クーポラだより No.71~ラファエロの聖母子像とSenza Mamma(センツァ・マンマ)~


「マンモーネ」とはイタリア語でマザコンの男性を指す言葉で、「マンモーニ」は、マンモーネの複数形です。


マンモーニは、一般的な意味のマザコンだけではなく、大人になっても子供の時と同じように母親に世話を焼いてもらっている会社勤めの独身イタリア男性たちの社会現象を指しています。


日本では成人した男性が母親に身の回りの世話を焼かれている姿は頼りなくて、甘えているとされ、結婚相手を探している独身女性から見るとマイナスな要素ですが、聖母マリア信仰が強いイタリアではマンモーネを、日本ほど重大な欠陥とは見なさず、イタリア男性の一般的な傾向だと受け入れられています。


マンモーネの正当性はイタリアのルネサンス時代の画家ラファエロの聖母子像を見ればすぐに納得がいきます。


ラファエロはモナリザの作者レオナルド・ダ・ヴィンチとシスティーナ礼拝堂の天井画と巨大なダビデ像で有名なミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠と称されるイタリア人画家です。


1520年、37歳の若さでこの世を去ったラファエロは、柔らかく写実的な筆致で調和のとれた聖母子像をたくさん描いた「聖母子」の画家で知られ、それらの絵画は世界各地の美術館に点在しています。


イタリア、花の都フィレンツェのウフィツィ美術館には、ラファエロ23歳の作品、幼い洗礼者ヨハネがイエスに小鳥のヒワを差し出す様子を見守るマリア「ヒワの聖母」が展示されています。



フランスのパリ、ルーブル美術館には、画家24歳の作品、つかまり立ちをはじめた幼子イエスに手を差し伸べるマリアが、控え目ながらも母として誇らしく嬉しそうな表情した瞬間を描いた「美しき女庭師」が展示されています。



オーストリア、ウィーンの美術史美術館にはラファエロ23歳の作品「草原の聖母」、アメリカ、ワシントン・ナショナル・ギャラリーには、スペインのアルバ公爵のコレクションからロシア皇帝ニコライ1世によってエルミタージュ美術館に渡り、その後アメリカ人収集家のアンドリュー・メロンに買い取られた漂泊の運命の聖母子画「アルバの聖母」が飾られています。



若くして亡くなったラファエロですが、画家としては出世が早く、5m × 7mの巨大なフレスコ画で、彼の代表作となった「アテネの学堂」を、25歳の時にヴァチカン宮殿の壁に完成させています。



しかし彼の最も人気のある作品は、「小椅子の聖母」という小さな板絵で、フィレンツェのアルノ川の西岸に位置し、ウフィッツィ美術館とは回廊で結ばれたピッティ宮殿に展示されています。



「小椅子の聖母」はラファエロが30歳の頃に描かれた71㎝×71㎝の小さな油彩画で、エキゾチックな緑色のショールを羽織り、深紅の衣装をきた美しいマリアが、バラ色の頬をもつ健康そうな赤ちゃんのイエスを、しっかりと抱いた構図で、聖母子像というよりは、うら若き母と子の日常を切り取った写真のようで、他の聖母子像よりも一層、人間的で親近感があります。



この「小椅子の聖母」に象徴されるように、親近感のあるマリアと可愛い赤ちゃんのイエスの姿は、イタリア芸術の特徴のように思えます。


イタリアオペラにも、ラファエロの描くマリアのような親しみやすい女性を題材にした作曲家がいます。


ラファエロの生まれた街ウルビーノからフィレンツェを挟んで、真西の街、ルッカに生まれたプッチーニです。



ラファエロよりも475年後、1858年に生まれたプッチーニは、代々、宗教音楽家を輩出した家柄で、彼も職のスタートは教会付属のオルガニストでしたが、オペラ作曲家のコンクールに作品提出したことがきっかけで、楽譜出版社のリコルディの社長に注目されてオペラ作曲家としての道を歩みはじめ、彼のオペラは、今も世界各地の歌劇場の重要な演目として上演され続けています。



日本では蝶々夫人の作曲家としてよく知られているプッチーニですが、彼のオペラにはラファエロのマリアのように親しみやすく、清らかな性格を持った女性が登場します。



愛する我が子の未来のために自害してしまう蝶々さん、オペラ「ボエーム」のヒロインのお針子のミミは、自分の身体が弱いので、恋人ロドルフォの負担にならないようにと、身を引きます。


プッチーニの遺作となったオペラ「トゥーランドット」の女奴隷のリューは、愛するカラフ王子が異国のトゥーランドット姫と結婚するために、喜んで我が命を差し出します。



これらマリアのように献身的な愛に満ちたヒロインたちに、プッチーニは、とびきり美しく親しみやすい旋律の独唱曲を作曲しました。



ミミには「私の名はミミ」、蝶々さんには「ある晴れた日に」、リューには「氷のような姫君の心も」と、いずれの旋律も独立してその曲だけを歌っても、十分にプッチーニ・オペラの味わいを伝えてくれる名曲で、私も自分のコンサートでしばしば歌ってきました。



また、プッチーニのオペラのヒロイン像は、私自身と重なり合うところが多く、自分と反映させやすいので、好んで歌ってきました。


しかし、そんなプッチーニのヒロインたちの中で、どうしても歌えない曲が、1曲だけありました。


それは、オペラ「修道女アンジェリカ」のヒロインのアンジェリカの独唱曲「Senza Manmaセンツァ・マンマ=(母もなく)」です。


オペラのあらすじは、ある修道院に立派な馬車が着いて、身分の高い女性が修道女アンジェリカに面会にやってきます。


その女性はアンジェリカの親戚でした。


アンジェリカは、もともと身分のある家柄に生まれた娘だったのです。


しかし、未婚なのに子供を身ごもったアンジェリカは、家名に傷がつくとされて、お産のあとすぐに修道院に入れられて、我が子を抱くことなく修道女として7年間過ごしてきたのです。


もちろん一日たりとて、我が子を忘れたことはありませんでした。


そしてアンジェリカの親戚の女性は、残酷な事実を告げにやってきたのです。


「お前の産んだ子は高熱のために5歳で死んだ。」と。


絶望したアンジェリカが歌うのが「Senza Manmaセンツァ・マンマ」です。



この曲は、とても哀愁を帯びた旋律で、私の声質にとてもよく似合うのですが、他のプッチーニの曲のように、声のコントロールをしながら感情移入が出来ないのです。


その理由は、自分でもよくわかっていました。


私がアンジェリカの子供のように、生みの母を知らずに育ち、長い間、母から捨てられたと思いこまされて、成長したからです。


「Senza Manmaセンツァ・マンマ」を歌っていると、あまりにも自分の痛みに近すぎて、演技を忘れて声のコントロールを失ってしまい曲の最後まで歌えないのです。


けれども、もうそんな心配はいりません。


先日、親友の言葉に勇気をもらって生母に会ってみると、生母に捨てられたことは周りの大人たちの都合良いウソだったことがわかり、私の痛みはすっかり消えたのです。


半世紀以上もウソを信じ続け、生母に会うことを恐れていた私に勇気をくれたのは、夫亡き後も、変わらない友情を示してくれた聖母マリアのような慈愛に満ちた親友でした。


彼女の存在のおかげで、夫の7回忌を前向きな姿勢で迎えられる今の自分があるのだと、

神に感謝せずにはいられません。


2021年1月29日

大江利子

(小椅子の聖母)

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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