クーポラだよりNo.48~ルノワールの「ピアノに寄る少女たち」とシューマンの「楽しき農夫」~


二人の少女が楽しそうにピアノを弾いている微笑ましい絵画があります。



フランスの画家ルノワールが描いた「ピアノに寄る少女たち」です。



ルノアールが生きた時代(1841年~1919年)は、市民生活に近代化の風が吹きはじめた時代でした。



ルノアールが生まれる48年前(1793年)、フランス革命によって、絶対王政の最後の国王ルイ16世と王妃マリーアントワネットが、断頭台の露と消え、彼の祖国フランスは新しい時代に入りました。



日本の武家社会のように、ヨーロッパも何百年も封建制度によって社会が成り立ち、その頂点に立つ王侯貴族や教会の庇護のもとに、芸術家は活動し、生計をたてていました。



もしも、それに反旗を翻した生き方をすれば、モーツァルトのような天才でも、貧困のうちに35才で亡くなるという悲運が待ち受けていました。



また、モーツァルトよりも71年前に生まれたバッハは、雇い主の教会に従順ではありましたが、その才能に相応しい待遇と評価を受けられず、視力を失ってさえも、身を粉にし、死ぬまで作曲し続け、バッハの未亡人は生活に困窮し、彼女が入るお墓さえありませんでした。



けれども、イギリスに産業革命がおこり、手工業で生産していたものが工業化され、労働者の賃金が向上し、市民生活が豊かになり、ヨーロッパ社会全体に近代化の波が押し寄せると、芸術家の表現も自由になってきました。



権力の座を追われた王侯貴族に代わって、芸術家を支えるのは市民たちであり、彼らの日常生活から生まれる素直な感情や幸せな風景を表現するのにふさわしい、新しい表現方法が探求されはじめたのです。



つましい仕立て屋の父とお針子の母の間の、7人兄弟の6番目の息子として生まれたルノワールは、音楽と絵の才能に恵まれた少年でしたが、生活のために、13歳から磁器の絵付け職人として働きはじめます。



少年ルノワールは、真っ白な磁器に花束や、マリーアントワネットの横顔を、4年間、描き続けましたが、工業化の時代の波に押されて、彼が働いていた工房は手作業の絵付けをやめてしまいます。



働く場所をなくしたルノワールは、扇子にロココ調の画家の絵を複写したり、日よけの絵付けなどで、賃金を稼いでいましたが、画家となるために、19歳で本格的な絵画の勉強を始めます。



青年ルノワールは、ルーブル美術館に展示されているルーベンスやフラゴナールを模写し、画塾で師匠につき、官立美術学校にも入学し、モネ、セザンヌら、後世に印象派と呼ばれた画家たちと親交を結びます。



23歳で、早くもプロの画家としての登竜門であるサロン(官展)に入選しますが、自分の作品に納得いかないルノワールは、前衛的な画家たちのグループ展(印象派展)に、作品を出品し続けます。



当時のサロン(官展)では、歴史や文学、宗教に題材をもとめ、描き方もレオナルドダヴィンチの絵のように輪郭線も筆跡もない写実的な絵が評価され、平凡な市民の幸せそうな日常生活を、大胆な筆さばきで描いたルノワールの絵画は、サロン(官展)の基準からは大きく逸脱していました。



しかし、見る者を幸福に包むルノワールの明るい絵画は、次第にサロン(官展)の基準を覆し、前衛的な印象派も超越し、ルノワール独特の画風が、大衆からも国からも支持され、愛されるようになります。



「ピアノに寄る少女たち」は、1892年ルノワールが51歳の時、国から求められて描いた作品です。



ピアノは、当時のフランス市民生活で、少女のたしなみのひとつとされ、「ピアノに寄る少女たち」はまさに時代を映している幸せなひとコマです。



日本では、「ピアノに寄る少女たち」より80年ほど遅れて、昭和40年代から50年代(1970~1980)にかけてピアノブームがありました。



私の少女時代はまさに、そのブームと重なり、小学校の級友には、ピアノを習っている女子が複数名いて、彼女たちの口からは、「バイエル」という名前がよく出てきました。



小学生の時、まだピアノを習わせてもらえなかった私には、「バイエル」の意味すらわからず、「バイエル」という響きが魔法の国の扉を開く呪文のように聞こえたものでした。



中学1年生の夏から、念願のピアノを習わせてもらい、やっと「バイエル」とは、ピアノの初学習者向けの教則本の題名で、バイエルには上下巻あり、上巻は赤バイエル、下巻は黄バイエルと呼ばれていることを知りました。



独学により、簡単な楽譜なら読めた私は、下巻の黄バイエルからスタートしました。



指の訓練に特化した黄バイエルの中身は、曲名を持たない番号だけの無味乾燥な練習曲ばかりなのですが、ところどころに、題名がついた小さな曲が載っていました。



そして、黄バイエルの最後の練習曲番号はNo.105ですが、そのあとには、とても素敵な曲が載っていました。



ドイツの作曲家シューマンの「楽しき農夫」です。



シューマンは画家ルノアールよりも31年前の1810年に生まれた人で、この「楽しき農夫」は、シューマンが小さな子供のために作曲した曲集「子供のためのアルバム」の中の1曲です。



シューマンは同じ歳のショパンや1歳年下のリストと同様にピアノという楽器をとても愛した作曲家です。



ただし、リストやショパンのように、ピアノの演奏をひきたてるために、華やかな技術を誇示するような作曲をせずに、曲の内容にふさわしい音楽を作曲し、「楽しき農夫」のようにピアノを習い初めて間もない人でも、十分に楽しめる小さな曲をたくさん作りました。



シューマンには愛する妻クララがいましたが、彼女への想いを音楽にした小さな歌曲もたくさん作りました。



シューマンは心の病から46歳の若さで亡くなりますが、人の心の繊細な動きや感情を音楽で表現したシューマンの音楽は、色あせず、その美しさは普遍性を持っています。



ルノワールが描いた「ピアノに寄る少女たち」もまた普遍的な美しさをたたえています。



ルノワールはシューマンよりも32年も長生きして、78歳で亡くなりますが、後半生はリューマチを患い、車椅子生活で、リューマチのため握れなくなった絵筆を指に紐で縛り付けて、亡くなるその日の朝まで描き続けました。



「ピアノに寄る少女たち」を描いた51歳の時、ルノワールにはすでにリューマチが始まっていましたが、絵の中にはその病気の影など微塵もありません。



激しく暗い感情を盛り込んだ芸術表現は、ドラマチックで人を惹きつけますが、シューマンもルノワールもそこには目を向けませんでした。



生前ルノワールは、幸福そうな女性ばかりを描く理由を尋ねられたところ、「僕たちの人生には醜いものが十分にあるから、絵画にまで持ち込まなくていい」と答えました。



もしも、シューマンに同じ質問をしても、ルノワールと同じ答えなのではないでしょうか。



そして私も、人生で醜く、つらいことがあっても、ピアノが毎日弾けて、歌えることは、幸せなことだと思えるのです。



2019年2月28日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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