クーポラだよりNo.45~菊花展と堺市の講談師と「まあだだよ」~
映画「まあだだよ」は、黒澤明監督の遺作です。
お百姓に雇われた浪人の武士が、村を守るために野武士と戦う「七人の侍」や、負け戦で生き残った姫と侍大将が、お家再興を目指して、敵地を抜けて国越えをする「隠し砦の三悪人」など、黒澤監督のモノクロ時代のサムライ映画は勇猛果敢なアクションと荒唐無稽なストーリーで、スピルバーグやジョージ・ルーカスなどの海外の監督達に大きな影響を与えてきました。
観た人は、遊園地のジェットコースターに乗ったようにハラハラドキドキする「七人の侍」のことを、「ステーキの上に、うなぎのかば焼きを乗せ、カレーをぶち込んだような」と自ら表現した黒澤監督ですが、意外にも彼の最後の作品は、ある小説家の晩年の日常生活を描いた穏やかな作品「まあだだよ」でした。
「まあだだよ」の主人公は、岡山出身の小説家、内田百閒(うちだひゃっけん)です。
百閒の生家は「志保屋」という老舗の造り酒屋で、岡山市の観光名所、後楽園と同じ町内、古京町にありました。
造り酒屋の跡取り息子として、祖母から大切に育てられた百閒は、16歳で父が亡くなり、家業が没落するまでは裕福な少年時代を郷里の岡山で過ごしています。
明治時代、岡山で最初の本格的な洋食屋として開店したレストラン三好野(みよしの)でビフテキを食べたことや、大坂で開かれた博覧会で、山葉のオルガンを買ってもらったことなど、内田家のハイカラな暮らしぶりが百閒の文章からうかがえます。
大学は帝大(のちの東京大学)に進学してドイツ語を学び、卒業後はドイツ語教官として独り立ちした百閒は、夏目漱石の門弟となり、師匠の本の校正を担当し、教鞭の傍らに短編小説を発表し、文筆家として次第に頭角をあらわしていきます。
師匠の漱石は、「吾輩は猫である」、「こころ」など純文学に位置づけられる長編小説をのこしましたが、弟子の百閒は自分の日常生活を題材にしたユニークな短編小説や随筆をのこしました。
汽車に乗ることだけを旅の目的とした「阿呆列車」、肉無しコロッケ、大手饅頭など、好物の食べ物ばかりを語った「御馳走帖(ごちそうちょう)」は、鉄道オタクやB級グルメの感覚に通じる現代的な切り口です。
百閒の目線は、野良猫や文鳥など動物にも向けられて、彼の随筆は親しみやすく人間味あふれた内容なのですが、その表記には旧字・旧仮名遣いを固守しています。
浅学な私は、読めない漢字に出くわすこともたびたびで、漢字辞典で調べながら百閒の文章を読み進めるのですが、謎解きをしているようで、少しも面倒に思えないのがまた不思議です。
まるで百閒に上手くのせられて、遊びながら漢字を勉強しているようです。
読書家の私の夫は、特にお気に入りの本には、丁寧にブックカバーをかけて大切に保管する習慣がありましたが、内田百閒の文庫本にはすべて、ブックカバーがかけられていました。
最近私は、その中で「菊の雨」を手に取り、読み始めました。
45編の随筆がおさめられた「菊の雨」は、その本の最初の作品で、百閒が菊花展を見に行った印象が短く語られています。
金風の吹き渡る玉砂利の広場に、仕立てられた菊の鮮やかな色彩の饗宴を鑑賞したのち、家に戻ってからも、まぶたの裏に、観菊の色が焼き付いて、夕方から空が暗くなり、大雨が降り出しても、昼間の菊の鮮やかな色が、帯のように目の前に浮かび上がって流れだし、薄暗い周りが明るくなるようだと、百閒は菊花展の感想を語っています。
私が通った小学校は百閒の生家の隣の学区で、遠足や写生大会の校外学習の場は、たいてい岡山城や後楽園でした。
毎秋には、岡山城内で百閒の「菊の雨」で語られているように、金風吹き渡る玉砂利に、菊花展が催され、その鮮やかな菊の色は、私の古い記憶の片隅に残っています。
子供の頃に、毎秋、当たり前のように見ていた岡山城の菊花展も、大人になってからは意識して行ったことがなく、百閒の「菊の雨」を読んで以来、私は、何十年かぶりに、猛烈に菊花展に行きたくなったのでした。
思い立ったのは11月12日で、時すでに遅く、今年の岡山城の菊花展は、前日の11日に終了していました。
見逃したと思うと、いっそう菊花展への想いは募り、矢も楯もたまらず、インターネットで探しだし、岡山市に隣接する倉敷市の駅前公園で開催されている菊花展の会期が終わっていないことを知り、喜々として見に行きました。
しかし、私の子供の頃の記憶や百閒の「菊の雨」に表現されているのとは大きく異なり、観菊の客もわずかで、控えめに仕立てられた菊が寂しく数鉢並んでいるだけで、とても、夜、あたりが明るく思えるほどに、目の前に菊の色の帯が浮かんできそうもありません。
