クーポラだより No.70 ~菅(かん)茶山(ちゃざん)の「筆のすさび」としらかわホールのベートーベン~


伊豆の海中に鳥柱(とりはしら)といふものあり。晴天に白き鳥数千羽、盤舞(ばんぶ)して高く颺(あが)る。空は眼力の及ばざるに到る。大なる白き柱を海中に立たるがごとし。八丈島より南にありぞ。

(伊豆の海に鳥柱というものがある。晴れた空に白い鳥が数千羽、ぐるぐると舞い飛んで高く上がる。上空の見えなくなるほどの高さに達する。大きな白い柱を海に立てたようだ。八丈島より南にあるという。)


この「鳥柱」の記述は、江戸時代の学者、菅(かん)茶山(ちゃざん)が書き残した随筆集「筆のすさび」の中の一節で、鳥柱の白い鳥とはアホウドリのことです。


アホウドリは、北半球最大の海鳥で、翼を広げると3m近くもあり、一生のほとんどを海の上で過ごし、グライダーのように優雅に滑空し、歩くのはとても下手な鳥です。


夏季アホウドリはベーリング海やアラスカ湾、アリューシャン列島周辺で暮らし、冬季は日本近海まで渡ってきて、絶海の孤島(鳥島、尖閣諸島、小笠原諸島)で営巣します。


150年程前は「鳥柱」の記述のように、無数にいたアホウドリも、人をこわがらないこと、美しい羽毛をもつことが災いし、人の手によって絶滅寸前まで追い込まれたのです。


アホウドリの羽根は西洋人が好む羽根布団の材料に適していることに目をつけた日本の実業家は1887年~1902年(明治20~35)の間、羽根の輸出目的でアホウドリを大量殺戮、その結果1949年、絶滅宣言が出されたほどでした。


しかし、1981年から始まった山科鳥類研究所を中心とする保護活動が功を奏し、現在は約5千羽まで生息数が回復しています。


山科鳥類研究所が保護活動の最初に選んだ手段は「デコイ作戦」と呼ばれるユニークな方法です。


デコイとは模型のことで、アホウドリそっくりの木型を設置して、本物のアホウドリを誘うのです。


保護活動前、絶滅寸前のアホウドリが繁殖していた鳥島の営巣地は、台風による地滑りや火山噴火の恐れがあり、アホウドリの雛が危険にさらされていました。


そこで、デコイを設置して仲間がいるのだとアホウドリに思わせて、別の安全な場所で営巣させようという作戦です。


この「デコイ作戦」を、1990年代の報道で知って依頼、長い間私は、アホウドリは自然界には珍しい貴重な鳥で、もともとの個体数が少ないのだという認識でしたが、先日「筆のすさび」を読んで、江戸時代、鳥柱がたつほど、日本近海にアホウドリが生息していたと知って驚きました。


「筆のすさび」には、他にも興味をそそられる記述がたくさんあります。


倹約しなければならないご時世に、岡山藩で文鳥の飼育が流行し禁止令が出されたとか、間宮林蔵がロシア人に遭遇したとか、桜島が噴火したとか、和紙と竹で手作りした翼で飛んだ表具師が岡山藩を所払いになったとか、自然科学や歴史的に面白い事柄が、飾らない率直な言葉で表現されており江戸の世の中が近しいもの感じられます。


私は「筆のすさび」を読むうちに、こんなにも簡潔な表現で読み手にイメージを膨らませる文才の持ち主、菅茶山自身に興味が沸き、彼の故郷の広島県神辺(かんなべ)に記念館があることを知って、今月初旬に訪問してみました。


中国地方の小さな町には不釣り合いなほどの立派な記念館には、書と漢詩に優れた茶山の作品がたくさん展示されていましたが、もっとも私の気を惹いたのは彼が指導していた塾のきまりです。


