No.6 ~憧れの絶対音感~

1970年代、

昭和48年から、

昭和58年頃は、


子供たちの間で、

スポーツ根性漫画が、

大人気でした。


指導者の、

厳しい「しごき」に耐え、


努力と練習を重ね、

 栄光を手にする、

といったストーリーです。


 私が通っていた中学校でも、

「エースをねらえ」、

「巨人の星」に、

感化され、 

テニス部と、

野球部は、

新入部員が、

押しかけていました。 


一年生は全員、

部活動に、

参加するのが、

校則でしたので、


私も、

何かの部活動に、 

参加しなくてはなりません。


 一番好きな、

歌が歌える、

合唱部は、


残念ながら、

存在しませんでした。 


そこで、

「アタックNo.1」の、

大ファンだった私は、

バレーボール部に、

入部しました。


 最初の2か月は、

元気に、

部活動を、

していましたが、


喘息の大敵の、

梅雨に入ると、

 私は、

発作を起こし、

部活動継続は、

ドクター・ストップが、

かかってしまいました。


 けれども、

そのことがきっかけで、

ようやく両親は、

私に、

ピアノを習わせることを、

決心したのです。


 当時、

女の子の、

大学進学については、

現在の様では、

ありませんでした。


 とても成績優秀で、

大学進学に対して、

明確な目的意識をもつ人、


つまり、

医者、

弁護士、

学校の先生等、


大学まで、

進学しないと、

資格が、

取れない職業に、

なりたい人以外は、


ほとんどの、

女の子の学歴は、

高校まで、でした。


 親もとからの、

自立が、

最優先で、

高校卒業後は、

就職が、

当たり前でした。


 そして、

高卒の女の子の、

自立できる職業、

といえば、 


事務職か、

看護婦、

美容師くらいでした。


 しかし、

私は数字に弱く、

喘息持ちのため、

安定した体力が、

ありません。 


とても前述の様な、

職種は、

私には、

無理だ、

と判断した両親は、


 当時の子供の、

お稽古ごとで、

人気があった、

ピアノの先生に、

目を付けたのです。 


初めて、

ピアノを習いに行く日、

父は、

私に、

こう言いました。 


「お前に、ピアノを習いに、

行かせるのは、

ピアノで、

食べて

行けるように、

なるためだ。

 趣味で、

習わせる余裕はない、

だから、

本気で、

練習しろ、

一日でも、

練習をさぼったら、

即、やめさせる。」と。


 そして、「高校は、

山陽女子の、

音楽科に行け。」と。


 私は、

最初のピアノの先生に、

父の言葉を、

伝えました。 


すると先生は、

「中学生から、

ピアノをはじめたのでは、

遅すぎます、 

今から、

あの学校の、

合格レベルまで、

上達するのは、

絶対に、

無理です。」と。


 しかし、

そんなことを、

言われたくらいで、

あきらめる父でも、

私でも、

ありません。 


自宅の引っ越しを、

機会に、

父は、

新居の隣町、

赤坂町に、

お住まいの、

新しい先生を、

見つけてきました。 


その先生は、

東京の、

音楽大学の、

ピアノ科を、

卒業されたばかりの、

 優しい、

女の先生でした。


 そして彼女は、

私が目標にしている、

山陽女子の、

音楽科の、

卒業生でした。


 彼女は、

私の希望を、

真剣に受けとめ、

一年半後の、

山陽女子の音楽科の、

実技試験を、

見据えたレッスンを、

してくれました。


 山陽女子の音楽科は、

当時、

岡山市で、

唯一、

音楽科が、

ある高校でした。


 入学希望者が、

多数のため、

受験生を、

対象にした、

講習会を、

夏と冬に、

開いていました。


 そこでは、

模擬試験や、

実技レッスンがあり、

A B C Dの、

評価が、

つけられました。


 どの課題も、

Aを取らないと、

合格は、

難しいとされ、

基準に遠い人は、

進路変更を、

勧められました。


山陽女子の音楽科の、

定員は、

1学年、たった、

30名でした。 


講習会の参加者は、

毎回100名を、

超えていました。


 実技試験の課題は、

ピアノの課題曲、1曲、

自由曲、1曲、

 コールユーブンゲン(歌の練習曲集)、

聴音です。


 赤坂町の先生は、

ピアノ以外の、

実技課題も、

全て、

指導してくださいました。


 毎週日曜日、

夕食後に、

先生は、

自宅まで、

来て下さり、

2時間以上も、

 レッスンして、

くださいました。


 その先生の、

レッスンのおかげで、

私の講習会の、

ピアノの成績は、

Bでした。 


合格ラインより、

下でしたが、

受験は、

認めてもらえました。


 コールユーブンゲンは、

Aでした。


 問題なのは、

Cの聴音でした。


 西洋音楽は、

楽譜の発明と、

発達のおかげで、

音の長さと、

高さを、

正確に、

記録することに、

成功し、

数字と並んで、

世界共通の、

伝達手段と、

なっています。


 幼児期から、

音の高さを、

聞き分ける教育を、

受けていると、

無作為に、

ピアノの鍵盤を、

たたいた音でも、

正確に、

ドレミを当てる力が、

備わります。 


これを、

絶対音感がある人、

といいます。


 モーツァルトは、

その力が、

驚異的で、

興味深いエピソードが、

残っています。


 少年時代、

欧州の演奏旅行中に、

ある修道院に、

伝わる名曲で、

楽譜は、

門外不出と、

されていた合唱曲を、

モーツァルトは、

正確に、

楽譜に、

してしまいました。


 コピーされた、

修道院側は、

誰かが、

こっそりと、

楽譜を持ち出し、

 モーツァルトに、

見せたのだ、

と疑ったのです。


 モーツァルトの父が、

息子に尋ねると、

 「一度、耳にしただけで、

覚えてしまった。」と、

答えたそうです。 


この絶対音感は、

私には、

ありませんでした。


 では、聴音の時、

どうするか、

といいますと、

まず、試験官が、

基準の和音を、ピアノで、

弾きます。


 その和音から、

相対して、

音を考え、

記譜するのです。


 練習問題を、

たくさん、

こなせば、

聴音試験の、

傾向に、

慣れてきて、

 点数が、

稼げるように、

なります。


 しかし、

少しでも、

聞き取れない、

あいまいな音が、

一か所でもあると、

 その部分から、

ずれた音を、

記譜して、

しまうのです。


 私は、

この聴音には、

大学進学時にも、

泣かされました。


 聴音の、

試験内容を基準に、

大学を、

選んだくらいです。


 しかし、

私の夫は、

絶対音感の、

持ち主でした。


 彼は、

一度耳にした旋律は、

驚くべき、

正確さを持って、

再現できました。


 ただし、

ちょっと、

変わった方法でしたが。


 口笛で、

どんなに、

複雑な、

メロディーでも、

吹くことが、

できました。 


どうして、

そんな能力が、

彼に、

備わっていたのでしょうか? 


それは、

彼の成育歴に、

秘密が、

あったからなのです。


 ~つづく~

 2015年8月29日

 大江利子 

(1983年11月4日新宿文化センター 音楽大学2年生 利子 20歳)

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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