クーポラだよりNo.82~「じゅごんの子守唄」と「お手をどうぞ」の思い出
「じゅごんの子守唄」は、瀬戸内海の島が舞台のオペラです。
時は南北朝時代、八兵衛爺さんと暮す少女おもんには、お母さんがいません。
おもんは、八兵衛爺さんが海賊だった若い頃、敵船にいた瀕死の女性が抱いていた赤ん坊でした。
その女性、おもんのお母さんは、赤ん坊のおもんを八兵衛爺さんに託すと、息絶えました。
海賊のしきたりによって、お母さんは海に葬られ、流されながら沈んでゆく彼女の亡骸は、じゅごんが泳いでいるようでした。
時は流れ、少女に成長したおもんは、寂しくなると、海に向かって、草笛で子守唄を吹きます。
すると笛に合わせて母が姿を表し、おもんに語りかけます。
「達者でくらせよ、おもん、かかやんは、いつもそばにいるよ。」と。
そんなおもんを島の子供たちは、夢を見ているだけだ、とからかいます。
どんなにからかわれても、おもんは、誰かを傷つけたり恨んだりもしない、純真で優しい少女でした。
ある日、おもんは海の近くで、怪我をした武士の宗晴を見つけます。
宗晴は北軍に追われた南軍の武士でした。
おもんは宗晴を助けて、彼を追手から逃がすために、身代わりとなり、海で命を落としてしまいます。
海に落ちたおもんは、母に抱かれて、親子のじゅごんになって泳いでいきました。
この哀しいオペラ「じゅごんの子守唄」は、第51回ひろしま国体芸術主催事業も兼ねた、文化庁と広島市が共同推進してきた文化事業のフィナーレとして、1996年10月、ひろしまアステールプラザの大ホールで、世界初演されました。
世界初演とは、何やら仰々しいですが、広島文化事業にふさわしく、広島の地ゆかりあるオペラを創作し、上演させようと広島市が誕生させたオペラなのです。
「じゅごんの子守唄」を作曲したのは、黒澤明監督「影武者」やNHK大河ドラマの音楽などでお馴染みの池辺晋一郎、脚本を書いたのは、オペラ「夕鶴」の演出家として著名な小田健也、演奏したオーケストラは、プロ活動している広島交響楽団、ソリストを歌ったのは、主役「おもん」を含めたソリスト全員、オーディションで選ばれた歌手たちで、私もそのひとりでした。
私が歌ったのは、村の男の子役で、出番の少ない、とても小さな役でした。
(↑村の子の衣装をつけた筆者)
しかし私にとっては、主催者である広島市と出演契約を結び、台本読みから始まり、ピアノ伴奏による音合わせ、振り付け師によるダンス稽古、原作者の小田健也による立稽古、デザイナーによる衣装でのドレスリハーサル、オーケストラリハーサル、大道具と照明が入った舞台の場当たりと、ソリスト歌手としての舞台出演で、とても素晴らしい経験ができたのです。
今、思えば、「じゅごんの子守唄」への出演は、とても得難い貴重な経験だったと思います。
なぜ、「今思えば」なのかは、当時の私には、そんな余裕がまったくなかったからです。
1996年1月29日、私は「じゅごんの子守唄」の他のキャストたちと共に、広島市役所で市長表敬の後、スタッフ初顔合わせがあり、記者発表にも臨みました。
本番は1996年10月11、12、13日の3日間、公演千秋楽まで、私は毎週末、オペラの稽古のため、広島ー岡山間を車で往復しました。
当時の私は、家庭の事情で両親に仕送りをしていたため、金銭的な余裕がなく、日中は県立高等学校の音楽常勤講師を務め、水曜と金曜の夜は、弾き語りのアルバイトをしながら広島通いをした10ヶ月間でした。
オペラの練習は土日の2日間でしたので、宿泊は必須でしたが、ホテル代も高速料金も節約し、車中泊で済ませ、下道を使って往復しました。
練習後、夜中に国道を走行中、激しい追突事故に巻き込まれて、救急車に乗ったハプニングもありましたが、無事に村の子役を歌い務めました。
本番は私の初舞台を夫が見に来てくれて、楽屋の様子を写真におさめ、本場イタリアのように絢爛豪華な舞台に妻が出演できたことを、とても喜んでくれました。
(↑「じゅごんの子守歌」の大道具の仕込み)
しかし私は、初舞台を踏めた喜びと、夫に申しわけない気持ちとが入り混ざり、複雑な心境でした。
なぜなら、この舞台のために、10ヶ月間、週末は家事をほったらかしにし、疲れがぬけない平日は手抜き料理をつくり、満足に主婦の仕事を果たせず、妻としては失格な日々でした。
