クーポラだよりNo.57~映画「トスカの接吻」と美濃和紙の里~


映画「トスカの接吻」は、ある老人ホームで、自分らしく、尊厳ある日々を過ごす人たちを描いたドキュメンタリーです。



「トスカの接吻」で、登場する老人ホームは、「音楽家憩いの家」という名で、イタリアのミラノに実在し、その名のとおり、引退した音楽家のための福祉施設です。



「音楽家憩いの家」は、世界の頂点にたつ、オペラ劇場「スカラ座」から、3キロほど離れた、広場の一角に位置し、大使館のような壮麗な外観で、レンガ積みの美しい建物です。



建物の内部は、ミニコンサートも可能なグランドピアノが置かれた天井の高い広間や、練習室があり、そこで引退生活を送る音楽家たちが、現役の頃と変わらずに、音楽に包まれて日々を過ごせるように、工夫や配慮がなされています。



この「音楽家憩いの家」は、イタリアの国民的作曲家のヴェルディが私財を投じて建設し、また彼の遺産で運営されてきた特別な施設です。



ヴェルディは「椿姫」や「アイーダ」、「リゴレット」などのように、民謡調で覚えやすい旋律と極めて単純なリズムで、イタリア人好みの情熱的なストーリーが展開するオペラをたくさん作曲しました。



そんなヴェルディのオペラは、聴衆からとても愛されて、彼はスカラ座の人気作曲家となりました。



そしてヴェルディは、劇場から作曲の報酬が入るたびに、土地を購入し、農園にして財を増やしていきました。



ヴェルディの故郷は、彼が作曲活動をしていたオペラの殿堂スカラ座がある都会ミラノではなく、クリーミーで濃厚なパルミジャーノ・チーズの名産地パルマの小さな村です。



父は居酒屋を経営し、音楽家として独り立ちするためには、ゼロからキャリアを積まなければならなかった苦労人のヴェルディは、都会のミラノで、成功しても、放蕩な生活は送らなかったのです。



1813年に生まれて、1902年に亡くなったヴェルディが活躍した19世紀は、クリミア戦争やアメリカ南北戦争、イタリアの統一運動、明治維新など、戦争のたびに政治の仕組みは転覆しました。



国が運営する年金制度は、整っておらず、芸術家のパトロンだった王侯貴族たちは権力の座から退き、現役で演奏できなくなった音楽家が悲惨な晩年をおくるケースも稀ではなかったのです。



87歳まで長生きしたヴェルディは、そんな同胞の様子に心を痛めて、舞台から降りた音楽家たちが、みじめな引退生活を送らなくてもよいようにと、「音楽家憩いの家」を建設したのでした。



映画「トスカの接吻」では、ヴェルディの大いなる愛情に包まれて、音楽に満ちあふれた幸せな老後をおくる歌手や指揮者が登場します。



彼らは皆、建物の中でも、男性はネクタイ姿、女性はアクセサリーをつけて、いつ訪問客が来ても応対できるような服装と心持ちで暮らしています。



ただ、歩くのに、ちょっと杖の助けがいるくらいで、往年の全盛期を彷彿させるような迫力ある声で歌い、演奏しながら「トスカの接吻」に登場する引退した音楽家たちは日々を過ごしています。



もしも、彼らが、音楽を生業としてこなかった人たちの集団に、たった独りで、放り込まれて、引退生活を送らなければならないとしたら、さぞや、生気を失い、哀しみに満ちた晩年に、なるでしょう。



音楽だけでなく、どんなことも、生涯をかけて取り組んできた仕事を、老いのために、すべて手放し、あきらめてしまうのは、哀しすぎます。



また、「音楽家憩いの家」では、未来を担う若者にとっても貴重な場です。



引退生活をおくる音楽家たちのもとに、世界中から音楽家を目指す若者たちが、大先輩たちの教えを乞いにやってくるのです。



音楽の細かい技術や微妙な解釈は、直接に対面でないと伝わりにくいものです。



「音楽家憩いの家」では、次世代への技術伝習にも、大役を果たしているのです。



先日、11月16日から、突然、何かに背中を押されるような思いに駆られて、岐阜県の美濃和紙の里までオートバイで行ってきました。



そこで、まさしく、映画「トスカの接吻」の「音楽家憩いの家」のような光景に出会いました。



私が訪れた美濃の蕨生(わらび)地区は、奈良時代から紙漉きが盛んで、1400年前からの手漉き和紙の伝統を守り続けています。



和紙は、明治維新以来、日本人の暮らしの西洋化が進むにつれ、機械で大量生産する洋紙にその地位を奪われ、日本各地に存在した手漉き和紙の職人たちは姿を消していきました。



和紙の需要が激減したので、手漉き和紙職人たちは、生活ができなくなったのです。



美濃和紙の職人たちも例外ではなく、手漉き和紙を生業としていた家は、つぎつぎと廃業していく中で、古田行三氏が、先頭にたち美濃和紙の手漉き技術の伝統と保存に尽力しました。



古田氏は、単に、伝統技術保存だけでなく、その環境も大切だとして、明治5年に建てられた伝統的な日本家屋に住み、手漉き美濃和紙を漉き続けました。



しかし、古田氏は、1994年に亡くなり、御子息も跡を継がれませんでした。



古田氏の紙漉きの技は途絶えたのでしょうか?



いいえそうではありません。



美濃和紙の魅力にはまった、関西出身の可愛いらしい女性が、古田氏が存命中にその技術の教えを乞い、今では立派に独り立ちし、美濃和紙の未来は彼女の双肩にかかっているほどに、成長されています。



私は、ちょうど、その女性が、故古田氏の遺した明治の建物の日当たりの良い庭先で、作業をされているところに、お邪魔しました。



彼女は、丁寧に、優しく、ご自分の作業工程を説明してくれました。



そして、光栄にも、素晴らしいニュースを教えてもらいました。



来年の東京オリンピックに使われる表彰状に、彼女が漉く美濃和紙が選ばれたことです。



大切なものを伝えるためには、それに相応しい建物が不可欠だと見通していた、古田氏の想いが現実となったのです。



ヴェルディは「音楽家憩いの家」を自分の最高傑作と呼んでいました。



私が暮らす、この小さな家も、私が思う存分に音出しできるようにと、夫が選びに選んだ土地に建っています。



夫の想いと思い出がたくさん詰まったこの家で、私も頑張ろうと、古田氏の愛弟子の彼女の笑顔を見ながら、心を新たにした秋の一日でした。



2019年11月29日

大江利子


クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

0コメント

  • 1000 / 1000