クーポラだより No.22 ~大人からバレエを習い始めた理由~
広島出身のクラシック・バレリーナ森下洋子は、68歳の現在も現役で舞台で踊っています。
クラシック・バレエは、ポーズや動きが、厳格に決められています。
この厳格な動きは、毎日の地道なお稽古が、不可欠です。
68歳で踊るということは、毎日、手を抜かず、お稽古をやり続けている証(あかし)でもあります。
一般的に、プロフェッショナルな、バレリーナの寿命は、40歳前後です。
森下洋子は、その年齢を遥かに超え、舞台で主役を踊れる身体を、保っているのですから、奇跡のような人なのです。
1974年、日本人で初めて、森下洋子は、国際コンクールで優勝しました。
彼女が踊ったのは、チャイコフスキー作曲、「白鳥の湖」の中の「黒鳥」の踊りです。
バレエは、イタリアで生まれ、フランスで発展を遂げた古典舞踊です。
バレエは、背が高く、手足が細長い、騎馬民族である、西洋人の身体を、美しく見せる踊りです。
バレエは、その細長い手足を強調するような、特別な衣装を身につけます。
バレエの華やかな衣装は、背が低く、手足が短い農耕民族の日本人には、似合いません。
けれど、森下洋子は、典型的な日本人の身体でありながら、地道なお稽古によって、自分の手足の筋肉を、細長く見えるように、鍛え上げました。
150センチ弱の小柄な身長は、そのままに、手足だけは、西洋人のような形に、変えてしまったのです。
小さなお人形のような森下洋子の手足から流れでる、美しいバレエの動きが、世界を圧巻したのです。
世界一になった森下洋子は、東洋の真珠と讃(たた)えられました。
昭和60年代、森下洋子は少女雑誌の表紙を飾り、70年代では、彼女の世界的な活躍が、報じられ、少女たちの憧れの的でした。
例外にもれず、わたしも、そのひとりでした。
私の小学校の同級生に、バレエを習い始めた少女がいました。
その少女は、近所に住む、幼馴染でした。
私も、バレエを習いたいと、両親に言ってみました。
すると両親は、
「バレエは、小柄で、身体がとても柔らかい女の子がするものだ。
それに、とても、幼い頃、3歳くらいから、習い始めないといけない。おまえは、身長は高いし、身体は硬いし、もう、11歳だから、無理だ。」
こう言って、大笑いしたのです。
両親の言う通り、私は小学5年生ですでに、身長は160センチ、身体は当時、とても硬かったのです。
両親は、きっと、森下洋子が、バレエを3歳から習い始めたことも、知っていて、私にあきらめさせたのだと、思います。
バレエを習うことは、あきらめましたが、私から、バレエを見る喜びは、誰にも、奪えませんでした。
テレビで、バレエ公演があると、欠かさず、見ました。
音大生時代、東京で暮らしている時は、もちろん、森下洋子の舞台を、観に行きました。
30歳で、イタリア留学するまでは、私の中で、バレエは、見て、楽しむものでした。
しかし、私の歌の先生、カバッリ先生の同門の、ドイツ人歌手が発した衝撃の一言が、私を驚かせました。
彼女は、「アレクサ」という名前で、ミュンヘン音楽院で、勉強したオペラ歌手の卵です。
アレクサは私に、こう言いました。
「オペラ歌手にとって、バレエは必須だ。」
そして、
「バレエの身体の使い方は、オペラの舞台の立ち振る舞いに、とても役に立つので、
ミュンヘン音楽院では、オペラ歌手を目指すものは、皆、バレエのレッスンを受けるのよ。」
アレクサの、この言葉は、私を、大変、喜ばせました。
私は、バレエのレッスンは、バレリーナを目指す人しか、受けてはいけないものだと、思っていました。
大人になって、自分の楽しみや、憧れの気持ちだけで、バレエの先生の門を、たたいては、いけないと、思っていたのです。
しかし、アレクサの言葉によって、私の中に、バレエを習う理由が、見つかりました。
そうです、「オペラ歌手に、バレエの動きは必須。」なのですから!
イタリアから帰国後、まず、私はヨガを習い始めました。
身体は、子供の頃から硬いままでしたから、なんとか、柔らかくしなければ、バレエのレッスンに、ついていけない、と、考えたからです。
ヨガの先生のところへは、週3回、一年間通い、体を柔らかくする方法を、教わりました。
そして、32歳になった時、岡山市内のひとりの若いバレエの先生に、出会ったのです。
~つづく~
2016年12月29日
大江利子
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