クーポラだより No.9 ~地味で熱い指揮研究会~
野球やサッカーの監督の役割は、オーケストラの指揮者に似ているなと思います。
監督は選手として試合には参加せずに、時々指示を 出すだけで、勝敗の流れを変えてしまいます。
指揮者も楽器を演奏 せずに、演奏中のオーケストラに指示を出すだけです。
そして、棒のふり方ひとつで、同じ曲でも、指揮者によって違う印象の演奏に なったりします。
指揮者が変わるだけで、今まで名曲と思えなかった音楽が、実は素晴らしい作品だったと、開眼することは、良くある ことです。
観客の前で、たった独り、背中を向けて、オーケストラの前で、 空中で腕を振り回している指揮者の地位が確立したのは、近年のことです。
モーツァルトやベートーベンの時代には、指揮者という職業は存在しませんでした。
コンサート・マスターと呼ばれる、ヴァイオリン奏者の一番偉い人が動かす弓の動きを、曲の始まりの合図としたり、打楽器奏者の太鼓の音で、リズムをあわせたりしていました。
その時代の音楽は、曲の構造が複雑でなかったし、拍子も曲の途中で変わらず、合奏の人数も多くはなかったからです。
しかし、マーラーや、ワーグナーの音楽のように、一曲が長大で、リズムも複雑で、楽器ごとに、音の出るタイミングがまちまちだったりすると、今までのようなやり方では、演奏が崩壊してしまいます。
誰か、楽器を演奏しない人が、音出しのタイミングを合図したり、リズムや拍子のバランスを整えねばなりません。
そして合図する人は、本番の演奏だけでなく、練習段階から、オーケストラに、曲の解釈や表情を伝えたり、音程のミスやリズムのズレを指摘する、指導的立場になりました。
そして、指導的立場になった、合図する人によって、オーケストラの演奏の良し悪しが、左右されることがわかり、指揮を専門にする職業が、必然的に誕生したのです。
しかし、職業の指揮者の地位は確立しましたが、ピアノやヴァイオリンのように、プロの指揮者を育てるための学校も、メソッドも、 ありませんでした。
おそらく、指揮という行為が、空中で図形を描く、物理的な運動 なので、音楽と結び付けて、メソッドにすることが、難しかったからだと思います。
しかし、日本人で、この難題に取り組み、成功した人がいます。
斎藤秀雄(さいとう ひでお)という人です。
斎藤秀雄は、戦前のNHK交響楽団のチェロ奏者で指揮者でした。
彼は自分の音楽体験をもとに、画期的な一冊の本を出版しました。
「指揮法教程」という名著です。
今までに、指揮のテクニックを明確にし、順序だてて、説明してある本は存在しなかったので、1956年に音楽之友社から、この「指揮法教程」が出版されると、瞬く間に売れました。
そして、斎藤秀雄は自分の斎藤指揮法で、
小澤征爾を筆頭に、
山本直純(やまもとなおずみ)、
岩城宏之(いわきひろゆき)、
と次々に名指揮者を育てたのです。
今から33年前、私は国立音楽大学(くにたち)の学生になりました。
1982年の春、大学の同好会が、新入部員勧誘のためのポスターを、キャンパス内のあちらこちらに掲示していました。
さすがに音大、 合唱部は何種類もありました。
オペラ部、オーケストラ部、ダンス、スキー、テニス・・・。
中学、高校と部活動に縁がなかった私も 学生身分最後の4年間は何か始めたいな、と思いました。
ただし、 授業料は全額奨学金を借り、仕送りもわずか、貧乏学生身分の私は、道具をそろえたりして、お金のかかる同好会は困るな、と思いました。
いろいろ、ポスターを見て回るうち、「指揮研究会」と書かれた、一枚の地味なポスターに目が留まりました。
「指揮か、面白そうだな、それに指揮なら道具が要らないから、 お金もかからないだろう。」
そんな軽い気持ちで、私は活動場所に行きました。
指揮研究会の活動教室のドアを開けると、2台のグランドピアノが並べてある間で、女子学生が指揮をしていました。どうやら、ピアノをオーケストラに見立てて、指揮の練習をしているようでした。
他にも、2,3人女子学生が、腕の筋肉を鍛えていました。
その時、一番 私の印象に残っていることは、指揮研究会の先輩たちは、年頃の乙女とは思えないほど、地味な服装をしていることでした。
国立音楽大学は、私立の音大のなかでは、学費が安く、私のような奨学生や、親の仕送り無し、という強者もいました。
キャンパス内の女子学生の服装も、皆、決して華美ではありませんでした。
しかし、指揮研究会の先輩たちは、格段に、地味でした。
けれども、彼女たちはキャンパス内の誰よりも激しく、熱い、心の持ち主でした。
指揮研究会とは、同好会ではなく、斎藤秀雄の「指揮法教程」に 忠実に、斎藤指揮法をマスターするための勉強会だったのです。
~つづく~
2015年11月29日
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