クーポラだよりNo.35 ~シシーとマーラー~


チョコレート・ケーキの王様と称されるザッハートルテは、

音楽の都、ウィーンの名物菓子です。



チョコレート味のしっとりとしたバターケーキの外側をフォンダンと呼ばれる甘いチョコレートソースで覆い固めたザッハートルテは、1832年に、主の命を受けて、駆け出しの若い料理人フランツ・ザッハーによって考案されました。



ウィーンはヨーロッパ大陸の中心を流れるドナウ川沿いの町です。



ドナウは、ドイツ北部の森から流れの端(たん)を発し、ハンガリー、ルーマニアの東欧諸国を抜け、ウクライナ南西の内海、黒海にまで注ぐ、全長2860キロメートルの長い大河で、古くからヨーロッパの東西の重要な交通路でした。



ウィーンはドナウ川中流に位置する古都で、昔からヨーロッパ各地の珍しくて美味しいものが、ウィーンの町を行き交い、ウィーンの人々は美味しいものには慣れていました。



しかし、このザッハートルテは、考案されるとすぐに、舌の肥えたウィーンの人々を夢中にさせました。



ウィーンは昔からヨーロッパの文化と政治の中心を担ってきた都で、650年以上も栄華を極めたハプスブルク家によって街中に美しい建築物が残されています。



モーツアルトが結婚式をあげたことで知られている、壮麗な尖塔が美しいゴシック様式のシュテファン大聖堂や、悲劇のフランス王妃マリー・アントワネットが少女時代を過ごした離宮、シェーンブルン宮殿など、京都のように、ウィーンは街全体が美術館なのです。



シュテファン大聖堂と対峙するようにウィーンの中心に位置するホーフブルク王宮は、オーストリア皇帝の居城で、18の棟、19の中庭、2500以上の部屋を持つ広大な宮殿です。



18の棟には、宰相宮、スイス宮と名前がそれぞれつけられていますが、アマリアという愛らしい女性の名前の棟に、ザッハートルテが大好きな皇妃、エリーザベトが暮らしていました。



エリーザベト皇妃は、自分自身が美しくあることにこだわった女性で、毎日の運動と食事によって、身長173センチ、ウエスト52センチのプロポーションを生涯に渡って保ちました。



エリーザベト皇妃の化粧室には、彼女が使用した体操選手が使うような運動器具が残されています。



しかし、ハードな運動をしながらも、エリーザベト皇妃はザッハートルテが大好きで、ウィーンの王室御用達の菓子店には、ザッハートルテの大人の買いをしていた皇妃の注文書が残されています。



女性の憧れである永遠の美のために、不断の努力を生涯に渡って続けながらも、少女のように甘いものの誘惑に勝てなかった人間味あるエリーザベト皇妃は、ウィーン市民の人気者です。



エリーザベトの出身は公爵家の二女で、野山を駆け回って遊ぶ、おてんばな娘でした。



若きオーストリア皇帝フランツ2世が、お忍びの狩りの時に、偶然山で出会ったエリーザベトにひとめぼれし、ふたりは結婚したのです。



エリーザベトは幼い頃からシシーという愛称で呼ばれていたので、今でもウィーンの人々は、彼女ことをシシーと呼びます。



皇妃になっても、自由闊達なシシーは、政情不穏なヨーロッパ各地を恐れもなく旅行し、60歳の時に、スイスで、無政府主義者の刃によって暗殺されてしまいます。



ドラマティックなシシーの生涯は芸術家たちの琴線をくすぐり、映画、舞台、バレエになりました。



たくさんの美しい女優やバレリーナがシシー役を演じてきましたが、とりわけ、オーストリア女優ロミー・シュナイダーが演じたシシーは、素晴らしく、シュナイダー自身の代名詞になりました。



ロミー・シュナイダーは、17歳の時に演じた、映画「プリンセス・シシー」で、大評判となり、オーストリアのアイドルになりました。



その後のシュナイダーのキャリアに影響を及ぼすほど、シシー役のイメージが常に、彼女について回り、アイドル女優から脱出できずに、幅の狭い役しかできずに苦しみましたが、34歳の時に、イタリアの巨匠ヴィスコンティ監督の映画「ルードヴィヒ」で再び、シシーを演じて国際的な大女優としてその名を不動のものとしました。



ヴィスコンティ監督は、第二次世界大戦中の1942年に、映画「郵便配達は二度とベルを鳴らす」で、ファシズムに対抗する潮流ネオレアリズモの旗手として、監督デビューしました。



ヴィスコンティ監督は、「揺れる大地」「若者のすべて」など、社会の最下層で虐げられた労働者に熱い視線を注いだ映画を、世に送りだしますが、大戦終了後は、監督本人の出身である貴族社会を、美しく、かつ哀しく描いた作風に変わっていきます。



特に、アドリア海の女王と謳われたヴェネツィアを舞台にした「ベニスに死す」はため息の出るような美しい映像で、貴族出身であるヴィスコンティ監督の本領が存分に発揮された傑作です。



「ベニス死す」の主人公の男性は、初老にさしかかった作曲家です。



作曲家は創作の疲れを癒すため、ひとり孤独に、ヴェネツィアの豪華なホテルに滞在しますが、ギリシア彫刻の生き写しのような異国の美少年に出会い、その美しさに圧倒され、心の平静を失っていきます。



この主人公のモデル像のひとりは、ドイツの作曲家マーラーで、「ベニスに死す」の音楽はマーラーの第5交響曲4楽章「アダージェット」が使われています。



この「アダージェット」は、マーラーが自分の美しい妻アルマにあてたラブレターだと言われています。



マーラーは6歳から音楽を勉強しはじめ、ピアノの腕はすぐに上達し、10歳で初リサイタルを開くほど天分に恵まれていましたが、作曲家として生計はたてられず、生涯、指揮者として活躍しました。



指揮者マーラーのキャリアは田舎の小さな劇場からスタートし、音楽の殿堂、ウィーン国立歌劇場まで登り詰めました。



作曲家として過ごした時間は一年のうちで、劇場が休暇になる夏休みの間だけで、美しい湖のほとりの作曲小屋で、短期間に集中して自分の曲をつくりました。



マーラーの音楽には、作曲小屋で耳にした美しい自然風景、森のざわめき、風の音や小鳥のさえずりがたくさん入っています。



マーラーは、自分が指揮者として活躍した時代に、もてはやされた作風には迎合せず、自分が美しいと信じる作風で、「アダージェット」のように、彼の死後も、コンサートホール内だけ威力もつ音楽とは一線を画した、万人に魅力を放つ素晴らしい音楽を残しました。



マーラーは、夏休み作曲家としては、信じ難いほどの作品数を遺して51歳の生涯を閉じました。



マーラーは音楽だけでなく、その生涯もケンラッセル監督によって、「マーラー」という映画になっています。



マーラーやシシーのように、世界を覆いつくほどの魅力も才能も持ち合わせてはいませんが、凡人の私でも、彼らの美しさを、クーポラだよりで、お伝えできるほど、豊富な資料を遺してくれた夫に感謝する日々です。



2018年1月29日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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