クーポラだよりNo.67~学問の神様と幸吉の翼~
東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(拾遺和歌集)
(東の風が吹いたならば、その香りを私の元まで送っておくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、春を忘れるなよ。)
これは、平安時代の学者の菅原道真が太宰府への出立する時に詠んだ有名な和歌です。
幼い頃から学問に優れ、文人として名高い菅原道真は、891年47歳の時に讃岐国の国司(現在の県知事のような役職)から、信頼をおかれていた宇多天皇に抜擢されて蔵人頭(天皇の秘書長)となりました。
その後、短期間のうちに出世した道真は、899年55歳の時、太政大臣に次ぐ最高職の地位、右大臣となり天皇の忠臣として政治改革に着手しました。
しかし政治の反対派藤原氏の策略により、道真は謀反の嫌疑をかけられてしまいます。
901年1月、57歳の道真は疑いを晴らす暇も与えられずに、太宰府への左遷が決まり、右大臣の役職を剥奪されて都を追われたのでした。
太宰府では侘しい暮らしを強いられ絶えず藤原氏の刺客に怯えた生活で、左遷から2年後の903年2月25日、謀反の疑いが晴れることなく、道真は59歳で亡くなりました。
道真亡き後、都では異変が起きました。
まず道真を失脚させた首謀者が病死、皇子、天皇ともに相次ぎ落命、都は異常気象により干ばつに見舞われ人々は飢饉に苦しみ疫病が蔓延、政務をつかさどっていた清涼殿には落雷が起きて死者がでました。
人々は道真の祟りだと恐れおののき、鎮魂行事をしないことには政務も立ち行かなくなってしまいました。
道真没後20年目の923年、政府は彼の左遷を撤回し、右大臣の役を再び贈り、京都北野に怨霊鎮魂のために神殿を建立しました。
清涼殿の落雷以来、天神(雷神)は道長の化身と考えられて、天神を祀る神社、天満宮は道真を祀る神社となりました。
時代が下るにつれて、天満宮の道真は祟り神としてよりも、生前に彼が優れた学者だったことから学問の神様として祀られるようになりました。
道真没後千年以上経過した今では、誰も道真のことを恐ろしい祟り神だとは考えず、彼の生誕と没日がともに25日であることから、毎月25日の天満宮の祭日の門前市は人々の楽しみとなり、毎冬の受験シーズンには合格を祈願する学生たちの心のよりどころとして、人々に愛される身近な神様となりました。
それにしても、道真没後に起きた干ばつや落雷は本当に彼の祟りなのでしょうか?
私には周囲の人の濡れ衣に思えてなりません。
道真を失脚させた藤原氏やその謀略を知っていながら傍観した当時の人々が、自分たちの心に負い目があるために、得体の知れない厄災を道真のせいにしたのではないでしょうか?
もともと道真は、右大臣拝命の折、周囲の嫉妬を理由に辞退を上申しましたが、退けられた経緯があり、聡明な彼は自分の運命を承知した上での右大臣着任だったかもしれません。
太宰府への出立する数日前に、道真は宇多天皇に哀惜するような和歌を詠んでいます。
流れ行く我は水屑となりはてぬ 君柵(しがらみ)となりてとどめよ
(流されていく私は水屑となるとしても、我が君よ、どうかしがらみとなってせきとめてください)
謀反の嫌疑をかけられても道長が詠んだのは恨みごとではなく、花鳥風月を愛した彼らしい雅で風流な和歌でした。
道真の漢詩集「菅家文章(かんけぶんそう)」からも彼の思想を伺えます。
未だかつて邪(じゃ)は正(せい)に勝たず
(邪まなことはどんなことがあっても、結局正義には勝てないのである。)
ところで最近の私は、和傘に興味をもち、調べたり取材したりしています。
私の故郷の岡山には江戸時代に手作りの飛行機で空を飛んだ人物の記録が残っています。
その人は浮田幸吉という腕の良い表具師でした。
幸吉は幼い頃に父を亡くし奉公に出されましたが、9歳で和傘を丸ごと手作りするほど手先の器用な少年だったそうです。
鳥のように飛びたいと、空飛ぶことに憧れた幸吉は、1785年28歳の時に和紙と竹で作った自作の飛行機で岡山城の近くを流れる旭川にかかる京橋の欄干から河原で夕涼みをしている人々の上を飛びました。
この幸吉の飛行は、ライト兄弟よりも118年早いのですが、時代を先駆け過ぎました。
当時の岡山城主、池田家7代目の池田治正に認められるどころか、空を飛んで世間を騒がせたことは罪だとお裁きが下り、幸吉は所払いになってしまいました。
幸吉はその後、静岡県に移り住み、そこでも空を飛んだらしく、彼の飛行機は明治時代まで実在していたようですが、縁者の人達に捨てられてしまいました。
幸吉の岡山所払いの罪は212年後の1997年、池田家16代目当主池田隆正より許され、彼の人物像は江戸時代に空を飛んだ偉人として映画や小説の題材になっています。
しかし、肝心の幸吉の飛行機は、図面も機体も残っていないので謎のままです。
重要なヒントは幸吉が和傘つくりに長けていたことですが、和紙と同じく和傘も、かつて日本の各地で盛んに作られていましたが、洋傘にその座を追いやられて今では岐阜や金沢、京都でごく少数の職人が祭事や踊りや野点などの限られた用途の和傘を作っているだけとなり、一朝一夕に作り方を見ることも知ることも難しいのが現状です。
幸吉のふるさとは岡山南部の瀬戸内海沿岸の玉野市八浜です。
八浜は私の住まいの近くであり、オートバイが好きな夫のお気に入りツーリングコースでした。
今では、八浜は、毎日曜日の私のツーリングコースです。
50歳を過ぎてから、ピアノを弾く我が手で、二輪のハンドルを握るなんて想像すらしていませんでしたが、夫の形見のオートバイにまたがり八浜を疾走していると、幸吉のことが人ごとではないように思うのです。
幼くして奉公に出された幸吉につらく孤独に耐えきれないことはなかったのか?
おそらく幸吉は、寂しいことやつらいことに心を傾けるよりも目の前にある謎を自分で解決しないと気が済まない好奇心旺盛な少年だったのではと思います。
私も夫を失った悲しみに浸り、彼を死に追いやった原因を恨み続けるよりも、彼が残した大量の飛行機の本を読み、わからないことや見たいことを解決するために彼が愛したオートバイで各地を疾走する方が性に合っていたようです。
学問の神様の菅原道真も、乗馬が好きで自然の中を馬で駆け巡ることが大好きでした。
来月10月、昨年初参加したオートバイ・ラリーに再び参加するために、岡山から石川県まで走りますが、帰り道に北陸地方から岐阜まで和傘の産地を訪問し、幸吉の翼の謎解きに役立つことをつかみたいと、今から心が高鳴ります。
2020年9月29日
大江利子
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