クーポラだより No.80~バッハの無伴奏チェロ組曲と国立科学博物館のS氏~


バッハの無伴奏チェロ組曲はカザルスによって再発見されました。


その時のカザルスの感動は彼の生涯を伝える本に記されています。


「あの日の午後のことは、決して忘れないだろう。私たちは港の近くの古い楽器店に立ち寄った。束ねて積んである楽譜を拾い読みしていたが突如、一束の楽譜を見つけた。古くなっており、色もあせていた。それがなんとバッハの無伴奏組曲―チェロ独奏のためのものだった。私は驚きの目をみはった。なんという魔術と神秘がこの標題に秘められているかと思った。この組曲の存在を聞いたことは一度もなかった。誰ひとり、先生さえも私に話したことはなかった。(略)私は組曲を王冠の宝石のようにしっかり抱きかかえて帰宅した。部屋に入るなり、楽譜をむさぼるように繰り返し読んだ。」


~『パブロ・カザルス喜びと悲しみ』新潮社より~



1890年、カザルスが13歳の時でした。


この時以来、カザルスはバッハの無伴奏チェロ組曲を12年間、毎日独学し、25歳の時に初めて、組曲全部を演奏会で披露しました。



そんな無謀なことをするチェリストは、今までに存在しませんでした。



理由は単純です。



技巧的な華やかさに欠けたバッハの音楽は、ツィゴイネルワイゼンのように軽業師的でスリリングな独奏に酔いしれることに慣れていた聴衆の好みにそぐわなかったからです。



ピアノの初学習者が指の鍛錬のために必ず練習させられるバッハのインベンションのように、無伴奏チェロ組曲も、チェリストの練習には有益ですが、演奏会には退屈過ぎると、見なされていたのです。



しかし、カザルスが奏でた魂の根源をゆさぶられるような無伴奏チェロ組曲は、聴衆の心をつかみました。



カザルス以後、バッハの無伴奏チェロ組曲は、演奏会に相応しい大切な曲として扱われるようになりました。



同様にゴールドベルク変奏曲もピアニストの異端児グレン・グールドによって再発見された曲です。



 バッハは1689年にドイツに生まれ、その生涯を教会付属の最高位の音楽家として活躍し、1750年に亡くなりました。



今では音楽の父と崇められるバッハですが、彼が亡くなった直後は、彼が生涯を終えたライプチヒの人々は急速に彼のことを忘れ、彼のお墓も、彼が生涯にどれだけの音楽を作曲したかもわからなくなっていました。



けれども、1829年、メンデルスゾーンによってマタイ受難曲が蘇演されて以来、次第にバッハは見直され、20世紀になってからもカザルスやグールドのように、バッハ音楽の真価を伝えようとする演奏家たちによって、彼の音楽の素晴らしさは今日まで伝えられています。



この事実を思うとき、メンデルスゾーンやカザルスやグールドの功績は大きいことに異論はないのですが、私は、三者のように音楽史上に、名前が上がらない、影の功労者たちのことを思わずにはいられません。



なぜなら、今年の8月下旬から、10月下旬までの約2か月間に、人生にまとない素晴らしい経験をしたからです。



その経験とは、かつて上野の国立科学博物館に展示され、その後、同博物館の収蔵庫に20年以上も保管されていた飛行機の修復です。



その飛行機は世界に1機しか存在せず、日本の大学生たちがつくった人力飛行機ストークです。



人力飛行機は、自転車のように人間がペダルを踏んで生み出す弱い力を動力とするので、その重量は、バレリーナのように軽く、その翼は、アホウドリのように細長く、巨大であることが必須です。



素人がどう考えても、相反する課題が多く、軽くて丈夫な材料が現在のように手に入りにくい46年前では、まともに飛行させることすら不可能とも思えます。



しかし当時、まだ大学4年生だった主設計者の石井潤治氏は、日本人ならではの独創的な発想でこれら難題を解決し、同級生とともに製作されたストークは見事に世界記録を更新したのです。



