クーポラだよりNo.13 ~ボイジャーのゴールデンレコードとレッスン記録~


「アポロ」いう名前のチョコレートが、売られています。


イチゴ味とミルク味の2層チョコレートで、円すい形のまわりに、ギザギザが入った、

一口サイズの可愛いお菓子です。


1969年、昭和44年に、人類が初めて、月面着陸した宇宙船アポロ号の形になぞらえて、作られたチョコレートです。


人類の宇宙への夢は、アポロ号の成功から、ますます膨らみました。


1977年、昭和52年には、無人探査機ボイジャー号が、宇宙に向けて出発しました。


ボイジャーが地球を旅立って、40年近く過ぎましたが、いまだに旅を続け、2012年には、太陽系をぬけました。


ボイジャーには、いつか宇宙人に出会った時のためにと、地球からのメッセージが載せられました。


ゴールデンレコードと呼ばれる、記録です。


世界55か国のあいさつの言葉、クジラの鳴き声など、地球に住む動物たちの声、風、波、雷などの自然の音、そして、音楽です。


音楽はジャズや、伝統音楽など、いろいろなジャンルが含まれています。


クラシック音楽の代表は、カナダのピアニスト、グレン・グールドが演奏する、バッハの曲が選ばれました。


グレン・グールドはちょっと変わったピアニストでした。


ピアニストは一般的に、コンサートでは、華やかな演奏技術を見せつける曲を選びます。


名人芸的で、見せ物的な演奏を、過去の聴衆が、求めてきたからです。


しかし、グレン・グールドは、聴衆の意に反して、今まで、ピアニストが選ばなかった、バッハの曲で、聴衆の心をつかんだのです。


バッハは、教会のために作曲したものが多く、彼の音楽は清らかで、飾りがありません。


華やかなコンサートには、ちょっと不向きで、グールド以前のピアニストたちは、バッハの音楽を避けてきました。


しかし、グールドは、とても新しい演奏の仕方で、バッハを聴衆に、紹介しました。


彼のバッハ演奏は、まるでジャズのように、躍動感あふれるものです。


グールドは、その生命感に満ちたバッハ演奏で、時代の寵児(ちょうじ)となりました。


けれど、グールドは、人気絶頂の32歳の時、突然、コンサート活動をやめてしまいます。


その後、グールドは、1982年に50歳で亡くなるまで、晩年の18年間は、自分の演奏や、音楽に対する考えを、記録に残す作業に、没頭するのです。


現在では、どんなジャンルの演奏家も、映像付きの録音を、残すことは、一般的です。


けれど、グールドがコンサートを引退した50年前は、とても斬新(ざんしん)なことでした。


グールドが膨大な数のバッハの記録を残してくれたおかげで、バッハは広く世間に知られ、彼の音楽は、一般に浸透していったのです。


グールドは、いずれ音響機器が発達し、音楽はコンサート会場だけでなく、家庭で個々に楽しむ時代がやってくることを予見していたのです。


私の夫はグレン・グールドの大ファンでした。


夫は、彼が演奏するバッハも好きでしたが、グールドの生き方に、とても共感を覚えていました。


グールドの残した膨大な記録の中に、とてもユニークな映像があります。


メイキング映像です。


メイキングとは、制作過程、つまり、舞台裏の映像のことです。


メイキングを残すことは、芸術家にとっては、危険なことでもあります。

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なぜなら、自分の芸術を支える秘密を、公(おおやけ)に、することになるからです。


何年もかけて、自分が苦労して学んだことを、記録に残せば、それを見た、若い演奏家が、いつか、グールドを超えるかもしれません。


しかし、そんなことは意に介さず、次の時代の人のために、音楽を愛する人たちのために、

惜しげもなく、グールドは自分の勉強の様子を、映像に残したのです。


華やかなコンサート活動を打ち切ってまで、グールドが残した記録は、バッハの百科事典です。


夫はそんな一生を送った、グールドが大好きでした。



1993年、イタリア出発前に、夫は私に、小さいけれど、とても高性能な録音機材をプレゼントしてくれました。


「イタリアで受ける歌のレッスンを、毎回すべて、カセットテープに録音するのだよ。」と一言添えて。


イタリアへ出発する前も、私は、自分の歌のレッスンを録音していました。


ただし、使うカセットテープは毎回、同じものでした。


カセットテープは、いくらでも上書き録音出来たので、私は、一本のテープを使いまわし、過去の記録は、残していませんでした。



そんな私を見て、夫は、

「毎回、必ず、新しいテープで、すべてのレッスン記録を残すように。」

と厳命したのです。


「イタリアでのレッスン記録は、いつか、必ず役に立つ日が来るから」と。


カセットテープは約100本になりました。


イタリアから帰国後は、その100本のテープが、私の歌の師匠となりました。


夫と同じように、記録の大切さを説いた人がいました。


私の大学時代の指揮研究会の先輩です。


国立音楽大学の指揮研究会は、現役指揮者の小松一彦氏のレッスンを受けていました。


小松一彦氏は、小澤征爾と同じ、斎藤秀雄の門下で、NHKの名曲アルバムなどで、お茶の間のテレビに、たびたび、登場し、第一線で演奏活動していた、若手の実力ある指揮者でした。


なぜ、小松先生が、母校でもない大学の、学生サークルの指導をしてくださっていたのか、

今でも謎ですが、私は、先輩に言われたとおり、ビデオテープを1本用意し、先輩の後にくっついて、小松先生のご自宅に、お邪魔しました。


小松先生のレッスン室には、グランドピアノが2台並べて置かれ、その間には、指揮台がありました。


そして、指揮台に立つ人を録画する機材が、設置されていました。


現在では、家庭用のコンパクトなビデオがありますが、30年前は、個人の家庭に、録画機材があることは、とても珍しいことでした。


小松先生のレッスン室の機材を見て、やっと私は理解しました。


指揮の勉強の記録のためには、録音ではなく、録画が必要なのです。


ビデオテープは、指揮をしている自分の腕の動きが、正確な図形を描けているかを、

録画して、セルフチェックするためだったのです。


小松先生の前で、コチコチに緊張しながら、私は、メトロノームに合わせ、空中で、図形を描きました。


図形を描くことが、こんなにも難しいと、感じたのは、生まれて初めてでした。


あっという間に、私のレッスンの番は、終わりました。


私の後は、次々と指揮研究会の先輩たちが、レッスンを受けていきました。


そして、最後に、指揮研究会主将の、やさしいユリ先輩の番となりました。


主将のユリ先輩は、新田ユリ(にった ゆり)という名前の女性です。


ユリ先輩は、普段は穏やかで、ムーミンのような、暖かい雰囲気の女学生でした。


しかし、指揮台に上った彼女は、まったくの別人でした。


~つづく~

2016年3月29日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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