クーポラだより No.90~『闘う白鳥』を読み返して~
すべての女性が二十歳という年齢に憧れるのは、この時期の女性は一日中美しさを保つことができるから。
三十歳になると、美しいのは一日のうちでせいぜい三時間。
それ以上になると、どんどん短くなって、五十歳ともなればせいぜい五、六分。
しかも、化粧品のノリが良くて、照明がうまい具合に当たっているときに限られる。
~自伝『闘う白鳥』最終章より~
美魔女がもてはやされる現在、女性の夢を打ち砕くような、この文章を書いたのは、83歳まで舞台に立ち続けた20世紀最高のバレリーナと称されるマイヤ・プリセツカヤです。
1925年11月ロシアが社会主義国家のソビエト連邦だった時代、マイヤはモスクワに生まれました。
北極石炭公団で働く父とサイレント時代の元映画女優の母を両親にもつマイヤは、幼い頃から、つま先だちで歩き回って靴を擦り減らしてしまうほど、活発な女の子でした。
1934年9月、8歳のマイヤはボリショイバレエ学校の入学試験を受けました。
当時の選考試験は、テンポが急変する音楽に合わせて歩くという単純なものでしたが、マイヤが試験のおわりに見せた美しいレベランス(お辞儀)によって即、合格が決まり、9年後1943年3月、卒業試験で踊ったドン・キホーテの森の女王で満点をとって、17歳でボリショイバレエ団のバレリーナになりました。
Большой (ボリショイ)とは、ロシア語で、「大きい」「壮大な」を意味します。
その名が表すように、約220人のダンサーを抱えるボリショイバレエ団は、世界最大のバレエ団として知られ、1773年の創立以来、所属ダンサーのほとんどは、付属のボリショイバレエ学校で鍛えぬかれたエリートたちです。
一見すると、マイヤのバレリーナ人生のスタートは、誰もが羨む王道に思えます。
しかし、マイヤが学生時代、彼女の両親に、恐ろしい運命が降りかかり、マイヤにもソビエト連邦が氷解するまで、理不尽な妨害が続いたのでした。
マイヤの父には、16歳で単身アメリカに渡って成功し、財産を築いた兄がいました。
つまり、マイヤの叔父さんにあたる人です。
この叔父さんが、1934年スターリンの独裁政権下、望郷の念に駆られてアメリカから一時帰国し、弟家族を訪問したばかりに、マイヤたちは悲劇に見舞われるのです。
スターリンの独裁政権が敷かれていたのは、ソビエト連邦の指導者だったレーニンの死後1924年から、スターリン自身が亡くなる1953年までの約30年間です。
この期間、資本主義の西側諸国では、1929年に始まった大恐慌による株価暴落、銀行・企業の倒産、失業の連鎖反応からやってくる急激な不況が全世界に波及し、その打開を目指すため、軍国主義・ファシズムが台頭、第二次世界大戦へとつながっていきました。
スターリンは、300年も続いたロマノフ王朝による帝政時代(1613年~1917年)の残り香が漂う農業国ロシアを、西側に対抗できる強い工業国に急変させるため、5年ごとの計画経済政策を推し進め、それに異を唱える人たちや、怪しいと思われる人たちを、次々と逮捕し処刑しました。
マイヤの無邪気な叔父さんの里帰りは、西側のスパイ活動と疑われ、お父さんは、1937年5月、マイヤ11歳の時に秘密警察に逮捕され、翌年銃殺、その事実をマイヤたちが知ったのは約50年後、またお母さんも、スパイ容疑の夫の妻として1938年3月、突然連行され、3年間の収容所送りとなりました。
父母を奪われ、家も没収され、孤児院送りになるところだったマイヤを助けてくれたのは、バレリーナだった母方の叔母でした。
叔母さんは、両親の悲劇をマイヤには告げませんでした。
いつか父母が帰ってくると信じて、マイヤは学校を続け、バレリーナになりました。
