クーポラだよりNo.44 ~仙厓(せんがい)さんとモンセラート・カバリエ~
四角、三角、丸(□△○)を横一列に描いただけの、ユニークな禅画があります。
このおでんの串のような絵を描いたのは、博多の禅寺、聖福寺(しょうふくじ)の住職だった仙厓(せんがい)です。
聖福寺(しょうふくじ)は、お茶を中国(宋)から持ち帰り、茶の湯を広めた栄西(ようさい)が建立した日本で最初の禅寺です。
聖福寺(しょうふくじ)の初代住職は、栄西で、仙厓は123代目と125代目の住職を勤めました。
仙厓は江戸時代中期に、美濃国(岐阜県)の貧しい家に生まれました。
11歳で出家し、修行を積んだのち、聖福寺(しょうふくじ)の住職を40歳から63歳までの23年間勤め、一度は引退しましたが、87歳で再び住職となりました。
徳を高く積んだ仙厓は、聖福寺の本山である京都の妙心寺から、最高位の出世を意味する紫衣の儀式を再三勧められますが、上洛を断りつづけ、黒衣の修行僧の位のまま、博多の地に88歳で亡くなります。
禅画は、人々に禅の教えをわかりやすく説くために描いたもので、仙厓は2千点ちかくの作品を残しています。
仙厓の描く禅画は親しみやすくて、人々にとても人気がありました。
従来ならば、神々しい雰囲気を強調するため近づき難い存在として、描かれてきた釈迦像や、達磨像も、仙厓の手にかかると、ユーモラスで身近な存在として描かれています。
見る者を笑顔にし、ほのぼのとした心持ちにするのが仙厓画風です。
仙厓が生まれたのは1750年、ドイツのライプツィヒでは、後の人々が音楽の父と呼ぶバッハが作曲家としての才能を正しく評価されないまま、目の手術のために命を落とした年です。
ヨーロッパ社会で中世から権勢を誇ってきた教会を讃えるためのバロック音楽の時代は終わり、絶対王政の覇者フランスでは、ロココ調が最盛期を迎え、画家ラ・トゥールの代表作「ポンパドゥール夫人」が身につけているきらびやかなドレスのように、優雅で贅沢な貴族の芸術が発展していました。
アメリカではフランクリンが避雷針を発明し、イギリスでは産業革命に向かって新しい社会の仕組み(資本主義)が胎動しはじめていました。
日本画壇は、緻密な描写と極彩色の花鳥画で後世に名をのこす伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)が、家業の青物問屋を早々に隠居し、画業に専念した頃でした。
世界でも日本でも、音楽でも、絵画でも、絢爛豪華な技法を前面に押し出すことが主流だった時代に、仙厓は天衣無縫で素朴な絵を描き、博多の人々から仙厓さんと呼ばれ、乞われれば気安く絵を描いた仙厓和尚の聖福寺の門前には市がたつほどでした。
仙厓は画の修行を、狩野派の職業絵師たちと同じように、名画を模倣するところからスタートさせ、緻密な絵を描く技巧力は備えていました。
しかし、見る者を圧倒し、威圧するような技巧的な絵よりも、人々の心に素直に響く絵を描きたかった仙厓は、柔らかな線で、のびのびとした筆運びで、独自の描き方を開発していったのです。
オペラ界でも、仙厓の絵ように、のびのびとした温かみのある歌い方をする歌手がいました。
今月10月6日に、85歳で亡くなったスペイン生まれの世界的なソプラノ歌手モンセラート・カバリエです。
カバリエは、1933年にバルセロナの貧しい家庭に生まれました。
音楽好きの両親の元に生まれたカバリエですが、貧しさゆえに、小学校を卒業すると家計を助けるために働かなければならず、スカーフを縫う仕事をしました。
スカーフを縫いながらも、音楽の勉強だけは続けていた彼女は、良い声をしているからと、周囲の強い勧めで、歌手になるために奨学金を得て勉強をしました。
21歳で歌手の勉強を終えたカバリエは、プロのオペラ歌手になるために、ヨーロッパ中の歌劇場のオーディションを受けますが、すべて不合格でした。
なぜなら、カバリエは、正統なベルカントの技法は身につけていましたが、とても柔らかな声質で、聞くものを圧倒する迫力ある歌い方ではなかったからです。
当時は、世界的に人気があったソプラノ歌手マリア・カラスの威圧感のある、迫力ある歌い方に、オペラの聴衆たちは強く惹かれていたのです。
マリア・カラスとは正反対で、人を温かく包み込むような歌い方のカバリエにチャンスは、なかなか訪れませんでした。
10年以上も、端役ばかりを歌って下積みをしていましたが、ある日突然、病気で倒れた主役(マリリン・ホーン)に代わって、ニューヨークのカーネギーホールで歌い成功をおさめたカバリエは一夜にして有名人となり、世界のトップオペラ歌手になりました。
世界的に有名になってもカバリエは、柔軟で温かみがある歌い方はそのままに、人柄もまた素朴で、仕事を華やかなオペラの舞台に限らず、コンサートも積極的に行い、そのプログラム内容もクラシックだけでなく、いろいろなジャンルを取り上げています。
日本には1975年以来、たびたび訪れ、その素晴らしい歌声を惜しげもなく披露しています。
1996年5月にも、カバリエは来日し、東京、福岡、大阪、愛知で、コンサート形式で歌ってくれることになりました。
我が家には、毎日ぐらい聞いていた、カバリエが歌っているオペラ「ノルマ」のレーザーディスクがありました。
その「ノルマ」は、1974年に南フランスのオランジュの古代劇場のライブ映像で、衣装とベールが舞い上がるほどの強い風が吹き荒れるなか、マイク無しで、野外劇場の隅々まで満たしているカバリエの声と舞台姿が収録されているのです。
私と夫はそのレーザーディスクを持って、名古屋の会場まで、カバリエの歌声をききに行き、そして、コンサート後にカバリエに会い、そのレーザーディスクにサインを乞いました。
コンサート直後なのに、疲れも見せず、笑顔で、私が差し出した「ノルマ」のレーザーディスクを愛おしそうに眺めて、そしてサインをくれました。
まるで、誰にでも気安く絵を描いた仙厓さんのように、私につづく他の人にも、カバリエはサインをしていきました。
22年も前の出来事なのに、まるで昨日のことのようです。
カバリエのサイン入りのレーザーディスクも、夫ともに聞いた名古屋のコンサートの思い出も私の宝物です。
イタリア留学から帰国し、24年も経ちましたが、私は未だに下積みのような毎日で、もしかすると一生、下積みかもしれませんが、温かく柔らかな歌い方で人々の心を包み込むような声で歌っていこうと思います。
2018年10月29日
大江利子
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