ますます欲求不満に陥った私は、再びインターネットをたよりに、菊花展の全国大会なるものを探しだし、11月18日、大坂、和泉市までオートバイで行くことにしたのです。日の出前に自宅を出発し、防寒用に着込んだ勇ましいライダー装備の下に、私はワンピースを着ていました。
私が子供の頃、観菊の客たちの身なりは、和服姿のご婦人や帽子をかぶったスーツ姿の紳士で、皆、礼装をしていた記憶があったからです。
片道6時間半かけて、やっと菊花展全国大会の会場に到着した私は、駐車場にあふれた大勢の人々の様子が、何か変だなと思いました。
観菊に来ているはずの人々は皆平服で、買ったばかりの野菜や果物などの食材を、自家用車に積み込んでいて、激安スーパーや、生鮮市場で見かける風景が目の前に広がっているのです。
しかし、会場の駐車場には菊花展を証明するのぼり旗が何本も風にたなびいて、岡山からはるばるやって来た私を歓迎してくれているようでした。
気を取り直し、屋内に菊があることを不思議に思いながら、ワンピース姿になる必要を感じず、そのまま会場に入りました。(記憶の中の菊花展は、お城を背景にした公園に、白布の天蓋付きの屋台が組まれて、その中にうやうやしく菊が飾られていました。)
全国大会菊花展に出展された菊は、どれも想像以上に素晴らしく、迫力があり、大掛かりな舞台セットのようでした。
さすがに、全国で大賞を取った菊づくりの名人の作品には感動を覚え、岡山から来て良かったなとしみじみ思いました。
ただし、会場の中央はパンジーやシクラメンのポット苗の棚が横一列に並べられ、全国大会で入選した見事な菊は、店内の壁際に、絵画のように飾られていたのでした。
会場の建物は、スーパーマーケットを兼ねた大型の植木店で、大部分の人々の目的は、観菊ではなく、安い食材と苗を買うことだったのです。
しかし、私が熱心に菊を鑑賞し盛んに写真を撮っていると、つられて、花苗よりも菊の方にも関心を示す人の数も増えてきて、少し安心しました。
菊花展の全国大会の会場が私の古い記憶のように城址公園ではなく、活気はあるけれど、落ち着きのない市場のような植木屋で行われているのを、最初は少し不満に思っていましたが、せっかくの立派な菊が、格式は高くとも人目につかない場所にあるよりは、ここの方がいいなと思いました。
一週間後、再び大坂の堺市へ1泊することになり、日曜日の夕方に、ぶらぶらと堺市の商店街を散策していると、いきなり太鼓の音が鳴り響き、目の前の商店の奥から、大きな歓声と拍手が聞こえ、若者のように顔を紅潮させ、派手な袴姿の白髪の男性が通りに飛び出してきました。
そこは、奥野清明堂というお香屋さんの店舗を改装した、平土間にパイプ椅子を並べただけの小さなホールでした。
たった今、寄席が終わったばかりで、飛び出してきたのは“トリ”の芸人さんでした。
芸人さんに続いて20人ばかりの観客の方々も通りに出てこられ、皆のほころんだ表情から、いかに寄席が面白かったかが察せられました。
「私も見たかったな。もう今日の興業は終わりなのかしら?」とチラシを手に取ると、奥野清明堂の寄席は月に一度だけ興業され、私はたいへん貴重な機会に、偶然出くわしたのです。
あとで調べてさらに驚いたことに、その寄席は、消えゆく日本の伝統芸能の講談の復活をかけて、堺市出身のひとりの講談師が、45年も前から人々が集る神社や商店街で寄席を開き続け、その回は529回にも及んでいました。
そして、私はまたしても、「百閒に上手く、のせられた!」と思いました。
もしも、「菊の雨」を読まなかったら、菊花展全国大会だけのために、オートバイで大坂まで行くこともなく、伝統的な菊作りの発表の場の現状を知ることもなかったでしょうし、格式ばった高座から離れ、堺市の商店街の一角で、復活をかけて、45年も活動を続けてきた講談師の存在にも気づかなかったでしょう。
映画産業が全盛期につくられた「七人の侍」は3時間半の長編映画ですが、それが斜陽になりかけた時の「まあだだよ」では、黒澤監督は、2時間の短編にしました。
「まあだだよ」の出演者はベテラン映画俳優だけではなく、マルチタレントの所ジョージを重要な役に起用し、主役の内田百閒には、実力俳優ですが、長年脇役ばかりで、NHKのアニメーション“どーも君”の相方の“うさじい”の声役の松村達夫を起用しました。
皆がそれぞれ自分の愛してやまないことを、人々に伝え、共感してもらうには、どんな努力をしているのか、再発見する機会をたった16行の随筆「菊の雨」によって、勉強させられた11月でした。
そして夫がなぜ百閒の文庫本すべてに、カバーをかけていたのか、少し理解できたように思えます。
2018年11月29日
大江利子
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