クーポラだより No.92~ブラームスの思い出~
「ここは、ブラームスの6度よ。その意味を理解して、弾かないとダメよ」
「ブラームスの6度?」
先生がおっしゃった言葉の意味がわからず、私は、オウム返しに質問しました。
「そう、有名なブラームスの6度よ。ほら、ここの部分よ」
そう言いながら、先生は、ピアノの鍵盤に指をおき、チェロのように深く包み込むような音色で、ブラームスのもの悲しい旋律を弾きました。
42年前の夏、1981年7月、郷里岡山の女子高のピアノ科の3年生だった私は、「特別レッスン」の講師、野村英子先生に、ブラームスのピアノ曲、ラプソディー2番の指導を受けていました。
「特別レッスン」とは、女子高の先生のレッスンではなく、県外の音楽大学の先生のレッスンのことで、高三の時だけ、年に数回受講できる、まさに特別なレッスンでした。
野村英子先生は、国立音楽大学のピアノ科の教授で、岡山の女子高のレッスンのために、新幹線に乗って東京から来られていました。
いつも上品なスーツ姿の野村先生は、私の両親よりも、はるかに年嵩(としかさ)で、小柄ながら堂々とした威厳のある女性です。
先生の威厳に圧倒され、普段のレッスンとは違った意味で緊張し、彫像のように固まっている私に、野村先生は低く落ち着いたお声で、ブラームスの6度について説明してくれました。
普段の私のピアノの師匠は、技術面に厳しい方で、私の指が弱くて、速く動かなかったせいでもあるのですが、週1度の60分間の個人レッスンは、ひたすら指を鍛える訓練に費やされ、だから、独りでお稽古する時も、指を速く動かせるようにすることばかりに気を取られ、作曲家の想いにまで思案を巡らす余裕はありませんでした。
また、ブラームスの旋律は、ショパンやリストと違って、地味で、18歳の私には、魅力的でなく、あまり好きになれないままに弾いていたのですが、野村先生のレッスンで、ブラームスに少し親近感がわきました。
「ブラームスはね、大切なところには6度をつかうのよ、そこに意識して、もう一度弾いてごらんなさい。」
再び、私は鍵盤に指を走らせ、ラプソディー2番を弾きました。
緊張で指がこわばって、ミスタッチしそうになります。
ブラームスは地味ですが、技術的には難所が多いのです。
しかし、意識を指のコントロールではなくブラームスの6度に集中させます。
すると不思議なことに、行ったこともないけれど、ドイツの深い森や湖が見える気がします。
ラプソディー2番は、ブラームスが46歳の時、アルプスの山に囲まれたヴェルター湖畔の村ペルチャッハに滞在し、風光明媚な景色を眺めながら作った曲でした。
バッハ(Bach)、ベートーベン(Beethoven)と共に、ドイツ三大Bと称されるブラームス(Brahms)は、北ドイツの湾岸都市ハンブルクの出身です。
ブラームスが生まれたのは1833年、日本では江戸時代末期、幕末の有名人では、桂小五郎こと木戸孝允がブラームスと同じ年、坂本龍馬はひとつ年下です。
幼いブラームスの稀有な才能に、最初に気がついたのは、貧しいコントラバス奏者の父でした。
ブラームスが6歳の頃、父がピアノで無作為に叩く音を、耳だけで正確に言い当てることができ、また自己流の楽譜で、作曲までしていたのです。
息子の才能を喜んだ父は、早速、ヴァイオリンとチェロを教えました。
少年ブラームスは、すぐに上達しましたが、弦楽器では満足せず、ピアニストになることを望みました。
幼い頃から作曲をしていたブラームスにとって、旋律しか弾けない弦楽器より、「独りオーケストラ」と称されるピアノの方が魅力的だったのでしょう。
ブラームスの最初のピアノの先生はコッセルという優れた教育者です。
コッセル先生は、高速で指を動かし、派手な演奏技術で聴衆の受けを狙うような外面的な表現ではなく、音楽の内面から表現するように指導しました。
コッセル先生の元で才能を伸ばしたブラームスは、10歳の時に初舞台をふみました。
父の主催した室内楽演奏会で、モーツァルトの四重奏曲とベートーベンの五重奏曲のピアノを担当したのです。
天才少年の初舞台としては、かなり渋い選曲ですが、コッセル先生の影響かもしれません。
ともかく、この初舞台で、ブラームスの才能が認められ、アメリカで演奏旅行をすれば成功すると両親に勧める興行師も現れました。しかしコッセル先生が異を唱えました。
コッセル先生は、少年の稀有な才能をサーカスの見世物のように使って、擦り減らしてしまうより、もっと大切に育てるべきだとして、自分の師匠にブラームスを預けたのです。
新しい師匠は、作曲家でありピアニストでもあり、バッハやベートーベンやショパンなど、たくさんの音楽に精通し、心優しく高潔なマルクスゼン先生です。
マルクスゼン先生も、すぐに少年の才能に気がつき、また、家計の苦しいブラームス一家を思って、報酬は受け取ろうとしませんでした。
聡明で欲得のない師匠から、作曲法とピアノの薫陶を受けたブラームスは、作曲はもちろん、生き方や恋愛にもマルクスゼン先生の影響を受けて、当時ライバルと見なされていたワーグナーとは真反対でした。
ワーグナーは人妻と略奪婚し、自作のオペラを「楽劇」と呼んで特別扱いにし、バイエルン国王に楽劇専用の劇場「バイロイト祝祭劇場」を建設させたほどのやり手でした。
一方、ブラームスは、作曲家としてどんなに成功しても、質素な生活を好み、周りで困っている人がいれば、金銭的に援助し、恋愛は婚約した女性もいましたが、結婚よりも創作を選び、生涯独身を通しました。
ブラームスが自分に許した唯一の贅沢は、風光明媚な田舎で夏の休暇を過ごしながら作曲することでした。
ところで、最近、とても素晴らしいブラームスを生演奏で聞く機会がありました。
ヴァイオリニストである古い知人が、演奏活動40周年を記念したコンサートを開催し、ブラームスのピアノ三重奏曲の1番を演奏してくれました。
偶然ですが、その曲は、夫が大好きだった曲で、コンサートの間中、生前の夫の言葉を思い出し、涙が何度もあふれそうになりました。
「ブラームスは、若い頃に聞くよりも、人生経験をたくさん積んで、年を重ねてから聞く方がずっと良いと思うよ。」
2022年10月29日
大江利子
0コメント