クーポラだよりNo.121~高田硯と習字の先生とメルカリ~
手放せずにいたものをメルカリと呼ばれるインターネット上のフリーマーケットに出品しています。手放せずにいたものは、たくさんあります。
夫が大好きだったオートバイ用品や、仕事で使っていたカメラ、趣味の模型やそれらに関する膨大な書籍です。
それらは生前の夫が、どこに何があるかを瞬時に見つけだせるようにと、壁一面の棚に並べて収納しているので、我が家はまるで博物館か図書館のようです。
手放せないものを、思い出という感傷的な感情抜きにして、使う、使わないかの二択でふるいにかければ、一日の大半を生徒とのレッスンや歌やバレエのお稽古に費やす私にとって、大半は不要品です。
整然と収納してはいるけれど、我が家のモノは、それを必要とする主(あるじ)を失ったものばかり、それらに囲まれて暮らす私はまるで不要品倉庫の番犬のようです。
ある日それに気が付いた私は、夫のものを喜んで使ってくれる人と出会えるチャンスがあるメルカリに出品し始めたというわけです。
そしてそれに気づくきっかけをくれたのは、夫の母の硯です。
その硯はしっかりとした和紙の箱に入っており、蓋を開けるとクチナシ色に染められた布に包まれ、硯の裏面には「百歳記念 高井慎一郎 昭和51年9月12日」の刻印があり、実際に使った形跡はありません。
高井慎一郎は夫の母方の親戚で、勝山町の町長を務めた人物でした。
元勝山町長百歳の祝い品として配られたその硯は高田硯と呼ばれる県指定の伝統工芸品です。
硯の原石である高田石は、1億4千万年前頃に堆積した関門層群と呼ばれる黒色粘板岩で、勝山町で採掘されるとても貴重な石です。
高田硯の伝統は古く、室町時代の文献にまで遡ることができ、高田城の重臣・牧兵庫助が、豊後の大友宗鱗に高田硯を送ったと「牧文書」に記されています。
現存する最も古い高田硯は、江戸時代初期の寛永20年、作州高田住村上氏の銘のあるものですが、この頃盛んに製作されていたらしく、寺の過去帳にも硯屋何々とよく登場します。
江戸時代中期の明和元年(1764年)、三浦氏が高田城主となりましたが、初代の三浦明次公は名筆家の誉れが高く、原石を藩有として乱堀を防ぎ保護しました。
また、代々藩主交代のときには高田硯を将軍家へ献上するのを例としてきました。
高田硯はすべての工程を手作業で行われ、完成したものは、気品あふれる漆黒の光沢が特徴で、石が軟らかく、墨が良く乗り、水持ちが良いという性質があります。
私は高田硯の名前くらいは知っていましたが、実際に使ったことも、見たこともないはずなのに、和紙の箱の蓋を開けて、それを手にとって眺めていると、懐かしい記憶がふいによみがえりました。
50年以上前、小学4年生の頃、私は確かに高田硯を見たことがあるのです。
当時10歳の私は岡山市内の団地に住んでいましたが、その同じ団地内で書道を教えくれる先生のお宅へ週一度、通っていました。
書道教室が開かれる日、先生のお宅にあがると、弟子たちは部屋の隅に立て掛けてある折り畳み式の長机を2つ並行して広げ、弟子の数だけ座布団をポンポンと置いて、即席の教室をつくります。
先生の教え方は学校のように一斉式ではなく、子供たちの習熟度によって課題の文字を与えます。
子供たちは与えられた文字を練習し、上手く書けたと思ったら、先生に見てもらい未熟なところは朱色の毛書で訂正してもらい、良く書けているところは〇をもらい、全部良かったら、書全体に大きな花〇をもらって喜んでいました。
私はそんな先生の教え方が大好きで、一生懸命に練習し、通い始めて1年足らずで、毛筆検定の初段までとっていました。
もう先生のお名前もお顔も覚えてはいませんが、壁に飾られていた掛け軸の達筆の毛書について、質問したことだけは、はっきりと記憶しています。
その書は先生の書で、先生が大きな展覧会で賞をいただいた時のものでした。
「先生、どうやったらこんな風に書けるの?」
先生は子供の質問の意味がよく理解できる素晴らしい指導者でした。
「あのね、としこちゃん、この字は、みんなが当たり前に使っている墨汁では書けないの。書を書く時、本当はね、固形の墨を自分で擦るものなのよ。心をこめて、硯に向かって一生懸命に墨を擦るの。この掛け軸の字は大きいでしょう? だから硯いっぱいに墨を擦っても、たった一文字しか書けないの。
一文字書いては墨を擦り、また一文字書くことの繰り返し。先生がこれを書き上げたときは、真冬の早朝から一心不乱に墨を擦り始めて、夕方までかかってようやく一枚完成させたのよ。」
先生はそう説明すると、私が今日書いた文字を朱色の文字で直してくれました。先生が直してくださると、文字にバランスがとれて美しく見えてくるので不思議です。
ふと先生の硯に視線を落とすと、私が使っている学童用の小さな角ばった硯ではなく、角がなだらかな曲線に落ちたどっしりとした硯でした。
とっさに私は思いました。「ああ、先生は、きっとこの硯で墨を擦ったのだ。」
あのとき先生が使われていた硯は、高田硯に違いないのです。
改めて思い返してみれば、先生はよくもあんなに狭い団地の一室で教えておられたものだと感心します。
先生のお宅は、私が住んでいた団地と同じ間取りなので、台所をいれても部屋数は3つ、書道教室として使っていた部屋は和室の6畳でした。
先生は結婚されていて、息子さんは大学生で外に出られて、ご主人とふたり暮らしだったと記憶していますが、よほど子供たちに書道を教えることがお好きだったのだろうと思います。
使わない時は立て掛けてあるとはいえ、大きな長机は幅を利かせ、大勢の子供たちが出入する部屋は汚れもひどくて掃除が大変だったろうと思います。
しかし先生はいつも熱心に子供たちに書道を教えておられました。
きっと、書道に必要なもの以外は、モノを持たないようにして、子供たちに書道を教えるために、空間を作っておられたのだと思います。
なぜそう思えるかというと、今の私がその書道の先生と同じ心境だからです。
バレエや歌やピアノの生徒さんが増え始め、彼らのために、少しでも広い空間を作ってあげたいと思うようになったからです。
我が家が何歳になっても、学ぶことへ意欲ある人たちが集う場所となるなら、夫のものをメルカリで売っても、夫はきっと許してくれることでしょう。
2025年4月1日
大江利子
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