クーポラだよりNo.61~後楽園のタンチョウと羽衣伝説~
白くて大きな鳥の立ち姿は、人を思わせます。
私の故郷、岡山の後楽園では、8羽の丹頂鶴が、檻の中で飼育されています。
かつて後楽園では、丹頂鶴が園内を自由に飛び回っていたこともありましたが、今では、元旦と1月3日、その他、年にわずか数日、しかも一日1時間程、放鳥されるだけです。
丹頂鶴が放鳥される日には、大勢のアマチュアカメラマンたちが、ご自慢の一眼レフカメラを手に、後楽園にやってきます。
先月の2月2日の日曜日、希少な丹頂鶴の放鳥日でしたが、その放鳥タイムに、私は偶然、後楽園に居合わせていました。
その日は、九州の友人が私に会いにきてくれた日で、遠方からやってきてくれた友人に、早春の後楽園を案内したいと来園して、幸運にも、丹頂鶴の放鳥タイムと重なったのです。
芝生が広がる園内の小道には、巨大な望遠レンズを構えたアマチュアカメラマンたちが、我先にと、シャッターチャンスに有利な場所を陣取っていました。
私と友人は、撮影の心得もなく、スマホのオートマチックなカメラ機能を使うのが、せいぜいでしたので、気合が入っているカメラマンたちの邪魔にならないように、少し離れたところで、丹頂鶴が飛んでくるのを待ちました。
すると、驚いたことに、2羽の丹頂鶴は、私と友人を目指すように、まっすぐに、こちらに向かって飛んでくるではありませんか。
そして、手を伸ばせば、触れられるほど近くに、2羽は舞い降りて、その場を動きません。
私と友人は、思う存分にスマホカメラで丹頂鶴を撮影したのは言うまでもありません。
2羽の丹頂鶴は、長いくちばしで、芝生をつつき、リラックスした様子でした。
ときおり、丹頂鶴は不意に、顔をあげて、じっとこちらを見つめます。
丹頂鶴の瞳は、黒くつぶらで、綺麗な女性から見つめられているようで、胸がドキドキしました。
2羽は、私達の側から離れようとしないので、飼育員さんが、カメラマンたちが構えている場所の方へ誘導しにやってきました。
飼育員さんに促されるようにして、2羽は、細くて長い足で、ゆっくり歩いて私たちから遠ざかっていきました。
丹頂鶴の立ち去る後ろ姿は、黒い帯をしめた、純白の振袖を着た乙女のようでした。
2羽が、去ったあと、別の4羽が、放鳥されましたが、やっぱり私たちの方へ飛んできました。
カメラマンたちの嫉妬の視線を感じた私たちは、その場所を早々に離れました。
それにしてもなぜ、丹頂鶴たちは、私たちの近くにばかり飛んできたのでしょうか。
恐らく、丹頂鶴たちはカメラを向けられることが嫌だったのだろうと思います。
鳥にとって、巨大な望遠レンズは、恐ろしい一つ目怪獣のように見えるのかも知れませんし、また、シャッターチャンスを狙って、躍起になっているカメラマンの姿は、彼らの祖先から受け継いだ記憶から、その昔、鉄砲で彼らを捕獲しようとした恐ろしい猟師の姿と重なったのかも知れません。
いずれにせよ、邪心や欲が見える人間の近くには、野生の鳥はやってこないものです。
丹頂鶴のように、人の姿に見えるほどの大きな白い鳥は、世界各地の天女の伝説に登場します。
天女の伝説には、いくつかパターンがありますが、だいたいどのパターンも、美しい水辺に白い鳥の衣を着た天女が、舞い降りて水浴びをします。
その水浴びの様子を見て、天女に恋をした人間の男性が、天女の鳥の衣を隠してしまいます
衣を隠されて、天上に帰れなくなった天女は、人間の男性と結婚し、子供を産みますが、ある日、衣を見つけて、天に帰ってしまいます。
天女は、夫も子供も地上に置き去りにする場合、子供だけ連れて行く場合と、伝説により多少違いがありますが、共通するのは、天女を娶る人間の男性が、誠実で真面目だということです。
誠実で真面目な男性だけが、天女の水浴びを目撃できるような幸運に恵まれる、という、昔の人の教訓なのかも知れません。
静岡県の三保半島には、天女の伝説の中で、最たる真面目な男性が登場する伝説が残っています。
「三保の漁師の白陵(はくりょう)は、いつも漁をする海岸の松林の1本の松の木から、とても良い香りがするので、近づいてみると、その枝に美しい羽衣を見つけました。羽衣は、天女が水浴びのために、脱いで、松の枝にかけたものでした。羽衣のあまりの美しさに、白陵はそれを持ち帰り、家の宝にしようとしましたが、天女から、羽衣がないと天に帰れることができないと、懇願されて、返します。ただし、天上の舞いを、舞ってほしいという、交換条件をつけて。天女は喜んで、舞いを舞い、天上へ帰っていくのです。」
つまり、三保の漁師の白陵が欲したものは、舞いを見ることだけで、他には、何の見返りも求めなかったのです。
この無欲で清らかな伝説は、日本の伝統音楽の能「羽衣」になりました。
また、能「羽衣」の存在を知り、感動したフランス人のバレリーナ、エレーヌ・ジュグラリスは、「羽衣」をモダンバレエにして、1949年、フランスで大成功しました。
エレーヌは現代舞踊の祖と仰がれる、イサドラ・ダンカンの手ほどきを受けた優れたバレリーナでした。
しかし、バレエ「羽衣」に情熱を傾け過ぎたエレーヌの肉体は燃え尽きて、35歳という若さでこの世を去りました。
エレーヌは、「羽衣」の伝説の舞台、三保の松原の地を踏むことに憧れ続けていましたが、あまりにも短い彼女の生涯に、その機会が訪れることはありませんでした。
彼女の遺言により、夫君の手によってエレーヌの遺髪だけが、天女が羽衣をかけたと伝えられる松の木の傍の碑に納められています。
先日、私は、執筆の取材のために「羽衣」の伝説の地、三保の松原を訪れました。
三保の松原は、能「羽衣」の他に、富士山の景勝地として世界遺産に登録された美しい海岸でもあります。
私が訪れた日の三保の松原は、雲一つなく、松林の続く白い砂浜と青い空と海に、富士山が浮かび、歌川広重の描くコバルトブルーの浮世絵の世界そのものでした。
エレーヌの遺髪が納められた碑には、松の木の枝の間から漏れる、春の陽光が、子守唄のように優しく降り注いでいました。
無欲な天女伝説「羽衣」に、価値を見いだして、情熱を傾けたフランス人のエレーヌの碑を見つめ、松原を抜ける清涼な風を頬に感じながら、私は、日本の自然の美しさと日本人の美徳を再認識しました。
そして自分はまだ生きていて、自分の手で、未来を作りだすことができる時間が残されている幸運に恵まれていると、実感したのです。
2020年3月29日
大江利子
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