クーポラだより No.103~トゥシューズと私~

「としこさんもポワントの練習を始めましょう」



バレエ教室に通い始めて、半年ほど経った頃、師匠が言いました。



1995年9月から、週2回、幼いころからバレエを習っている中高生たちに混ざって、緊張しながらレッスンを受け始め、なんとか形だけは、レッスンの流れに乗れるようになってきたころのことです。



当初の目的は、オペラの発声=ベルカント唱法を極めるために、バレエのレッスンで身体作りをしたいというささやかなものでしたが、いざ、習ってみるとすっかりその魅力の虜になり、本気でバレエを極めてみたい、と大胆不敵な思いを抱き始めていた私は、すでに32歳でした。



大人からのスタートなので、ポワントを履いて踊るなんて、不可能に近いと思っていたのですが、師匠のひとこと「ポワントの練習を始めましょう」は、32歳の私にだって、まだまだ可能性があることを保証されたようで、とても嬉しかったことを覚えています。



ポワントとは、フランス語でつま先という意味ですが、バレエの世界ではトウシューズの踊りを意味します。



一般的に、バレエのイメージは、トウシューズで踊ることだと思われがちです。しかし、1533年にイタリアのメディチ家のカトリーヌがフランス王室に嫁いだことでバレエが誕生し、もうすぐ500年になるその長い歴史の中で、トウシューズが登場するのは、かなり後の時代になってからです。



以前のクーポラだより(No.23)でも少し触れましたが、ここで改めて、バレエの歴史を振り返りながら、いつ、トウシューズが登場するかを見てみましょう。



まず、バレエの前史ですが、イタリアのルネサンス時代にまでさかのぼります。



ルネサンスの巨匠ミケランジェロの彫刻ダビデ像に出会えるフィレンツェのアカデミア美術館には、当時の宮廷の踊りを伝える貴重な箪笥が保管されています。



15世紀、フィレンツェの裕福な家の婚礼の儀式の舞踏の様子が描かれた花嫁箪笥です。



男性が女性と組んで優雅に踊っている絵の様子から、当時、すでに何か共通のステップがあり、全体の動きも、あらかじめ打ち合わせがあったことは明らかです。



オリビア・ハッセーを主役のジュリエットに据えたゼッフィレッリ監督の名画「ロミオとジュリエット」の舞踏会のシーンのような、このルネサンスの踊りは、「Balletto=バッレット」と呼ばれており、これがバレエの語源と言われ、カトリーヌの輿入れによってイタリアからフランスに渡った「Balletto」は、ヴェルサイユ宮殿を築いたルイ14世の時代に正式な舞踏、すなわちバレエとなります。



自らも舞台で踊るほど、バレエ愛好家のルイ14世は、1661年、王立舞踏アカデミーを創立し、このアカデミー設立によって、現在も使われている1番から5番までの足のポジションが定められ、1671年、バレエとオペラ専用の劇場「オペラ座」が創建、1713年には、その「オペラ座」付属のバレエ学校が創立されます。



しかし、この時点では、背を高く見せるためにヒールの高い靴を履いて踊ることはあっても、床に垂直に立つことができるトウシューズは存在せず、ポワントが登場するのは119年後です。



1832年、オペラ座で、イタリア人ダンサーを父とするマリー・タリオーニは、父の厳しい稽古によって、ポワントのテクニックを獲得し、父が振り付けた「ラ・シルフィード」をトウシューズで見事に踊り、大絶賛を浴びました。



シルフィードとは、空気の精、つまり妖精のことで、バレエ「ラ・シルフィード」のあらすじは哀しい物語です。



スコットランドのある農村で、結婚を控えた若者ジェイムズの目の前に、シルフィードが現れて彼を魅惑します。



シルフィードはジェイムズに恋をしているのです。



結婚式の日、結婚指輪を持ち去ってしまったシルフィードを追って、森の奥深くに入ったジェイムズは、ふわりと飛んで身をかわすシルフィードに、心を奪われ、結婚することを忘れてしまいます。



シルフィードを捕まえたい一心のジェイムズは魔女にもらった、飛べなくなるショールを彼女の肩にかけると、彼女はもがき苦しみ羽が抜け落ちて息絶えてしまいます。



ショールは呪いのショールだったのです。



このシルフィードを演じたマリーは、くるぶしまでのスカート丈で薄布を重ねた衣装を身にまとい、つま先を固めた靴、すなわちトウシューズで、床に垂直に片足立ちし、重力を感じさせないその踊りは、バレエの歴史を変えました。



マリー・タリオーニ以後、トウシューズはバレリーナの定番となり、バレエの題材には、ポワントを活かした踊り、シルフィードのように、人の形はしているけれども人でないもの、妖精や幻が好んで演目に取り上げられるようになりました。



また、トウシューズによって素早い回転や、ダイナミックな足さばきの可能性が広がったバレエは、技術的にも飛躍的に向上し、現在のようにアクロバティックで華やかな踊りとなっていきます。



イタリアに発祥したバレエは、フランスでポワント・テクニックを獲得し、ロシアに渡り、チャイコフスキーの音楽に出会って頂点を迎えます。



チャイコフスキー作曲「白鳥の湖」の中で踊られるプリマバレリーナのソロは、まさしくポワント・テクニックを最大限に活かした踊りでしょう。



現代のバレリーナたちは、長い歴史の中で、徐々に発達したポワントのテクニックを、すべて身につけ、完璧に踊れないと、プロとしてはやっていけないので、身体条件に恵まれた少数精鋭の少女たちが短期間のうちに猛稽古を積み、プロになる狭い門をくぐり抜けて舞台で踊っています。



そんな彼女たちが舞台で踊るのは、ポワント・テクニックが頂点に達した頃の作品が中心です。



トウシューズを履き始めた32歳の頃の私は、現代のバレリーナたちが踊っている振り付けと同じ振りで踊りたいと、がむしゃらにお稽古していました。



しかし、28年も続けていると、次第に、バレエの歴史や、また現代のバレリーナになれる少女の身体条件とは、いかなるものかが、わかってくるようになると、まず自分の身体の欠点を克服し、地道に続けていくしかないと悟った私です。



今の私の課題は、胸椎を中心とした背中の柔軟性です。



少しずつ、少しずつ可動域が広がっていますが、老化とどちらが早いのでしょう?



私にも未知数ですが、いつか身体の条件が整って、重力から開放されたように見えるトウシューズの踊りを目指し、今日も地道なお稽古を頑張りましょう。

2023年9月29日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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