしい姫でした。しかし、異国の王子カラフが、見事に姫の課題の3つの謎を解いてしまいます。姫は、常日頃から、自分の謎を解いた人ならば、その人の愛を受け入れると、父王と国民の前で誓って、恐ろしい処刑を繰り返してきました。しかし、いざ、カラフ王子が、本当に、姫の謎を解くと、姫は、彼の愛を拒みます。すると、寛容なカラフ王子は、「ぼくの名前を解き明かしてごらんなさい」と逆に、王子から、姫に、謎を与え、「姫が、謎を考える猶予は、一晩だけ、夜明けまでに、ぼくの名前がわからないときは、姫は、ぼくのもの、しかし、もし、姫にぼくの名前がわかったら、その時は、潔く、ぼくは、死にましょう。」とカラフ王子は宣言します。そして、今宵、謎の解きの結末がわかる夜明けまで、誰も寝てはならぬと、トリノオリンピックで使用された、あの「誰も寝てはならぬ=Nessun dorma(ネッスン・ドルマ)」をカラフ王子は、歌うのです。カラフ王子の祖国は戦いに敗れ、王子は異国をさすらう放浪の身なので、誰にも、自分の名前を見破られる心配はないと、勝算したのでした。ただし、ひとつ、王子の誤算がありました。群衆の中に、昔、王子に仕えていた女奴隷リューが、偶然に、その場に居合わせて、トゥーランドット姫に、見つかって捕まえられ、王子の名前を白状するまで、リューは拷問にかけられそうになります。リューは、拷問にかけられる前に、短剣で自分の胸を刺し、命をたってしまいます。リューは昔から、カラフ王子が好きだったので、王子の愛を成就させるために、我が身を犠牲にし、王子は、リューの死によって、トゥーランドット姫と結ばれます。「ボエーム」のミミも、病弱な自分は、ロドルフォの負担になるからと、身を引き、死んでいきます。「蝶々夫人」の蝶々さんも、約束を破ったピンカートンを、恨みもせず、大切な我が子をピンカートンのアメリカ人の妻に、差し出して、短剣でわが胸を貫き、自害します。その他にも、プッチーニは、ヒロインの自己犠牲によって、男性を救うというオペラを作曲しています。騎士道精神のヨーロッパは、殿方の方が、姫のために自己犠牲を引き受けるはずなのに、プッチーニの描く女性は、殿方を助けてばかりです。オペラの世界だけでなく、イタリアの古典映画にも、若き女性の自己犠牲がありました。フェリーニ監督の出世作、「道」のジェルソミーナです。薄幸で心の清らかなジェルソミーナは、粗野な男ザンパノを恨むでもなく、彼に寄り添い続け、最期は、ザンパノに捨てられて、死んでしまいます。ジェルソミーナは、いつもトランペットで哀しい旋律を吹いていました。この旋律を生んだのは、イタリアの作曲家ニーノ・ロータで、彼は「道」他にも、「ゴットファーザー愛のテーマ」や「ロミオとジュリエット」の名旋律を世に送り出しています。イタリア音楽界で、若き女性の自己犠牲の多数例は、なぜかしらと、考えながら、ふと20数年前に、夫と訪れたイタリアのある教会を思い出しました。その教会は、イタリアの音楽の守護聖人、聖セシリアを祀った、ローマのサンタ・チェチーリア教会です。聖セシリアは、AD200年ごろ、日本では邪馬台国の時代に殉教した女性です。サンタ・チェチーリア教会には、斬首の傷跡が、生々しい若い女性が、横たわった大理石の彫刻が祀られています。1600年製作の、その彫刻には、「聖セシリアの墓をあけた遺体の姿をそのまま写した。」と宣誓した碑文があります。碑文が真実ならば、聖セシリアの遺体は、1400年以上も、当時のままだったことになります。キリスト社会では、たびたび聖人の奇跡が、登場しますが、この聖セシリアの遺体にまつわるお話も、まさしく奇跡です。私は夫ともに、この目で、聖セシリアの彫刻を見て、「碑文の内容は、真実だね」と、夫と感動し合った日のことを、思い出しました。生前の聖セシリアは、楽器を奏でながら、歌ったと伝えられています。イタリアの作曲家たちのオペラや音楽に、若き女性の自己犠牲のテーマが多いのは、聖セシリアに関係あるのかもしれないと、夫の5回目の命日の今日、古い記憶に想いを馳せながら、思いました。2020年1月29日大江利子

