クーポラだより No.85~世界名画の旅とゴッホの「黄色い家」とピンクの外壁~


1986年4月から1987年3月、社会人一年生だった私の休日の楽しみは、朝日新聞の「世界名画の旅」でした。



 1986年3月、私は大学を卒業しても、すぐに郷里岡山へ戻りませんでした。



東京で過ごした4年間の大学生活が素晴しすぎたのです。



友人も先生も大学も大好きな音楽で満たされた環境で、思う存分ピアノや歌を練習できた日々に終わりがきたことを受け止められず、私は東京に居残り続けていたのです。



教員採用試験一発合格は難しいと言われていた時代、幸運にも私は岡山県教職員採用試験の合格通知を、大学四年の秋に手にしていました。



就職浪人せずとも、来月4月からは中学校の音楽の先生として働けるはずでしたが、3月20日過ぎても、どこの学校へ赴任するのかさえも知らされず、教育委員会からは音沙汰なしだったので、それを理由に、私は下宿を引き払う準備を一日延ばしにしていました。



寒い冬の朝、暖かい布団から離れられず、起きることをぐずっている子供のように、私は学生という甘い身分の余韻に浸っていたのです。



しかし、そんな呆(ほう)けた私の横面(よこつら)をひっぱたくような通知が、突然やってきました。



私の赴任先は岡山県東南部、備前市の備前中学校に決定したので、3月27日、直接、中学校へ行くようにと。



私はパニックになりました。



知らせを受けたのは、3月24日の夕方でした。



一人暮らしをしていた東京のアパートの部屋を空っぽにする時間は、1日しかありません。



せめて数日先に延ばせないかと、打診しましたが、3月27日は校長面接なので、もし、その日に来ないなら、採用合格は取り消すとまで言われたので、私は覚悟を決めました。



大至急、荷物をまとめ、愛用のアップライトピアノは売り払い、家電製品は後輩に譲り、楽譜とレコードだけは宅急便で送り、3月26日、私は新幹線で岡山に帰ってきました。



翌、3月27日、挨拶程度の校長面接を終えた後、すぐに、職員室に案内され、職員会議に出席したのち、先輩の先生方と新学期準備をしました。



私の旧姓は山本ですが、備前中学校には、同姓の女性の先生が、既におられたので、混同を避けるため、新任の私は、「としこ先生」と呼ばれることになりました。



昨日までは「としこちゃん」だったのに、と、往生際悪く私は思いました。



としこ先生になって13日目、始業式の翌日から授業が始まりました。



当時の備前中学校は、一学年7~8クラス、一クラス50名、全校生徒約1200名、その約1200名の音楽を担当するのは、私とベテランの男性教諭のたった二人でした。



男性教諭は3年生の学年主任をされていたので、受け持ちの配分は、私の方が多く、私の時間割は、毎日、ほぼ満杯、ゆとり教育以前の時代でしたので、土曜日も4時間フルに授業をしました。



学校にいる時間は長く、毎朝7時までには出勤し、帰宅は夜8時を過ぎました。



当時の学校現場は校内暴力が下火になりかけたころで、例外にもれず備前中学校でも、校舎の窓ガラスが割られたり、消火器がまき散らかされたり、男子トイレからタバコの煙が上がったりと、生徒指導に追われる毎日で、何か事件が起きるたびに、職員総出で対処していました。



ピアノに公然と触れるという恵まれた職につけたものの、授業以外で神経を擦り減らして、消耗しきった社会人一年目の私は、ピアノや歌を練習する気力を失くしていきました。



自分の練習が出来なくなった途端、みるみるピアノの腕は落ち、私の心は、みずみずしさを失い、しぼんでいきました。



けれど、朝寝坊が許された日曜日、「世界名画の旅」の秀逸な記事を読み、珍しい名画を眺めている時だけは、心に潤いがもどり、それと同時に、新しい好奇心の種が植えられたように思います。



ただ眺めるだけでなく、絵画の歴史背景や画家の心情を探り、そして音楽や文学に結びつけるという芸術の謎解きの楽しさを「世界名画の旅」によって私は知ったのです。



「世界名画の旅」は、古今東西の名画の中から毎週1点が選ばれて、カラーの複製画が紙面いっぱいに掲載され、実物を取材した記者とカメラマンによる写真付きの紀行文という、とても贅沢な連載記事でした。



この企画は1984年10月7日、ピカソの自画像から始まり、1987年3月29日、レンブラントの自画像まで、2年5ヶ月、124回連載されました。



社会人一年生の私が出会った名画は1986年4月6日、ジョットの「東方三博士の礼拝」から先に述べた最終回レンブラントまでの49点です。



この49点の絵画の中には、10年数年後、意気投合した夫とヨーロッパで実物を見た名画 ラファエロ「小椅子の聖母子像」(1986年7月6日)、ボッティチェリ「ビーナスの誕生」(1986年12月7日)、ジョルジョーネ「嵐」(1987年1月11日)、モロー「出現」(1987年3月1日)が含まれています。



今、改めて振り返ってみると、私が美術教師だった夫と、とても心が通じ合った原点は、「世界名画の旅」にあったのだと、得心しています。



 ところで、先月、名古屋市立美術館で開催されたゴッホ展にどうしても行きたくなって、車で名古屋まで行ってきました。



私にとって、ゴッホは、中学校の美術の授業で習った「ひまわり」を除外すると、「世界名画の旅」1986年5月25日で紹介された「アルルの寝室」が初めてです。



「アルルの寝室」は、ゴッホ35歳の作品です。



27歳から独学で暗い色の絵を描いていたゴッホは、日本の浮世絵に影響されて、明るい太陽に憧れて、35歳から南フランスのアルルに移り、実った麦のような黄色を使ってエネルギー溢れた傑作を描き、37歳で亡くなりました。



「アルルの寝室」を36年前、「世界名画の旅」で初めて見た時も、目の覚めるような明るい黄色が印象的でした。



今回の名古屋市立美術館のゴッホ展では、残念ながら「アルルの寝室」は、リストに入っていませんでしたが、「アルルの寝室」があった家を描いた「黄色い家」が、オランダのゴッホ美術館からやってくるというので、是非とも見ておきたかったのです。



ゴッホが好んだ黄色は、夫が好んだ色でした。



私と結婚するまでは、常識的な落ち着いた暗い色を身につけていた彼ですが、私が堂々と自分の好きなピンク色を身につけるのに影響されて、夫も、遠慮なく黄色を身につけるようになりました。



車もカバンも、ネクタイも、彼は黄色で私はピンク。



いつしかふたりは、黄色とピンクが混ざりあった明るい色に囲まれて暮らしていました。



ふたりで手に入れた古家の外壁も20年前に塗替えた時は黄色にしました。



当時、黄色の外壁は珍しく、ゴッホの黄色の家のように明るい外観になりました。



しかし、ふたりの黄色の家は、長年、瀬戸内の明るい太陽を浴びて、何色だったかわからないほどに退色してしまいました。



あまりにもみすぼらしくなったので、今年1月、私は良い業者との出会いもあり、塗替えてもらいました。



今度は、黄色ではなく、私の好きなピンク色にしました。



目立つピンク色の外壁になった我が家を見て、夫は面白がって喜んでいることでしょう。



2022年3月29日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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