クーポラだよりNo.52~「ホワイト・クロウ」と誕生日のメッセージ~


先月、映画館へ「ホワイト・クロウ」という伝記映画を見に行きました。




普段の私は、夫の遺した膨大な映画コレクションのおかげで、わざわざ映画館に足をはこばなくとも、自宅で好きな時に名画を楽しむことができますが、それでも、どうしても見たい新作映画の噂を聞くと、出かけていきます。




今回、どうしても見たかったのは、ロシア出身の男性バレエダンサー、ルドルフ・ヌレエフの伝記映画「ホワイト・クロウ」です。




ルドルフ・ヌレエフは1938年、ロシアがまだ社会主義国でソビエトだった時代に生まれた人で、21歳の時に西側に亡命し、1993年に、パリで54歳の生涯を閉じました。



舞踏芸術に身を捧げ、生涯独身だったヌレエフは、血をわけた子孫は残しませんでしたが、

バレエ界に大きな足跡を残しました。




まず、ヌレエフの登場で男性バレエダンサーの踊りに革命が起きました。




現在、男性バレエダンサーは、女性ダンサーと同等に、華やかな技術を披露します。




たとえば、古典的なバレエ「白鳥の湖」の男性主役の踊りは、プリマバレリーナ同様に、連続回転、ダイナミックなジャンプなどの大技を駆使して、舞台上を縦横無尽に踊るのが当然となっています。




そのために、男性バレエダンサーの身体は、女性ダンサーのように、美しく細身で、柔軟性もあり、トウシューズこそはきませんが、高く足をあげたり、背中を大きく弓なりに反らしたりもできます。




しかし、ヌレエフが西側に亡命する以前は、そうではありませんでした。




バレリーナの引き立て役として、男性ダンサーは、相手役を持ち上げたり、支えたりすることが主な仕事で、身体つきもスレンダーというよりは、筋骨隆々としたボディビルダー的でした。




ところが、1961年にソ連から亡命してきたヌレエフが、引き立て役の男性ダンサーにも、プリマバレリーナ同様、難易度の高い、華やかな技術を必要とする踊りを取り入れ、演技の要素も大切にし、ドラマティックで情熱的なエンターテイメントとしてバレエそのものを改革していったのです。




もともと、バレエは約400年前、ルネサンス中心地のイタリアの宮廷で、宴の催し物として発祥し、その後、フィレンツェのお姫様カトリーヌ・ド・メディスが政治結婚で、お嫁入りする際に、ナイフやフォークの食事作法とともに、フランスに持ち込み、発達した芸術です。




フランスに渡ったバレエは、踊ることを愛し、自らも舞台にたった、バレエ好きな王様、ルイ14世(ベルサイユ宮殿も建設)によって、手厚く保護され、世界最古のバレエ学校がフランスに誕生しました。



その歴史ある学校は、パリ・オペラ座バレエ学校として、現在も世界最高水準のバレエ英才教育機関として君臨し、選びぬかれた少数精鋭の少年少女たちが、パリ・オペラ座の舞台でエトワール(主役を踊るダンサーのこと)として立つことを夢見て、毎日厳しいお稽古を重ねています。




「ホワイト・クロウ」の主人公ルドルフ・ヌレエフは、パリ・オペラ座バレエ学校で学んでいる少年少女たちが目指している世界最高峰の舞台、パリ・オペラ座を拠点に、理想のバレエ像を追い求め、実現していった人なのです。




ルドルフ・ヌレエフがパリ・オペラ座にやってくるまでは、ルイ14世の時代から続いていた伝統あるフランスのバレエも停滞気味でした。



どの芸術分野も同じですが、フランスのバレエも、長い歴史を重ねる間に、伝統の踏襲のみに専念し、技術向上に欠けていました。



そこへ、まだ21歳の新進気鋭のロシア人、ルドルフ・ヌレエフの情熱的な踊りの登場で、西側のバレエ界に喝が入ったのです。



亡命前、ヌレエフは、ソビエト(ロシア)のバレエ界で、才能あふれる問題児でした。



タタール人を祖先に持ち、反骨精神が強く、民族舞踊を学んだのちに、クラシックバレエの道を目指したという、特異な舞踏歴のヌレエフは、情熱的過ぎて、ソビエト(ロシア)バレエ界では、はぐれ者でした。



また、自分の気に入らないことは、上層部の人間にも、はっきりと口にする断固とした態度は、ソビエト政府からマークされていました。



ロシア人にとってバレエは、日本の国技、相撲のような存在で、バレエダンサーは国の宝であり、ソビエト政府からみれば、政治の道具だったのです。



ソビエト国内外のどの劇場でも観客を虜にしていた才能あふれる若きヌレエフは、自分の主義主張を通し、誰の言いなりにもならなかったので、ソビエト政府に危険人物の烙印を押されて、ダンサー生命を断たれそうになりました。



情熱のままに、もっと自由に踊りたいヌレエフは、21歳の時、ついに祖国を捨て、西側に亡命したのです。



西側に渡ってからのヌレエフは、水を得た魚のように、自分の理想のバレエを追求し、周囲のダンサーを巻き込みながら、新しいバレエの道を実現していきました。



「眠れる森の美女」や『ドン・キホーテ』など、慣習的だったバレエステップも、細部まで見直しを図り、民族舞踊のステップがたくさん入ったヌレエフ流の楽しい振り付けに変えていきました。



自分が良いと思えば、柔軟な考え方のヌレエフは、ハリウッドスターでタップダンサーの

フレッド・アステアの踊りを、バレエ「シンデレラ」に取り入れるなどして、大衆文化と

クラッシックバレエを調和させました。



東洋の真珠と謳われ、70歳の今なお舞台に立っている現役プリマバレリーナの森下洋子とも共演し、「ジゼル」の名演を残しました。



これらの亡命後のヌレエフの活躍は、映像や書籍として、たくさんの記録があり、彼の足跡をたどることができます。



しかし、どの記録も、ヌレエフの亡命に焦点をあてたものではなく、華々しい彼の活躍ばかりです。



しかし、「ホワイト・クロウ」は、ヌレエフが二度と祖国に戻れず、両親や姉に危険が及ぶかもしれない恐ろしい危険を冒してさえも、亡命せずにはいられなかった、彼のバレエにかける情熱を浮き彫りにした映画でした。



26年前、夫が私に初めて見せてくれた、彼ご自慢の映画コレクションは、ヌレエフが振り付けたパリ・オペラ座のバレエ「ロミオとジュリエット」でした。




今月、夫が旅立って以来5回目の自分の誕生日のお祝いに、映画館で新作映画でも見ようかなと上映スケジュールを調べて、「ホワイト・クロウ」のことを知りました。



岡山市で「ホワイト・クロウ」が上映されるのは、私の誕生日6月26日をはさんで5日間のみ、これは、まちがいなく、夫からのプレゼントだと思い、映画館に足を運んだわけです。



「ホワイト・クロウ」とは、白いカラスを意味し、はぐれ者のことです。



夫というパートナーを失い、社会のはぐれ者になってしまったようで、孤独感に押しつぶされそうな日々でしたが、「ホワイト・クロウ」を見終えて、「自分の打ち込んできたものへの情熱を忘れないで」と、天国からのメッセージが届いた思いでした。



2019年6月29日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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