主役のおもんを射止めたのならまだしも、端役にもかかわらず、オペラ出演を免罪符に、理解ある夫に甘えているだけで、才能もないくせに、わがままを通している幼稚な人間なのではと、自分自身に疑念を抱き始めていたのです。
それに、じゅごんの子守唄の出演料は、本番舞台1回が2万円、私は、3日間公演すべて出演したので6万円、プラス10ヶ月間の交通費2万円、計8万円が村の子を歌った報酬で、オペラ歌手として初舞台に立ったというよりは、こずかいつきの舞台研修をさせていただきました、という方が正解です。
けれども、この8万円は、1996年当時の日本オペラ界、とりわけ地方でオペラに出演する歌手にとっては、大変恵まれていたたことも事実なのです。
なぜなら、地方上演されるオペラは、たとえ主催者と出演者が別であっても、切符ノルマは当然で、10枚や20枚のノルマは常識範囲で、上演費用のために出演歌手が持ち出すことは暗黙の了解でした。
しかし、じゅごんの子守唄の切符は、S席8千円、A席6千円、B席4千円でしたが、ノルマは一切なく、私は8万円をそっくりそのまま頂けたのです。
作曲したビッグネームの池辺晋一郎、脚本を書いた小田健也、振り付け家、デザイナー、指揮者、オーケストラ団員、大ホール、練習場、衣装や大道具、広告宣伝費、プログラム冊子代など、じゅごんの子守唄の上演費用は、数千万円は下らないと思います。
(↑アステールプラザ大ホール客席)
本番会場アステールプラザの大ホールは、収容人数は1200名、3日間満席だったとしても、2千万円弱、赤字になった補填は広島市が埋めたのでしょうか、文化庁からの補助金でしょうか?
オペラの聖地イタリアでは、地方の歌劇場に毎年国家予算がつけられます。
イタリア人にとってオペラは自分たちの魂を代弁する特別な芸術なので、オペラの話題が天気予報のようにテレビで報道されています。
けれども日本では、私が大好きなオペラは、オペラが大好きな人同士が集まって、大変な犠牲と努力を払って成り立たせるものなのです。
ほとんどの日本人にとってオペラは、他の芸術と変わらない並列の存在なのだと、じゅごんの子守唄に出演できたおかげで、得心がいったのです。
それに、「じゅごんの子守唄」は、市民球団を持つほど故郷を愛する心が強い広島だからこそ、その上演が成功したのかも知れません。
私の故郷岡山だと、オペラ上演はきっと広島以上に困難でしょう。
大好きなオペラを、故郷岡山で上演したいなら、まずみんなにオペラを好きになってもらい、オペラの曲を歌うことが楽しいと、わかってもらわないと、何も始まらないと思ったのです。
来年2022年2月19日、私の主催で4回目の「みんなの発表会」を行います。
この会は好評で、出演者の技量も増し、オペラへの理解も少しずつ深まり、モーツアルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」の二重唱「お手をどうぞ」が今回のプログラムに入ることになりました。
この「お手をどうぞ」には、果たせなかった切ない思い出があります。
1994年、イタリア留学中に、師匠のカヴァリエ先生が企画されたコンサートで、私は「お手をどうぞ」を歌うことが決まり、相手役のバリトン歌手まで、先生は見つけてくださっていたのに、私は家庭の事情で、急遽帰国し、歌うことはできませんでした。
その後、カヴァリエ先生企画のコンサートに出演する機会は二度と訪れず、先生は2004年に亡くなりました。
じゅごんの子守唄出演が決まったときには、カヴァリエ先生は、まだお元気で、「小さな役からキャリアをスタートすることは良いことだ」と仰って、大変喜んでくださいました。
私が企画した演奏会で、岡山の愛好家たちが「お手をどうぞ」を歌ってくれるのだと、カヴァリエ先生にお伝えできたら何とおっしゃるでしょう?
きっと「Brava,Toshiko!としこ、すごいね!)」と仰って、美しい大きな目をいっぱいに開いて、喜んでくださると思います。
2021年12月29日
大江利子
↑1993年12月27日 カヴァッリ先生と筆者と大江完(夫)
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