クーポラだよりNo.54~朴葉味噌と熊谷守一とピカソ~


モクレン科の落葉樹、朴(ほお)木の葉を使ったユニークな料理があります。




飛騨高山地方の郷土食、朴葉(ほおば)味噌です。




朴(ほお)の木の枯れ葉にネギや生姜などの香辛野菜やキノコ、鮭などを混ぜ込んだ味噌をのせて、直火でゆっくりとあぶりながら、熱々をいただくのが朴葉味噌です。




この朴葉味噌に私が初めて出会ったのは、三か月前、5月に行われたオートバイ・ラリーの帰路に、宿泊した岐阜県白川村の温泉宿の朝ごはんの時です。




白川村の温泉宿の朝ごはんは、茶室のように上品な床の間付きの和室に用意されていましたが、見慣れた和風の朝食のおかずの品々の中に、面白い一品がありました。




それは、ひとり用の卓上炭火コンロに、鉄鍋や土鍋の代わりに大きな楕円形の枯れ葉が火にかけられ、その葉の上で、お味噌が、ふつふつと煮えていました。




お味噌は豆味噌らしく、艶のある赤レンガ色で、味噌の表面からは、ネギやキノコが顔をのぞかせています。




「お匙(さじ)で混ぜて、味噌を焦がしながら、ごはんといっしょに、召し上がってください。」と、給仕の仲居さんから食べ方を教わりました。




味噌好きな私は、普段から、サバの味噌煮や牡蠣の土手鍋、田楽など、白ごはんと相性の良い味噌料理をいろいろ料理してきましたが、落ち葉を炭火で直接あぶって、お味噌を焦がしながらいただく、という野外料理のように素朴な食べ方の朴葉味噌の存在は、この時初めて知りました。




教わったとおり、炭火コンロで枯れた朴葉をゆっくりとあぶりながら、熱々の焦げたお味噌で、白ごはんをいただきました。




朴葉味噌のお味は、今まで食べてきた味噌料理の中で、群を抜いて美味しく、白ごはんを何度もおかわりしたほどです。




朴葉味噌は、私が普段、作り置きしている鉄火味噌(八丁味噌にゴボウ、するめ、ゆで大豆を入れて、お酒や砂糖であまからに味付けした料理)と同じく、練り味噌の一種ですが、芳香があって、殺菌効果の強い朴の葉っぱの上で食材を調理するので、材料本来が持つ臭みや雑味を消し、うまみだけを引き出し、しかも、少しずつ焦がしながらいただくという、いちばん美味しい瞬間を逃さず口に運べる調理法のために、とても美味しく食べられるのです。





朴の木は、その生えている根元に下草が生えないほどの強い殺菌効果を持つので、生の朴葉は、酢飯を包んで「柿葉寿司」のような香り高い「朴葉寿司」に、また、端午の節句に食べる「ちまき」のように、餅を包んで「朴葉巻」にも使われます。





朴の木材は、加工しやすいので、まな板や、建具、日本刀の鞘(さや)下駄にも利用されます。




朴の木の下駄は、「朴歯下駄」と呼ばれ、一般の下駄よりも歯が高く、バンカラな旧制学生の代名詞ともなりました。




この朴葉下駄を愛用していた、岐阜県出身の日本人の画家がいます。




「下手も絵のうち」の名言を残した熊谷守一(くまがいもりかず)です。




熊谷画伯は、明治13年(1880年)岐阜県付知(つけち)に生まれ、昭和52年(1977年)97歳まで長い生きし、スペインの巨匠ピカソ(1881年~1973年、91歳没)のように長生きした画家です。




ピカソと1歳違いで、同時代に生きた熊谷の絵は、その画風もピカソと同じように若い頃と

晩年では大きく異なります。




若い頃、青の時代と呼ばれていたピカソは、伝統的な西洋の描き方を踏襲し、写実的な絵を描いていましたが、アフリカ彫刻の出会いから、キュービズムを創始します。




ピカソの生み出したキュービズムは、ルネサンス時代に、ダ・ヴィンチの「モナリザ」で、頂点を迎えた輪郭線をぼやかし、人物も背景も生き写しのように忠実で、写実的な描く方法とは真反対で、輪郭線を太くはっきり描き、絵の対象の形をデフォルメした落書きのような画風です。



第二次世界大戦以降のピカソは、代表作「ゲルニカ」のように、激しくおどろおどろしい絵になり、晩年は、クレヨンなど使って、幼子が自然に描くような素朴で単純な絵になっていきました。




熊谷守一も、朴葉下駄を履いて上野の街を闊歩していたバンカラな学生時代には、

レンブラントの「夜警」のように、光と影を巧みに描き出し、誰よりも写実的な絵を描いていました。




しかし、名士だった父が借金を残して亡くなり、そのために熊谷も、郷里の木曽の山奥で

日傭(ひよう=材木を川を使って運搬する力仕事)して働き、何年も絵筆を折っていました。




友人の援助によって、画家として東京池袋で再スタートしたのちは、才能はあるけれど、時代に迎合した絵を描けず、貧乏のあまり、幼い我が子を死なせてしまい、その時の衝撃を、ピカソの「ゲルニカ」のように激しいタッチで「陽が死んだ日」(倉敷、大原美術館 蔵)という絵に残しました。




松尾芭蕉のように健脚で徒歩の写生旅行が好きだった熊谷も、76歳で脳卒中の発作後は、池袋の自宅から一歩も出ずに、庭で自然観察し、鳥や蝶、虫、花、食卓にのぼる餅や、飼猫を、晩年のピカソのように、子供が描いたような、わかりやすい素朴な絵を描き続けました。




ピカソも熊谷も長い人生経験を経て、到達した画風は、幼子が描くような純真無垢な絵でした。




音楽も、ピカソや熊谷の若い頃の画風のようなテクニックで人を圧倒するような演奏を目指して、日々、お稽古を積むことは自己満足しますが、鳥が歌うように、誰もが知っている音楽を、自然に演奏することの方が難しいことなのかもしれません。





なかなか、自然で素直に演奏することは難しいことですが、たくさん人生経験を積んで、朴葉味噌のように単純で素朴な音楽で、人を感動させる演奏をしたいものです。




2019年8月29日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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