クーポラだより No.72~宇野小学校の凧揚げと恩師との再会~


岡山市を流れる百間川は、旭川の氾濫を防止するために人工的につくられた川です。


奈良時代から干拓によって農地を増やし治水工事に情熱を注いできた岡山の藩主たちは、築城時も、堀の役目をもたせるために城を取り囲むように旭川の流れを付け替えました。



しかし、それが仇となり、無理に蛇行させられた旭川は、たびたび氾濫を起こし、岡山城下はそのたびに洪水被害に見舞われたので、旭川の途中から分流させ、放水路の役目を持つ百間川を江戸時代につくりました。



百間川にはとても広い土手があります。



その土手は、現在は真砂土が敷き詰められて、テニスや野球が楽しめる緑地公園として整備されていますが、今から約45年前(昭和50年頃)、私が小学生の頃は広い野原でした。



私が通っていた宇野小学校は、百間川の土手のすぐ裏にあり、その野原は子供たちの絶好の遊び場でした。



春一番が吹き、早春の土手の陽だまりに土筆が生えたら、柔らかそうなものを選んで摘み取り、丁寧に、はかまをとり、佃煮や卵とじにして食べました。



ピンク色のレンゲの花が咲くと、その蜜をちゅうちゅうと吸いながら、白レンゲを見つけたら、それだけで嬉しくなりました。


シロツメ草のポンポンのように丸くて真っ白な花が、土手一面絨毯のように咲く初夏は、その花を数珠つなぎに編んで、花冠やネックレスをつくって、お姫様気分になりました。



秋にはススキを集めてほうきを作ります。



そして冷たい北風が吹く冬は、自分で作った凧で、凧揚げをして遊ぶのです。



私の母校の宇野小では、毎冬に行われる学校行事の凧揚げ大会に向けて、秋ごろから全校児童で凧作りを始めました。



凧作りは図画工作の時間に、先生から指導を受けながら作りますが、学年ごとに課題がありました。



低学年は奴凧、中学年は角凧、高学年は自由創作の凧で、毎年ひとつは、必ず凧を作り、小学校卒業までに最低でも6つは凧を作るので、6年生になる頃には、凧作りは本格的な腕前になり、工作上手な男子の中には、難しい連凧や、複雑な立体凧をつくる大人顔負けの小学生もいました。



凧の材料は和紙と竹ひごとタコ糸です。



竹ひごを曲げるにはろうそくの火であぶり、和紙を貼るには、洗濯糊を薄めて刷毛で塗り、タコ糸を放射状につけて、表面は、裏側の角と角を引っ張って、反り(そり)をだし、角度調節しました。



しっぽは、荒縄や古新聞紙でつくりました。



私が6年生の時に作った楕円の大きな凧は、とても良く飛んで、凧揚げ大会で大空賞をもらいました。



今、思い出すだけでも、誇らしくてワクワクします。



宇野小学校の凧作りを指導していたのは、学級担任を持っておられなかった、図画工作専門の斉田先生でした。



斉田先生は、初老の男性で、教え上手な方でした。



凧つくりで何かわからないことがあって、図画工作の準備室に行くと、白いスモッグを着た斉田先生がおられて、どんな質問にも答えてくれました。



先生のスモッグの裾周りや袖口には、絵の具のシミがいっぱいで、頭髪のない斉田先生はピカソのようでした。



宇野小のピカソこと、斉田先生に指導を受けながら、毎年、自分で凧をつくり、誰はばかることなく、百間川の広い土手を駆け回り、私は思いっきり凧揚げをして遊んだ、楽しい小学生時代を送りました。



この凧揚げのことは、私にとっては当たり前過ぎて、気にしたこともなかったのですが、先日、若い頃宇野小の先生をした経験をお持ちの、退職された校長先生と知り合いになって、当時の話に花が咲き、私の凧揚げ経験は、とても稀有で幸運なことだと知り、驚きました。



その校長先生によると、宇野小凧揚げ大会は、独自の取り組みで、保護者や学区地域の協力と宇野小の先生方、特に斉田先生の尽力の賜物だということでした。



その事実を知った私は、じっとしていられなくなり、斉田先生のことをもっと知りたくなって、現在の宇野小学校へ行ったりもしましたが、まったく手がかりはありません。



わからないとなると、ますます知りたくなるという、好奇心を抑えられない困った性格の私は、捨てずにとっておいた昔の教職員名簿から、斉田先生の消息を知っていそうな先生の名前を、片っ端からウェブ検索してみました。



すると私の小学1年生の担任の船越先生が、「心の旅路」と題する素敵な写真展を長年続けておられて、ご健在なことがわかり、50年ぶりにお会いしてきました。



船越先生は、宇野小時代は斉田先生とは懇意の間柄で、ご自宅まで何度も遊びにも行かれたとのことで、船越先生の記憶を頼りに、斉田先生のご自宅があった岡山市東山をいっしょに訪ねてみました。



すると、家はあとかたもなく消え失せて、近所の方によると、斉田先生は何年も前に、亡くなられたとのことでした。



それにしても、宇野小のピカソ、斉田先生にはご家族はなかったのでしょうか?



船越先生によると、斉田先生のご自宅に家族の影はなく、おそらくは独身で、生涯を教職に身を捧げた人生だったのではと、推測されていました。



宇野小学の凧揚げ大会は2003年まで続きましたが、住宅が密集し、近隣の理解も得られず、斉田先生のように熱心な先生もおられないので、そのまま消滅し、百間川の土手の野原は開発され公園となり、凧を竹から作って遊ぶ小学生の姿もなくなってしまいました。



斉田先生がどんな想いで凧揚げを奨励したのか、ついに突き止めることはできませんでしたが、私のように大人になっても好奇心が踊りだしたら止まらない人を育てたかったからではないですか?と船越先生と退職された校長先生から言われました。



そういえば、凧揚げは、向かい風に向かって走ると良く飛びます。



人生には、大小さまざま試練がありますが、それを乗り越えようとする時は、向かい風に向かって走る凧揚げのようなものかなと思います。



力いっぱい走って凧が大空のぼった嬉しさは、50年ぶりにお会いできた船越先生との再会の喜びそのものです。

2021年2月28日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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