私はそのノンフィクションを本にしたので、そのご縁から、石井潤治氏をリーダーとするストーク修復チームに加わったのでした。



2021年8月23日、茨城県筑西市に新しく建設された科博廣澤航空博物館の格納庫で、生まれて初めて私はストークと対面し、感激で胸がいっぱいになりました。



実は私は、ストークの本物を見るのは、その日が初めてだったのです。



ストークのことを本にしようと決心したとき、私は、東京上野の国立科学博物館まで足を運び、すでに展示終了されたと知ったあとは筑波の収蔵庫へ、手紙や電話で、実物のストークを見たいとお願いをしました。



しかし、私の願いはむなしく、2017年5月初旬、電話越しに交わした男性担当者の説明を聞いて、あきらめました。



男性担当者の顔も名前もわかりませんが、早口で若々しい声と説得力ある彼の説明が私の耳に強く残りました。



彼の説明によると、ストークは解体されて、密閉した木箱に保管されているので、どんな事情であれ、そこから出すことは出来ない。また再び博物館に展示される可能性があるとしたら、100年後くらいだろうと。



100年後と言われて、生きて見ることさえ、あきらめていた本物ストークを、今年8月、まさか私の手で修復し、展示状態に戻すところまで見届けることができるなんて、夢のようです。



修復の実際は、過去の無知な修復作業や運搬で、傷んだストークを補修し、外皮の雁皮紙はすべて貼り換え、かなり大掛かりな作業となりました。



残暑厳しく空調のない格納庫内での細かい作業は、大変でしたが、修復にあたったストーク製作オリジナルメンバーたちは、46年前の月日を感じさせない若さでストークを見事によみがえらせ、10月17日に修復完了の日を迎えました。



その日の夕食は、ストーク修復を石井氏に直接依頼した国立科学博物館の航空資料担当のS氏と修復メンバーたちでささやかなお祝いの席となり、話題の中心はS氏となりました。



S氏は石井氏より数歳若く、やはり飛行機が大好きで、学生時代は、仲間と気球を手作りした経験のある人です。



彼の声は若々しく、早口で説得力のある口調は、耳覚えがあり、ストークを見ることは、生きているうちにはかなわないと悟った私の4年前の記憶が甦りました。



早速、S氏に確かめてみると、まさしくご本人で、彼も私のことを覚えておられました。



それにしても、なぜ急にストークは展示が決まったのでしょう?



それは、来年S氏は定年を迎えますが、彼が去ったあと、彼が長年守ってきた国立科学博物館所蔵の飛行機の行く末を案じてのことでした。



科学が発達し、時代が進めば博物館で保存する資料は、毎年増え続けます。



ストークが保管されていた国立科学博物館収蔵庫の容量もやがては限界がきて、世間から関心の薄い飛行機は邪魔者扱いを受けるのは必須です。



そうなる前にS氏は、国立科学博物館の航空資料を貸与の形で、民間で保管展示してくれる場所を求めて各方面に働きかけ、ついに受け入れ先を茨城県筑西市に見つけて科博廣澤航空博物館が誕生したのでした。



このお話を聞いているうちに、私はメンデルスゾーンやカザルスやグールドのことを思いました。



確かに、彼らの功績は偉大ですが、バッハの死後、彼の楽譜を大切に保管してくれた無名の人たちのおかげで、私たちはバッハの音楽を耳にすることができるのです。



13歳のカザルス少年が宝物のように持ち帰った無伴奏チェロ組曲の古い楽譜の束は、いったいどんな人たちの手を介して、1980年のあの日にバルセロナの古い楽器店にあったのでしょうか。



修復によって真っ白に輝く翼を取り戻したストークのことを心から喜んでいるS氏の弾んだお声を聞きながら、「ガンピの翼ストーク」にかけた5年間の日々が思い出されました。



2021年10月29日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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