クーポラだより No.84~小さな歌集と岡専旅館の夕食~


小学生の頃、私の制服のポケットには、小さな歌集が入っていました。



その歌集は、入学式や卒業式、運動会や朝礼など全校で歌う時、遠足や、キャンプファイヤーなど、学級で歌う時に使うため、全学年共通で同じものを持っていました。



歌集に記載された曲は、世界の民謡や童謡、フォークソングなど、実に多彩で、その数は150曲以上ありました。



歌集を開くと、短い曲は1ページ1曲、長い曲は見開きページに1曲おさまるよう構成され、楽譜は歌の部分のみで、とてもわかりやすいものでした。



どの歌も、小学校の音楽授業で習った知識で、子供たちが自発的に読譜できるように、♭(フラット)や#(シャープ)が少ない音階で表記されていました。



そして、小学生が使うソプラノリコーダーで演奏できるよう、極端に高い音や低い音もなく、ピアノ伴奏に頼らずとも、歌の旋律だけを演奏しても、楽しめる完成度の高い音楽でした。



しかし、だからといって、平易なことだけに偏(かたよ)らず、ハーモニーも学べるように、二声や、カノンになった曲もありました。

私は、この歌集をいつも持ち歩き、休み時間や登下校時、歌いたくなったら、ポケットから取り出して、大きな声で歌い、小学校の高学年の頃には、歌集全ての曲が歌えて、ほとんどの歌の詩も暗記していました。



当時、私の歌に対する暗記力は泉のように豊かで、それを証明する面白い出来事があります。



それは小学校6年生の父兄参観の時でした。



音楽好きな担任の先生の提案により、授業参観に来られたお母さんたちと、子供たちの2チームに分かれて、「歌のしりとり」ゲームをすることになりました。



担任の先生は、お母さんたちに加勢し、大人と子供の歌合戦が始まりました。



「歌のしりとり」のルールは、「言葉のしりとり」と同じで、歌い始めで「しりとり」をし、一度、歌った歌を再び歌うと、「お手つき」です。



それから「しりとり」の返歌を思いつくまでに、時間がかかっても「負け」です。



どれだけたくさんの歌を知っていて、すぐに歌い始められるかが、勝負の分かれ目ですが、ゲームが進行するにしたがって、しりとりを返すことが、だんだんと難しくなっていきます。



ゲームを開始した直後は、互角の戦いでしたが、間もなく、どんなに大人たちが束になって知恵を絞って、歌を返しても、すぐに私の口から、泉のように歌が出てくるので、担任の先生はついに降参の声をあげました。



「もー!としこちゃんがおるから、勝てんわぁ!(としこちゃんが、いるから、勝てません!)」



小さな歌集の力は偉大です。



150曲以上もある歌集の中で、私がお気に入りだった歌は、ポーランド民謡の「森へ行きましょう」やスイス民謡の「おおブレネリ」チェコ民謡の「おお牧場は緑」など、ヨーロッパの民謡でした。



それらの歌のリズムや旋律には、見知らぬ外国の人々の暮らしや、アルプスの山々やボヘミアの深い森を想像させる魔力がありました。



歌だけでなく、本も、「家なき子」や「小公子」「秘密の花園」など、ヨーロッパの児童文学が当時の私の読書傾向だったので、外国世界への憧れと好奇心は膨らむ一方でした。



その後、歌と文学が結びついたオペラの世界へ、私の興味が結実した原点は、この歌集にあるように思えます。



ところで、その小さな歌集の中には、日本の自然を題材にした素朴な歌、「朧月夜」「春の小川」「ふじの山」などの「文部省唱歌」もありました。



うさぎ追いし かの山 こぶな釣りし かの川 夢は今も 巡りて 忘れがたき ふるさと



これは、日本人なら誰でも知っている「故郷」の1番の歌詞ですが、私が初めてこの曲を、歌集で見つけた時の感動をよく覚えています。



小学4年生のある日、学校の休み時間、いつものように歌集を開いて、まだ歌ったことのない曲を物色中、私は「故郷」の楽譜に目が留まりました。



「故郷」の調は、#ひとつのト長調、拍子は3拍子、16小節しかない短い楽譜は、ソプラノリコーダーで簡単に吹くことができて「ソ・ソ・ソ・ラーシラ~」の、あの素朴な旋律が流れだしました。



ヨーロッパの音楽とは違うけれど、静謐な「故郷」の旋律に、私はすっかり夢中になり、今度は声にだして歌ってみました。



古文はまだ習っていなかったけれど、「忘れがたき」とか、「いかにいます父母」などの格調高い日本語は、優雅で、宝物を発見したようで、とても嬉しかったことを覚えています。



「故郷」を見つけたその日は、下校の時も、ずっと歌い続けて、3番の歌詞まですぐに覚えてしまいました。



1960年代から1970年代の高度経済成長期に、私の少女時代は重なっていました。



普段の食べ物に、スナック菓子やレトルト食品、インスタント麵は当たり前、住まいは、灰色のコンクリート壁に囲まれた団地の一角で、学び舎も鉄筋校舎、私にとって「故郷」の歌詞の日本の風景は、ヨーロッパの民謡と同じように、想像と憧れの世界でした。



大人になっても、「故郷」の風景とは、いかなるものか、実感できないまま半世紀以上の人生を送ってきた私ですが、先日、まさしく「故郷」の世界だと、実感できる時間を過ごしました。



和紙にまつわる本の執筆がきっかけで、数年前より、手漉き和紙の里を巡ることが、私のライフワークになっていますが、先月21日、美濃の手漉き和紙で作られた東京オリンピックの賞状展の見学に岐阜県を訪れ、美濃市内の老舗旅館に宿泊した夜のことです。



その夜、旅館の客は私だけ、宿泊の前日、急な予約にもかかわらず、女将さんは心のこもった手作りの夕食を提供してくれました。



鮎の塩焼き、豆の味がする豆腐が入った水炊き、南瓜の含め煮、酢の物、その他、どの品々にも細やかな愛情が注がれて、箸がすすむにつれて、心は満たされ、完食する頃には、初めての宿なのに、懐かしい場所に帰ってきたような感覚に包まれました。



この懐かしさに包まれたとき、小学4年の時、小さな歌集で「故郷」を見つけたときの、古い感動の記憶が呼び覚まされたのです。



翌朝、女将さんに、女将になったいきさつを伺うと、先代が高齢のために引退したので、長年キャリアウーマンだったにもかかわらず、江戸時代から続く旅館を絶やしてはいけないと、7代目女将を後継し、彼女独りで宿を切り盛りされておられるとのことでした。



7代目の女将さんが看板を守る岡専旅館は、美濃市の重要伝統的建造物保存地区、うだつの町並みの中にあります。



女将さんの夕食は、歴史を背負い、歴史を継承する人の心の現れだと思います。そして「故郷」の世界とは、単に懐かしい風景なのではなく、それを絶やさず守る人の心あってこそだと私は思うのです。



2022年2月28日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

0コメント

  • 1000 / 1000