クーポラだよりNo.60~鏑木清方の初雁の御歌(はつかりのみうた)と雁皮紙(がんぴし)~
初雁を 待つとはなしに この秋は 越路の空のながめられつつ
(待っていたわけでもないのに、貴方がおられる越後の方向の空を眺めていますと、初雁を見ました。)
この歌の作者は、明治天皇の皇后です。明治11年8月30日、明治天皇は、北陸・東海道の巡行に出発し、巡行は、長期におよび、明治天皇が皇后の元に帰ってきたのは、71日後の11月9日でした。
巡行中の夫の身を案じて、詠まれたこの歌は、明治11年9月26日、悪天候で、夕闇迫るころ、やっと北陸の行在所(あんざいしょ)に到着された天皇をねぎらうかのように届けられたのです。
夫への優しい愛を象徴した、「初雁の御歌」は、絵画に描かれ、聖徳記念絵画館で観賞できます。
聖徳記念絵画館は、明治天皇の崩御後、建築された美術館で、国内の画家80人が天皇と皇后の遺徳を描いた歴史画80点を、史実順に展示し、「初雁の御歌」は40番目の日本画です。
「初雁の御歌」を描いたのは、鏑木清方(かぶらききよかた)です。
鏑木清方は1878年(明治11年)、東京の神田に生まれ、1972年(昭和47年)鎌倉で没した日本画家です。
清方に絵を勧めたのは、小説家であり、ジャーナリストであり、起業家だった父です。
毎日新聞の創立に参加した清方の父は「やまと新聞」を創刊、社長に就任、清方が生まれ育った家には、父の仕事の関係者の小説家や、挿絵画家が大勢出入りしていました。
清方が幼い頃は、写真はまだ普及しておらず、新聞には、挿絵が描かれ、挿絵画家は、人目に触れる機会の多い華やかな職業でした。
清方は13歳の時に、歌川流の絵師、水野年方(みずのとしかた)のもとに弟子入りします。
清方本人は文学に素養があり、小説家にも興味がありました。しかし、師匠のもとで、徐々に画力を磨き、15歳頃から、父の新聞の挿絵を描いていました。
19歳の時に、父と縁故の無い、東北新聞から挿絵を任され、一人前の挿絵画家として認められます。
しかし、挿絵は、題材を画家自身が、決めるわけではなく、記事の内容に合わせた絵を描くだけなので、自由な画題で創造的に描くことができる日本画家へと、清方は、次第に方向転換します。
清方が日本画家へ、大きく方向転換するきっかけになったのは樋口一葉を画題にした絵です。
24歳の若さで夭折した樋口一葉の愛読者だった清方は、一葉の墓を探し出し、お参りし、その墓をスケッチしました。
清方は、そのスケッチをもとに、一葉の小説「たけくらべ」主人公の美登利が、一葉の墓を抱いている構図の日本画「一葉女史の墓」を描きました。
この「一葉女史の墓」は、芝居や、映画のワンシーンのように、劇的で、衝撃的で、小説家になりたかった清方の文才と絵の才能とが融合した傑作です。
「初雁の御歌」は清方54歳の時の作品で、雁の群れを眺める美しい皇后さまの心情を円熟味の増した画力で見事に描いています。
先月、私は、絵の観賞とは別の目的で聖徳記念絵画館に訪れ、偶然に、この「初雁の御歌」を見ました。
私の目的は、「神宮紙」という土佐で漉かれた和紙のことを調べるためです。
「神宮紙」とは、天皇と皇后を描いた絵が、正倉院の和紙のように、千年保存できるようにと、特別に漉かれた和紙です。
神宮紙を任された人は、土佐の伊野出身の中田鹿次で、彼は熱心な製紙研究家であり、彼が創業した中田製紙工場は、明治33年から昭和25年までの半世紀にわたって土佐屈指の大規模工場として栄えました。
しかし、採算を度外視した中田の工場は経営が悪化し、後継者のいない彼が引退後、工場は倒産し、神宮紙も門外不出であったため、その製法とともに滅びました。
けれども中田が、混ぜ物を一切使わずに、漉いた3m×3mの巨大で美しい神宮紙は、これまで絹本(けんぽん=書画のための絹の紙)が描くことが常識だった日本画家を開眼させます。
この中田鹿次のことは、私が読んでいた和紙の本「和紙風土記」の中に紹介されていました。
2年前から、私は日本独自の和紙、雁皮紙の存在を知り、和紙の本を読み漁っていて中田鹿次と神宮紙の知識を得たのです。
雁皮紙はとても魅力的で、知れば知るほどに惹かれ、ゆかりの地を訪問し、ついに、日本一手漉きで、雁皮紙を大量生産していたのは、土佐の伊野町だったことも突き止めました。
その伊野町出身の製紙家がこだわりぬき、今では、幻となった和紙、神宮紙に描かれている絵が、聖徳記念絵画館にあると知って、見に出かけたわけです。
つまり、絵を見に行ったわけでなく、その素地の神宮紙を見に行って「初雁の御歌」に出会ったわけです。
広い館内の80点の巨大な絵画を1点、1点見ていきましたが、真面目な歴史画なので、芸術的に楽しむ余地に乏しく、鑑賞する私が退屈してきたころ、40点目の魅力的な日本画に、驚きました。
描いた画家は、誰だろうと、作者を見ると、鏑木清方でした。
主張していないのに、魅力的で、見ていて飽きない絵、それが鏑木清方の「初雁の御歌」でした。
鏑木清方の日本画に、私が初めて出会ったのは、5年前の10月、広島のウッドワン美術館でした。
夫亡き悲しみのあまりに、やめてしまったことがたくさんあるなかで、私は、美術を紹介するテレビ番組を見る習慣だけは、続けていました。
5年前の10月、一周忌もまだで、家に引きこもっていた頃、テレビで紹介された鏑木清方の「朝涼(あさすず)」をどうしても見たくなり、独りで車を運転し、広島のウッドワン美術館まで行ったのです。
その日以来、私は、生気を取り戻し、悲しみの心に蓋をして、見たいものがあれば即、行動するという積極的な日々を送るようになりました。
そのおかげで、雁皮紙にまつわる小説を書くという好機に恵まれ、もうすぐ、その小説は出来上がります。
ところで、雁皮紙の「雁」の字は当て字で、なぜなのか、いろいろ調べてみましたが、わかりません。
一説には、紙のことは神と同じと考えられており、雁は、秋の彼岸に飛んできて、春の彼岸に帰っていくので、魂を運ぶ鳥、神様の遣いをする霊鳥だと考えられているので、紙(神)の王と称される和紙に、神様の遣いの鳥である雁の字を当てて、雁皮紙になったということです。
私は5年ぶりの懐かしい鏑木清方の絵、主張しないけれど、魅力的な「初雁の御歌」を見て、その説が、正しいのでは、と思いました。
2020年2月29日
大江利子
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