クーポラだより No.79~ストークのイラストとバベットの晩餐会~
「これは、僕からのお守りだよ。失くさないようにパスポートと一緒に、肌身離さずに持っていてね。」
1993年7月、未来の夫、大江完は、イタリア留学を目前に控えた私に、小さなスライドフイルムをプレゼントしてくれました。
そのフィルムには、超軽量飛行機パフィンの図面が写っていました。
超軽量飛行機とは、別名「空飛ぶオートバイ」と呼ばれ、純粋に飛ぶことだけを楽しむ目的としたスカイスポーツ機です。
パフィンはキット式で販売されました。
キット式とは、完成した機体ではなく、飛行機の部品が購入した人のもとに届きます。
つまり、購入した人が、説明書を見ながら部品をひとつひとつ組み立てて、パフィンを完成させるわけです。
その説明書には、フリーハンドのイラストが描かれていました。
そのイラストを描いたのが夫でした。
パフィンを開発設計したのは倉敷市の石井潤治氏です。
石井氏は大学卒業研究のために設計製作した人力飛行機ストークが世界記録を更新し、世界中の航空関係者を驚嘆させた人ですが、その才能を惜しむ恩師木村秀政教授を振り切り帰郷し、厳格な父の会社で鉄のものづくりのイロハを基礎から修業したのち、今度はパフィンを作ったのです。
ストークの時の石井氏には、10名の仲間と木村先生がいましたが、パフィンのときには、ほぼひとりでした。
ストークの石井氏が超軽量飛行機を作っていることは、当時の新聞記事に大きく掲載され、それを見た飛行機好きの夫は、矢も楯もたまらずに、面識もないのにパフィンを見せてほしいと石井氏が働く倉敷の会社へ駆けつけたのでした。
ふたりはすぐに意気投合し、夫は、パフィンのイラストを一任されました。
夫の描くイラストは、私のひいき目ではなく、誰からも、プロレベルだと賞賛されていました。
けれども、彼は、自分のイラストの才能に頼らず、岡山で中学校の美術の先生をしていました。
安定した学校の先生を辞めて、岡山を離れて東京に拠点をもてば、イラストデザイナーとして独立する機会があったかもしれませが、夢想家ではない彼はイラストだけで生活することは、とても厳しいことをよく知っていました。
石井氏も航空設計者としての仕事は、戦後の日本ではとても厳しいことを肌で感じたと話されています。
そんなふたりが意気投合し、倉敷で日本人による初の超軽量飛行機パフィンが誕生したことは私には何か特別なことに思えます。
夫はどこにいても、どんな職業についても、最善を尽くすことを楽しむ人になりたいと言っていました。
彼の好きな映画に「バベットの晩餐会」という1987年に公開されたデンマーク映画があります。
映画のストーリーは19世紀、ヨーロッパ北部、ユトランド半島の片田舎の牧師館で信仰に人生を捧げて、清貧な生活を送る姉妹のもとに、ひとりの中年女性がたずねてきます。
その人はバベットという名前で、1871年にパリで勃発した労働者戦争で家族を失い、亡命してきた身寄りのないフランス人でした。
バベットは牧師館の家政婦として姉妹たちと住むことになりました。
バベットは、とても優秀な家政婦で、これまで清貧に過ぎないだけの姉妹の食生活は、質素ながらも、何かしら豊かで味わいのある食事へと変わっていきました。
一方、バベットは家政婦として何一つ望まず、慎ましい年月を姉妹と牧師館で過ごします。
ある日、バベットは買った富くじが大当たりし、大金を手にします。その賞金は100万フラン、現在の貨幣価値だと、1億2千万円もの額で、そのお金があれば、バベットは祖国フランスに戻って、人生をやり直すことが可能です。
けれども、彼女はそのお金で、牧師館のために、祝祭の晩餐を作らせて欲しいと姉妹に申し出るのです。
フランス時代のバベットは、天才的な名コックとして賞賛された料理の芸術家でした。
バベットは賞金すべてを使ってヨーロッパ最高の材料とワインを集めて晩餐を作り、それに預かった信者たちは、年老いて頑固になり不満ばかりを口にするようになっていたのに、若い頃のような素直な心を取り戻し、みんな幸せになりました。
たった一晩の晩餐のために賞金を使い果たしたことを知った姉妹は驚きますが、バベットは芸術家にとっての喜びは、最善を尽くす機会を与えられることだと答えます。
夫はパフィンの組み立て手順のイラストを描いた日々は、寝食を忘れるほど打ち込み、全身の細胞が覚醒し、生きている喜びを実感したと語ってくれました。
大きな瞳をさらに大きく見開いて、石井氏とのパフィンの思い出を語る時の夫のすがすがしい表情は、バベットが牧師館のために最高の晩餐を作ったときの表情に共通しています。
夫が描いたイラストは、どんな小さな走り書きでも、明るく楽しそうで、見る人を幸せにします。
そんな彼の作品から、ストークのイラストを見つけたのは、生徒とやりとりをしていた連絡帳の中でした。
A4サイズの連絡帳の罫線などおかまいなしに、ページいっぱいにストークの楽しそうなイラストが描かれていました。
そのイラストが、私が書いたストークの本の表紙を飾る日がやってきたことに安堵感を覚えます。
この日に、こぎつけるまでの年月は長くもあり短くもあり、またこの本が終着ではなく新たなスタートに思えます。
「ガンピの翼ストーク」を手にとって読んでくださったすべての人が幸せになりますように。
2021年10月3日
大江利子
0コメント