クーポラだよりNo.37 ~白小豆(しろしょうず)と鏡獅子と中国地方の子守唄~


「くいしん坊のカレンダー」という楽しい歌があります。



1975年(昭和50年)12月から翌年の1月までの2か月間、NHKの「みんなのうた」で放送された歌です。



「くいしん坊のカレンダー」の歌詞には旧暦の名称、その月の伝統行事、そして季節にふさわしい和菓子が登場します。


当時、小学校6年生で歌の大好きな私は、毎日放送される5分間の音楽番組「みんなのうた」を楽しみにしていました。



わらべうた風のリズミカルな「くいしん坊のカレンダー」の歌に合わせて、着物姿の大和撫子が美味しそうな和菓子を次々と食べていく映像を、初めて目にした時には衝撃が走りました。




くいしん坊で、音楽と同じくらい、お料理が大好きな私は、和服の美女が、色とりどりの和菓子を食べまくる「くいしん坊のカレンダー」の映像と歌が、43年前、脳裏に焼き付いてしまったのです。



大学時代、私が暮らしたアパートは、東京郊外の東大和市で、下町風情(ふぜい)が残る商店街の近くにありました。



商店街には、揚げたてコロッケを1個売りしてくれる肉屋、冬になったら灯油を配達してくれる米屋など、庶民の生活に密着した個人商店が立ち並び、独り暮らしの私には、お店の人との会話が嬉しい場所でもありました。



その商店街には、老舗の和菓子屋があり、竹久夢二の画のような、淡い色合いの和菓子がショーケースに並んでいました。



毎週火曜日、私はその和菓子屋で、3種類の和菓子を1個ずつ買い、一気に、食べるのが、何よりも楽しみでした。



桜餅とみたらし団子は大好物なので、毎回必ず、あと1つは、「くいしん坊のカレンダー」に登場する季節の和菓子でした。



毎火曜は、音大で、恐ろしいピアノレッスンの日でしたので、レッスンが無事終了すると、緊張の糸がほどけて無性に甘いものが欲しかったのです。



和菓子の美味しさの決め手はあんこです。



和菓子はあんこが美味しくないと、いくら見た目が美しくても、たくさん食べられません。



大学時代に毎火曜にお世話になった和菓子屋のあんこは、実に上品でさっぱりした甘さで、3個一気に食べても大丈夫でした。



美味しいあんこを作るには小豆選びが決め手となります。



日本の小豆は、大納言、中納言、白(しろ)小豆(しょうず)、黒小豆の4種類があり、小豆生産量の8割は北海道が占めています。



小豆は雨を嫌うので、梅雨明けに種まきをします。



また連作を嫌い、昼夜の寒暖差が必要なので、梅雨がなく、広大な土地と冷涼な気候を持つ北海道が小豆の一大産地となっています。



しかし、小豆の中で最高級とされる白(しろ)小豆(しょうず)は、岡山県で栽培されています。



岡山県の北西部、備中松山城のある高梁(たかはし)で白(しろ)小豆(しょうず)は栽培されています。



白小豆で作ったあんこは、くどさのない甘さが特徴で、変化のない、ありきたりの味ではなく、奥行きある味わいです。



この白小豆のあんこで、和菓子を作っている、こだわりの和菓子屋があります。



日光東照宮にその味を認められた「ひさの(久埜)」菓子店です。





「ひさの」の店主の先代は、おいしいあんこを作るために、質の良い小豆を探していましたが、白小豆の噂を聞きつけ、栃木県から、はるばる岡山県高梁市までやってきました。



「ひさの」の先代は、白小豆の種を岡山から持ち帰り、土壌改良などの工夫を重ねて、栃木県でも白小豆の栽培を可能にし、こだわりの白あんで、美味しい和菓子を作りはじめたのです。



昨年秋、「ひさの」を訪れる機会に恵まれた私は、「ひさの」先代のご子息で、現材のご当主から、当時のお話をうかがいながら、その和菓子をいただきました。




「ひさの」ご当主と奥様のおふたりで、先代の遺志を継いで、守ってこられた白あんの味は、その店構えと同様に気取らず、親しみやすく、けれども食べる人を納得させる奥行きある深い味わいの甘さでした。



そして何よりも驚いたのはその価格です。



こんなにも手間をかけて作った和菓子なのに、庶民の値段なのです。



貧しかった大学時代の私が火曜日ごとに、買っていた和菓子のように、庶民の生活に合わせた優しい値段なのでした。



これだけの素晴らしい味ならば、いくらでも値を吊り上げることは可能であるはずなのに、「ひさの」菓子店は、こだわりの味の上にあぐらをかくことなく、お客様の側にたった姿勢なのです。



先日、「ひさの」の白あんの味と同じように、親しみやすいけれど、奥行きのある彫刻に出会いました。



岡山県の白小豆の産地、高梁市の南、井原市出身の平櫛(ひらぐし)田中(でんちゅう)の彫刻です。



平櫛(ひらぐし)田中(でんちゅう)は107歳で亡くなる直前まで鑿(のみ)をふるい続けた生涯現役だった彫刻家です。



関東大震災、第二次世界大戦と、芸術家にとっては困難な時代をくぐりぬけながらも、貧しさに屈することなく、自分の納得いくまで作品を何度でもやり直し、完成させた人です。



平櫛(ひらぐし)田中(でんちゅう)の代表作は6代目尾上菊五郎をモデルとした「鏡獅子」です。



田中(でんちゅう)はこの「鏡獅子」を完成させるまで、何体ものやり直しや、試行錯誤を重ね、20年かけて見事に完成させました。



完成作の「鏡獅子」は日本の伝統芸能を上演する国立劇場に飾られています。



しかし、試作品の「鏡獅子」は岡山県井原市にある田中(でんちゅう)美術館で見ることができるので、私は夫のオートバイと見に行ってきました。



彩色していない試作品の「鏡獅子」はポーズがリアルで今にも動きだしそうな迫力がありますが、威圧感はなく、奥行きがあって、親しみやすい魅力がありました。



「鏡獅子」を観賞し終え、田中(でんちゅう)彫刻に酔いしれながら、館外を散策していますと、ある碑文に目が留まりました。



それは、岡山県民謡「中国地方の子守歌」の碑文でした。



「中国地方の子守歌」は私が、コンサートで歌う大好きな曲のひとつで、岡山県西南に伝わる民謡ということは知っていましたが、その碑文から発祥地が井原市だとわかり、とても嬉しくなりました。



偶然の出会いですが、改めて、井原市までやってきて、良かったなと思いました。



「ひさの」の先代は白小豆のことを、同乗したバスの紳士から、偶然に情報を得て、種を持ち帰ることができたそうです。



田中(でんちゅう)は、初日から千秋楽までの毎日、菊五郎の舞姿を生の舞台で見て、「鏡獅子」のポーズを思いつきました。



「中国地方の子守歌」は、井原市出身の若き歌手、上野耐之が、幼い頃から耳にしてきた、ふるさとの民謡を、昭和3年の春分の日、大作曲家、山田耕筰の前で披露しました。



山田耕筰は「中国地方の子守歌」のもつ、親しみやすく、奥行きある旋律に、とても感動して、たちどころに素晴らしいピアノ伴奏をつけて、広く知られるようになりました。



「ひさの」の和菓子や田中の「鏡獅子」、「中国地方の子守歌」のように奥行きがあり、親しみやすい歌手を目指して、私も視野を広げながら、日々精進しようと思います。



2018年3月29日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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