クーポラだより No.91~「梅は咲いたか」と着物と蝶々夫人~


1974年(昭和49年)、団地に暮らす核家族の鍵っ子だった私の留守番相手は、ラジオの歌謡番組でした。



ある午後、いつものように、ラジオを友に、親から言いつけられた家事をしていると、流れ始めた音楽に、私の手は止まり、全身が耳になりました。



~梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳ャなよなよ風次第 山吹や浮気で 色ばっかり しょんがいな~



その音楽は、江戸端唄「梅は咲いたか」で、唄っていたのは、女優の山田五十鈴でした。



端唄とは、三味線伴奏で歌われる短い歌謡のことで、長唄の対語にあたり、日本の伝統音楽です。



「梅は咲いたか」は、聞きなれたフォークソングや歌謡曲、小学校の授業で習う歌と、まったく異質の音楽でした。



けれどもその異質さが、とても新鮮で、かっこいいと感じた私は、早速、耳に残った「梅は咲いたか」の節(ふし)を練習してみました。



しかし、五線譜に記された西洋音楽に慣れた私にとって、拍子も音程もあいまいな、日本の伝統音楽は難しく、検分役に聞いてもらった母からは、「『梅は咲いたか』になっていない」と一蹴され、悔しさだけが残りました。



そして、以来、母国の伝統音楽に対して苦手意識を抱くようになりました。



端唄「梅は咲いたか」に出会った頃、おませな私は、樋口一葉の「たけくらべ」を読んでいました。



本の世界に、すぐに感化される私は、美登利に自分を重ね、明治時代の日本女性の服装に憧れ、着物を着こなせるようになりたいと思い立ち、家では着物で過ごすことにしました。



当時の私は、一枚だけ、着物を持っていました。



ツツジ色(明るい赤紫色)の井桁模様が愛らしい絣(かすり)の着物で、お揃いの羽織までありました。



「子供は成長が早いから、新品を買っても無駄だ」との持論で、従姉妹のお下がりばかりを私に着せていた両親が、なぜか、その絣の着物だけは、反物から仕立てた新品を買い与えてくれたのでした。



帯は、桃色の可愛い兵児帯(へこおび)を持っていましたが、素材が縮緬(ちりめん)なので、幼稚な「蝶々結び」しかできないのが不満で、母のウコン色(濃い黄色)の半帯を拝借しました。



着付けの本を見ながら、悪戦苦闘しつつ、「文庫結び」に挑戦し、母の三面鏡で後ろ姿を確認すると、我ながら上手く着付けることができており、端唄の無念も晴れた心地で、意気揚々と着物生活を始めました。



しかし数か月ほどで、着物生活は、やめてしまいました。



お琴や、三味線、日舞など、和装が必須の習い事でもしていれば、モチベーションも維持できたのでしょうが、コンクリートの集合団地の狭い家で、昭和の日常生活を過ごす小学生にとって、着物は無用の長物だったのです。



その後、中学からピアノと声楽の個人教授を受け始め、音大に進学した私は、バッハやベートーベンやショパンなど西洋音楽ばかりを練習しました。



また人前で演奏する時の衣装は、当然のようにロングドレスで、和装の機会からも、ますます遠ざかり、あのツツジ色の絣(かすり)も、どこかに失われてしまいました。



しかし、意外なところで、母国の伝統音楽に親しむことができる時がやってきました。



それは、オペラを歌うときです。



オペラを歌うためには、2オクターブ以上の声域を持つことと、ピアニストやヴァイオリニストの指のように、機械のような正確さで、声を自在に操れることが必須です。



そのためには、古い時代(ルネサンス音楽)の作曲家のオペラからスタートし、声の成長ともに、近代(ロマン派)の作曲家のオペラを歌います。



近代オペラ作曲家の中で、高い人気を保ち続けるひとりに、プッチーニがあげられます。



プッチーニは、1858年、日本では幕末、日米通商条約が結ばれた年に、トスカーナ地方の歴史ある街ルッカに生まれ、オペラの殿堂、ミラノ・スカラ座のある街ミラノで勉強し、売れっ子の作曲家となりました。



プッチーニが売れっ子になった理由は、彼が作曲する音楽が叙情的で、旋律が覚えやすく、初めてオペラを見る人にも理解しやすいからです。



ただし、歌うとなると、モーツァルトやヴェルディのように、器楽的な旋律が少なく、常に感情移入しながらドラマチックに歌わねばならないので、声のコントロールは大変です。



長崎が舞台のオペラ「蝶々夫人」は、プッチーニの代表作ですが、全幕出ずっぱりの蝶々さんは「ソプラノ殺し」と異名をとるほど、声を酷使します。



日本人の私にとって、蝶々さんは、他のオペラの役よりも、親近感があって、取り組みやすく感じていたのですが、上記の理由により、先生から、なかなかお許しがもらえませんでした。



ようやく歌うことを許されたのは、厳格な音階練習で声帯を毎日鍛錬し、古い時代の作曲家の作品を歌いながら、声を育て、低音から高音まで2オクターブ以上を楽々と歌えるようになった頃でした。



お預けの期間が長かっただけに、「蝶々夫人」の練習をはじめた時は、とても嬉しく、また、譜読みを進めるうちに、あることを発見し、とても驚きました。



あることとは、「さくらさくら」「お江戸日本橋」「越後獅子」など、日本の箏曲や長唄、民謡の節を使って、プッチーニが蝶々夫人を作曲していたことです。



蝶々夫人を練習しながら、日本の伝統音楽に苦手意識を持つきっかけになった、「梅は咲いたか」が上手く歌えなかった悔しい思い出は、いつしか微笑ましく懐かしい思い出に変わっていました。



プッチーニが蝶々夫人を完成させたのは、1903年12月27日、ライト兄弟が動力飛行を世界で初めて成功させた10日後です。



飛行機もインターネットも普及していない119年前、どうやってプッチーニは、日本の伝統音楽を収集できたのでしょう?



プッチーニは、イタリアに駐在していた日本人女性(外交公使の夫人)に再三会って、日本の伝統音楽を集めたのでした。



日本人の私が、苦手意識を持っていた母国の伝統音楽と親しめるようになったのは、オペラの発声法を勉強し、オペラを歌えるようになったからだなんて、面白いものです。



 ところで、最近、着物と帯を、それぞれ別の知人からいただきました。



私にとっては、あのツツジ色の絣(かすり)以来、48年ぶりの着物です。



帯は帆船模様の名古屋帯、着物は白地と藍色の二枚です。



コンサートで蝶々さんを弾き語りするときに、ピッタリの衣装です。



今度こそは、私なりの着物を活かせる場と目的があることに、心踊ります。



2022年9月29日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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