クーポラだよりNo.58~アオアズマヤドリの求愛と年越しに向けて~

ニワシドリの仲間のアオアズマヤドリは、鮮やかな青色が大好きな野鳥です。アオアズマヤドリを含むニワシドリたちは、オスが求愛のために、面白い行動をとります。ニワシドリのオスたちは、「ニワシ=庭師」の名の通り、ガーデニングをして、美しい東屋(あずまや)をつくります。オスが東屋をつくる目的は、子育てのための巣ではなく、メスに、プロポーズをするためだけです。東屋の材料は、小枝や枯れ草です。オスは、気に入った小枝をみつけると、建材として使いやすいように、くちばしで、好みの長さに折り、不要な枝は切り取り、見つけたその場で、小枝を加工し、持ち帰ります。東屋は、アーチ状のものから、海辺のオープンカフェのような複雑な構造物まで、いろいろなタイプがありますが、彼らにとって大切なことは、メスの目に、触れやすい場所に、建てることです。くちばしを器用に使い、柱にする枝は、地面にしっかりとつきさして、枯れ草は、編むように使い、だ液で湿らせながら、建材を曲げて、曲線状の東屋をつくっていきます。舞台セットのように、東屋(あずまや)の周りには、花や、貝殻や、昆虫の殻などを、綺麗に並べて、飾り付けをします。飾りは、白いものばかりを集める鳥や、葉っぱを、ぜんぶ裏向きにして、じゅうたんのように敷き詰める鳥など、ニワシドリの種類によって、こだわりや好みの色が違います。アオアズマヤドリのオスは、飾りに青い色だけを使います。アオアズマヤドリのオスとメスは、身体の色も、羽の模様も、違いますが、どちらも、瞳の色だけは、ラピスラズリのように、鮮やかな青色です。その高貴な宝石のような青い瞳と、同じ色の飾りを求めて、ときには、人間の住む街まで、姿をあらわし、危険をおかしてまでも、オスは、鮮やかな青色を集めて回ります。ペットボトルの青い蓋、青いストロー、青い花びらと、得心のゆくまで、青色を集めてくると、今度は、東屋の周りに、センス良く敷き詰めて、プロポーズの舞台を整えます。

クーポラだよりNo.57~映画「トスカの接吻」と美濃和紙の里~

映画「トスカの接吻」は、ある老人ホームで、自分らしく、尊厳ある日々を過ごす人たちを描いたドキュメンタリーです。「トスカの接吻」で、登場する老人ホームは、「音楽家憩いの家」という名で、イタリアのミラノに実在し、その名のとおり、引退した音楽家のための福祉施設です。「音楽家憩いの家」は、世界の頂点にたつ、オペラ劇場「スカラ座」から、3キロほど離れた、広場の一角に位置し、大使館のような壮麗な外観で、レンガ積みの美しい建物です。建物の内部は、ミニコンサートも可能なグランドピアノが置かれた天井の高い広間や、練習室があり、そこで引退生活を送る音楽家たちが、現役の頃と変わらずに、音楽に包まれて日々を過ごせるように、工夫や配慮がなされています。この「音楽家憩いの家」は、イタリアの国民的作曲家のヴェルディが私財を投じて建設し、また彼の遺産で運営されてきた特別な施設です。ヴェルディは「椿姫」や「アイーダ」、「リゴレット」などのように、民謡調で覚えやすい旋律と極めて単純なリズムで、イタリア人好みの情熱的なストーリーが展開するオペラをたくさん作曲しました。そんなヴェルディのオペラは、聴衆からとても愛されて、彼はスカラ座の人気作曲家となりました。そしてヴェルディは、劇場から作曲の報酬が入るたびに、土地を購入し、農園にして財を増やしていきました。ヴェルディの故郷は、彼が作曲活動をしていたオペラの殿堂スカラ座がある都会ミラノではなく、クリーミーで濃厚なパルミジャーノ・チーズの名産地パルマの小さな村です。父は居酒屋を経営し、音楽家として独り立ちするためには、ゼロからキャリアを積まなければならなかった苦労人のヴェルディは、都会のミラノで、成功しても、放蕩な生活は送らなかったのです。1813年に生まれて、1902年に亡くなったヴェルディが活躍した19世紀は、クリミア戦争やアメリカ南北戦争、イタリアの統一運動、明治維新など、戦争のたびに政治の仕組みは転覆しました。国が運営する年金制度は、整っておらず、芸術家のパトロンだった王侯貴族たちは権力の座から退き、現役で演奏できなくなった音楽家が悲惨な晩年をおくるケースも稀ではなかったのです。87歳まで長生きしたヴェルディは、そんな同胞の様子に心を痛めて、舞台から降りた音楽家たちが、みじめな引退生活を送らなくてもよいようにと、「音楽家憩いの家」を建設したのでした。映画「トスカの接吻」では、ヴェルディの大いなる愛情に包まれて、音楽に満ちあふれた幸せな老後をおくる歌手や指揮者が登場します。彼らは皆、建物の中でも、男性はネクタイ姿、女性はアクセサリーをつけて、いつ訪問客が来ても応対できるような服装と心持ちで暮らしています。ただ、歩くのに、ちょっと杖の助けがいるくらいで、往年の全盛期を彷彿させるような迫力ある声で歌い、演奏しながら「トスカの接吻」に登場する引退した音楽家たちは日々を過ごしています。もしも、彼らが、音楽を生業としてこなかった人たちの集団に、たった独りで、放り込まれて、引退生活を送らなければならないとしたら、さぞや、生気を失い、哀しみに満ちた晩年に、なるでしょう。音楽だけでなく、どんなことも、生涯をかけて取り組んできた仕事を、老いのために、すべて手放し、あきらめてしまうのは、哀しすぎます。また、「音楽家憩いの家」では、未来を担う若者にとっても貴重な場です。引退生活をおくる音楽家たちのもとに、世界中から音楽家を目指す若者たちが、大先輩たちの教えを乞いにやってくるのです。音楽の細かい技術や微妙な解釈は、直接に対面でないと伝わりにくいものです。「音楽家憩いの家」では、次世代への技術伝習にも、大役を果たしているのです。先日、11月16日から、突然、何かに背中を押されるような思いに駆られて、岐阜県の美濃和紙の里までオートバイで行ってきました。そこで、まさしく、映画「トスカの接吻」の「音楽家憩いの家」のような光景に出会いました。私が訪れた美濃の蕨生(わらび)地区は、奈良時代から紙漉きが盛んで、1400年前からの手漉き和紙の伝統を守り続けています。和紙は、明治維新以来、日本人の暮らしの西洋化が進むにつれ、機械で大量生産する洋紙にその地位を奪われ、日本各地に存在した手漉き和紙の職人たちは姿を消していきました。和紙の需要が激減したので、手漉き和紙職人たちは、生活ができなくなったのです。美濃和紙の職人たちも例外ではなく、手漉き和紙を生業としていた家は、つぎつぎと廃業していく中で、古田行三氏が、先頭にたち美濃和紙の手漉き技術の伝統と保存に尽力しました。古田氏は、単に、伝統技術保存だけでなく、その環境も大切だとして、明治5年に建てられた伝統的な日本家屋に住み、手漉き美濃和紙を漉き続けました。しかし、古田氏は、1994年に亡くなり、御子息も跡を継がれませんでした。古田氏の紙漉きの技は途絶えたのでしょうか?いいえそうではありません。美濃和紙の魅力にはまった、関西出身の可愛いらしい女性が、古田氏が存命中にその技術の教えを乞い、今では立派に独り立ちし、美濃和紙の未来は彼女の双肩にかかっているほどに、成長されています。私は、ちょうど、その女性が、故古田氏の遺した明治の建物の日当たりの良い庭先で、作業をされているところに、お邪魔しました。