一、 ゴミは籠に入れむやみに投げ捨てないこと。

一、 読書に飽きたといって立ち騒いだり相撲をとらないこと。

一、 内々に酒肴の類など飲食物を持ち込まないこと。

一、 火事、盗賊、急病人などの場合以外は走らず歩くこと。

などなど、まるで小学校の教室や廊下に貼ってあるようなきまりが他にもたくさんありました。


神辺は、宿場町として栄えていましたが、賭け事や飲酒で人々が荒んでいたのを憂いた茶山は、故郷の町を学問で改善しようと私塾を開きました。


上記のきまりは、試行錯誤で塾を続けているなかで、わんぱくな塾生たちの行動に手を焼いた結果つくらざるを得なかったものと想像されます。


茶山の私塾は、寺子屋のようなもので、常時20名ほどの塾生がいましたが、血気盛んな若者が集まると、さぞや苦労が絶えなかったろうと、学校勤めをした経験のある私には他人事ではありません。


しかし、「筆のすさび」の中には、そんな苦労や愚痴は見当たらず、愉快で明るく前向きな話題ばかりです。


どんな分野でも、苦労が多い人ほど、自分の苦労には目を向けず、人のために尽くすことを喜びとして、前向きな姿勢で生きているように思います。


音楽の世界では、その筆頭がベートーベンです。


今月26日、久しぶりに生演奏を聞くため名古屋市内の音楽専用ホール、三井住友しらかわホールまで足を運びましたが、茶山の「筆のすさび」のように飾らない美しさに満ちたベートーベンの演奏を聞くことができました。


先月号のクーポラだよりNo.69でお伝えした、大学時代、指揮研究会の先輩、新田ユリ氏がタクトをとった愛知室内管弦楽団とピアニストのオピッツ氏の演奏会です。


曲目は、ベートーベン作曲のピアノ協奏曲第5番「皇帝」です。


ピアノの名手だったベートーベンは生涯に5曲の協奏曲を作曲しましたが、第5番「皇帝」がもっとも華やかで堂々たる作品で、次第に耳が聞こえなくなっていくことに絶望して、遺書まで書いた彼がふたたび生きる力を取り戻したのちに作曲した音楽です。


ベートーベンがちょうど「皇帝」を作曲していた時、破竹の勢いのナポレオンがウィーンに攻め込んで、フランス軍が放つ大砲の爆音に、難聴だった楽聖の耳が、ますます悪化したと伝えられています。


けれども、「皇帝」には、そんな恐れや哀しみもなく、田園交響曲を思わせるような小鳥のさえずりや、小川のせせらぎなど森羅万象への讃歌と、希望に満ちた音楽です。


生きる喜びにあふれた「皇帝」ですが、ピアニストにとっては高い技術力を鼓舞できるので、指がよく動くことに満足した自己陶酔な演奏が多く、素直なベートーベンになかなか出会えないものです。


しかし、新田ユリ氏が指揮する愛知室内管弦楽団とオピッツ氏が奏でる「皇帝」は、終始一貫して、ベートーベンの心の声を聞いているような演奏でした。


特に、静かな2楽章の終わりから陽気な3楽章に移行する瞬間は、得も言われぬ神々しさに包まれて私は鳥肌がたちました。


すべての演奏が終わった後、聴衆から割れるような喝采が沸き起こり、会場に居合わせたすべての人々が、私と同じ想いで「皇帝」を聴いていたのだと確信しました。


聴衆をこんなにも感動させるとは、ユリ先輩と愛知室内管弦楽団とオピッツ氏はいったいどれほど、真摯にベートーベンの作曲意図と向き合いながら、練習を積み重ねてこられたのでしょうか。


昨今、インターネットの発達とコロナの影響で、様々なアーチストの演奏がうんざりするほどウエブで配信されているため、コンサートそのものに魅力を感じられなくなっていましたが、生演奏でしか味わえない感動があるのだと、思い直させてくれるベートーベンの皇帝でした。


2020年12月29日

大江利子


クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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