クーポラだより No.14 ~現代のルネサンス人 カヴァッリ先生~
日本三名園のひとつ後楽園は、岡山市内を流れる旭川の中州にあります。
その後楽園の前の旭川から1キロほど下流に、「京橋」という橋が、かかっています。
江戸時代、この京橋の欄干から、竹と紙で作った、大きな翼をつけて、鳥のように空を飛んだ人がいます。
岡山県、玉野市、八浜生まれの、浮田幸吉という、表具師です。
アメリカ人、ライト兄弟のフライヤー号の初飛行より、100年も、早い出来事でした。
京橋のたもとには、幸吉の偉業を称えて、「世界で初めて空を飛んだ男」という、
石碑があります。
しかし、空を飛ぶ実験は、幸吉よりもさらに300年前、イタリアで行われました。
ルネサンスの巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチです。
「モナリザ」や「最後の晩餐」で有名なレオナルド・ダ・ヴィンチは、絵を描くために、あらゆることに興味をもち、研究をしました。
写真のようにリアルな人体のデッサンのために、解剖学も勉強し、実際に解剖していたほどです。
「受胎告知」の天使の背中の羽を描くためには、鳥の羽を研究しました。
幸吉のように大きな翼を作って、実際に、飛ぶ実験をしました。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、たった一枚の絵画のために、多方面から研究し尽くしてから、絵筆をとる人だったのです。
しかし、こうしたレオナルド・ダ・ヴィンチの姿勢は、彼、独自のものではありません。
ルネサンス時代の芸術家の共通の姿なのです。
ルネサンス時代は、自分に何かひとつ、秀でたものがあったとしても、そのことばかりを伸ばそうとせず、知識や教養を同時に養いつつ、芸術の道に進む姿が、理想とされたのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、まさしくルネサンス人の理想の姿でした。
私がイタリアでお世話になった、声楽のカヴァッリ先生も、単に、美しい声を持っていただけではありません。
レオナルド・ダ・ヴィンチのように、多方面な才能をもつ、現代のルネサンス人でした。
カヴァッリ先生は、1930年に、イタリア、ボローニャで生まれました。
先生のデビューは地元ボローニャの歌劇場で、25歳の時でした。
素晴らしく豊かな声量と、完璧にコントロールされた美声で、聴衆を魅了しました。
イタリアオペラの殿堂、ミラノ・スカラ座をはじめ、ロンドン、パリ、リオ・デ・ジャネイロなど世界の主要歌劇場で、主役を25年、歌いました。
先生のレパートリーは、イタリア、フランス、ドイツ作品と幅広く、4か国語は、
自由に、お話できました。
50歳を機に、引退され、後進育成に力を注がれたのです。
私は、カヴァッリ先生の最晩年に、幸運にも、教えを受けることができたのです。
カヴァッリ先生の素晴らしさは、多々ありますが、私が最も驚いたことは、先生のピアノの腕前です。
オペラ歌手の中には、自分の美声だけを売り物に活躍し、ピアノが苦手な人もいますが、カヴァッリ先生は、そのまったく逆です。
ピアニストになれるほどの腕前でした。
先生は、オペラの総譜をピアノで弾きながら、歌うのです。
つまり、オペラの弾き語りです。
しかも、自分のパートだけでなく、オペラの登場人物すべてのパートを歌いながら、
ピアノを弾いておられました。
ある時、私は先生に、質問しました。
「先生は、学生時代、ピアノと声楽を勉強されたのですか?」
「いいえ、私は、彫刻とピアノと声楽を勉強したのです。」と。
なんと先生は、美術の勉強もされていて、歌手の現役時代は、ご自分の舞台衣装も、デザインしていたのだと、その衣装姿のお写真を見せてくれました。
そういえば、先生のお宅には、素敵な彫刻作品が飾られており、それらはすべて、先生の作品だったのです。
私は目の前に、ルネサンス人を見た思いでした。
世界のトップレベルで25年も活躍された方の底知れぬ力に、改めて感動しました。
こんな素晴らしい先生の教えを受けられたことに、感謝しました。
そして、なんとか、先生の発声法を、記録として、残したいと強く思うようになったのです。
さて、お話を、私の大学時代、指揮研究会に、もどしましょう。
指揮者小松先生宅のレッスンのしんがりは、ムーミンのような優しい、ユリ先輩です。
ユリ先輩がタクトをおろすと、2台のピアノから、ショパンのバラード1番が流れてきました。
ショパンのバラード1番は、映画「戦場のピアニスト」で、クライマックスに使われたドラマチックな名曲です。
先輩の腕が描く、美しい指揮に、2台のピアニストたちは、吸い付くように反応し
旋律を奏でました。
ユリ先輩の圧倒的なオーラがレッスン室全体に広がり、祖国を離れたショパンの寂しさが伝わってきました。
小松先生の鋭い眼光など、目に入らぬ様子で、自分の思うままに、ショパンを指揮するユリ先輩は、すでに、若きマエストロでした。
~つづく~
2016年4月29日
大江利子
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