クーポラだよりNo.55~マカロニ・ウェスタンと星降る夜のリストランテ~

マカロニ・ウェスタンは、イタリア人監督が作った西部劇を指す和製の英語です。昭和の時代に、お茶の間のテレビのブラウン管から、「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ、」と、上品でユーモラスな語り口の映画解説者として庶民に親しまれた淀川長春が、マカロニ・ウェスタンの代表作品「荒野の用心棒」を日本に紹介する際に、アイデアを出したとされる俗語です。「荒野の用心棒」は、セルジオ・レオーネが監督し、のちに「ニュー・シネマ・パラダイス」を手掛けるエンニオ・モリコーネが音楽を担当、主役の名無しのガンマンには、まだ若手の駆け出しだったアメリカ俳優のクリント・イーストウッドでした。マカロニ・ウェスタンの代名詞「荒野の用心棒」は世界的な大ヒットを飛ばし、クリント・イーストウッド主演で「夕陽のガンマン」、「続・夕陽のガンマン」の続編が製作されました。マカロニ・ウェスタンは、1960年代から1970年代にかけて500本以上、イタリア人スタッフによって大量に製作され、撮影地も、コストが抑えられる理由で、本場のアメリカではなく、スペインなどが選ばれました。そして、役者陣には、クリント・イーストウッドやヘンリー・フォンダのように、アメリカ俳優が起用されることもありましたが、ジュリアーノ・ジェンマや、フランコ・ネロといったイタリアの人気俳優や、「男と女」で名を馳せたフランス俳優ジャン・ルイ・トランティニャン、「テス」で、野生的で、素晴らしい美貌の持ち主の女優ナターシャ・キンスキーの父で、西ドイツの個性的な俳優クラウス・キンスキーなど、ヨーロッパの俳優が起用されました。マカロニ・ウェスタンは、ヨーロッパ大陸内で、寄せ鍋風なユニークな製作手法で成功した映画ですが、もっともユニークなことは、役者のセリフがイタリア語で収録されたことでした。日本のテレビ番組で、マカロニ・ウェスタンが放映されはじめたのは1970年代です。1970年代の当時、小学生だった私は、平日は夜9時に就寝することを両親から厳しく言い渡されていましたが、土曜日だけは例外で、夜11時まで「土曜映画劇場」という名作映画を紹介するテレビ番組を見ることが許されていました。この「土曜映画劇場」で、私は人生初のマカロニ・ウェスタン、フランコ・ネロ主演の「真昼の用心棒」を見たのです。残念ながら映画本編の役者のセリフは日本語吹き替えが行われ、ガンマンたちの「チャオ」や「ボン・ジョルノ」と、イタリア語であいさつを交わす貴重な場面には、遭遇しませんでしたが、映画のテーマ音楽の歌だけは、原語のイタリア語でした。「真昼の用心棒」のテーマソングは、1968年サンレモ音楽祭「カンツォーネ・ペル・テ(君のための歌)」で、優勝したセルジオ・エンドリゴが歌っていました。