コールド(群舞)からスタートしたマイヤは、現在のバレリーナのように、真一文字に開脚させて高く飛ぶグランジュッテ(跳躍技)やダブルピルエット(回転技)、背中を大きく反らせたアラベスクなど、新体操選手のような見事なテクニックと持ち前のカリスマ性で観客を魅了し、1949年、スターリン70歳誕生記念公演で、国家最高権力者の前で踊るまでになりました。
バレエ団の花形となったマイヤですが、その待遇は、息がつまるものでした。
あの叔父さんの訪問がまだ尾を引いていたのです。
スパイ容疑で処刑された男の娘であり、今やソビエトの国家財産であるバレエの花形になったマイヤは、亡命を恐れられて、出国禁止者リストに名前がありました。
ボリショイバレエ団の外国公演のメンバーからは、いつも外され、彼女の素晴らしい踊りが西側諸国の劇場で見られるようになったのは、スターリンの死後、フルシチョフの時代です。
1959年、マイヤの高い技術と情感豊かな踊りを初めて目にした西側のバレエ界に衝撃が走り、彼女の出現以降、バレリーナの踊り方が変わったとされています。
バレリーナの引退年齢は40歳になる手前、37,8歳が常識です。
マイヤと同世代のバレリーナたちは、常識通り早々に引退し、その後は、現役時代を想像できないほど脂肪をためこんだ身体で、バレエ学校の先生をしている姿を見かけることが多いなか、年齢を重ねるごとに、彼女のラインは、スリムで優美な筋肉の付き方に変化し、現代のバレリーナを先駆けした体型になっていきました。
マイヤがボリショイバレエ団を引退したのは1998年64歳、その後も、世界中の舞台で踊り続けました。
今でこそ、科学的なストレッチや筋肉トレーニングの研究が進み、インターネットの発達でオトナリーナ(大人からバレエを始めた人)たちにも公平に、その方法が流布しています。
けれども、常にバレエ界の先頭で常識を破ってきたマイヤは、自分の身体でひとつひとつ試しながら、怪我や故障にもくじけずに、お稽古を積み重ね、驚異的な長さのバレリーナ人生を築いたのでした。
私がマイヤの自伝『闘う白鳥』を初めて読んだのは、約25年前、大人バレエという言葉もなく、33歳から本気でバレエに取り組もうとすることは、非常識だと思われていた頃です。
現在のようにバレエ関連の書籍も少なく、バレエ知識に飢えていた私には『闘う白鳥』の内容はとても貴重でした。
有名人の自伝は、インタビューからゴーストライターが書き起こすことが常識ですが、『闘う白鳥』の序文に、他人の作文は気に入らないので、マイヤ自身が3年もかけて書いたのだ、明記してありました。
正直で、あけすけなマイヤの文体に、どんどん惹きこまれ、「50歳なれば、美しさの持続時間がせいぜい5分」というところでは、30代だった私は、他人事のように爆笑したものです。
けれど、今、改めて読み直すと、マイヤが書いた「持続時間が5分しか持たない美しさ」とは、生き物のすべてに共通する肉体的な若さだけに頼った美しさであって、そこには、人生経験を重ねてきた人間の奥深い魅力は介在していない、ということではないでしょうか?
マイヤの最後の舞台は、83歳、日本舞踊からヒントを得た創作バレエ「アベ・マイヤ」です。
親日家のマイヤは、たびたび日本を訪問するうち、京舞井上流家元、4代目井上八千代82歳の静謐舞踊を見て感動し、バレエに取り入れたのでした。
常に、新しい表現を求め、常識にとらわれないマイヤのバレエ人生の集大成のような作品です。
さて、岡山の片田舎で、手探りながら始めた私の小さなお教室では、大人バレエの生徒さんたちが、来年の発表会に向けて練習に熱が入ってきました。
私も彼女たちのお手本になるような踊りをご披露せねばと、改めて『闘う白鳥』を読み返し、喝が入ったところです。
2022年8月29日
大江利子
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