クーポラだよりNo.49~高瀬舟と馬搬(ばはん)と樫西工房の創作和紙~


岡山県北には、約260年前から作られている、舟形の羊羹があります。



真庭(まにわ)市 落合(おちあい)地区で作られている、落合羊羹「高瀬舟」です。



「高瀬舟」は日持ちがとても良く、製造から2週間ほど過ぎると羊羹の表面だけが乾き、水分のぬけた表面は砂糖が白く結晶化してきます。



そのころに「高瀬舟」をいただくと、金平糖のようなカリッとした歯触りが心地よい表層と、ういろうのように、ねっとりとした柔らかな中身の、ふたつの異なる食感が同時に味わえて、作りたてとは別の美味しさがあります。



「高瀬舟」は笹船を思わせるような、小さな船形の容器に詰められていますが、その名が示す通り、室町時代に岡山で生れた木造船「高瀬舟」を模した羊羹です。



木造船の高瀬舟は、岡山の水流、旭川、高梁川、吉井川で400年以上も活躍してきた貨物船です。



高瀬舟の下り便では4トンもの船荷をたった4人の船子で運び、とても効率が良く、明治時代岡山県内には370艘も運行し、鉄道網が発達した昭和の初期までは、物流の柱でした。



岡山の高瀬舟の最後の運行は昭和25年で、昭和38年生まれの私は、高瀬舟が実際に活躍している姿を見たことはありませんが、小学校の社会の授業で、先生がスライドを使って高瀬舟の船子の仕事を、熱心に教えてくださったことを記憶しています。



高瀬舟から物流の主役の座を奪った鉄道も、今では、高速道路の発達により、トラックの陸送にその座を追われていますが、私が小学生の頃は、鉄道が最も活躍した時代でした。



私が通った小学校は、旭川下流の中州にある岡山城から数キロほどのところに位置し、通学路の踏み切りは、長い貨物列車が通過するたびに、塞がれて、何百とつながった鉄道コンテナの個数を数えながら、遮断機の鐘の音が鳴り終わるのを待ったものです。



通学路の踏み切りで、コンテナの数え遊びをしながら、黄色と黒色の縞の棒が上がるのを待っていると、時々、珍しい隣人がやってきました。



丸太を乗せた荷車を引っ張っている大きな一頭の馬です。



馬は競走馬のようにスリムな身体ではなく、がっちりとした太い脚で、ひとりの馬子が連れ添い、踏み切りがあくと、旭川の河口の方へ馬と馬子はゆっくりと歩いて行きました。



町の中の不自然な馬の光景に、小学生の私は魔法にかかったように魅入られて、馬子と馬の後ろ姿が見えなくなるまで見送ったものでした。



当時、旭川の河口には貯木場があり、丸太が何本も川に浮かべられていました。



馬と馬子はその貯木場まで材木を運んでいたのでした。



馬を使って材木を運ぶことを馬搬(ばはん)と呼び、山から切り出したばかりの丸太を、斜面の山道から運び出すには、小回りの効く馬が重宝です。



高瀬舟の運行が廃止されてから25年後の昭和50年代まで、馬搬は日本の各地で行われていました。



高瀬舟が運行されていたころ、旭川の最上流の発着地は、落合羊羹の里からさらに上流の勝山です。



勝山は林業で栄えた地域で、切り出された勝山の材木は高瀬舟で旭川を下り河口まで運ばれました。



しかし、高瀬舟が廃業され、鉄道コンテナには不向きな長い丸太は、大型トラックが活躍しはじめるまでは、馬搬が重宝だったのでしょう。



小学生の私が見送った馬と馬子は、今の物流と昔の物流のすき間をつなぐ、貴重な光景だったのかもしれません。



一度失われた技術を取り戻すのは至難の業ですが、馬搬は北海道や岩手県遠野市に復活の小さな灯がつき、報道にも取り上げられています。



かつて高瀬舟は、生活物資を運ぶ貨物船でしたが、今では人々を楽しませる川下りの観光船として復活しています。



先日、私は、高瀬舟の最北の発着地勝山から、さらに北部、旭川源流の「足尾滝」の近くの久世町の樫西の地へ、和紙の工房を訪ねる機会がありました。



工房には、男女ひとりずつのふたりの職人さんがおられ、創作和紙を漉いておられる女性の職人さんのお話を伺いました。



和紙の原料は楮(こうぞ)、みつまた、雁皮(がんぴ)など、山に自生する植物で、近年、収穫が難しいこと、また機械で迅速に大量生産が可能で、格安で市場に出回る洋紙と違い、製造工程すべてに、人の手を要する和紙は、時間がかかる割には、少量しかできず、高価にならざるを得ないため、需要が激減していること。



また和紙の職人の作業は重労働で、技術習得も難しく、また紙漉きの繊細な道具を作る職人も、後継者がいないこと。



お話をしてくださった女性も、千葉県出身で、人生の半ばから、和紙の魅力の虜となり、紙漉きをゼロから始めるには遅い年齢ながらも、修業の受け入れ先を全国各地に当たり、49歳の時に、ようやく念願かなって、岡山県久世町樫西で、紙漉き修業をはじめられたとのことでした。



それから20年、彼女は、ほぼ無給で紙漉きに専念し、今では美しい創作和紙を作りだせる立派な職人となられました。



千葉県時代の彼女は創作ダンスを踊られていて、舞台照明も音楽も、すべてオリジナルの舞台を作り上げておられたそうで、彼女が漉いた和紙は、長年の舞台経験が反映された、色彩ゆたかで、幻想的な創作和紙でした。



彼女の言葉の中で印象的なのは、紙漉きの技術に基本はあっても、繊細な紙漉きの技術の勘所は、個々の職人が修練して身につけていくものだそうです。



高瀬舟も馬搬も和紙も、日本の誇れる伝統産業ですが、もはや食べるための生活手段としての仕事としては、成り立たず、世襲が常識だった技術の伝承も危機的状況です。



しかし、樫西工房の職人さんが漉いた色とりどりの創作和紙を見て、世襲でなくとも、情熱を持った人の存在で、伝統産業は、未来へとつながっていくのだなと確信しました。



落合羊羹「高瀬舟」は小豆と砂糖と寒天のとてもシンプルな材料でできています。



260年も変わらず美味しくありつづけることは、とても情熱がいることだと思います。



私の歌とピアノの毎日のおけいこも、とてもシンプルです。



音階練習、バッハ、ベートーベン、ロマン派の曲と、学生時代から変わらないメニューです。



しかし、舞台の本番が近い時と、そうでない時は、明らかに自分の情熱の深さが異なります。



毎日、ただ続けることだけに慢心せず、情熱を持っておけいこを続けていき、落合羊羹「高瀬舟」のように飾らない魅力で愛される演奏をしたいと思います。



2019年3月29日

大江利子

クーポラだより

幼い頃から、歌とピアノが大好き! ピアノを習いたくて、習いたくて.・・・。 念願かなって、ピアノを習い始めたのは、13歳。ピアノを猛練習し、 高校も大学も音楽科へ。就職も、学校の音楽の先生。夫、大江完との出会い。 イタリア留学。スカラ座の花形歌手、カヴァッリ先生の教え。33歳から始めたバレエ。 音楽が、もたらしてくれた、たくさんの出会いと、喜びを綴ったのが、クーポラだよりです。

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