クーポラだよりNo.54~朴葉味噌と熊谷守一とピカソ~

モクレン科の落葉樹、朴(ほお)木の葉を使ったユニークな料理があります。飛騨高山地方の郷土食、朴葉(ほおば)味噌です。朴(ほお)の木の枯れ葉にネギや生姜などの香辛野菜やキノコ、鮭などを混ぜ込んだ味噌をのせて、直火でゆっくりとあぶりながら、熱々をいただくのが朴葉味噌です。この朴葉味噌に私が初めて出会ったのは、三か月前、5月に行われたオートバイ・ラリーの帰路に、宿泊した岐阜県白川村の温泉宿の朝ごはんの時です。白川村の温泉宿の朝ごはんは、茶室のように上品な床の間付きの和室に用意されていましたが、見慣れた和風の朝食のおかずの品々の中に、面白い一品がありました。それは、ひとり用の卓上炭火コンロに、鉄鍋や土鍋の代わりに大きな楕円形の枯れ葉が火にかけられ、その葉の上で、お味噌が、ふつふつと煮えていました。お味噌は豆味噌らしく、艶のある赤レンガ色で、味噌の表面からは、ネギやキノコが顔をのぞかせています。「お匙(さじ)で混ぜて、味噌を焦がしながら、ごはんといっしょに、召し上がってください。」と、給仕の仲居さんから食べ方を教わりました。味噌好きな私は、普段から、サバの味噌煮や牡蠣の土手鍋、田楽など、白ごはんと相性の良い味噌料理をいろいろ料理してきましたが、落ち葉を炭火で直接あぶって、お味噌を焦がしながらいただく、という野外料理のように素朴な食べ方の朴葉味噌の存在は、この時初めて知りました。教わったとおり、炭火コンロで枯れた朴葉をゆっくりとあぶりながら、熱々の焦げたお味噌で、白ごはんをいただきました。

クーポラだよりNo.53~「エリーゼのために」と「愛のロマンス」とアルペジオ~

『エリーゼのために』を弾けるようになるまで、娘がピアノを続けていたらなぁ。音楽鑑賞がお好きな、ある知人の男性が、そう言いました。その男性の娘さんは、お父様が憧れていた『エリーゼのために』を弾けるようになるまでは、習い事のピアノを続けなかったのです。私は、その男性のお気持ちも、そして娘さんのお気持ちも、とてもよくわかります。ピアニストレベルの技術を習得するには遅すぎる、中学生からというスタートで、ピアノを習い始めた私も、ピアノを習う以前は、その男性のように『エリーゼのために』に憧れを抱いていました。流れるような伴奏と、もの悲しく民謡調の素朴な旋律の『エリーゼのために』に、小学生時代の私は恋をしていた、といっても過言ではありません。そしてこの美しく小さな音楽を、我が指で、奏でられたら、どんなに素晴らしいだろうと想像し、いとこの、お下がりの古いオルガンで、毎日飽きもせずに、小学生の私は『エリーゼのために』を独習したものです。自分なりに工夫し、何か月も、練習してみましたが、結局、独習では、『エリーゼのために』を、曲の冒頭から最後まで、よどみなく弾けるようにはなりませんでした。楽譜を一見すると、音符の数が、さほど多いわけでもなく、とりたてて、テンポが速いわけでもないのに、独習時代の私の『エリーゼのために』は、音がつながらず、つまずいたようにしか弾けませんでした。『エリーゼのために』の他にも、同じように憧れて、独習した曲があります。映画「禁じられた遊び」のテーマ曲になった『愛のロマンス』です。「禁じられた遊び」の監督は、アラン・ドロンを世界的スターに押し上げた「太陽がいっぱい」を監督した、フランスの名匠ルネ・クレマンです。「禁じられたあそび」の主役は5歳の少女ポーレットと10歳の少年ミシェルです。