クーポラだよりNo.47~ふろくとおまけと教え子のカラオケ~
ふろくが欲しくて、雑誌を買うことがあります。
特に、年末年始には、普段なら手を出さない高価な月刊誌を、素敵なカレンダーなどのふろくの魅力に逆らえずに、ついつい買ってしまいます。
図書館に行けば、雑誌本体の中身は、無料で閲覧できますが、ふろくが欲しければ、本体を買わなければならないので、ふろくが購買意欲に与える影響は多大です。
ふろくは、もともと新聞の内容を補足説明するための図版や参考文のことでしたが、物品が“おまけ”として雑誌に付くようになったのは、明治23年に発刊された雑誌「小国民」の“すごろく”が始まりと言われています。
以降、おまけとしてのふろくは、次世代の雑誌「少年倶楽部」で大きく発展します。
「少年倶楽部」は、大正3年(1914年)から昭和37年(1962年)まで発刊された雑誌ですが、少年たちの工作意欲をくすぐるペーパークラフトがふろくについていました。
中村星果氏によって設計された「少年倶楽部」のペーパークラフトは、飛行機、戦艦、城、などで、糊(のり)を使わない差し込み式でした。
第二次世界大戦後、少年雑誌のふろくはますます進化し、金属部品を用いた組み立て式のカメラや、蓄音機、幻灯機(スライド映写機の原型)まで出現しました。
その後、輸送コストの問題から、金属部品を使ったものは姿を消し、代わりに紙だけで組み立てられるウルトラ怪獣や大阪万博のジオラマ、アポロ計画など、時代の潮流に乗ったふろくが登場しました。
少年雑誌の魅力的なふろくは、高度経済成長期の子供たちの豊かな発想を育て、工作意欲を高めるのに多いに役立ちました。
雑誌だけでなく、食べ物にも“おまけ”で文化を築いたものがあります。
海洋堂が製作しているお菓子のおまけです。
海洋堂は、現在では、アメリカの博物館や映画会社から認められるまでに成長した世界屈指の職人技を持つ模型製造会社です。
海洋堂が、手掛けたお菓子のおまけには、テレビの人気アニメ「アルプスの少女ハイジ」や「赤毛のアン」「母を訪ねて三千里」などがありますが、それらは作品の名場面を再現したジオラマで、シリーズ化されています。
そのシリーズ化されたおまけは、芸術的な域に達した精巧な出来栄えで、安価な透明ケースに収まりよく入り、狭い空間に飾って楽しむことができ、我が家にも夫が集めに集めた海洋堂のおまけのミュージアムコーナーがあります。
また、絵画をおまけに利用したものに、永谷園のお茶漬けがあります。
永谷園は、1967年から1997年まで32年間、歌川広重の「東海道五拾三次」を皮切りにゴッホやルノワールなど世界の名画を印刷したトランプ大のカードをおまけにしていました。
1970年代、私が小学生の頃、一般家庭には、まだ炊飯器は普及しておらず、ご飯を保温しておく術(すべ)もなく、冷めた残りご飯を食べるために、熱湯をかけてお茶漬けにしたものでした。
そんなとき、永谷園のお茶漬けの素は、わさびの香りが効き、香ばしいあられとパリッと乾燥した刻み海苔が入っていて、味気のない冷ごはんも、熱湯をかけるだけで、温かくて美味しい一品に生まれ変わるので、とても重宝されたのです。
私の父親は毎日晩酌をする人で、シメはいつもお茶漬けで、永谷園のお茶漬けの素で、父親のシメを用意するのが小学生だった私の役目でした。
お酒が入ると怒りっぽくなる父親は嫌いだったけれど、永谷園のおまけは東海道五拾三次のどの場面かしらと、わくわくしながら新しいお茶漬けの封をきって、広重の浮世絵のカードを見るのが、楽しみでした。
現在、私は、日常生活でストレスが溜まった時、よく美術館に出かけます。
昨秋も、東京の太田記念美術館で開催された歌川広重没後160年展に行き本物のヒロシゲブルーで東海道五拾三次を鑑賞し、贅沢な時間を過ごしてきました。
絵筆を持つわけでもなく、鑑賞するしか能がない私ですが、優れた美術作品を目にするだけで、嫌なことを忘れて、本来の自分のやりたいことに、純粋に向き合う力が湧いてくるのです。
おそらく、小学生の頃、酔っ払いの父の相手をしながら、永谷園のお茶漬けの東海道五拾三次のカードを楽しみに見ていたことが私の美術館通いの出発点なのでしょう。
私は30代の前半まで公立学校で音楽を教えていました。
音楽は、受験科目である国語、数学、英語、理科、社会が主要5教科と呼ばれるのに対して、体育、技術家庭科、美術、とともに、不要4教科と揶揄されていました。
音楽室にやってくる生徒たちは開放感にあふれ、音楽の時間は、遊びの時間と受け止めている生徒もいました。
しかし私は、不要4教科で、おまけのような科目だけれども、教え子全員に、楽譜が読めるようになってもらいたいと思い、毎授業、自作のリズム聴音をし、生徒個別にソルフェージュをし、音楽の基礎力のレベルアップに力を入れ続けました。
音楽は受験科目でもなく、就職活動の役にも立たないけれど、ドレミが読めて、リズムがわかるようになれば、その子たちは、より深く音楽が楽しめて、より心豊かな人生が送れるだろうと、信じて私は授業をしました。
そして、今年のお正月、25年振りに、私は教え子たちに再会しました。
私の教師人生の中でいちばん充実していた頃の教え子たちで、彼らが40歳になった記念の同窓会に招待されたのです。
同窓会の一次会が終わり、二次会は、教え子たちとカラオケに行きました。
25年ぶりの、教え子たちの歌声です。
彼らがどんな風に歌うのか、少々心配でしたが、無用な心配でした。
皆、それぞれ自分が選んだ歌謡曲の複雑なリズムに見事に乗って、音程を外すこともなく、誰ひとりマイクを拒むこともなく、心から、歌うことを楽しんでいる様子でした。
彼らの歌に私のリズム聴音が少しは、功を奏しているようで、教師冥利に尽きる瞬間でした。
海洋堂のジオラマも、永谷園の名画カード、少年雑誌のふろく、いずれも本体以上に人々を魅了し続けてきたものですが、おまけでは、空腹を満たすことはできません。
ただ、心が重くなった時、それらを目にするだけで、心が軽くなります。
心が軽ければ、また前を向いて人生を歩いていこうと思えます。
私の歌や文章も、おまけやふろくのような存在であり続けたいと思います。
2019年1月29日
大江利子
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