クーポラだより No.97~プロントと「ちょっと歌って!」~


イタリア人が電話をかけるとき、受話器の相手に向かって、最初に話しかける言葉は「プロント(Pronto)」です。



プロント(Pronto)は、日本語の「もしもし」に似た決まり文句ですが、もともとは、「準備ができた」という意味の形容詞です。



つまり、イタリア人が「プロント」と、目に見えない相手に向かって呼びかける本来の意味は、「あなたはお話をする準備ができていますか?」という、問いかけであって、日本語の「もしもし=私はこれから貴方様に申し上げます、申し上げます」というお断りの呼びかけとはニュアンスが異なります。



プロント(Pronto)は、短く便利な単語なので、イタリア人の会話の中に、電話以外にも頻繁に登場します。



例えば、お母さんが、朝、学校へ行く子供の準備を急かす時、「セイ・プロント?(Sei pronto)=用意できましたか?」



また、何か重大な決断を相手に迫る時、「トゥ・セイ・プロント?(Tu sei pronto?)=君は覚悟はできているのか?」



それから、恋人からサプライズを受けて、喜びを表す時、「トゥット・プロント・ペル・メ?(Tutto pronto per me?)=私のためにすべて用意してくれたの?」と、プロントには、多様な使い方があります。



歌のレッスンでもプロントは登場します。



レッスン前に先生が、生徒に向かって「セイ・プロント?」と尋ねた時は、「あなたの声帯は、歌う準備ができていますか?」つまり、「すぐに曲を歌うことができますか?」という意味です。



この質問に対して、十分な発声練習ができておらず、喉の筋肉がまだ温まっていないときは、「ノー・ノナンコーラ(No, No’ancora)いいえ、まだです。」と答えます。



オペラ歌手がプロントを口にする時は、かなり重要な意味をもちます。



例えば、ソプラノ歌手が、指揮者や劇場支配人の前で「ソーノ・プロンタ※マダムバタフライ(Sono pronta Madama Butterfly)」と口にすることは、「私の声は舞台で蝶々夫人の主役をすぐ歌うことができます。」という意味です。



私のイタリアの師匠のカヴァッリ先生も、ある時、プロントをおっしゃいました。



「ティエーニ・ラ・ボーチェ・センプレ・プロンタ※(Tieni la voce senpre pronta)=声を常に準備をした状態にしておきなさい。」



わかりやすく言い換えると「いつでもオペラが歌える声でいなさい。」です。



しかし、もっと深い意味は、「たとえ本番が迫っていなくても、毎日の発声練習を怠らず、いつでもオペラが歌える臨戦態勢でいなさい。」という先生のご経験による歌手としての戒律なのです。



カヴァッリ先生のオペラ歌手としてのデビューは、1955年、25歳の時ですが、世界的なプリマドンナとしての一歩を出されたのは、2年後、1957年にパリでオペラ「ノルマ」の主役を歌って大成功を収めて以来です。



先生が、このオペラに出演するきっかけは、突然呼び出されたオーディションで、ノルマの独唱「清き女神よ」を指揮者の前で歌い、とても気に入られたからですが、その日から舞台初日まで3日間しかなかったのです。



通常、オペラの主役は、何か月も前からオーディションによって決定し、ソリストや合唱、オーケストラ合わせの準備期間を経て本番を迎えるものです。



オーディションから、たった3日間で本番だったということは、おそらくは、そのノルマの主役に歌うことが決定していた歌手が急に降板し、劇場側は代役を探したけれど、技術的に非常に難しい役柄のため、歌える大物歌手たちの都合がつかず、若手実力派のカヴァッリ先生に白羽の矢がたったのだと思います。



カヴァッリ先生はノルマについては、「清き女神」を一曲知っていただけなので、本番までの3日間は、ご自身で弾き語りしながらスコアの譜読みに明け暮れたそうです。



しかし、譜読みさえできれば、先生のお声は、いつもプロンタされていたので、見事、ノルマの大役を果たされたのでした。



「トシーコ、ノン・スィ・プオ・マイ・サペーレ・ダ・ドーベ・アリベランノ・ラ・オッポルニタToshiko,non si può mai sapere da dove arriveranno le opportunità=利子、チャンスはどこからやってくるかわからないのよ。」



このオーディションを、例にたとえて、ティエーニ・ラ・ボーチェ・センプレ・プロンタ※(Tieni la voce senpre pronta)の重要さを私にお話くださいました。



カヴァッリ先生の教えに従い、私は、今でも毎日、声をプロンタして、オペラをいつどこでも歌える臨戦態勢です。



そして、寂しいけれど、いくら毎日声をプロンタしても、オペラ歌手になれなかった私は、オペラの舞台に上がれる機会がほぼ絶無なのも現実です。



けれども、無邪気で無謀なリクエストが、忘れたころに、突然私に訪れます。



「ちょっと歌って!」



私がオペラを勉強するため、わざわざイタリアまで留学したと知ると、好奇心旺盛な人は、皆、私の歌声を聞きたがります。



「ちょっと歌って!」を私に向かって言う人は、オペラをまったく知らない人なので、ピアノがなかろうが、ホールでなかろうが、へっちゃらです。



講師で赴任した高校の教室、健康診断で訪れた病院、オートバイで遊びに行った民宿など、人前で歌うチャンスはいつも思いもよらぬところから突然です。



「今すぐ歌って!」と期待に胸はずませ、オペラに興味を持ってくれている聴衆に、こちらも応じないわけにはまいりません。



若い人には、アクロバティックなアップダウンの激しい椿姫の「ああ、そはかの人か」を、年配の方にはしっとりとした「中国地方の子守歌」を歌ったりします。



みなさん、異句同音に「すごーい!声がどこから出てくるかわからなーい!」と驚愕され、オペラの発声に興味をもたれます。



中には、ご自身でもオペラを歌いたいと、私のところに習いにいらっしゃる方もおられます。



最近では、私の交友関係に新しい出会いがないので、「ちょっと歌って!」のリクエストも減りましたが、つい先日、久しぶりに思いがけないところでいただきました。



知り合いのピアノの先生のお弟子さんの発表会が、近所の公民館で行われるというので、単なる聴衆のひとりとして、会場に足を運ぶと、前例のない「ちょっと歌って!」が飛び出したのです。



ピアノの先生は、私の顔をみるなり言いました。



「大江先生!プログラム最後の全員合唱のとき、みんな高い声がでないから、先生の声で応援して!」



本番5分前、しかも、私の知らない歌謡曲、ちょっと驚きましたが、初見の曲でも、声量のある高い声で歌うことができて、喜んでいただきました。



カヴァッリ先生の戒律に従って声をいつもプロンタしていてよかったです。



今度は、いつ、どこで「ちょっと歌って!」がくるのでしょうか?楽しみです。



2023年3月29日

大江利子


※イタリア語の形容詞は人称変化します。男性名詞には語尾はo、女性名詞は語尾はaになります。Prontoも形容詞です。声(voce)は女性名詞なのでプロンタ(pronta)となります。

(1996年 カヴァッリ先生と筆者)

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

0コメント

  • 1000 / 1000