クーポラだよりNo.94~カヴァッリ先生の生卵とアイーダの「勝ちて帰れ!」~
歌うことは、大量にエネルギーを消費し、お腹が空きます。
1回のコンサートで十数曲歌うだけで、体重が1~2キロも減ることもよくあります。
イタリア留学時代の私は、カヴァッリ先生(発声の師匠)のレッスン中、一生懸命歌っていると、お腹が空いて、声を支えられなくなるので、先生のお宅の近くのバールで、カフェオレとクロワッサンをお腹に入れてから、レッスンに臨んでいました。
カヴァッリ先生の家は、ミラノ郊外、セスト・サン・ジョウヴァンニのモダンな高層マンションの一室で、そのマンションの近くに、美味しいクロワッサンをいただけるバールがあったのです。
「ウン カフェ・ラッテ、エ、ウン コルネット・コン・チョッコラート、ペル・ファヴォーレ
(Un café latte e un cornetto con ciccolato per favore.)」
=カフェオレひとつと、チョコレート入りクロワッサンをお願いします。
「ベーネ、 ブォーレ リスカルダーレ コルネット?(Bene, Vuole riscardare coretto ?)」
=かしこまりました。クロワッサンを温めますか?
「スィ!(Si)」
=はい
すると、マシンで泡立てられたホットミルクに、ほろ苦いエスプレッソを注いだだけのコーヒーミルクと香ばしいバターの匂いがする、チョコチップ入りの温かいクロワッサンが出てきます。
その2品のおかげで、カヴァッリ先生のレッスンの60分間、私は、声をなんとか支えることができたのでした。
しかし、留学後半になって、毎日のレッスンが120分になると、カフェオレとクロワッサン1個では、足らなくなりました。
「スタンキ?トシーコ(Stanchi, Toshiko)」
=疲れたの?利子
歌声の微妙な変化から、本人よりも先に、カッヴァリ先生が、私のエネルギー切れに気がついて、巧みなピアノ伴奏の手を止めて、優しく声をかけてくださいます。
「ノー、バ ベーネ!(No. Va Bene.)」
=いいえ、私は、大丈夫です。
歌うことに全神経を集中させている私は、自分の体調変化にまったく気がつかず、強情を張って答えます。
「セイ パッリーダ、ラ レツィオーネ ファッチャーモ アル ポメリッジョ(Sei pallida, La lezione facciamo al pomeriggio.)」
=顔色が青白くなっているわ、レッスンは午後にしましょう。
30年前の私は、オペラの発声法で2時間歌い続けられる体力がなかったのです。
声帯はとても繊細な筋肉です。
声を支える土台となる身体が万全でないと、声帯に無理な力がかかり、声帯の筋肉を傷つけてしまい、取り返しのつかなくなることさえあります。
気分は歌い続けたくとも、身体が疲れてきたら、上手に休息をとらねばなりません。
カヴァッリ先生は、オペラ歌手として歌い続けた長年のご経験から、声帯の調子にはとても敏感で、お医者様のようでした。
レッスン中の先生は、生徒の声帯の調子に配慮しながら、生徒の声の実力を最大限まで引き出していくのでした。
「蝶々夫人」や「フィガロの結婚」など、上演頻度の高い人気オペラの演奏時間は2時間半から3時間です。
それら人気オペラの主役を歌う歌手は、声の調子を絶好調に保ったまま、2,3時間歌い続けられる体力が必須です。
カヴァッリ先生は27歳の時にパリ郊外のアンジャンレバン劇場で、難曲と恐れられ、嫌煙されるオペラ「ノルマ」の主役を歌って注目を集め、以来、オペラの殿堂ミラノ・スカラ座を本拠地として50歳まで、フランス、スイス、イギリス、など世界の主要歌劇場で主役を歌い続けた女傑でした。
2時間のレッスンでエネルギー切れしてしまう私は、目の前で、微笑んでいる気さくなカヴァッリ先生の驚異的な歌声の秘密は何かと、レッスンの度に、幼稚な質問を繰り返しました。
=歌う前にカフェオレとクロワッサンを食べるのですが、すぐに空腹を感じるのです。どうしたら、いいでしょうか?
(Prima di cantare, Io prendo cafelatte e mangio cornetto, ma mi sento fame subito. Come faccio ?)
=そうね、利子、歌う前にパンはだめよ。胃が膨れて、声を支えにくくなるから。私は新鮮な生卵を飲んでいたの。
(Allora Toshiko. Prima di cantare,il pane no. Perche’ il pane gonfia nella stomaco Io mangio lo uovo fresco.)
=生卵ですか?(lo uovo )
=そう! 例えば、アイーダを歌う時は、生卵4つも必要だったのよー!
(Si, Per esempio quando cantavo Aida, bisognavo mangiare quattro uova)
カヴァッリ先生は、いやいや生卵を飲むしぐさをして見せてくださり、にっこりと笑いました。
アイーダはヴェルディが作曲した4幕オペラで、エジプトとエチオピアの戦いを背景した悲劇です。
エジプト王女アムネリスに仕える女奴隷アイーダは、実はエジプトの敵国エチオピアの王女でした。
アイーダの素性は誰も知りませんが、美しく清らかな心の彼女は、エジプト軍の指揮官ラダメスと相思相愛の仲でした。
そして、気性の激しいアムネリスもラダメスに恋していて、彼がアイーダと愛し合っていることを知り嫉妬に狂うのでした。
そして政情は、アイーダの父が率いるエチオピア軍とアイーダの恋人ラダメスが率いるエジプト軍の戦いとなります。
父と恋人が戦場で敵同士となり、アイーダの心は砕けそうになり、緊迫した劇展開となります。
上演時間は2時間40分、主役アイーダは、4幕すべてに登場し、ソプラノ歌手にとっては、ドラマチックな演技とともに、繊細かつ強靭な歌声を要求され、体力的にもきつい役柄です。
カヴァッリ先生は、あれこれ試され、ご自身にとっては生卵が最も発声に支障をきたさずパワーが保てることを発見され、アイーダを歌う時は、一幕ごとに、1個ずつ、合計4個飲んだというわけです。
アイーダは、ラダメスやアムネリスと重唱を歌う他に、アリア(独唱)を2つ歌わねばなりません。
1つは「おお我が故郷」で、これは、お祈りのような静かな音楽で、柔らかく歌うことが大切です。大きな声量は必要なく、レガートをコントロールする技量があれば歌えるので、カヴァッリ先生の許可を得て、私はこのアリアを30年前に仕上げました。
もう一つのアリアは、強靭な歌唱力を要求される「勝ちて帰れ!」です。
こちらは、許可をいただけないまま、先生は天国の階段を上っていかれました。
来月、第5回みんなの発表会で、私は初めて人前で「勝ちて帰れ!」を弾き語りします。
先生の元を離れ、独り立ちして25年、生卵を飲まなくともパワーが保てる自分の身体に合った食べ物も見つかり、ようやく「勝ちて帰れ!」を歌ってみようと思ったのです。
天国のカヴァッリ先生に安心して聞いていただけるように、念入りにお稽古して本番に臨みたいです。
2022年12月29日
大江利子
1993年12月 カヴァッリ先生と利子 ↓
アイーダを歌った時の現役時代のカヴァッリ先生 ↓
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