クーポラだよりNo.107~オペラ「ラ・ボエーム」の思い出~
遠い記憶をたどれば、私が初めて見たオペラは「ラ・ボエーム」でした。
小学生の時、学校の授業だけではもの足らず、もっとたくさんの歌を知りたかった私は、新聞のテレビ番組欄で歌番組を見つけると、毎日必ず見ていました。
歌謡曲、クラッシック、民謡など、ジャンルにこだわりはなく、とにかく、素敵な詩に音がつき、それを人の声で奏でているならば、食い入るようにテレビ画面を見ながら全身を耳にして、声色の違いを聞き分けて、自分の好みの歌と歌声を見つけることに必死でした。
当時の私が最も好きだった歌声は、由紀さおりの高い声と美川憲一の低い声です。
ふたりの声は、私にとって他の歌手の声とは別格でした。
たいていの歌手の声には、ざらつき、カスレ、音程のふらつき、低音から高音へ移動するときの不自然な音色の変化、感情過多な表現などが散見され、せっかくの歌詞の意味が伝わらないで、安っぽく聞こえてくることが多々ありましたが、由紀さおりと美川憲一の歌声には、それがありませんでした。
由紀さおりの「夜明けのスキャット」の透明感のある高い声と美川憲一の「さそり座の女」の重厚な響きの低い声を両立できるような歌い方をしてみたい、おぼろげながら小学生の私は思ったものです。
そんなある日、テレビを見ていると、ブラウン管に不思議な光景が広がっていました。
外国の演劇舞台のようですが、舞台上の人は、セリフを話しているのではなく、歌っているのです。
セリフを話さず、歌うお芝居、それはまさしく私が生まれて初めて目にしたオペラ「ラ・ボエーム」でした。
ラ・ボエームの舞台は、パリの学生街のラタン区のアパートです。
一人暮らしの貧しい娘ミミは、クリスマスの夜、ローソクの灯りをたよりに薄暗い階段を上がって屋根裏の自分の部屋に帰るところでした。
しかし不意の風でローソクの火が消えてしまい、近くの部屋をノックして、部屋の住人に火をつけてくれるように頼みます。
その部屋には、ミミと同じように貧しい青年ロドルフォが住んでいました。
戸口で、ミミはロドルフォからローソクの火をつけてもらうと、お礼を言って立ち去ろうとしますが、急に気分が悪くなり、その場に気を失って倒れてしまいます。
驚いたロドルフォはミミを自分の部屋で介抱します。
介抱しながら、ロドルフォはミミの可愛いらしい顔立ちに心を奪われますが、同時にその顔色の悪さを心配します。
ミミは間もなく意識を取り戻し、ロドルフォから勧められたブドウ酒を少しだけ口にするとまたすぐに立ち去ろうとします。
しかし彼女は、倒れた時に、手にしていた部屋の鍵を落とし、失くしたことに気がついて、もう一度、ロドルフォの部屋に戻ってきます。
ミミとのきっかけができたことにロドルフォは内心喜び、このチャンスを逃すまいと、自分の部屋のローソクの灯りも消えてしまったと、わざと火を吹き消し、暗闇の中で鍵を探すふりをしながらミミの手をとるのです。
ロドルフォはミミの手をとりながら歌で自己紹介します。
なんと冷たい可愛い手だ
僕に温めさせてください
鍵を探しても無駄ですよ
暗闇では見つかりません
しかし幸運なことに 今夜は月夜で、月の近くに私たちはいます
待ってくださいお嬢さん!
あなたに一言話させてください
いったい私が何者か?
どうやって暮らしいるのかということを
私は詩人です
何をしているかって?書いています
それでどうにか暮らしています
貧しくとも、私は大金持ちのように贅沢です
愛の詩や歌 夢や幻想 そして空に描く城のおかげで
私は億万長者のような心を持っているのですから
でもそんな贅沢な私の心の財宝を、
美しい瞳という泥棒がすべて奪い去ってしまうことがあります
たった今も その泥棒が入ってきて 私の心の財宝が消え去ってしまいました
しかし 盗まれたことを悲しくはないのです
なぜならそこは甘い希望の部屋となったからです!
さあこれで私のことがわかりましたね
今度はあなたが話してください
あなたは誰ですか?
お願いです 僕にあなたのことを聞かせてください?
ロドルフォに答えて、今度はミミが歌いながら自己紹介をします。
ソプラノ独唱曲として名高い「私の名はミミ」です
はい、私はミミと呼ばれています
でも、私の本当の名前はルチアなの
私の話は短いです
家や外で織物や絹に刺繍をして、ひっそりと幸せに暮らしています
私の趣味はユリやバラを育てることです
この花たちは甘く優しい愛や春について語ってくれるのですもの、
こういうことを詩と呼ぶのでしょう? そうですね(ロドルフォが答える)
私はミミと呼ばれていますが、理由はわかりません
私はひとりぼっちで食事をとり、ミサには滅多に行かないの
でも神様にお祈りはきちんとしているわ
一人暮らしですけどね。
あの白い小さな部屋から屋根の上の空を眺めているの
すると、雪解けの季節、春一番の太陽や四月のキスは私のものなのよ
植木鉢の薔薇の新芽の間をのぞくと、なんて優しい花の香りでしょう!
でも残念なことに私が作る刺繡のお花には香りがないのよ
私のお話はこれだけよ こんな時間に突然お邪魔をして、私ったら迷惑な隣人ね。
こうして恋に落ちたふたりは一緒に暮らし始めますが、オペラの最後はミミの死という悲しい結末です。
まったくオペラを知らず、恋の経験もない小学生の私でしたが、このラ・ボエームのストーリーとオペラ歌手の声の魅力に惹きこまれて、息を引き取ったミミを抱きしめて絶叫するロドルフォの悲しい姿が映しだされる最後までブラウン管から目が離せませんでした。
その後、音大を卒業後、働きながら本格的にオペラを学ぶようになり、この「私の名はミミ」も歌えるようになった時、私はあることに気がつきました。
オペラをよく知らない時は、常人には不可能な高い声で歌うことが、オペラの魅力で、そのことが人を感動させるのだと思い込んでいましたが、実はそれだけではなく、低い声から高い声まで、むらのない透明感と厚みのある声で歌うからこそ、お芝居に臨場感を与え、聞く人の心を打つのだということがわかってきたのです。
そしてそれは、小学生の私がおぼろげながらに思った由紀さおりの声と美川憲一の声を両立させることで、低音から高音まで自由自在に操れる声があるからこそ、歌でお芝居をすることに不自然さを感じさせず、むしろ感動を増大させると気がついたのです。
ところで、おととい、私が主催するみんなの発表会で講師演奏として、ラ・ボエームの「私の名はミミ」を歌いました。観客は10歳(小3)から84歳までの幅広い年齢層でした。
歌う前に簡単に説明しただけで、オペラアリアを字幕もなしに歌うという冒険でしたが、観客の皆様の耳と心にストレスなく届いたようで、暖かい拍手をいただき、たいへん嬉しかったです。
2024年1月29日
大江利子
(2024年1月27日 第6回みんなの発表会で「私の名はミミ」を歌う筆者)
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